誰かの幸せを願う事。
それは別に特別な事じゃない。
大切な誰かが、好きな人が、幸せであることを喜ぶ。不幸になったことを悲しむ。誰だってそんな愛情を胸に抱いて生きているはずなんだ。
だから、願う。
あの人の幸せを。
願い、祈る。
――その心は、でも。
どうなのだろうか。
本当に?
純粋にそれを願っているのだろうか?
純粋なんて、誰がわかるんだ。
白い画用紙にだって、よく見れば薄く色づいている事だって、よくある事だろう。
どうだ?
お前は、どうだ。
せせら笑うように、自分の内なる声が聞こえてくるような気がした。
お前の不幸は誰のせいだ?
誰のせいだ?
自分のせい?
そう本当に思っているのか?
いや。そう思っているんだろうなぁ。九割九分そう思っているんだろうなぁ。
でも一分たりとも-----そこに自分以外の誰かのせいにする心がないと、そう言えるのか?
どうだ?
解るか?
解らないだろうなぁ。
自分の心なんて、そんなものだ。解るはずもあるまい。
だって-----。
解っていたなら、なぜお前はあの時-------。
思い出す。
全国の舞台。大会会場で見えたかつて鹿児島で出会った美しい女性がそこにいたことを。
そして----会場で彼女の視界に映らぬように無意識に行動していた自分を。
思い出せ。
思い出せよ。
そして、問いかけてみろよ。
その心に一点の曇りもなく、まだ彼女を想っているのならば------何で顔を合わせないようにしていた?
顔も向けられないだろう。
夢潰え、その成れの果て。
そんな姿を知られたくない――そんな思いをお前は持っていたのだろう?
そして。
その因果に、お前も心のどこかに何か――思う所がないとは言えないんじゃないか。
あるとは言えないだろうが。
完全にないとも、言い切れないだろう。
問いかけてみろよ。
お前は――まだ誰かの幸せを純粋に祈れているのかを。
※
つまりだ。
薄墨初美は実技指導員なのだ。
地元鹿児島を離れ、はや二年の歳月が過ぎた。隔絶された世間の様相から解き放たれ俗世の毒を一身に受けた彼女はまるで水を得た魚の如く。
親友が自分のやりたいことをやっているように、自らも存分に好きなことをやり続けていた。
はっちゃけた。
反省はしている。されど後悔の二文字はなし。
省みる必要性と悔いることの無意味さを理解している彼女は、大学生活という名のモラトリアムを大いに楽しみまくっていた。
とはいうものの巫女たるもの流石に一線というものは弁えている。
さすがに。さすがにだ。巫女として生きてきた経験を切り売って「巫女娘」なる怪しい名称を看板にぶら下げてパチモンの衣装に身を包んでお金を稼ぐような――そんな、恥知らずかつ冒涜的行為に、その身をやつすなど-------。
やっちゃった。
やっちゃったのです。
「--------」
「--------」
彼女は実技指導員なのだ。
”高校時代何をしてた?”
”麻雀やっていました。それで、巫女もやってました。鹿児島出身です”
”アルバイト?”
”いえ。家のお仕事で。ちゃんと資格もあります”
たとえ源氏名を与えられようと、看板を掲げて店の呼び込みをしようとも、あくまで彼女は巫女としての所作を従業員に指導する立場である指導員なのだ。
現在――自身の正体を知る男の子を口封じのため店に連れ込み奢ってやっていたとしても、当然の如く指導員なのだ。
解るか?
解らないなら解らなくて結構。
それでも薄墨初美は――あくまで、あくまで、重ねてあくまで、指導員なのだ。
「-------へー」
「----」
だから何だって顔をしてやがりますね――そう薄墨初美は思うと同時に、これから先仮に自身のバイトが実家にばれた時のことを考えていた。あれだ。そうなったらインドに行こう。インドに行って、家族を洗脳できる超能力とか手に入れてこよう。そうしよう。
「----あの」
「-----なんですかー」
「一つ、聞いていいですか」
目の前のパツキンの青年は、割と真剣な目で尋ねる。
「その-----薄墨さんは、石戸さんと今でもお知り合いですか?」
「何ですかー。君、霞ちゃんのファンですかー?」
「------はい。そうですね。ファンみたいなものです」
ファン、「みたいなもの」
-----普通なら気味悪い言い回しだが、その少年から吐き出された様相が、何やら妙に自然体だった。ちょっぴり切なそうで、だけどとても嬉しそうで。その自然さが、違和感を限りなく拭い去っていた。
「------大学に行ってるんですね」
「ですよー。やりたいことをやりたいって、大学に行ったんですよー」
「----そう、なんですね」
目の前の少年は――とても純粋な喜びを湛えた笑顔を浮かべて、
「それは――凄く、良かった」
目を瞑って、彼は一つ何かを噛み締めるように俯く。
-------不安から解放された時のような、安堵混じりの仕草と、表情。
初美はその様相に首をかしげながら、少年を見る。
------いや。やっぱり見たことのない男の子だ。
「お代、幾らですか?」
彼は続けてそう尋ねた。
「私の奢りだって言っているじゃないですかー」
ここで、巫女のステータスを切り売りして接客業を行っているという暴挙を行っているという事実を覆い隠す為にこの青年を店に入れたというのに。奢らなければ意味がないというのが解らないのかこの金髪さんは。
「-----大丈夫です。黙っておきますから」
そう言うと彼は席の端にあった明細を手に、反論する隙も無く財布を取り出してレジへと向かう。
――あれ?
その財布にストラップのようについているお守りが、目に入った。
――あれって――。
同じものを、薄墨初美も持っている。
中学生の頃。確か霞が誕生日プレゼントの一つとして渡されたものだ。
「ちょっと待って」
思わず、初美は彼を呼び止めていた。
※
「------いや。俺もうお昼食べたんですけど」
「デザートでも食べますかー?」
「いや、これ以上奢っていただくわけには-------」
「いいから。君の一時間をお姉さんにちょっと買わせなさい。お代はそこのメニューから好きなだけ」
初美はさりげなく彼の横顔を無声アプリを導入したカメラで撮る。
一応弁解をしておくと、これはアルバイトの際にセクハラをされた際とかに相手を社会的に抹殺するための手段であり、決して盗撮するためのものではない。そして、世の中人助けの為にちょっとくらいルールを破ることが許容されることもこの世の中ままあるものなのだ。これは、そのための行為だ。断じて、断じて、盗撮ではない。うん。
「君の名前を聞いてなかったですね―。何て名前ですか?」
「須賀ですけど-----」
「須賀君ですかー。------霞ちゃんに何か御用ですかー?」
「い、いや。特に用はないんです。本当に」
はい。ちょっと動揺が見えましたねーこの金髪さん。
後ろ暗いことがあるわけでは-----なさそうです。何というか、彼が醸し出しているこの申し訳ないという感じは、緊迫感があるものじゃなくて。------こう、何というか、ばつが悪そうなのだ。
もしかして、だけど。
かつて霞ちゃんに告白した男子の一人とかであろうか。
ありえる。
充分にあり得る。
その思いが誠実であれば、きっと彼女もまた誠実な断りを入れるであろう。もしかしたら、ちょっとは仲がいい男の子だったりするのかもしれない。彼女が親しい人によく配るお守りを渡すくらいには。永水は女子高だけど、別に外の出会いがないなんてこともない。
------これは、面白そうですよー。
ふふん、と内心笑いながら彼女は内心ノリノリで、スマホを弄っていく。
画像を添付して、名前は須賀君ですよー、と。霞ちゃんに会いたそうにこちらを見てますよー。
さあ。
どうなるかなー。
------そんな、そんな。悪意のないお気楽さで。
「あ」
そして、気付いた。
「------霞ちゃんにここのバイトの事、黙っていたんでしたー」
回帰不能の送信ボタンを指先でノックしたその瞬間、悪意が狙いすましたように、彼女の意識はその事実に追いついた。
あ。
彼女は――全身を冷や汗に塗れさせていた。
面白カウントダウンが、処刑執行カウントダウンに切り替わった瞬間であった。
※
この時私は、本当に心躍っていたんです。
あの時の少年が青年になって、変わらぬ面影をその横顔に刻んでいたことに。
でも。
その変わらない面影は。
――ある日を境に彼が身に着けた、残酷な優しさで保っていたものだと。
知った日はまだまだ先だったけど。
私は、私と、彼と彼の影を交互にその時に見続けることになったのかもしれない。
このお話は、まだ亭午の最中。
落陽にはまだ、早く。
2位じゃダメなんですか。
ダメじゃないんです。
でもまだ夢を見させて-------。