―――淡ちゃん、最近変わったよね。
そんな声が、ちょっとずつだけど耳に届くようになった。
折れた心に支柱が戻り、元の小生意気な女の子へと、彼女はその態度を改めていった。
心に余裕を取り戻せたからだろうか?
それとも、そうやって壁を作りながらやっていくことに疲れたからであろうか。
どっちでもいいし、多分両方の理由なのだろう。
それより重要な事は、もっともっとあるはずなのだ。
―――今は、昨日よりも楽しい。
こんな前向きな事を考えられる今日が存在すること以上に、大切なことは無いはずなのだから。
さあ、今日も一日頑張ろう。
そう思える日々が今ここにあるのだから。
※
無機質なタッパーをレンジに入れて、チンする。
―――お隣からの差し入れだ。
余ったスープに米を入れ、胡椒とチーズで味付けし、小分けしたタッパーの中に詰め込んだそれは、リゾットであった。
---自炊する時間も無い彼女の生活において、食生活が豊かであるとはとてもいいきれなかった。
毎日コンビニ飯か外食で済ませているという彼女に、こうして一週間ごとに一食分ずつに小分けしたそれをひっそりと玄関口に差し入れしていた。
少々申し訳なく思えるが、それでも以前の食事より遥かに楽しみになったそれを手放すことも出来ず―――須賀京太郎の厚意にすっかり甘えてしまっていた。
「何か、お礼できないかな」
自然と、彼女はそう考えるようになった。
とはいえ、正直彼がどんな人間なのかも解っていない。
彼はそれ程下宿先にいる訳ではなく、時には淡が寝ようとした瞬間に隣部屋からガチャリと音がした時もあった。
何をやっているのだろう?
ここで物怖じする様な性格はしていないが、いかんせん聞こうにも彼との接触が少ない。どうしたものか。
「むむむ---」
須賀京太郎。一体あの男は何者なのだろうか?
----別に何者といえる程特別な男ではないはずであるが、何故だか彼女は気になっていた。
※
そんなある日の事。大星淡は日用品を買いに近場のスーパーにいた。
そこに、久々に―――背の高い金髪が籠を片手にウロウロしていた。
「あ!久しぶりー、キョウタロー!」
尻尾代わりとでも言うかの如くブンブン両手を振って、淡は須賀京太郎に近づいて行く。猫のように見えて、懐いた相手にはとことん子犬のよう。
「お、淡。久しぶりー。差し入れは口に合ってるか?」
「うん!キョウタローはお買い物?」
「今日の夕飯を買いに来た。カレーを纏めて作り置きしようかと」
「おお、カレー!淡ちゃんの大好物ではないか!よしよし、よきにはからえー」
「それ絶対意味が違うだろ!まあ、好物だったらまた小分けしてやるよ」
「やった。むふふー、流石はキョウタロー。楽しみにしておくね」
「はいはい。わかったわかった」
―――ずっと実家暮らしだった淡にとって、家庭的な空気が恋しかった。
つまりは、身近な人との繋がり。たわいなく喋ることが出来る空気。何故だかこの男からは、よく言えば落ち着く、悪く言えば所帯じみた空気があった。
それがどことなく安心できて、割とあっさり淡はこの男に懐いた。
「それじゃあ、私これ精算して来るからちょっと待っててねー」
「はいよー」
ごく自然と、二人は帰路を共にする事となった。
※
「キョウタローはさ、」
「うん?」
日が沈み、月光と街灯だけが辺りを照らす道中、二人は買い物袋をぶら下げ歩いていた。そこで、胸に暖めていた質問をここですることにした。
「大学の外で、いつもなにをやっているの?」
「アルバイトだな。悪い、いつも帰り遅いからうるさいかな?」
「ううん、全然そんなことないけど----なんだか、忙しそうだなー、って。ねえねえ、何のアルバイト?」
「麻雀協会で下働きしてる。選手ごとの牌譜の整理とか、大会会場の準備とか、色々。忙しいけど、結構楽しい。お給料もいいし」
「へー、変わったバイトしてるんだね。どうしてそのアルバイトしているの?」
「単純に、将来的に協会に就職したいんだよ。その為の下積みというか、修行というか」
「へー。協会に就職したいんだ」
「そ。高校の頃、これでも麻雀やっててさ。プロにはなれないのは解ってるけど、どうしても麻雀に関わりたいと思ってさ。元々、俺は清澄の人間なんだ」
「清澄-----」
ズキリと胸が痛む。完膚なきまでに、自分が敗けてしまった相手だ。
「どうして、麻雀に関わりたいって思ったの」
「好きだから」
他に理由はいらない―――そんな断固とした意志が、そこに垣間見える。そんな、強い言葉が、須賀京太郎の口から吐き出された。
-----そっか、麻雀、好きなんだ。
自分は、どうなのだろう。麻雀、好きなんだろうか。
ずっと、疑問に思っていた事がある。
自分が望む姿は、常に自分が勝つ瞬間にあった。
勝つから、楽しい。強いから、楽しい。
―――けど、その“勝ち”が期待されて、当たり前の如く要請されるようになった瞬間、麻雀は一転、苦しいモノになってしまった。
もしかして―――自分は、麻雀が好きなんじゃなくて、
ただただ、麻雀に勝つ事だけが、好きだったんじゃないのかと、思い始めてしまって。
だから、心底眩しいと思ってしまった。
才能が無いと朗らかに笑いながらも、それでも好きだから麻雀に関わりたいと、そう言える意思が。強さが。
「どうした?」
暗い感情が読まれてしまったのか、京太郎はこちらの眼を覗き込みながらそう尋ねた。
カッと顔が赤くなるのを感じた。このまま、顔を背けて大丈夫だから、と言いたくなる。
けれども―――別の感情が、このまま何処かつっかえた胸の内を吐き出したいとも言っていて。
二つの相反する感情が、せめぎ合い―――結局、至極あっさり決着がついた。
「-----私は、麻雀が本当に好きなのか、解らない」
「-----」
「負けるかもしれない、って思った時から。勝たなくちゃいけないんだ、って思った時から。ずっと、ずっと、息が苦しくて、辛くて、面白くなくなっていった。好きじゃなくなっていったんだ。これって、麻雀が好きだって、言えるのかな?」
そんな半端な気持ちでやっていて、自分は雀士としての資格があるのか。
そんな悩みを、ずっとずっと持ち続けてきた。
その言葉を聞いて、須賀京太郎は口を開く。
「淡。多分だけど、“麻雀が好きである事”と“期待が重くて辛い事”は、別物だと思う」
「え?」
「勝負事なんだから、勝った時は嬉しくて、負けた時に悔しいのは当たり前だろ?思い通りにならない事まで含んで、“好き”って感情なんだと思う。思い通りにならない事が多すぎて、嫌な気持ちになっても、それでも―――麻雀が嫌い、という事にはならないんじゃないかな」
「でも、でも、私-----」
「期待されることが結果だけ、ってなら本当にそれは凄く煩わしい事だと思う。けど、けどさ。―――淡も、宮永照さんに掛けられていた期待は、うっとうしかった?」
そう問いかけがなされた瞬間、―――記憶が回帰した。
ずっと自分を見てくれた、ずっと敵わなかった、先輩。ずっと、その背中を追いかけて、そしてずっと負け続けた。それでも、それでも。あの負け続けた日々は、悔しくとも―――楽しかったはずで。
「そんな事、ない」
「だったら、大丈夫だと思う。淡はずっとずっと、麻雀の事、好きなんだと思う。その感情は、否定できないし、されちゃいけない」
笑いながらそうかけられる声は、我が子に当たり前の道理を説くように、優しく、それでも確固とした声音だった。
「そう、なのかな。本当に、そう思って、いいのかな-----」
―――ぐしぐしと溢れ出る涙を袖で拭き取りながら、子供の様に、彼女は泣いた。
京太郎は、ただ黙ってその隣を歩いていた。
その眼は、何処までも優しかった。
※
「その―――ごめんなさい。そして、ありがとう。キョウタロー」
「うん」
アパートに着いて、それぞれの部屋に入ろうとする瞬間、そう彼女は言った。ちょっとだけ嗚咽に震えた、それでも明るい口調だった。
「キョウタロー。ご飯出来たら、壁を叩いて。そしたら、ベランダでお話ししよう?まだ、話したい事いっぱいあるんだ」
「へぇ、話したい事って?」
「テルとか、スミレとか、高校の事も大学の事も、いっぱい。それに、聞きたい事もたくさんある。キリキリ吐いてもらうぞー」
「あっはっは。もう随分元気が出たみたいだな。わかったわかった。飯が出来たら、いっぱい話そうな」
「うん!」
花咲くような―――もっと言うならば、星降るような笑顔で、彼女はそう言葉を交わす。
「よろしく!キョウタロー!」
笑う彼女は、何処までも透き通った涙の跡と―――爛漫な表情を浮かべていました。
最近は本編よりも、日和が楽しみ。