しんみり話。
色々と、思う。
長野は、本当に空気が澄み切っていた。
そして、この家は本当に温かい空気があった。
カピバラも可愛かったし、家は大きいし、家族の人達もいい人ばかりだった。
でも――それだけじゃなかった。
それ以上の何かが、ここにはあった気がした。
隣で眠る恋人の顔に何となしに安心感を覚えつつ、毛布から抜け出し、厠へと向かう。
用を済ませると、暗いリビングを抜けて部屋へ戻ろうとした。
が。
目に入ったものがあった。
それは――棚に掛けられた、恋人の自分の知らない時代の写真だった。
「------」
競技用のシャツも金髪も泥まみれにして、歯を食いしばりボールを抱えている姿。
彼女は、そっと近づく。
棚には飾られた写真と、幾つかの本と、アルバムが存在していた。
勝手に見てはいけない。
そう理性で理解していても。
思わず、手に取ってしまった。
「-------」
花見の写真から始まったそれは、春夏秋冬ごとにまとめられた写真がそこに在った。
季節ごとに、写真は変わっていく。
夏になれば海があるし、冬になればスキーだ。
だが、どの季節にも――ハンドボールの写真だけは、尽きる事は無かった。
泥だらけの服。鬼気迫る表情。
泣き顔。笑い顔。
春が過ぎ、また夏が来て、冬の時代を迎え。
――写真は、病室で笑顔を浮かべる少年へと。
「------!」
たった一枚の写真が、全てを物語っていた。
けれども。
その写真だけ、下に書き足された文字があった。
――やっと、笑ってくれた記念に一枚。
そんな、一言が。
※
その日、淡はベッドに戻ると京太郎の胸にもぞもぞと入り込んだ。
胸に頭を押し付け、顔を下に向けて――涙を少しだけ浮かべて。
ちょっとだけ思ったのだ。
仮に。仮にだ。
過去を変える事が出来たならば。
――京太郎の過去を変えるだろうか。
夢を失った京太郎は、麻雀に触れた。麻雀に触れ、好きになってくれた。そのおかげで、出会えた。今自分とこうして触れ合えている。
今自分は、京太郎が失った夢によって生み出された幸せを享受している。
夢見る事の素晴らしさ。好きな人と触れ合える幸せ。今自分が味わっている事の全てが――京太郎の夢が潰えた事が因果となってここに存在している。
そう思うと、きゅぅと胸が痛くなった。
きっとこれは罪悪感なのだろう。
彼が不幸せなおかげで今の自分がある。
自分は、選べるだろうか。
今の自分の幸せを無くす代わりに――過去を変えて、京太郎の夢を生き永らえさせる事を。
少し考え、理解できた。
――出来ない。
別に、自分は悪くない。
そんな事は解っている。自分が望んで京太郎の肩を壊した訳ではない。
でも。
今自分が夢を追えるのは。
夢を無くした彼の手を引かれたお陰でもあるのだ。
――あの子、一回自分の夢を諦めちゃってるから。それがよかった、なんて口が裂けても言えないけど。でもね-----夢を前に心が折れる痛みを、誰より知っている子だから。
あの時の母親の台詞が、今はひどく重く感じる。
胸が痛い。
どうしてだろう。自分は今幸せなはずなのに。
なのに。
なのに。
下を向いて、涙がまた落ちた。
「淡」
そんな時。
声が、聞こえた。
これは夢の中だろうか。何となく、ふわふわとした気分で現実感がないようにも思える。
くしゃり、と髪が梳かれる感覚。
「ちょっと痛い」
優しい声。
その瞬間に――ここが夢じゃない事が理解できた。
よく考えれば、今自分は頭頂部をぐりぐりと京太郎の胸に押し付けているのだ。その上で下に俯いている訳だから、そりゃあ痛いだろう。
「ごめんなさい-------」
なので、素直に謝った。
ずぶずびとした涙声で。
「――淡」
頭に手が置かれ、撫でられる。
「どうしたの?」
もう駄目だった。
もうその声だけで、泣きそうになった。
※
胸の圧迫感に少し寝苦しさを覚え目を覚ましたら、淡が頭を押し付けていた。
なーにやってんだと思っていたら、――どうやら俯きながら泣いているみたいだった。
何があったのか。
事態が解らなかったので、ひとまず聞いてみた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「お家にあったアルバム、勝手に見ちゃった」
ああ、と京太郎は返答した。
「別にいいよ。明日でも一緒に見ようか?」
「------キョウタローが怪我しているのも」
ああ。
あの写真か。
京太郎は、一つ頷いた。
「それで、何で泣いているの?」
「ねえ、キョウタロー」
「うん?」
「――この怪我がなかったら、って思う?」
淡は、なにか苦そうな表情で、そう聞いてきた。
――この質問で、何となく言いたい事が理解できた気がした。
「――ずっと思ってたよ。本当に。一時期は、それしか考えてなかったよ。この怪我がなかったら、って」
「-----そう、なんだ」
「うん。そうなんだよ。――でもな、今はそうは思っていないんだ」
え、と淡は言う。
うん。
そうなんだ。
今は――。
「淡。――例えば淡は、あの時に咲に勝っていれば、って思う?」
「------あ」
「咲に勝っていれば――いや勝っていなくても。あんなにボコボコにされていなければ。心が折れていなければ。多分淡はあんなに苦しい思いをしなくても済んだはずなんだ。――どう淡?過去に戻りたい?」
「------」
ぶんぶん。
横に振る頭の感覚が胸に走る。
――そうだろう。きっと淡はそう返すと思っていた。
だって淡は、あの過去の挫折から一生の財産を築き上げたのだから。
それと同じ。同じなんだ。
自分もまた、過去から得たものがいっぱいある。
「――過去を変えたい、っていう想いはどう足掻いても後ろ向きでしかないんだ。過去があって、今の自分がある。過去の出来事が無くなって得るものもあるかもしれない。でも、それと同じくらいに失うものもある」
「-------うん」
「俺は肩を壊して、それで清澄に入って麻雀を知る事が出来た。仲間だって増えた。大学に入って――お前にも会えた。お前に会って、あんなに楽しい時間を貰った。――これだけいいものを全部かなぐり捨てて過去に戻りたいとは思えないかな」
「-------」
「何かを失った後で、何かを得る。――多分、これが成長なんだと思う。――俺も、失った後に取り戻そうと足掻いているお前の姿に惚れたんだから」
「-----う----ぅぅ」
「だから。考えなくていいんだ。――俺の肩が治ったら、なんて。俺は色々と失った分――失いたくない色々なものを得て来たから」
※
「で、大丈夫なのあの車?」
「ん?不足か?」
「いや不足とかそう言う事じゃなくてさ。――古い方でいいって言ってるのこっちは」
須賀家にある二台の車。
一台借りるとは言っていたが――まさかまだ買い替えたばかりの車の方を借りだされるとは思わなかった。
一日が過ぎ、本日から須賀京太郎と大星淡はドライブへ出かける。
ニコニコと林檎をむしゃむしゃ朝食代わりに食べご満悦な淡は家の中でまたカピバラと戯れている。
で。
ガレージの前で、男が二人。
「何を馬鹿な事言ってんだ。お前一人だったらまだしも、隣にあんなゴージャスな彼女を乗せるのだろう。あんなボロ車に乗せられるか」
「そんなもんか」
「そんなもんさ。――さ、これがキーだ」
「-----あいよ」
「保険はもうかけているから。事故るのもお前が怪我するのも構わないが、あの子だけは怪我させるなよ」
「事故らねぇよ!」
それはどうかな、と笑う父は――少し、目を細める。
「なあ京太郎。――いい彼女持ったな」
「うん」
「――うん。いや、よかったよ。本当に。お前も本当にいい男になってくれたんだな、って」
「何だよそれ」
「まあいいさ。――お、淡ちゃーん。こっちだよー」
荷物を抱えた淡が、こちらにやって来る。
「いよーし、しゅっぱーっつ!――お義父さん、お義母さん、お世話になりましたー!」
「はいよー。気を付けるのよー」
キーを差し込み、エンジン音が聞こえる。
「何処に行こうか」
「うーん------取り敢えず、林檎」
「さっき散々食べてただろうがっ」
笑いが木霊する社内の中、車は走り出した。
MOROHAのtomorrow聞いてて何となく浮かんだお話。最近ずっとZORNとMOROHAを聞いてます。何か泣けてきますわ。