ゆるりゆるりとした時間の中、彼女は生きていた。
ダルい。
その言葉には恐らく、色々な意味が込められているのだと思う。
彼女は、選定する。
怠惰な彼女は余計な事にまで手を出したくない。彼女が動く時、それは―――自分の中で大切なモノの為だ。故に、選定する。動くべきか、しないべきか。だから迷う。迷って迷って、結論を出す。
自分もそうだ。宮守の仲間もそうだ。
―――怠惰な彼女が、それでも他者に抱く感情とは、恐らく誰よりも純粋なのだろう。純粋故に迷ってしまう。そこにある感情に、自分は手を出すべきかどうか。
この二年間は、手を出さずにいられた。
だが、今はどうなのだろう。
夜に齧られたような月が、頭上にある。
「------」
漫然とした日々の中にも、きっと答えはあるはずなのだ。意味だってあるはずだ。それがどんなものかは、まだまだ迷っているけど。
それでも、一つだけ理解した事がある。
今自分は、自分の意識に巣食う男の子にとって「夜の信号機」であってほしくないと思っている。
自分は、彼にとって、―――何らかの意味ある存在となりたいのだ。
何となく―――彼の心に何処か寂しさを抱いているのは、解っている。
あるべきモノが喪われたような、空虚があるのだと思う。
それはきっと、自分も同じ。
何か、手を下すつもりはない。
ただ―――自分は「ここ」に在るだけだ。
存在する事。
常に他者の存在を感じられる事。
------豊音も、そうだったなぁ。
寂しさを埋める手段は、当たり前の様に存在し、当たり前の様に触れ合える他者と過ごすゆるりとした時間でしかないのだ。豊音もそうだった。一人が一人のまま、解決できることじゃない。
そこに意味を見出してくれるならば、自分は―――
※
記録的な猛暑となった六月の事。
身体に、異変が走る。
「-----」
彼女は東北出身であり、関東の夏場に慣れずにいる。
暑さと無縁な地方で暮らしていた彼女は、知らず知らずの間にそのダメージが蓄積していた。
視界が歪む。
息が苦しい。
身体が、熱い。
起き上がった身体が―――もう一度、自らの意に反して、倒れ伏した。
「38.5度----夏風邪ですか」
「ダルい-----」
「そりゃあ、まあダルいでしょうけど、我慢してください」
布団の中から顔だけ出した彼女は、そう変わらぬ台詞を吐く。だが、様子は恐ろしく違う。
赤子の様に紅潮した顔面に、汗に濡れた髪がひっつく。
その声は、何処までも弱々しい。
―――何だか、こちらの気分までおかしくなってしまいそうだ。
「氷枕と冷えピタとミネラルウォーター。お昼になったらおじやを用意します。昼までは、寝てて下さい」
「---京太郎、ここにいてくれないの--?」
「いや、流石にそれはまずいです」
女性の部屋で、更にその主は風邪に参っていて―――そこに男を一人放り込んでしまうのは流石にまずい。倫理的に。
「ちゃんと、昼になったら見に来ますから」
「---京太郎」
赤らんだ顔が、こちらに向けられる。
早まった息遣いが、こちらの耳朶を打つ。
「お願い-----」
ここにいて、と。彼女は弱々しい声でそう言った。
「---」
断れ、なかった。
断らなければならなかったのだと思う。
それでも、出来なかった。
―――これより、彼は己の「理性」と対面する事となる。
※
チクタクと鳴り響く時計の音が、やけに鼓膜に突き刺さる。
時間が、長い。
弱々しく握られたその手を振り払う事は出来ない。
は、は、と小刻みな寝息を吐きながら、彼女はその身を捩る。
紅潮した頬。
閉じられた瞳から微かに零れる雫。
張り付いた銀髪。
上下する胸。
熱に浮かれ苦しむ彼女のその全てを視界に収めている彼の理性は、破城槌が秒針ごとに打ち付けられているようだった。
見て見ぬフリをし続けながらも、彼は確かにその姿が脳裏に焼き付いていた。
本当に、息苦しいのだろう。
肥満体が寝息に苦しむように、胸部に大きな脂肪を抱えた彼女もまた、肺を圧迫され呼吸が苦しくなるのだろう。頑なに閉じられた目に反する様に、その口元は度々息継ぎの様に開かれていく。
てらてらと輝く汗と相対する様な、粘ついた唾液がその中から覗かれる。
息継ぎが終わると、唸るような声が聞こえてくる。
見ざる。
聞かざる。
―――それが出来れば、どれほどよかったであろうか。
息も絶え絶え、熱に浮かされ、その肉体に与えられた熱に苦しむその姿は―――理性を司る城壁に楔を刻み込んでいく。
息が吐き出されると同時に、その舌先から口元を通って涎が零れていく。
―――空いた右腕が、思わずタオルを手にその口元を拭いた。
その時、直視してしまった。
枕に抱え上げられたその顔に、吐き出されていく口元―――まるで薄紅色の唇が押し上げられているように、突き出されたその顔を。
「---」
須賀京太郎は、未だに彼女に対する感情を、定められずにいた。
何故ならば、彼女は決して弱みを見せない人だったから。
世話をしている現状と反する様に、彼女はその心の内を見せる事は少ない。
―――陳腐な言葉だが、その心の内を知らぬ他者に、感情は抱きにくい。
常に無表情で捉えどころの無いように見える彼女。
その腹の底はきっとこちらを慮っているのだろう。こちらを気遣う言葉に嘘はないのだろう。それでも、一人の女性の心を推し量れるほど、彼は熟している訳ではない。
だが
この状況は、どうなのだろうか。
流石に―――この状況で、彼女の中に在る感情を推定できないと言い張るのは、無理がある。
それは、まさしく見て見ぬフリでしかない。
そう、理性が囁いている。感情に従えばいい。その感情を定めてしまえばいい。
繋ぎ合っている左手から伝わる彼女の熱が、こちらの脳幹まで突き刺さる。
彼女の苦し気な吐息が、輝く汗が、鼻孔に薫る彼女の匂いが。
唾液を抱えた唇に、視神経を誘導していく。
理性が綱引きを始めた瞬間、その綱に―――彼女自身が、手に掛けた。
そう、文字通りに―――手に、掛けた。
唇を直視した彼の頬に、緩やかに。
それはまるで引き込むように―――彼の口元に触れながら、頬をさわさわと這い回る。
彼女の目が、開けられる。
その眼は―――潤み、そして、寂しげな色を宿していた。
「―――んっ!」
啄むように。啄むように。重ねたヒダ同士が体温を運んでいく。液体同士が混ざって互いの喉に嚥下していく。互いの熱が全身に駆け巡り―――よくも解らぬドロドロな気分のまま、彼と彼女は互いを唇で伝えあっていた。
※
終われた。
何とか、終われた。
理性との綱引きは―――最後の最後の一線だけは、踏み越えずにいてくれた。
彼女は、そこまでも予期していたようだけど。
つまりだ。彼女は許したのだ。あらゆる全てを。彼が彼女に抱く全ての感情を。その行為を。繋がりを。
何故なのだろう。
それ程の時間を、積み重ねたのだろうか。
いつから彼女はこうなってしまったのか。
「何で---?」
熱に浮かれたまま、そんな声を思わず上げてしまった。
心の底からの、疑問だった。
何故許した。
何故望んだ。
そんな疑問が、頭にもたげてしまう。
あの―――目を見なければ、きっと我慢できたであろうに。潤んで、弱って、寂し気な空洞の様な目を見なければ。きっと、理性は焼き切れなかったであろうに。
「理由が、いる?」
だったら、答えてあげる。
「そうしたいと、思ったから」
きっと、理由は要らない。
ダルがりな自分が、欲しいと思った―――それだけで、きっと十分なのだ、と。
そう―――心の底から、言葉を吐いた。
ぼくが考えたさいきょうの「健全な」お話。