何かを好きになる、という事に理由を求めるのは野暮だろうか。
そうは思わない。
けれども、まだ私にはそれは解らない。
解っている事は一つだけ。
あの苦しい風邪の中で、孤独が“怖い”と感じた時、誰の手を握っていたかったのか―――それが解っただけだ。
きっと、それだけで十分。今は。
ゆるく、ゆるく。心は触れ合わせていけばいい。
夜に齧られた月も、いずれまた日々の繰り返しの中、満点の月光を振りまいていくのだろうから。
※
こうして、彼女との恋人としての付き合いが始まった。
特に変わる事はなかった。彼女はダルがりだし、外に出る事も少ないし、大学の中でその態度を変えることも無かった。
変わった事があるとしたら、今自分の手の中に二つ目の違った形状の鍵が手中にあると言う事。
そして―――自分が住む六畳半の中に彼女の生活が混じり合ってしまった事だろうか。
彼女はそこに存在する。
それだけなのに―――自分の中にある孤独感を、浮き彫りにしていく。
触れあいたい。
繋がりたい。
繋ぎ止めていたい。
そんな思考が頭をもたげる度に、彼女を求めてしまう心が浮かび上がっていく。
肩を抱き、唇を合わせる。
彼女は決して抵抗しない。
本当に、なすがままだ。
なすがままに、その当てのない気持ちを受け止めてくれる。
それに甘えてしまっている自分の心に気付きながらも、それでも止められなかった。
きっと、自分でも見て見ぬフリをしていたのだと思う。
誰かを、何かを、つまりは繋がりを―――求めていた心を。
それが彼女を通して手に入ってしまって、困惑しながらも、それに甘えてしまっているのだと思う。
彼女は肯定も否定もしない。ただ、あるがままの自分を受け入れてくれている。
理由が無い、とはそういう意味も含んでいるかもしれない。
好意の理由を求めてしまえば、そこに利害関係と因果関係が生まれてしまう。
こうあるべきで、こうあるから、私は貴方が好きだと―――言いきってしまうならば、それは楽なのかもしれない。けれども、その因果が無くなってしまえば?とても恐ろしい話だ。
少なくとも―――今の京太郎にとって、「理由が無い」事はとてもありがたかった。
情けなくて、子供っぽい、今の自分を肯定してくれるのだと。感情を飾る事を相手は求めていないのだと。そんな風に思えて、安心してしまって。
―――それが本当に恋とか愛とかに定義できるかどうかは解らない、解らないけれど―――確かに、今自分は彼女を必要しているのだと、それだけは理解できた。
今は、それだけで十分だ。そう心の底から思った。
※
「あの、シロさん」
「ん?」
「何か、こう、して欲しい事とかありますか?」
「お世話して」
「あ、それはもうほぼ毎日やっているので除外して―――ほら、折角恋人同士に慣れた訳じゃないですか」
「うん」
「何でもいいんです。デートでもいいですし旅行でもいい。何かこう、したい事があるなら俺も付き合いますよ」
「ダルい」
「うん。そう言われる事は薄々勘付いていました!」
まあ、この通りであるので。あまり恋人らしくないと言えばらしくないのだが。この人らしいと言えばこの人らしい。
そう思ってはいるものの----まだ、正直、「この人らしさ」を知り尽せているかと言えば、微妙な所だ。
ダルがってぐったりしている彼女も、彼女らしいとも思う。
けれども、時折こちらの心を見透かしたように気遣いの言葉を投げかける彼女も、またらしいと思う。
矛盾しているようで、矛盾していない。
何だか、不思議な人だ。
捉えどころがない。解らないところがたくさんある人。
それでも―――この人に魅かれる自分の心は、疑いようもなく存在する訳で。
「だったら、宮守の事でも話してくださいよ」
そう話題を振りかけた瞬間、
「-----」
多分ダルい、と言いかけて口ごもったのだろう。
「俺、もっとシロさんの事知りたいな」
「----」
「何だっていいんだ。もう全部~してダルかったで締めてもいいですから。シロさんがどういう風に高校生活を送ってきたのか、俺、知りたいです」
「-----条件が、ある」
「はい」
「京太郎も、高校の事を話す事。それをすれば、話してあげる」
※
「俺の高校時代ですか」
「うん」
「うーん---話すとなると、どうしても周りの人間の話になっちゃうなー」
「どうして?」
「ん----情けない話ですけど、俺は高校の間で、何か実績を作った訳じゃないですし。周りの奴に比べて、平凡な奴でしたし」
「だから?」
「-------え?」
彼女は、真っ直ぐにこちらを見ている。
「別に私は、京太郎の凄かった話が聞きたいわけじゃない。平凡でも、何でも、構わない。嬉しい事じゃなくてもいい。悔しかった事でもいい。悲しかった事でもいい」
「シロさん----?」
「京太郎---宮守はね、凄く素敵な子達だった。それは今でも、変わらないと思う」
「-----」
「でも、それは、あの子たちが特別だったからじゃない。ずっと笑って泣いて、ありふれた日々をありふれたまま過ごせる空間を、ずっと自然とあの子たちは作ってくれていた。ダルがりな私を呆れたり笑ったりしながら、それでもずっと友達でいてくれた」
彼女は、珍しく饒舌だった。
「だから、いい。君の事が聞けるのならば、それで構わない。だから、話して」
何故なのだろう。
何故、この人は―――自分でも解らなかった心を、こうもすんなりと読み解いてくれるのだろうか。
今視界が滲んでいるのは、彼女の言葉の所為だ。
特別じゃなくてもいい。
―――何か、理由があって好きになったんじゃない。その言葉は何処までも真実で、だからこそ彼女はそんな言葉を自然と紡げるのだろう。
自然と、彼は彼女を抱き寄せた。
抵抗は、なかった。
涙目の彼を、彼女は無表情のままその頭を撫でていた。
県大会を破り、全国出場を果たした清澄高校。
誰もが、彼の仕事を讃えてくれた。
ずっと裏方で働き続けた彼に、惜しみない賛辞が下された。
―――これからは、貴方の為の時間も取れる。
―――しっかり、麻雀を鍛えてやる。
その言葉に、彼は嬉しいですと応えた。
弱い自分でも、諦めず、見捨てずいてくれる周りの人達の誠意が、熱意が、嬉しかった。
それと同時に、
それに応えられない自分が、
応える事を何処か諦めてしまっていた自分が、
周りに―――無意識の内に、劣等感を抱いてしまった自分が、
無様で、悔しくて、見て見ぬフリをしていた。
その暗い心の内に、しっかりと蓋をして。
汚水を、蓋の底から下水道に流す様に。
―――彼はその感情にしっかりと栓をした。
その事実が。
その醜態が。
自分には、およそ耐えられるモノでは無かったから。
認めたくない事象だったから。
誰も悪くはない。悪いのは自分だ。情けないのは自分だ。解っているからこそ、蓋をした。
―――その事実にすら、今眼前にいる女性がひっそりと示してくれたもので、
―――それも含めてこの女性が好きでいてくれるという更なる事実が、眼前に示されて、
ただただ、涙が流れた。
こんなもの、よくある話だ。よくある青春だ。
そんな下らない話を、変わらぬ調子で彼女はひたすらに聞いていた。
全てが話し終わった瞬間、彼女は弱々しい手つきでゆっくりと彼の頭を抱いた。
ふくよかな胸の内に顔を押し付け、一言、ただこう言った。
頑張ったね。
その声に、言葉に、特別な飾りは無い。
何処までも普遍的で、それでいて何処までも彼女らしい、日常の言葉だ。
なのに、やけに言葉が刺さる。
その理由の如何を内心に問いかけようとして、止めた。
理由なんて、ないんだ。
理由が無いから―――今彼女はこんなにも温かな言葉を投げかけてくれているのだから。