悪待ちの憧憬
青春の終わりは、切ない。そう聞いていた。
―――興味は、あったのだ。例えばである。自分の両親が離婚し離れ離れになった瞬間よりも、それが胸に来る感情であるかどうか。
青く未熟な感情を胸に戦い続けた自分の心が、その終わりに到来する痛み。それは如何ほどのモノなのか。
白糸台に惜しくも敗戦し、その敗北が決定的となった瞬間、―――竹井久の胸に到来したモノは、痛みよりも空虚であった。
重荷が消え去った様な。心が軽くなった様な。ついでに言えば、ホッとしたような。
もう終わったのだという安心感と、もう終わってしまったのだという切なさを秤にかけて、前者に傾いた事実に、心の奥底で皮肉気に自嘲してしまう。
まるまる二年間待ち続け、この一瞬の為に情熱を燃やし続け、それでも―――それでも、結局はこの情熱は重荷でしかなかったのか。
プレッシャーなぞ何処吹く風だと思っていた。
それでも―――背負ったモノは意外にも重かったようで。
涙は、流れなかった。涙の理由が、そこに存在しなかったから。
だからこそ、不思議で不思議で仕方なかった。
―――どうして、君が泣いちゃうのよ、須賀君。
勝手な都合を押し付けられて、
勝手な扱いに甘んじて、
牌に触れる事も出来なかった君が、
どうして、泣いているの?
その因果を考えるうちに、竹井久の胸中にじくりとした滲みが拡がっていった。
それは締め付ける様な、緩やかな暴力性を以て、彼女の感情を揺さぶっていった。
ああ、そうか。
―――涙は、一人でに出るモノじゃなかった。
自分の都合だけで泣けるほど、竹井久は弱い女ではない。
―――自分という存在の周りに、円弧を描くように人が存在していたから、自分はこの荷を背負って行けたのだ。
一人が、二人に。二人が六人に―――その数の分だけ関係が出来た。その数の分だけ荷を背負えた。
青春という一人旅に道連れが出来て、そしてついぞその旅に終わりが現れて、荷を下ろし、これから自分は、また一人だ。清澄高校麻雀部員としての青春は、もうお終い。
また、自分は一人になる。
そして、彼もまた―――軽くない荷を背負った一人であった。
五人の為に、男である彼は一人、裏方で支えていた。
卓上で実際に戦う彼女達と、それを支える彼との思いは、比較できるものではない。竹井久の青春は、確かに彼の支えがあって存在していた。
ごめんなさい、と心中で呟く。
貴方の犠牲のおかげで、私は納得して幕引きを行う事が出来ました。
納得すらできない人間がいる事も忘れて―――自分は、自分は、何をしていたのか。何故自分の心を優先させてしまったのか。他者を慮る心があれば、きっと涙は流せたはずなのに。
きゅうきゅうと締め付けられる心が痛くて、苦しくて、絞り出されるように、その眼から透明な液体が一筋流れた。
これで―――本当に、三年間の幕引きが行う事が、出来た気がした。
※
竹井久のその後は緩やかに進んでいった。
麻雀特待生として私大の推薦を勝ち取った彼女は、受験勉強に励む同級生を尻目に暇な時間を過ごしていた。
そうして時々、もう引退した麻雀部に顔を出しつつ、いつもの通り後輩をからかいながら部活を眺めていた。
―――彼もまた、今も雑用をこなしつつ、麻雀の研鑽に励んでいた。
その姿に、嬉しいのか悔しいのか、諸々が混じり合った感情が浮かんでは沈む。
「全く、どうしたのかしらね」
自分らしくない、そう、とある休日の昼下がりに一人でに呟いた。
今日は麻雀部もお休みであり、故に彼女は暇であった。暇を持て余す日々が、三年の秋口に存在する事実に全国の受験生から殺意を向けられないか心配であるが、暇なモノは暇なのだ。
そうして何となしに書店に向かい何となしに喫茶店に入り、何となしに公園のベンチで一人、黄昏ていた。
サッカーボールを元気よく追いかける子供の姿を眺めて、クスリと一つ微笑んでみたりして-----おばんくさい事この上ない。顔を引き攣らせながら現実逃避する。
そうして意識が彼方へ飛ばしている最中、
「あれ、先輩じゃないですか」
その声が、現実に強制的に引き戻させた。
須賀京太郎が、コーヒー缶を片手に眼前で立っていた。
※
「偶然ね。まさか私をストーカーしていた訳じゃないでしょうね?」
「あの、どうしてこんなよく晴れた休日の昼下がりにそんな不埒な行いを俺がしなければならないのでしょう?」
「え、須賀君。自分の事不埒じゃないと思っていたの?」
「むしろそれが共通認識なんですかねぇ!割と真面目にショックですよ!」
冗談を交わし、笑い合う。この男は実にノリがいい。休日の時間つぶしにはもってこいの人材だ。
「はいはい。それで何をしていたの、須賀君」
「いや、中学の頃の友達が試合をしていたので、それを見に言っていました。今はその帰りです」
「へぇ。それって、ハンドボール?」
「はい。ハンドボールです」
そうか。そういえばこの男は、元々ハンドボールをやっていたと聞いた。その辺りの事情を、今まで聞いた事が無かった。
「そう言えば、どうしてハンドボール辞めちゃったの?」
「結構単純な理由ですよ。俺、ハンドボールで肩をやっちゃって。それでもう辞めちゃいました」
え、と竹井久は思わず呟いた。
「怪我で、中学三年の夏以降ずっと試合に出られなくて―――それで、辞めちゃいました。もうキッパリ忘れられる様に、ハンド部の無い清澄を選んで」
「そうなの-----なんか、聞いてごめんなさい」
「いえいえ、謝る事はないんですよ。だから、麻雀部に入れたわけですし」
そう言って朗らかに笑う彼に、心が締め上げられる。
―――もう、引退したんだから、本音を言ってもいいのに。雑用を押し付けたのは、私なのに。
「俺、結構先輩を尊敬しているんですよ」
「え」
彼の口からは、次から次へと予想だにしない言葉に溢れていく。何だ、これは。何故―――こんな自分勝手な部長を、尊敬なんて出来るのだろう。その一番の被害者である彼が。
「先輩は、人数が揃わなくても諦めなかったじゃないですか。普通、一年も過ぎずに諦めると思います。それでも―――先輩は、分が悪い賭けにずっと、ベットし続けていた。一年で諦めた俺とは、大違いだ」
だから、と。彼は言葉を続ける。
「俺は、先輩に諦めてほしくなかった。全力を出してもらいたかった。―――先輩に、雑用させる時間なんてない。先輩は、先陣切って戦わなくちゃいけないんだから。だから、先輩が涙を堪えているのを見て、何だか泣けちゃって------」
そう、だったのか。
自分は、涙を堪えていたのか。
「だから、何も気にすることは無いんです、先輩。俺は俺のやりたいようにしていただけです。先輩がやりきってくれたなら、それで十分。先輩は、俺が出来ない事をしてくれました」
じわり、と。今度は―――温かな感情が、胸に湧いてきた。こんこんと湧き出る温水の様な、そんな感覚が。
「あの、先輩?」
涙で滲んで、眼前が見えない。
らしくない。
実に自分らしくない。
それでも、それでも―――陰日向に、一番のぬくもりがあった事に、耐えられる訳も無くて。自分の無様さや滑稽さに、何とも言えないおかし気な感情がぐるぐると回って。
気が付けば、一人公園で目を腫らして泣いていた。
何だか、心地が良かった。
※
「見苦しい所を見せたわね」
「いえ、先輩も人間だったんだなぁと」
「なによぅ。まるで私が冷酷非道の悪女みたいに言わないでよぅ」
「そうは言って無いじゃないですか-----」
泣き腫らし、暫くたった。彼はいつもの様に、笑いかけていた。
「須賀君」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「うーん。でもねえ。泣き腫らすだけ感謝していて、言葉だけというのも何だか薄っぺらい気もするのよねぇ」
「いえ、そんな事は-----」
「いいのいいの。ちょっとはお礼をさせてよ。-----そうね。今まで、ずっと都合のいい後輩をしてくれたんだから、今度から私は君の都合のいい女になってあげる」
竹井久は、少しだけ悪戯っぽい趣を取り戻した表情で、須賀にそう提案する。
「え?」
「麻雀を教えろって言うなら、ちゃんと教えてあげる。辛い事があったなら、慰めてあげる。何だったら------」
「いや、あの先輩!その言葉は色々危険です!」
「別に何も危険じゃないわよぅ。須賀君、チキンだし」
「うるさいですねぇ!放っておいてください!」
「-----それとも、危険な言葉にしてくれる?」
そう言いながら、彼女は彼にしな垂れかかった。遠慮も躊躇も無く、実に自然極まる動作で。
「え、あの先輩」
「まあ、色々諦めなさい、須賀君。貴方は、面倒な女に目を付けられちゃったのよ」
可能性が低くとも、それを手繰り寄せる。
悪待ちの権化。それが竹井久だ。
故に―――。諦めも実に悪い女である。
その本質を知ってか知らずか、その心を揺さぶってしまったのだ。
「責任、とってもらうわよ」
そう言って彼女は、花咲くように笑うのでした。