冬が過ぎ、春を迎えて。
さあ、自分はどうしようか―――竹井久はそんな事を考えていた。
まあ、まだまだ先の話だけれども。ただ過ぎ行く時間の先に確実にその時は来るわけで。
竹井久は知っている。変わらなければならない時間がある事を。時間は、例外なく、平等に、変わる事を求めているのだと。
変わらないと無意識のうちに思ってしまっていた日常は、ふとした時にはその手から、零れ落ちているのだ。
過去に―――自分が「竹井」になった瞬間も、そうだった。そういうものなんだ。変化は唐突に、されど平等に訪れる。
ならば、自分はその事実にどう立ち向かうべきなのだろう。どう受け入れるべきなのだろう。
解っているつもりだったのだ。
自分は一度、あからさまに大きすぎる変化を経験したのだから。
確かに、その経験は自分の心持ちを強くしてくれた。
―――けれども、思う。
その変化の中に、また別な人との関係性が生まれてしまえばどうなるのだろうか―――と。
自分は、自分の世界の中に大切な仲間が出来ました。
ずっと自分に付き合ってくれた、オカンみたいな度量を持ったまこ。おバカだけど芯の強いタコス好きな優希。デジタル信者で心優しい和。読書好きで、ちょっと繊細な所がある咲。
そして―――どうしようもなく甘え続けてしまった一年生。
幾つかの季節が過ぎれば、自分はこの素敵な後輩達と離れ離れになる。
------解っていた事だろう。知っていた事だろう。経験した事だろう。
それでも。
それでもだ。
------一度経験したぐらいでは、この胸を張り裂くような寂しさも切なさも、どうしようもないのだ。
恐らく、周りの人間は自分を強い人間なのだと思っているのだと思う。
自分だって自分は人並み以上に強い人間なのだと思っていたのだと思う。
今となって気が付いた。
そんな強さは―――何処にもなかったのだと。
弱さを押し隠す為に、身に着けた全てが、今の「竹井久」に繋がっているのだ。
それは、自分すらも騙せるだけの強力な代物だった。
―――なら?
―――今の自分は、一体何者?
ふと、そんな疑問を覚えた。
未だ、疑問は果たされぬまま、宙に浮いた魚の様にプカプカと意識の上に揺蕩っていた。
※
人間という生物は、自身の想像にも及ばない現実を目の当たりにすると、思考が止まってしまうモノらしい。
須賀京太郎も、その例外ではなかった。
―――責任、とってもらうわよ。
そもそも自分は何の責任を背負わされてしまったのだろうか。
あの、飄々としているようで何処か子供っぽい二面性を持つあの先輩に。
あの後―――彼女は実ににこやかな笑みを浮かべながら、須賀京太郎の手を引き、彼を散々に連れまわした。
一緒にファミレスで昼飯を食べ、ショッピングに付き合わされながら、色々な話をして、そして聞いた。
というより、色々な事を聞かれた。
家族構成は?ハンドボールを始めたのはいつ?小さい頃どんな子供だった?恋愛経験は?両親は互いに仲がいいの?
無遠慮にも程がある質問攻めだったが、全く苦にならなかった。彼女は実に聞き上手で、こちらが話す言葉の節々に相槌と茶々を適度にいれつつ、全くこちらに意識させる事無く会話を操っていた。
色々な情報を散々に一方的に収集され、彼女は満足気に「ありがとう」と告げにこやかに手を振りつつ帰路に着いた。
あの行動と、それに至るまでの彼女の言動を鑑みて、彼女の内心を察せない程に、彼は鈍くはない。
けれども、彼には何故彼女が自身に好意を寄せる事になったのか―――その因果関係が解らない。
彼は、他者が抱く須賀京太郎の評価についてだけは―――とても鈍感な男であった。
だからこそ、悩んだ。
何に悩めばいいかも解らないまま、夜を過ごす事となった。
そうして一夜明け、いつもの時間に彼は起きた。
考え事をしている内に意識が途切れるようにいつの間にか寝ていた。毛布をかぶる事も無くうつぶせに寝てしまったせいか、首が痛い。
自室からリビングへと向かい、いつもの通り朝食を準備しているであろう母におはようと告げようとして―――。
「おはよう」
聞き慣れない、声が聞こえた気がした。
覚醒しきっていない意識を通した視界から、その情報を読み取った瞬間―――一気に、眠気が覚める。
「え?-----先輩?」
そこにはテーブルに座って優雅に紅茶を啜る―――竹井久がいたのでした。
------え?へ?
困惑の極みにいる須賀京太郎に、彼女はにこやかに手を振っていた。
え?
え?
これは一体どういう事なのか―――彼は数十秒ばかりそのあまりにも非現実的な光景に、思考が止まる。
硬直したまま、立ち尽くしていた。
※
説明を受けた。母から。
まるで朝っぱらから危ないクスリでもキめたのかと見間違わんばかりに見当違いな方向に興奮しきった口調で、それはもうご丁寧に。
新聞を取りに玄関口に向かった母は、門前に立つ見慣れぬ人影に思わず挨拶をしたのだという。
その声に一瞬驚きながら、彼女はにこやかに母と談笑し、「須賀君のお母さんですか?」と尋ねたという。
その声が着火点になったのだろう。母は我が息子の春がもう訪れたのかしらん、と興奮しきってそのまま家に招いた―――という実に解りやすいお話だった。
「ごめんなさいねぇ、こんなだらしない息子で」
「いえいえ。サプライズが大成功したんだから、これでよかったんですよ。ほら、今も固まっちゃっているし」
「あらあら。意外と悪戯好きな娘なのね、久ちゃんは」
「ええ、そうですよ。息子さんをからかうのはもう私のライフワークみたいなものですから」
うふふふ。あははは。この何というか、奇妙な空気感は男の存在を限りなく阻害する。そして大抵、その事実に女共は気が付かないのだ。
「ほらほら、さっさと席に着きなさいよ京太郎。久ちゃん待っているわよ」
そう言われ、実に居心地悪そうな風体でテーブルに座る。-----当然と言わんばかりに、久の隣に。
目の前にある朝食を黙々と胃袋に嚥下していく間、女同士の会話が当たり前の如く展開されていく。
我が息子の恥に塗れたお話をまるで自身の栄光でも話すかのように赤裸々に話す母に、その口車に潤滑油を差すかの如く相槌を打つ久。そして散々に話すと今度は母から久へと質問が飛んで行く。京太郎との関係から始まり、その出会いまで。彼女は恥ずかしがる事無く堂々と話している。
「え?まだ付き合っていないの?」
「はい。そうです。未だ攻略中です」
「ちょっと京太郎。こんないい子放ってこの先未来があると思ってんじゃないでしょうね?」
「いや、ちょっと----先輩、からかわないで下さい」
「いやよ。須賀君をからかうのが、今の私の一番の楽しみなんだから」
「悪趣味-----!」
「まあまあ、ほら、須賀君。あーんしてあげましょうか、あーん」
「いらないです------」
一つやり取りする度にいやーんだとか実に昭和チックな反応を返す母の声に不快感を覚えながら、いつもよりペースを上げながら朝食を平らげていく。
何だこれ?
何なのですかこれ?
未だその現実が受け入れられず、須賀京太郎の思考は未だ止まったままだ。
とにかく―――早くこの空間から脱出したかった。
姦しい会話が展開される両者を恨めし気に見つめながら、そんな事を須賀京太郎は思った。
※
「いやー、ごめんなさいね。あんな事になっちゃって」
「全くですよ-----」
げっそりと肩を落としながら、須賀京太郎はごく自然と竹井久と登校する。
何だか、訳も解らず疲れた。いや、訳なんか解りきっているんだけど、それでもそれ以上に訳の解らない疲れが胃にもたれかかっているのだ。
「いいお母さんね」
「-----まあ、はい」
「うんうん。よろしい。よきかなよきかな」
「何がですか-----」
見る限り本当に機嫌がよさそうな竹井久を見据えながら、須賀京太郎はぼやく。
本当になんなのだこの人は―――。
「まあねぇ、須賀君。これで、ちょっとは伝わってくれたかしら?」
「何がですか?」
「ほらほら、とぼけないで。―――生半可な思いじゃないからね、私」
「-------」
にこやかに。穏やかに。されど―――何処か力ある言葉を、彼女は告げる。
そして、
「さ、行きましょう?」
彼女は自然に彼の手を引きながらそのまま通学路を歩いていく。
「ちょ、このまま学校に行くつもりですか!?」
「当然よ。振り払ってもいいのよー?」
悪戯っぽい笑みで、そう告げる。
―――いやいや。そんな事できる訳がないじゃないですか。
そんな反論なぞ意にも返さず彼女は彼の手を引いていく。
―――本当、お人よしなんだから。
振り払えばいいのに。人がよすぎて、出来ないのだろう。
―――馬鹿ねぇ。だから私みたいな面倒な女に目を付けられるのよ。
彼女は内心から楽しくて楽しくて仕方がなかった。麻雀とはまた違った楽しさだ。意中の男の子をからかって遊ぶそれは、その本質から言えば何処までも子供っぽいのだと思う。
まあ、いいじゃないか。それが許される愛嬌を、代わりに振りまいてあげるから。だから許して頂戴な―――。
そんな言い訳を振りまきながら、彼女は笑う。
本当に、子供のような笑みで。
山なし谷なしオチなし。全部必要なネキ編よりも書きやすくていいですね、うん。