こんにちわ。須賀京太郎です。
今私は、朝起きてランニングに精を出しています。
早寝早起き。そして朝の涼やかな風を浴びながらランニング。ハンドボールを辞めてからもう無くなっていた習慣ですが、やっぱり気持ちがいいし気分がいいですね。
―――うん。やっぱりね。自分は常人なのです。こればかりは仕方がない。
この前、ちょっと軽い風邪をひいたので病院に行きまして。何気なく血圧を測ってみたのですよ。
明らかに血圧が上がっているんですよね。
元々それ程高い訳ではなかったので、健康を害する程に上がった訳ではないのですが増え方が問題だと医師の方に言われました。体重も測ってみたら、あらびっくり。太りにくい体質なのですが二キロ増えているのですよね。
原因なんて一つしかねえんですよ。
人生はじめて出来た彼女の所為ですね。
そりゃあ人生はじめての彼女ですから。キャッキャウフフな幸せで無害な糖分だったらいくらでも味わいたいですよ。うわははは。
しかし。
―――新しい彼女は本当に比喩ではなく糖分で殺しにかかっている。
本当に、今更ながら思う。
あの人の身体の秘密が解明されたら、糖尿患者なんていなくなるんじゃないのか、って。
―――あの人、本当に大丈夫なのかなぁ。
淡い朝焼けの風に向かって走りながら、そんな事を思うのでした。
※
「三キロ」
「------」
「太っ-------」
「------その先の言葉は無用----」
「-----」
「-----」
麻雀部部室内―――部長と宮永照は向かい合っていた。
その間にあるのは、恐ろしく冷え切った空気感。
切っ掛けは、実に下らない意地の張り合いであった。
無遠慮かつ無節操にお菓子を貪り食う宮永に、部長は度々口酸っぱく言い続けてきた。お前は解っているのか?これだけ馬鹿食いして太ったって私は知らんぞ。お前の遺伝的に脂肪が胸に行く事なんざ絶望的なんだから当然の如く腹に来るぞ。そうなってそのささやかな胸よりも腹が突っ張る様になってみろ。絶対に大笑いしてやるからな。大好きなお菓子に呪詛を上げるその日が来るのを楽しみにしているぞクソッタレ―――こんな感じで。
しかし何を言おうと彼女にとっては馬耳東風。馬の耳に念仏とは古い諺にあるが、馬だって言葉が通じれば取り敢えず斟酌するだけの利口さはあるはずだ。この女は自分はいくら食った所で太らなかったし健康上の被害もなかったという成功体験を積み重ねてきた人間だ。内心、投げかけ続けてきた言葉を小馬鹿にし続けてきたに違いない。
その態度は大きく部長を憤慨させた。何度思った事か。自分の大好きなスィーツを何も気にすることなく貪れたらどれ程幸せなのだろう。あの口に入れるだけで脳内物質が漏れ出しそうな多幸感を永続的に感じられるならきっとそれはそれは素敵な事なのだろう。けれど、けれど。理性がそれを必死に歯止めをかけているのだ。脳内を考えたくもないカロリーという数式に落とし込み、体形が変わる恐怖で自らを律してきた。女性の尊厳と眼前の欲望と必死に秤をかけ続け我慢してきたのだ。大好きなはずのスィーツが呪詛となる自己矛盾を抱えながら、それでも涙を流しながら、我慢し続けてきたのだ。
それでどうだ?我慢に我慢を重ねた苦渋の果てに自らはこの体型を維持しているというのに、この女はどうなのだ?眼前に餌があれば取り敢えず口に入れる様はまるで放牧中の家畜ではないか。我慢という言葉を知らぬまま生き続け、しかして体形は一切変わらぬままだ。
そうとも。実際の所部長は宮永照に嫉妬していたのだ。麻雀にではない。そんな事よりも、このあり得ざる超常現象に。
―――そして、今日。宮永照の体重に異変が起こった。
健康診断の結果を意地のまま見せ合い―――昨年より三キロ計上した数字を絶望した表情で眺める宮永照の姿があったのであった。それはまるで役満を思わず振り込んでしまったが如き絶望と屈辱が濃縮されてブレンドされた表情であった。
「―――暴食も、結局の所ラインを越えればこんなもんか。なぁ、宮永?」
「------何故。―――何故?」
「そりゃあ―――もう。人生はじめての男友達が出来ましたー。そしてついぞようやく彼氏になりましたー。さあ数えてみろ。須賀と共に遊びに行った回数を」
「------」
「その度に巡った店の数と、そこで食らい尽くしたスィーツを。数えてみるんだよ。うわはははは」
「------」
「皮肉だなぁ----。実に皮肉だなぁ。男なんざいない時だったら別にこの程度気にもしなかっただろうになぁ。まさかまさか男が出来てから太り出すとはなぁ。一番どうでもよくない時に、お前の大好きな代物が特大の呪いとなってしっぺ返しだ。私は笑わずにはいられないよ、宮永」
「----くっ」
苦渋の色が、より強くなっていく。
そして―――対照的に、向かい合う部長の表情には、明らかな愉悦が刻まれていく。
「悔しいか?悔しいよなぁ?―――体形を変えまいと涙ぐましい努力を鼻で笑われ続けてきた私はなぁ、いつもこんな気分だったんだよぉ!」
たった二人しかいない部室の中。
そんな実に下らない呪詛が、垂れ流されていた。
宮永照。
恐らくは誰も幸福にならないであろうその呪詛を全身に受けながら―――彼女は瞠目し、涙した。
人生はじめて―――ダイエットを覚悟した瞬間であった。
※
という訳で―――彼女はダイエット関係の論文や雑誌を図書館で借りてくると、大学のカフェテリアでそれを読んでいた。
無言のままペラペラとページを捲っていく。時折注文したアイスティーとドーナツを口にしながら、集中した面持ちでそれを読んでいた。
「糖質制限-----」
そして、出た結論―――自分の実生活を振り返り、太った理由を分析する。
糖分、取り過ぎ。
というか―――お菓子、食い過ぎ。
「間食は脂肪のエネルギー源」「お菓子で腹を膨らせ三食を減らすのは言語道断」「おでぶちゃん養成ギプス―――それこそが菓子」
何だか自分の大好きなものが冒涜されている気分になり、とても悲しくなったが―――しかし致し方ない。どうしようもない現実がそこにある。
―――京ちゃんをいっぱい連れまわして、いっぱい食べちゃったせいかな?
そもそも彼を連れまわす度に、男である京太郎以上のスィーツをばかばか食べていた気がする。よく考えれば―――というか別によく考えなくても、異常だ。
―――どうすれば、いいのだろう。
彼女はそんな悩みに頭を抱えながら、またドーナツを一口頬張った。
本当に、どうすればいいんだろう。
終わらない自問自答の果てに、結局一時間ばかりの時間を費やした。
結局結論は出なかった。
※
「―――まあねぇ。即効性を求めてもどうしようもないし、ちょっと夕飯を抑えめにするしかないかもなぁ」
須賀京太郎はそう一つぼやき、うーんと一つ頭を傾げる。
「玄米----はちょっと高いよなぁ。こうなりゃ体重が戻るまでは米類減らして蕎麦にするかなぁ。うどんよりこっちの方が栄養効率いいらしいし」
彼は下宿先に帰ると、これからの夕飯メニューを考えていた。
「カップ麺は暫く封印だな。仕方ない。でも三食は食いたいから、------運動量、増やすしかないよなぁ。------お、月千円で温水プールが使えるのか。いいかもねぇ。ランニングより、水泳の方が痩せるだろうし」
彼はスマホで調べながら、ダイエット計画を模索する。
「流石に彼女が出来てから激太りしましたー、はカッコつかないしなぁ。照さんの彼氏になったんだから、これはコミコミで頑張っていかないとなぁ」
うんうんと頷きながら、彼はよっしゃ、と気合を入れる。
痩せてやるぜー、と覚悟を新たに、夕食の準備に取り掛かった。
意識の差異とは、時に残酷である。