「------という訳で、助けて菫」
「-------」
無言のまま、彼女はスマートフォンを耳に当て、その言葉を聞いていた。
宮永照からは、その表情は計り知れない。
弘世菫は―――ただただ、無表情を貫いていた。
「------す、菫----?何で黙っているの----?」
「かける言葉も無いからだ。この馬鹿」
「え、------え?」
「暴食の結果太りましたー。痩せなきゃいけないどうしよう。方法を教えてくれー。------暴食を止めろ以外、かける言葉などない」
「ええ、そんな----」
「そんな、じゃない。女子はな、常に節制を肝に命じながら日々を生きているんだ。お前は知らないだろうがな。それは、あの淡だってそうだぞ。なんだかんだ言って、アイツも自分の体形を崩す位の暴食はしていなかった」
「------そ、そうなの?」
「当たり前だ。つまりだ、今のお前の我慢弱さは淡以下という事だ」
「あ、淡以下------」
その言葉は何よりも堪える言葉であった。
我慢という言葉から何もかもかけ離れた存在。それこそが、大星淡という存在であったはずだ。自分は現状としてそれ以下なのだと、親友に言われているのだ。
「体形が変わらないうちは何を食っても許されていたのだろうがな。いざ体形が変わり出せばそうなるのも、また真理だ。今お前は我慢を強いられているんだ。体質の変化かどうかは知らんが、生活を見直す事だな」
突き放すような冷たい声が照の脳内を駆け巡る。
「何かを得たいなら何かを犠牲にするしかないんだよ。そんな当たり前の話だ」
ツーツー、と無情にも通話が切れる。
-------我慢。
我慢せねばならない。
ならば、どうすれば我慢できるだろう。
暇さえあれば菓子を食っていた自分が。
そう-----暇さえあれば。
そうだ、と彼女は閃いた。
暇を無くせばいい。そうだ。自分を追い込め。自分を責め立てろ。自分を縛りつけろ。菓子を食う暇なんてないほどに。
相すれば自分は我慢できる。
では、どうやって?どうやって暇を無くせばいい?
―――それは、もう一つしかない。
※
「ねえ、部長?」
「------皆まで言うな」
部は、負の空気に包まれていた。
大学麻雀部が誇るエースが、あからさまに殺気立ってる。
対局する者全てを叩き潰さんとばかりに睨み上げ、無情にも連続でのハコ割れを味わわせた挙句、次の犠牲者を待ちわびていた。余りの圧力に泣き出す後輩までいるくらいに、その存在は恐ろし気に覇気を放っていた。
「幸せの絶頂からああなっているのは何故ですかね、部長?」
「------私は、知らん。知らんぞ。記憶なんてどこにもない。うん」
知らないものは知らん。記憶になんてない。そんな記憶はシャットアウト。―――まさか散々に煽った結果あのシリアルキラーを生み出してしまったなんて言える訳もあるまい。
とは言え―――流石にアレはいけないだろう。そう思い部長はやんわりと―――本当にやんわりと、照の耳元に何事かを囁く。
「な、なあ宮永------」
「-----何?」
「いやぁ、そろそろ休憩でもしないか?この前の事を怒っているのなら、ほら、ちょっとソファで肩もみでもするし、何なら渋谷の洋菓子店のシュガークッキーを後輩が買ってきたのだが-----」
その言葉を発した瞬間―――ギロリと、強烈な睨みが浴びせられる。
「-------いらない」
そう。これだ。これが問題なのだ。
情緒不安定な人間に取り敢えず精神安定薬を投与するように、この女の機嫌が損なわれた時にはお菓子を投与しておけばよかった。元々性格だってクールながら温厚も温厚だ。菓子さえ目の前にあれば、誰に言うでもなくバクバク食って勝手に精神が安定していたのだ。―――しかし、今やもうそれが効かない。
「何でこういう時に限って須賀がいないんだよ!いつもウザい空気を散々に撒き散らしておいて、いざ彼女が不機嫌になったらトンズラか畜生!」
「あー----須賀君はむしろ照さん側から暫く会わないようにしようって言ったらしいですね」
須賀と同じ一年の麻雀部員が、部長に耳打ちする。
「は?」
「その―――太った自分を見られたくないから、だとか」
「たかが三キロの体重の変動で何を宣ってんだアイツは!」
その結果がアレなのか。あの姿なのか。
「不味い-----不味いぞ。一週間後に対外試合があるってのに------あんなもんと鉢合わせたら、来年からもうお呼ばれが無くなっちまうかもしれないぞ」
あの圧力と殺気を溢れ出しながらコークスクリューを幾度となく叩きつけるチャンプ。そんなものを見せられては、トラウマ間違いなしに違いない。手負いで空腹の獣をそのまま連れていくようなものではないか。魔王宮永の残酷スプラッター連荘ショー。そんなもの、決して見せる訳にはいかない。
「------仕方ない。もう宮永の事情なんぞ知らん。須賀を呼ぶ。強制的にでも機嫌を直してもらわないといけない」
「あ、須賀君なら今日は大学にいませんよ」
「何でだよ!?」
「その------太ったのは須賀君の方も同じようでして、この一週間は水泳とランニングに時間を使うので、部活の手伝いは休むと」
「---------」
ああ。いいなぁ。そういうまともでまっとうな発想が出来る柔軟な脳内構造。あの女を見てみろ、須賀。あの女は禁酒ならぬ禁菓子のストレスを麻雀で発散しているぞ。不健康極まりない。勘弁してくれよ。
部長はジッと地面を見つめていた。
その後、天井を見上げる。
そして―――雀卓を見た。
地獄の淵に立たされているかの如き惨状がそこにあった。涙目で俯くなんてまだいい方。財産が全て溶かされたような表情で上を向くものや、余りにも派手に敗けすぎて半笑いを浮かべながら貧乏ゆすりをしている者。様々な敗残者の様相が、そこに並べられていた。
「---------」
もう知った事か、と段々思い始めた。
いいよどうなろうが。他校の人間を壊す羽目になろうと知ったこっちゃない。こちらに被害がある訳じゃないのだから。もういいや。うん。
「------知―らない。あたし知-らない。ケセラセラ。どうにかなるさどうにかなるさ。みーんな魔王に壊されちゃえー」
部長もまた壊れたようにそのような事を宣い始めた。
※
「うーん、久しぶりに泳いだなぁ。意外と楽しいもんだなぁ」
バスで十分ほど先にある、市民プール施設。須賀京太郎は二時間近く黙々と泳ぎ続けていた。
早朝のランニングに加え、水泳と筋トレを日課として採用し、三日ほど。須賀京太郎は中々に充実した日々を送っていた。
昨日、宮永照から謝罪と共に「ちょっと理由があって今は会えない」というメッセージを貰った。一週間後には対外試合もあるのだろうし、きっと彼女も忙しいのだろう。
―――仕方ないよなぁ。あの人、負ける訳にはいかないんだし。
あの人は大学においても無敗のチャンプだ。かけられる期待も、それに伴う重責も、ずっと背負っていかなければならない。
そういう諸々と向き合う為にも、時間が必要な時もあろう。無論寂しいのは本音なのだが、こういった事を受け入れてこそ恋人だとも思う。一生懸命にやっている愛しの彼女を邪魔する事は須賀京太郎には出来ない。
それに、丁度良かったという感じもある。
増えてきた体重を落とすにあたって、少し纏まった時間が欲しいとも思っていた所だ。ランニング、スイミング、筋トレの中でもスイミングは毎日出来る事じゃない。あの人と付き合うことイコール、糖分との付き合いになる訳だから、キッチリ健康管理はしていかなければいけない。
「あー。でも腹が減ったなぁ。慣れない運動すると本当に腹が減る」
運動をし出すと当然だが腹が減る。そして余計に金が消えていく。健康を維持する事は、意外にも金がかかる事なのだ。
その分肉体労働系の即日バイトも、ここ一週間はかなり増やしている。彼女が自分に会う時間が無いという程に、今麻雀部も追い込んでいる時期なのだ。雑用で顔を出して水を差すよりも、今の時期はしっかりお金を稼いでおこう。
「うん―――。早く照さんに会いたいなぁ」
彼はふんふんと鼻歌を歌いながら、実に素直な面持ちで、そんな言葉を呟くのでした。
-------意識の差異とは、時に幸福の総量にも関係するのである。
今日、車高の教官の方と一緒にお昼ご飯を食べました。二年前、車高を卒業した息子さんに教官が車をプレゼントしたそうです。その後、息子さんは貰った車を早速痛車に改造していたそうです。親から貰ったモノを粗末にせん方がいいよと教官の方が仰っておりました。うん、そうだね。その通りだね。心に刻みました。