末原恭子は眼前に存在する化物を眺めていた。
―――これは、人間なのか?
自らの五感が告げる。これは違う。違う世界の違う次元の魔物だ。間違いない。
そもそもこれは人間なのか?
眼前にいる無表情な少女は、自分の知る限りまだ人間らしかったはずだ。その正体が化物である事なぞ皆が皆承知していたけれども、されど人間の皮を被ることが出来る程の器量は持ち合わせていた。そのはずなのに。
されど眼前に存在するのは、何故にここまで刺激的に暴力的に自らの五感に悪寒を流し込んでくるのか。
容赦はしないという隔絶的な意志。その眼に宿るは冷たく燃え滾る憎悪の炎。行き場の無い感情の吐瀉口を探しているかの如く、その眼はギラつきこちらを見据えている。
人間の皮を剥がし、現れたその正体。
それは彼女のかつての記憶を無理矢理に引き出していた。
―――そう、確かその時対面したのは―――。
血は争えぬ。蛙の子は蛙。鷹の子も鷹。魔王の姉だって、魔王以外の何物でもない。
カタカタ。
カタカタカタカタ。
カタカタカタカタカタカタカタカタ。
底冷えする様な感情。かつての記憶。眼前に存在する現実。過去と現在が交錯し、地獄の門がぱっくりと口を開けて待っている。その先は業火か永久凍土の軒先か。焼かれ砕かれ嬲られ、心折れるその瞬間をきっと待ちわびながら、待っているのだろう。
「じょ、上等や-------!」
されど、彼女は折れない。
折れる訳にはいかない。
決めたのだ。凡人風情が何処までも上に行けるのか。凡人が見据える底辺の景色から、ああいう化物を打ち砕く。
「凡人のウチが、どれだけ足掻き通せるか。-------かかってこいやァァァァァァァァァ!」
魔王の前に、凡人が一人。
轟々とした風を纏わせながら、魔王は腕を上げた―――。
「------ねえ、部長」
「あー?」
「ずっと、こんな事を続けさせるつもりですか?」
「知らね」
眼前の死体の如き女を見やりながら、部長は投げやりにそう答えた。
「-----相手、ドン引きですよ」
「そりゃそうだ。あたし達だってドン引きだろうが」
「-------あの人、凄い勇気ですね。あの状態の宮永さんに、サシの点取り合いに向かって行ったんですから-------」
「末原恭子だな。すげーな。アレのおかげで精々ドン引きされる程度で済んだと言える。合掌」
「勝手に殺すのはよくないですよ------それにしても、アレ、本当にどうにかしなければいけませんよ。次の対外試合、どうするつもりですか?」
死屍累々は、予想以上の惨状―――とはならなかった。
それはまさしく勇者か神の子か。ただ一人あのオーラの中を臆せず進んでいき、宮永照との対局から一切逃げず、交代せずに対局し続けていたのだ。無事息絶えた末原恭子の尊い犠牲によって―――犠牲は、最小限となった。
「------なあ」
「何ですか」
「何時まで、私達はこんな思いをしなければいけないんだろうなぁ------?」
「知らないです」
※
道を歩けば、声が聞こえる。
―――タイ焼き~タイ焼き~おいしいタイ焼きはいかがですか~
そんな、移動屋台の声。
目に付く。
―――季節のフルーツをふんだんに使った、フルーツサンド!本日なら、セットをお頼みの方にチーズスフレもサービスします!
そして、鼻につく。
クリームの匂い。焼いた小麦の匂い。キャラメル、バニラ、チョコレート-----彼女の飢えに飢えた五感は、脳内に告げ口していくのだ。あそこに欲しいものがあるぞ。はよう食べなよ。我慢なんかするなよ。―――そんな風に。
食べたい。
食べたい。
あの芳醇な香りに囲まれて、あの甘く幸せな諸々を咀嚼して喉奥に流し込みたい。思うがまま、あるがまま、欲求に従っていたい。
しかし、許してはならぬ。
太り、醜くなった自らの姿。そんな姿に変貌していく様を―――彼氏はどう思うだろうか。
愛想をつかして別れるだろうか?
いや、きっとそんな事はしないだろう。彼は優しい。
きっと―――その眼に少しずつ同情が含まれるようになり、徐々にそこから呆れも含むようになって、------というように、表に出ない感情を胸に刻んでいくのだと思う。
そんな視線に晒されてしまったら、自分は自分でいられるのだろうか?
そんな事―――耐えられる訳がないじゃないか。
ならば、我慢しなければならない。
我慢するのだ。まだまだ。まだまだまだまだ。
知らなかった。
我慢する事がこんなにも辛いなんて。
無い胸が張り裂けそうになる。
帰り道。どうしても感じてしまう菓子の存在に涙を浮かべながら、彼女は俯きながら歩き続ける。
―――辛い。辛いよ、京ちゃん。
慟哭が自分の脳内を駆け巡っている時―――。
「あ、照さん」
ひょっこりと、彼は現れた。
現れてしまった。
「あ、試合の帰りですか?偶然ですね。今日はどうでした?後で話を―――おわ!」
痩せるまで決して会うまいと思っていた存在が現れ―――一瞬逃げようという意思が生まれかけた。
されど、その意思は一瞬に叩き壊された。
彼女はわき目もふらず近付くと、そのまま抱き付いた。
「うう-------うううう------京ちゃん----」
「------あの、話を聞きますので、落ち着いて?ね?」
須賀京太郎は少し慌てながら、彼女にそう声をかけ続けていた。
※
「―――そういう事だったんですね」
「うう----ごめん、京ちゃん-----」
付近にあった、喫茶店の中。
結局。彼女は全てを明かした。
ダイエットの為に京太郎と会わない事に決めていた事。その間、お菓子を食べずに過ごしていた事。その事によって情緒不安定になっていた事------その全てを。
彼はジッとその話を聞くと、店員に声をかける。
「あ、すみません。チョコスフレ一つ下さい」
「え-----」
店員はかしこまりました、とはっきりとした声で応えると、カウンター脇にあるスタンドからスフレを持ってくる。
カチャリとそれが置かれた瞬間に、京太郎はそれにフォークを突き刺し、そして―――照に向けた。
「食べましょう、照さん」
「------食べない」
「あのね、照さん。------俺は照さんが太るより、そんなキツそうにしている方が辛いです」
「-------」
「食べない覚悟がそんなに辛いなら、今度は食べても痩せる覚悟をしましょうよ。俺も協力しますから。ね?」
「-------うん」
彼女は、差し出されたフォークに、パクリと口に含んだ。
咀嚼し、飲みこむ。
彼女は何か感じ入ったように下を俯き―――絞り出すような声で、こう呟いた。
「おいしい------」
「それはよかった。―――ね、照さん」
「ん?」
「その-----辛い事があったら、いくらだって話していいですからね」
「------うん」
彼女はグスグスと鼻を鳴らしながら、そう静かに呟いた。
※
その頃―――。
魂が抜かれた様な末原恭子は、ホテルまでの帰り道を歩いていた。
心底から粉々にされた心を、何とか集めて形にして、取り敢えず一先ず四肢を動かす程度の意思だけは拵えて、彼女は無心のまま歩き続けていた。
そこに現れた光景は―――。
「---------」
泣きつく宮永照の姿。
そして見知らぬ金髪の男。
男が慰めながら喫茶店に入り、ケーキを突き刺し宮永照に与えていた―――そんな光景。
おい。
おい―――。
まさか。まさか。あの惨状を作り出し、こちらの心を粉々にしておいて―――その行為を「辛い」とあの女は思っていたのか。
心を痛めながらあのような行為を行い、その罪の重さを彼氏に慰め、解消してもらっているのか?
今自らの心は、誰にも癒される事なくそのままの姿だというのに―――。
「--------」
許しは、しない。
宮永照―――。
「絶対に-------絶対に、叩き潰す----」
そうこの瞬間―――彼女の心に火が灯った。
「許さん-----許さんぞ-----宮永ァ------!!」
これより、彼女の復讐譚が―――もしやすれば、生まれるかもしれない。
最近、また将棋アニメをやっているようようですね。面白いのでしょうか。三月のライオンにど嵌まりした身ですので、見て見ようかなぁ。