乙女の最小公倍数=愛宕洋榎①
「なあ、須賀」
「何ですか愛宕先輩」
「納得できひん」
「はあ?」
「ほら、この部活の中でウチが一番実績あるやん。歳だって上の方や」
「ええ、まあ、はい」
「それを踏まえて考えてみーや。こーの、部全体に蔓延しとる、ウチに対する舐めくさった空気がな、納得できひん。もっとウチを敬わんかい」
「ははは。先輩、寝言はどのタイミングで言うべきモノか知っていますか?」
「おう、当然寝ている時や。詰まる所お前はアレか。寝言は寝て言えと、そう遠回しに言っている訳やな」
「ええ、まあ、何というか、その、------はい」
「はい、じゃないやろがー!!」
ギリギリギリ。華奢な両腕から驚く程の指先の力を以て、愛宕洋恵は後輩の首を絞めていた。
大学麻雀部部室内。何処となく下らない漫才が繰り広げられていた。
「おう。ウチはな、お前筆頭にこの事に文句言いたかったんや。こんな下らない漫才が繰り広げられる関係性がな、先輩と後輩やと思ってんちゃうで須賀ァ!」
「先輩、ノブレス・オブリージュって言葉知ってますか?世界史で出てきたと思いますけど」
「知らんな~。ウチは麻雀の特待で大学に入ったんや。そんな訳解らん横文字覚えとったんちゃうで?」
「高貴なる者が果たすべき義務の事です、OK?」
「なんやけったいな言葉やな。それがどないした?」
「敬われたくばまずは先輩として果たすべき義務を果たしてください。いや、もうそこまで求めないんで、せめて恥ずべき姿を見せないで下さい」
「ほーう、須賀。この全身美少女な洋榎ちゃんの何処に恥が存在しているか、言うてみぃ」
「------ハッ」
「おう、今ウチの全身眺めて鼻で笑ったな。出るとこ出てない貧相な体やと笑ったな?そろそろお前もおてんとさんを拝みたくなってきたんやないか?優しい洋恵ちゃんが、今ならしっかり天国への片道切符を握らせたるで?」
「ああ、先輩自覚してたんですね!」
「やかましいわ!」
べしべしと後輩の脳天に容赦なく張り手をかましながら、睨み付ける。しかし、印象的な程に下がりきったタレ目をいくら吊り上げようと、怖くはなかった。
「ノリがよすぎるのも考え物やな。腹立つわ~。標準語でやたらめったら言い回しが遠回しなのもムカつくわ~」
「ほら、先輩。敬われるための第一歩を踏み出しませんか?」
「おう。何や?」
「取り敢えず貸した物返してください」
「すまんな。も~ちょい貸しといてくれや」
「俺の弁当かっぱらうの止めて下さい」
「ウチより女子力高い弁当ムカつくわ~。ウチの胃袋に収めてようやく苛々がおさまんねん。堪忍しぃや」
「今度唐揚げにレモンかけときますね」
「それをやった瞬間に、お前との僅かばかりの友情も解消や。そこらの道端で精々骨折して這い回っておけ」
「やたら具体的ですね。そうするともう先輩に弁当を作れなくなる訳ですけど」
「---?這いずり回ってでも弁当作ってウチに届けたらええねん」
「何ですかその借金してでも私に貢げ、的なキャバ嬢みたいな論法は」
「ええやん。ウチみたいな美少女のメッシ―君やれるんやで。はよう車の免許も取ってアッシー君にもなってや」
「うわ、今時メッシーアッシーなんて言うんですか?古っ」
「何が古っ、や。オカンに言いつけるで?」
「貴女のオカンと同じ思考回路と流行にいる事に何の躊躇いもないなら、それこそもう手遅れです。諦めましょう」
「何をや?」
「こう----女性としての感性を人並みに身に付ける事とか、色々」
「せやな。お前もここから生きて帰れることを諦め―や須賀ァ!」
※
「―――ってな事があったねん。いやー、楽しかったわー。ちょっとは距離を縮められたやろうか?」
絶句。
もはや、愛宕絹恵には言葉が無かった。その楽し気に語る諸々のお話が、あまりにも、あまりにも―――。
「なー、姉ちゃん」
「ん?」
「再確認させてもらうで。その後輩君と、どうなりたいんや?」
「絹恵~。堪忍してーや~。そらもう決まっているやろ~。嬉し恥ずかしキャッキャウフフな関係に決まっとるやろ~」
開いた口が塞がらないとはこの事か。
これが、この姉が意中の男性へのモーションのかけ方なのか。レベルが低いとか幼稚とか、そういう次元ではない。山頂へ向かうべくはずが意気揚々と谷底へ下って行っているようなものじゃないか。ベクトルがまずもって違う。
「姉ちゃん」
「ん?」
「アホちゃうか――――――――――――――――――――!!!!」
吠えた。心の底から。この女性らしさの欠片も無い残念な番茶の如き濁りきった脳内に直接叩きつけんと。
「な、なんや絹!ウチ、何か変な事言ったか?」
「姉ちゃん。アンタ、餌付けされた犬に欲情するか?」
「何やそれ。ただの変態やんか!」
「ええか。一つ言ってやるわ。その須賀君なる男の子にとって姉ちゃんはな、ただの餌付けされた犬や。尻尾振って構え構え言って来る鬱陶しい犬や。解るか?」
「え、え?犬?何や絹-----」
「黙らっしゃい!話を聞かんか!」
「お、おう----」
決壊したダムの如く口が開けばうるさい姉も、一度塞げば押し黙る。
「何で-----何で、数ある男へのアプローチの中で、そんなけったいな方法選んでしもうたんや---。ウチ、悲しいで------」
「だ、だって----。雑誌に書いとったもん----。男へのアプローチは、まず友達感覚から作れ、って-----」
「ほ~う。その友達感覚って奴は、どう解釈すれば、どつき漫才相手を作れ、となるんや~?」
愛宕絹恵は、頭を抱えた。
どうしてこうなった。
切っ掛けは、つい最近だった。まるで何処ぞの中坊が意中の子のスカートの中身を悪戯な風のおかげで見れた時の様な、何とも単細胞的なニヤケ面を晒しながら度々姉が家に帰って来た瞬間に、生理的な悪寒と違和感を感じた絹恵が姉を問い質したのだ。
その結果が、これである。
物理的な距離の代わりに、生物学的な距離が開かれているという確定的事実を、この阿呆な姉には理解できていないらしい。今年入って来た新入生に一目ぼれし、行動を開始した結果―――きっとその男の子からは一人の女から、喧しくとも面白い先輩へ、遂にはもう女からかけ離れた犬の様な存在へと変わって行ってしまっているのだろう。近付くどころか、遠ざかっている。それを、理解できていないという。何とも間抜けだ。阿呆だ。
怒涛の如き説教の果て、ようやく事態の深刻さが理解出来てきたのか、青ざめた表情で涙目で絹恵に縋って来た。
「そ、そんな。絹。ウチ、どないすればええんや?」
「来世に期待や。スパッと死にぃや」
「そんな事言わんといてや――!ウチ、初恋やねん!」
「初恋は実らん言うやんか。諦めて次にいきーや。今度はプロ入りして阪神の選手狙い―や」
「いやや――!!」
いやいやと顔を横に振る姉に溜息を吐きながら、そもそもや、と前置きし。
「ウチだって恋なんかしたことないんやで。ウチに聞いてどーする」
「あ」
あ、やないわ。
「オカンにでも相談しぃや。アレでも一度は恋愛した身やろ」
「絶対嫌や!オカンにこの話聞かれたらウチ死ぬぅ!」
「―――だったら、もう死ぬしかないやん」
「いややー!死にたないー!」
「落ち着けこの阿呆。―――いいか。姉ちゃん。相手の男の子にとって、今のアンタはただの喧しく吠えとる犬や」
「犬-----」
「せめて。せめてな。アンタがまだ一人の女だって事を、相手の子に思い出させなきゃならんのや。ドゥーユーアンダスタン?」
「い、イエス。つまり、脱げってことか!?」
「ボケんな」
「すまん------」
「つまりな。アンタのその喧しいイメージはどうやったって変えられへん。だったら、ちゃんと姉ちゃんに別な顔がある事を知ってもらわなあかんねん」
「別な顔?」
「友達感覚から作れ、ってそういう事やろ。友達としての感覚と、女としての感覚と、その両方をしっかり相手に植えつけて、そのギャップに萌えさせんねん」
「おおう、成程!」
「幸い。ギャップは作れる。もうそれこそグランドキャニオン並みの落差を。けどな、今のアンタじゃ精々崖底の出っ張りにぶら下がってまた崖底へ落とすだけの帰結にしかならん。そもそもの色気も糞もアンタにはないねん!」
「うぐぅ」
「だからな、アンタは生まれ変わらなアカンねん。その絶望的な恋を成就させるには、しっかりと女にならなあかん」
うう、と愛宕洋榎は声を詰まらせる。
生まれてこの方、麻雀以外においてはザ・適当を貫いてきた女失格者である。この条件は、今までの二十年近くの時間を取り返さねばならない難題中の難題である。
しかし、しかし。
「解ったわ-----」
こう、力なく言った。
「ウチ、ちゃんと乙女になる----」
かくして、愛宕洋榎乙女化計画は発動した。
このちょっとした物語は、何処までも駄目駄目な恋のお話。