ぶっちゃけ話
「何か、付き合わせてすみません-----弘世先輩」
「気にするな----とは言わんが、まあお前もここまで頑張って来てくれた後輩だからな。こういう時くらい、付き合ってやるさ」
薄暗い空間に、無言を貫くバーテンダーを挟んだ仕切りの向こうで、金髪の男と黒髪の令嬢が座っていた。
須賀京太郎と、弘世菫である。
「ま、こうして後輩に奢ってやるというのも先輩の甲斐性の見せどころというしな。好きなだけ飲めばいい」
「あの------流石に先輩に払わせる気は-----」
「うるさい。ごちゃごちゃ言わずに飲め。今日は記憶を忘れるくらい飲みたかったんだろ?好きなだけ飲めばいい」
そうは言っても。
須賀京太郎は周囲を見渡す。
出来うる限り装飾を排除したこの空間は、静謐に満ちていた。薄暗闇に、ソファとテーブルに、カウンターのみが存在するこの場所は、されど一切の無駄を排除された空間として機能している。その雰囲気は、何処までも高級感が漂っていた。
こんな場所で我を失う程に呑めと言われても、ちょっと難しい。お任せで作ってもらったカクテルが、そこまで酒に明るくない京太郎でも明らかに普段の安酒とは別格であると一口で理解できてしまう程だから、尚更。
「まあ、色々と溜め込んだモノを吐き出すにはいい場所さ。今日に限っては遠慮はいらない。―――女にフラれた日くらい、な」
「はい------」
そう。
今日この日を以て―――須賀京太郎の恋は、一先ずの終わりを告げる事となりました。
そうして、暫し無言で二人は酒を酌み交わす。
二杯、三杯、とグラスが空けられていく内に、ポツリポツリと彼の口から言葉が放たれていく。
「------終わったなぁ」
「そうだ。終わったんだ。残念だったな」
「------結構、本気だったんだけどなぁ」
「本気でも、どうにもならんことはあるさ。それは何だって同じだ」
慰めにしては辛辣に聞こえるその声も、されど何処かふわりとした優しさがある。歯に衣着せないように見えて、けれども何故か優し気な言葉を放つその人の声に導かれるように、彼の言葉は流れるように吐き出されていく。
フラれた女はそれはもう見事な高嶺の花だった。美人で、スタイルもよくて、そして麻雀も強い。高校の時の同級生で同じ部員、そして現在は別々の大学に通う女だそうな。最初は好みの女性だと思った。しかして麻雀に打ち込む姿を見てはっきりと恋をした。けれども勇気が出せなかった。けれども―――結局はその思いを今更になって告げる事となってしまった。
なんともよくある話だ。よくある恋の始まりでよくある恋の終わりだ。
けれども、笑いはしない。
その何処にでも転がってそうな恋の諸々は、されど味わった者にしか解らぬ苦味が存在する。味わった事も無い弘世菫にも、きっとそうなのだろうなと思ってしまえる。
「しかし、本当―――今更な話だな。普通、大学で分かたれればそういう想いも萎んでいくものじゃないのか?大学じゃあ、高校とは比にならんほどの出会いもあるだろう?」
「それは―――」
言ってしまっていいものかなのか―――そう彼は逡巡したものの、意を決して言った。
「可能性があるなら、諦める理由にならないじゃないですか。―――今回、先輩見て、そう思えました」
「私?私か?」
「はい、先輩です。―――先輩、変わらないじゃないですか。マイナスからでもプラスからでも、一切表情が変わらない。焦りも驕りも無い。俺は後ろから見ているだけでしたけど、それでも伝わるものがありました。それは、俺が好きになった人と全く同じでした」
「当たり前だ、馬鹿」
そうだとも。当たり前だ。弘世菫は主将だ。主将が、諦めの姿勢を見せる訳にはいかない。例え、どんな状況であったとしても。
「もしかしたら、って思えてしまうんです。薄い可能性でも、あるんじゃないかって。それが、段々―――可能性は確かにある。その可能性を、勝手に見ないフリしているだけなんだな、って解ってきたんです」
「-------」
「あり得ない、という事はあり得ない。それはきっとどんな事だって同じなんだなって。麻雀でも、恋でも。俺は正直、麻雀関係の仕事に将来就きたくて部に所属しているバカチンですけど、それでも先輩の姿を見て何も思えない訳じゃなかった」
だから。その可能性がいざ目の前に現れてしまって。その分だけ―――萎んでいくはずだった思いに、火が付いてしまった。
「馬鹿だと笑ったって構わないっすよー」
「まあ馬鹿だな」
そう呆れたように言いながらも、続ける。
「だが笑いはしないさ」
そう。笑いはしないし、出来ない。
「別に卑下する必要はない。麻雀関係の仕事に就きたい?いい夢じゃないか。何も、部に所属する以上全員が全員プロを目指す必要もない。それにお前はマネージャーだしな。仕事に怠慢が生じているなら一喝しなければならないが、お前は手を抜いていない。真面目に、真摯に、お前はお前として麻雀に向き合っている。それを馬鹿にする権利は誰も無いはずだ」
だから、いいじゃないか。
未だ恋も知らぬ人間だが―――それでも、そこに至る過程でどれだけ苦しんだのかまで理解できない訳じゃない。
そうして、弘世菫は語れる言葉は尽きた。
仕方あるまい。彼女とて知らぬ事象に口出しは出来ない。恋も知らぬのに、これ以上恋破れた男に掛ける言葉はない。
だからこそ、このバーに連れてきたのだから。
目配せし、後は任せたとバーテンダーの老人にそれとなく伝えた。
「大変だったのですね」
しゃがれた声は、実に柔らかかった。
「その大変さが、恋というものの本質ですよ、若い人」
「苦しみが本質、ですか」
「はい。恋の本質は苦しみです。手に入れようとして、されど手に入らない、そういう欲求の狭間にある苦しみが恋というものですから。だから、重要なのは、決着をつける事です。手に入らないならば、手に入らないと自分の中で決着をつける事。それさえ済めば、後は熱病のように苦しみは引いていきます。恋とは、そういうものです」
「そうなんですね------」
「いいじゃないですか。これから貴方は新しい恋に進めます。それは決着をつけた人の、特権ですから」
「引き摺らないものなのですかね?」
「ずっと、決着がついた出来事に苦しめる程人間は器用じゃないですよ。それよりも、―――また別の何かを探した方が、よっぽど建設的でしょうから。恋の傷は恋でしか治せませんからね」
はっはっは。愉快そうな笑い声を老人は上げる。全く不快感の無い、澄み切った声だった。
「恋をすれば恋に苦しみ、その苦しみから逃げるようになれば苦しめない事にまた苦しむ事になる。人間、器用に出来ていないモノです」
「そんなもんですか」
「そんなものです」
そう言って、―――須賀京太郎は笑った。
酩酊して記憶をなくすよりも、ずっと気が楽になる時間だった。
※
そうして―――タクシーを呼び須賀京太郎を自宅に送り込んだ後、弘世菫はバーテンダーの方へ歩く。
「支払いを」
「必要ありません」
「は?」
ニコニコとバーテンは笑いながら、言葉を続ける。
「事前にこっそりと彼がクレジットカードを渡してくれておりましてね。かかった費用分だけこれで切ってくれ、と」
「あの馬鹿-----」
何を意地を張っているんだ、と頭を抱える。普通の居酒屋で飲み食いするのとは違うのだぞ、と。
「まあまあ大丈夫です。お代は今回はサービスしておきます。彼の覚悟に免じて、という事で」
「そうか。まあ、それに関しては感謝しよう」
「いい後輩ですね」
「馬鹿だがな」
「同類でしょう?」
「まあな」
はぁ、と一つ息を吐く。
「私は―――まだまだ、決着はつきそうもないからな」
「何のですか?」
「色々だ」
そう言うと、彼女もまた、重々しい扉を開けて薄暗い空間から、ネオン街へ出る。
―――空を見上げれば、満点の月があった。
いい月だな、と言いながら、彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。
―――次の大会から、お前を大将にする。
監督の言葉が、未だ耳に残っている。
「------ふん」
今まで、やったこともないポジションだ。それでも―――自分はやるしかない。
後輩だって、逃げなかったのだ。ならば自分も逃げるわけにはいかない。
だからこそ、今日の出来事を、彼の言葉を、深く胸に刻み付けよう、と思った。
―――逃げ出せない理由が、彼女は一つでも欲しかったから。
故に、今日の日を彼女は感謝する。
―――須賀、ありがとうな。
そう一つ声に出して彼女は空をもう一度眺めた。
私が似たような感じでバーでべろんべろんになった時、バーテンは侮蔑の表情でこちらを見たまま無言を貫いていました。こんな言葉を投げかけてほしかった、という恨みをここで書きました。許しておくれ。