大学二年。弘世菫が感じたのは何処までも果てしない無力感だった。
―――大学に進学し、無論彼女は麻雀部に所属した。
高卒のプロ入りは考えていなかった。きっと親が反対するであろうし、自分もまた即座にプロで通用するとは思っていなかった。
高校から大学に上がり、当然ながらレベルは上がった。
リーグは細分化され、その分だけ試合の密度が高くなっていく。牌譜研究も高校の時とは比較にならない程に進んでおり、はじめて卓に着いた時、まるで自分が丸裸になった様な気分だった。思い描く打ち筋を先回りされ直撃を食らう。強力なオカルトによって理不尽な蹂躙を受ける事もあった。
それでも、彼女は下を向く事は無かった。
直撃を食らわせる際に出ていた癖も修正し、研究されている以上に自らを研究した。自身が持つ能力以外の引き出しを増やし、彼女は何とか大学リーグでの戦いを勝ち抜いていった。
だが、彼女が大学二年へと上がった時、その時部のエースがプロ入りしいなくなった。
その年、彼女が所属する大学は低迷の一途をたどった。
長らく支え続けたエースの不在を埋め合わせる事の出来る新入部員もおらず、得点力不足が祟りチームは敗北を重ねていった。
その様を、彼女は唇を噛みしめながら見届けていた。
足掻いた。
足掻き続けた。
しかし、―――どうにもならない現実がそこにあった。
彼女のスタイルはゲームの流れをこちらに引き寄せる事は出来ても―――勝負を決定づけるだけの力は無かった。
それでも足掻く。
足掻き続けた。
なりふり構わなかった。特定選手を連続して狙い打ち他選手の牽制を仕掛けた。直撃をブラフにかけながら高得点が絡む手を作った。とにかく、とにかく―――今ここにある状況で、最大限の能力を発揮するほか、彼女には出来なかった。沈みゆく船を、それでも何とか引き上げんと。
足掻いた。足掻いて足掻いて足掻き続けた。
足掻きに足掻いて―――それが、結局全てが全て水泡に化したその瞬間を、彼女は味わわされた。
リーグ最下位への転落。
歴代記録に並ぶ連敗記録を樹立し、リーグ戦を終えた。
彼女の足掻き続けた日々は―――こうしてただひたすらに、無力感だけを残し、終わる事となった。
それからだ。全てが狂いだしたのは。
―――こんなものじゃない。こんなものじゃないはずなんだ。
そう彼女は思った。ずっとずっと、そう思っていた。
こんな所が、いていい場所なはずがない。
試合が終わる度に悲壮感が漂っていく部の雰囲気に、大会が終わった後涙すら浮かべられぬ様相の部員に、彼女はそれでも前を向き続けた。
ここでも、足掻いた。まだ出来る事はあるはずだ。こんな所で停滞できるわけがないじゃないか。まだだ、まだまだ、まだまだまだ―――前進しなければいけないはずなのだ。
ふと、彼女は周りの目を見た。
その眼は、足掻く様をどう写していたか。敬意だろうか?それとも怒りだろうか?
どれでもなかった。
ただただ―――ひたすらに、憐れみの感情だけが浮かんでいた。
その足掻く様は、―――まるで、手足が捥がれた昆虫が、それでも最後の力を振り絞っているようにでも見えたのだろうか。
その時に、理解した。
これが、心が折られるという事なんだと。
この目を見てしまった、そしてその奥を理解できてしまったこの時の感情が―――無力感なのだと。
涙は、流れなかった。
それすらも―――無力感という漆黒の渦の中に取り込まれていたのだろうから。
※
そんな時だ。そんな無力感を内に抱え込みながら、迎えた新学期。
「あ、―――先輩、弘世菫さんですか!」
そんな風に声をかけてきた新人がいた。
「俺、清澄の部員だったんです。いやあ、まさか大学でお会いできるとは思わなかったっす」
最初は、何と能天気な男だと思った。聞くところによれば、男手が足りない部の中でマネージャーを募集した所、引っ掛かったのがこの男らしい。
いやもう能天気どころじゃない。女に釣られてほいほいやって来た猿じゃなかろうか―――そんな印象を持っていた。
けれども、そうじゃなかった。
仕事は真面目だ。誰もやりたがらない負担を率先して行える人間だった。牌譜整理もデータ集めも、確かな情熱をもって手を抜かずにやっていた。
そして―――どんな状況であれど、彼はずっと明るかった。
大学で部活をやっているような連中は、基本的にプライドの塊だ。部員の大抵が高校の実績を買われ推薦を貰った口の連中がほとんどだ。そんな連中が寄り集まって連敗地獄を演じていれば、そのプライドが滅多打ちにされるに決まっている。自分達の能力を信じられず、無力感を覚え、負のスパイラルに取り込まれてしまう。
そんな中、彼はずっと明るかった。振る舞いを取り繕った空元気ではない。彼はどんな状況でも、気分を沈ませることはしなかった。
夏のリーグ戦が始まる直前の、他リーグとの練習試合でも負けが込んでいたチームの中、マネージャーだけがひたすらにずっと声を出し、周囲を気遣っていた。先輩連中のやけ酒にも根気よく付き合っていた。次第に―――チームに、明るさが戻ってきているのを、如実に感じていた。
ある日、思わず問いかけた。
「お前、よく明るくいられるな」
「え?」
「あ、いや、嫌味じゃないんだ。明るいのはいいことだ、うん。けどな、周りがああやって敗戦で死にそうな顔になっているのに、よく明るさを保っていられるな、と。ちょっと感心したんだ」
「------うーん。そうなんですかね。あんまり自分じゃあ自覚はしてないんですけど。場違いですかね?」
「いいや。よく知らん親戚の通夜みたいな微妙な雰囲気を垂れ流されるよりずっといい。ただ、本当に感心しただけさ」
「そうですかね?-----まあ、でも、俺にとっちゃ一々敗北で気分を落ち込んでもしょーがない、って感じかも解りませんね」
「うん?」
「ほら、俺清澄じゃないですか。部員少なくて、俺よりも弱い奴なんていない状況でしたから------負けるのが当たり前なんですよ。負け続けるのなんて当たり前だし、段々へっちゃらになっていきました」
「よく麻雀部を続けられたな、それで」
「そうですねぇ。よく続けられたもんですよ」
ただ、と彼は続ける。
「負け続けでも―――それでも麻雀は楽しかったですから。間近で凄い奴の凄い打ち筋を見れて。次どう打つんだろうかってワクワクしながら見れて。だから、あんまりプライドとかも気にならなかったですね」
そう言って笑う彼を見て、少し考える。
―――そう、だな。
自分は常に虎姫だった。
宮永照という神輿を担ぎ、絶対王者として君臨し続け、君臨したまま高校を終えたのが、自分だ。
だからこそ、敗北を必要以上に重く捉えていた部分は、あったのかもしれない。
勝利が当たり前であるという環境に、浸りすぎた。無論、敗北は望むべくモノではない。けれども、あの時と今は状況が違う。実力が拮抗したリーグがそこにあって、敗北は常にそこに存在しているものなのだ。常に勝ち続けられるほど、甘い世界ではない。
「成程な」
そうポツリと呟き、彼女はゆっくりと目を閉じた。
そうだ。
まだまだ―――諦めるには早いじゃないか、と。
※
それから、彼女は足掻くのを止めた。
一人で足掻いても意味がない。全員が何とか這い上がって、足並みをそろえて、一つになっていかなければならないのだ。チームが苦しい状況だからこそ―――一人がどうという問題じゃないのだから。
今自分にできる事は、敗北を受け入れていく事だ。その上でそれを受け入れ、割り切り、前進の糧にする他ない。
そんな簡単な事を、こんなちょっとした事で教わったのだ。
まだまだ―――今の時間は捨てたモノじゃない。そう彼女は思えた。
※
“―――可能性があるなら、諦める理由にならないじゃないですか。―――今回、先輩見て、そう思えました”
「ふん------」
バーからの帰り道、一つ彼女は鼻を鳴らした。
そして、
「それはこっちの台詞だ、馬鹿め」
そう言って、少しだけ笑った。
―――頭上には、まだまだ満点の月が出ていた。