選択の始まり
ゴリ、という音がしたのだ。
痛みは感じなかった。
筋繊維が断裂するのではなく伸び切り、骨がそのまま陥没する様な感覚。
肩にぽっかりと穴が空いたような、そんな喪失感。
終わりを確信したのは、その瞬間だった。
その音と、感覚が―――今まで一度たりとも経験した事ないというのに、確信してしまったのだ。
もう駄目だ。
もう無理だ。
自然と、涙が溢れてきた。周りの掛け声も審判が担架を要請する声も、聞こえない。自分の頭の中を処理する意外に、何も出来なかった。
その時に、色々な記憶が回帰していった。
アホみたいにランニングした。馬鹿みたいに腕立てした。何度もプレーで交錯して痛い目を見た。くだらないミスをしてコーチにしばかれた。
でもそれ以上に―――上手くパスを回せた。ゴールを決めた。試合に勝てた。そんな記憶もまた存在していて。
それら全てが、この一瞬で暗澹の底に放り込まれ、未来に何の価値も無い代物となってしまうという事実に―――涙が、溢れた。
悔しさではない。悔恨が生まれる隙も無い位、唐突だったから。
悲しさでもない。痛ましい思いをその瞬間に抱いたわけではない。
無論怒りでもない。誰も悪くない。そこに責任の所在は無いのだから。
ただただ、―――どうしようもない無力感だけが、そこにあっただけだ。
それが、須賀京太郎中学最後の記憶である。
失意と絶望と挫折と諦念が一斉に現実として襲いかかって来た、一瞬の出来事。その記憶が、まるで孤島に押し寄せた津波のようにそれまでの全てを洗いざらい浚っていった。
それから、彼はその波に飲まれた記憶の残滓を、そっと胸の中にしまい込んだ。
駄々をこねたくとも、この事象は誰の所為でもない。
ならば、受け入れるしかないのだ。どうしようもない運命だったのだと。
そう、思う事にした。
※
清澄高校に進学した須賀京太郎は麻雀部に所属する事になった。
理由は、何となくだ。
というより、理由なんてなんでもよかった。今となって、重い理由を掲げるだけの積み重ねなんて自分には存在しなかったのだから。
ああ、何だか可愛くてタイプの女の子がいるなぁ、でもいい。騒がしくて気が合う女友達がいるなぁ、でもいい。部員がいなくて何とか穴埋めできる人間が必要なのかぁ、でもいい。
そう。何でも良かったのだ。
何でも―――。
「-----本当に、全国まで来たんだね」
とある休日の清澄高校部室内、部室の整理をしながら感慨深げに幼馴染様はそんな事を言っていた。
まあ、そりゃあそうだろう。
こいつだって―――まさか自分がその立役者になるなんて夢にも思わなかっただろうし。
「おう。―――いやあ、まさかお前がなぁ-----」
「-----なに、その言い方」
「いや、まあ、そう思うだろ。そりゃあ。読書好きで迷子癖アリなポンコツぼっちが、並み居る化物蹴散らして全国へ―――なんて、何処の漫画だよ」
「-----だね。確かに漫画みたい」
劇的で、エキサイティングで、―――予想外。誰もが予想していなかった結末の果てに、清澄高校は全国の切符を手にした。
「ここまで来ちまったら、もう全国制覇してしまえ」
そう笑いながら、京太郎は言う。
その言葉に、―――咲もまた笑いながら、言った。
「うん。―――全国には、お姉ちゃんがいるもん。絶対に、倒す」
そこに、いつもの気弱な文学少女の面影は無かった。
強い意思。確立した覚悟。その眼と、その言葉には、それだけの強さが宿っていた。
一人にしていたら、どうしようもない子だと思った。
気弱で、ポンコツで、―――本当に、放っておけないと思っていた。
けれども、あんなに弱々しい女の子も、一夏を迎えてこれ程までに変わることもある。
「あら、二人共おはよう」
扉が開かれ、今度は竹井久が現れる。
「おはようございます、部長」
「はい、おはよう。二人共早いわね」
「京ちゃんと部室の整理をしていたんです」
「あら、悪いわね。明日は私がやっておくわよ」
「あ、いえ。部長の手を煩わせる訳にはいかないですよ」
「いいのいいの。いっつも甘えちゃってるし、時々は私だってやる時はやるんだから」
ふんふんと鼻歌を歌いながら、上機嫌に彼女は備え付けのソファに座る。
彼女も全国に出られて機嫌がいいのだろう。常に飄々と構えているこの人も、こういう部分で隙を見せてくるから油断ならない。
「須賀君も、ありがとうね」
「え」
「え、じゃないわよ。色々と負担をかけたし、大会が終わったら皆で指導してあげるから、覚悟なさい」
こちらににこりと笑いかけながら、彼女は京太郎にそう言葉をかけた。
それから、ぞくぞくと人が集まって来る。
全員が集まり、軽いミーティングを終えると、卓に付く。
全国に向けて、全員が全員更に上を目指して頑張っている。
軽い気持ちのままあの卓に座っている者は、誰もいないだろう。
その姿を、何も言わずジッと京太郎は見ていた。
※
それからの清澄の快進撃は凄まじいものであった。
団体戦においては全国優勝、個人戦では宮永咲がチャンプ、宮永照を打ち破る快挙を成し遂げた。
―――お姉ちゃんに、勝てた。
まだ、和解には至っていない。
けれども、契機は作れたのだ。
麻雀を通して、きっと―――解り合えた部分があったはずだ。
部長は最後に花を添えることが出来た。和ちゃんも、これで転校する必要もなくなった。
全てが全て、上手くいった。
手に入れたいものは、手に入れることが出来た。自分も、和も、部長も、それぞれがそれぞれが欲しかったものを―――。
「―――え?」
ある日の事だ。
麻雀部部室内。
本日の鍵閉め担当は京太郎だった。部室に忘れ物をしてしまった宮永咲は、駆け足で帰り道を戻って部室へと戻った。
そこで見た光景は―――。
ソファでうたたねをしていた京太郎に、唇を合わせていた―――竹井久の姿。
「あ------」
扉の向こうにいた咲の姿を一瞥し―――竹井久は、今まで見た事も無い程に動揺した表情を見せていた。
しかし、一瞬でその表情を変え、
「あら、咲。どうしたの?」
「あ、------いえ、忘れ物、したので」
「あ、この手提げ鞄ね。はい、どうぞ。----私も、もう出るから」
「あ、はい」
「どうせだったら、そこのねぼすけを起こしてね?それじゃあ―――」
「あ----」
彼女は、その真意も経緯も、何も話すことなく―――その場を全力で誤魔化しつつ、帰路に着いていった。
すうすうと眠りにつく京太郎は、無論何も気づいてはいないのだろう。
その上で―――ここで自分を残して早々に帰る事は何を示しているのだろうか。
「京ちゃん、起きて」
一先ず―――幼馴染の脛を蹴り上げて叩き起こす。
「いて。------ああ、寝てたのか」
京太郎は呑気に欠伸をしながら、そう言った。
―――本当に、何も気づいていないようだった。
帰り道。
自然な形で一緒に京太郎と一緒に帰る事となった宮永咲は、無言のままだった。
「おーい、どうしたー?」
「ん-----あ、ああ。いや、明日好きな作家さんの発売日だから」
そう誤魔化しながらも―――さっきの出来事を、言おうかどうか悩んでいる自分がいる。
----あそこで、京太郎を起こす役割を咲に任せたという事は、さっきの事を告げるかどうかは自分に一任したという事なのだろうか。
別に、告げる必要なんてない。
そのはずだ。
無粋だし、意味もないし、何より―――何というか、あの部長が意外にも純情なのだと知らせるのも、京太郎には勿体ないように思えるし。
だから、結局―――何も告げる事はしなかった。
その選択が正しかったかどうか、それは解らない。
―――けれども、この先々で、途方もない程の「選択」が眼前に晒される事になる事を、今はまだ知らない。
また別方向な修羅場な話を。
こっちは精神的に痛ましくなるようなお話を、と。この手のお話ははじめての試みですがちょっとだけ頑張ろうと思います。