「――くん、――きがやくーん」
聞きなれた声に俺は少しずつ意識を取り戻していく。
「おーい、比企谷くーん?」
もう少し、正確にはあと五分ほど寝かせてくれませんかね……。
期末テストのせいでいつにも増して仕事が多くて死にそうなんですよ。
総武高校に赴任してから三ヶ月。
先輩教師から仕事を回しに回され、俺のライフはもうゼロ。
なんだよ、大学時代に研修に来た時は良くしてくれたってのに。
詐欺だろ詐欺。
新人として赴任したとたん、いろいろと面倒な仕事や雑務は俺任せ、本当社会って怖い。このまま一生寝てたいまである。
今ならあの頃の平塚先生の苦労がわかるってもんだ。……あの人今何してるんだろうな。や、教師はしてるんだろうけど、結婚できたのだろうか。
と、不意に背中に柔らかい何かが押し付けられて、
「いつまでも寝てると、お姉さん、比企谷くんにキスしちゃうぞー?」
「おきます、起きますから!」
耳元でそんな甘い言葉をかけられて、机に突っ伏していた身体を即座に起こす。
「はい起きましたバッチリ起きました。なのでその……近いんで離れてもらっていいですか、雪ノ下先生」
「起きてくれるのは嬉しいんだけど、その反応は少し傷つくなぁ」
「や、普通の反応ですから……ここ学校なんですけど」
「もうみんな帰っちゃったし平気平気」
けらけらと楽しそうな陽乃さん。
一体何が平気なんですかねぇ……?
ん……? もうみんな帰った?
時計を見ると、時刻は九時を過ぎていて――
「がっつり寝てたみたいですね……」
「ホントにね。比企谷くんが起きないから私も帰れなかったんだよ?」
「や、今日戸締り俺ですし、帰れたんじゃないですか?」
「そうじゃなくて、君がぐっすり寝てるのを眺めてるのが楽しくなっちゃってね」
「そうやってからかうのやめません?」
さすがの俺も赴任してから、毎度毎度からかわれ続けていると耐性もある程度はつくわけで。
さっきは寝ぼけてたのがあって焦ったけどね?
「なーんか比企谷くんもつまんなくなっちゃったなぁ。この前まではからかうと面白い反応ばっかりしてたのに」
「俺で遊ばないでくださいよ……」
「えー。そんなつもりないんだけどなー?」
あの、目を逸らしながら言われても説得力ないんですけど。つうか完全に棒読みじゃねえか!
オモチャだって遊び続けてたらそのうち壊れるんだぞ。
遊んでるのが陽乃さんならおもちゃの壊れる速度も早いわけで。……あれ? 俺ヤバくない?
「ま、そんなことより帰ろうよ」
「ああ、はい。んじゃ俺戸締りしてくるんで、先帰っちゃっていいですよ」
陽乃さんにそう促すと、何故かむーっとむくれて不満そうにしている。
あれ? この人こんな可愛い仕草しましたっけ? なんていうか完全に一色の上位互換じゃん。ドンマイ、一色。キャラ食われたぞ。
「あのさ、比企谷くん?」
「はい、なんですか雪ノ下さん」
「私がなんでこの時間まで残ってたか、君、わかるかな?」
「えーっと……、あれですよね? 俺の寝顔みて遊んでたんですよね?」
「それもそうだけど……。はぁ、ほら、今日は何曜日?」
陽乃さんがびしっとカレンダーを指差す
つられるように俺もカレンダーに目をやる。
あー……。
「……金曜日ですね」
なるほど、陽乃さんの言いたいことはわかった。
「そ、金曜日。花金だよ? 明日は休みだよ? この意味わかるよね?」
「わかりましたわかりましたから。あんまりそうグイグイ顔を近づけるのはやめてくださいお願いします」
一言一言喋るたびにどんどん距離を詰められて。
香水の香りに鼻孔が擽られ、寝起きの頭をかき乱す。
こんなん拒否権ないんだよなぁ……。拒否するつもりも別にないが。
「そ、わかればよろしい。じゃあいこっか」
「や、だから戸締りしてからじゃないと」
「そんなの、比企谷くんがぐっすり寝てる間に済ませておいたよ」
「え、そうなんすか……。や、そのなんかすみません」
「いいのいいの、気にしないで」
そう言われても、先輩教師に雑務を押し付けてしまったようでなんだか申し訳ない。
「今日は俺が奢りますよ……」
「えー? 急にどうしたの比企谷くん」
「や、なんていうか日頃のお礼も兼ねてと言いますか。雪ノ下さんには日頃からお世話になってますし」
そうだ。俺はこの人に相当世話になっている。
正直、この人が総武高にいなかったら社会から早々にドロップアウトしてたに違いない。
だからたまには、この人に感謝の礼としてこれくらいしたほうがいいと思っただけだ。
そう、それだけのこと。他に他意はない。
「……そっか、ならお言葉に甘えちゃおっかな。ふふっ」
納得してくれたのか、陽乃さんが嬉しそうに微笑む。
そこに昔のような仮面は被ってなくて。
年上の綺麗なお姉さんの自然に溢れた笑みに不覚にも見惚れてしまう。
「そ、そうと決まったらいきましょう。すぐいきましょう」
「あっれー? もしかして照れてるのかな? ねえねえ比企谷くん」
さすがは人並み外れた観察眼の持ち主とでも言えばいいのだろうか。
図星過ぎてつらい。
しかしそこは、俺も素直に「そうです」とは言えないわけで、頑なに口を閉じる。
すると、陽乃さんが楽しそうに指で俺の頬をつついてくる。
「うりうり~。どうなの? お姉さんの素敵な笑顔にドキっとしちゃった?」
「…………」
「ねえねえ? 本当のこと言っちゃおうよ。お姉さんにドキっとしたんでしょ?」
陽乃さんのつつく回数が次第に増えていく。
我慢我慢。 陽乃さんが飽きるまで耐えろ俺。
耐えろ。
耐え……ああああああ!
「そうですよ! 雪ノ下さんの笑顔に不本意ながら見惚れてましたよ! これでいいですか!」
「そ、そう。そっか……」
陽乃さんの猛攻にヤケクソ気味に本音を吐くと、陽乃さんが髪をいじりながらそんなことを言って。
そんな、なんか少女っぽい反応をされると俺も反応に困るというか。
端的に言って可愛い。
普段は綺麗なイメージの方が強い陽乃さんだけど、なんか今日はやけに可愛さが目立つんだけど?
「も、もういきましょうよ。店なくなっちゃいますし」
「そ、そうだね。いこっか!」
微妙に気まずくなった空気を打開すべく、俺たちは高校をあとにした。
* * *
「ふー、やっとついたね」
あれからいきつけの居酒屋にやってきた俺たち。
もはや指定席になってる座敷に通され、一息つく。
温まった布巾を手にとって、顔を拭く。
「うわぁ……比企谷くん、おっさん臭いよそれ」
「や、これめちゃくちゃスッキリするんですよ」
「そういうのさ、女の子の前でしないほうがいいと思うよ。引かれるから」
「じゃあ雪ノ下さんの前でなら平気ですね――ひっ!?」
「それはどういう意味かなー?」
顔を拭いていた右手をがしっと掴まれ、笑顔を向けられる。
さっきの笑顔とは違い、陽乃さんからは殺気のような何かを感じる。
どうやら地雷を踏んでしまったようだ……。
何故女性は女の子扱いされたがるのだろうか。今度小町にでも聞いてみよう。
「な、なんでもないです。それより、注文しません? いつものでいいですか?」
「逃げるの下手だね比企谷くんは。うん、いつものでいいよ」
陽乃さんはくすくすっと笑いながら俺の問いに答える。
なんとか死刑は逃れることができたようだ。よかったよかった。
店員さんを呼び、いつものように注文する。最初は二人ともビールを頼むのが恒例だ。
注文してしばらく、お通しとビールがテーブルに置かれる。
「それじゃ、今週もお疲れ様。かんぱーい」
「うっす」
お互いジョッキを片手に持ち、こつんと合わせてからグイグイっとビールを飲んでいく。
「ふー。美味しいね」
「ですね。あ、雪ノ下さん」
「ん」
割り箸を取ってもらい、お通しを軽く摘み、ビールを一口。
仕事終わりの酒ってホント美味いのなぁ。
「あ、そうそう比企谷くん」
「なんですか?」
「夏休み中にある小学生の林間学校の件、私もついていくから」
「えっ?」
「比企谷くんばっかり大変だしね。どうせ私、そのころ暇してるし」
「や、それはありがたいですけど……いいんですか?」
「ん、可愛い後輩が苦労してるのにほっとけないでしょ? 今日だって疲れてダウンしてたのに」
「そうですけど……なんでそこまでしてくれるんですか?」
ふと、気になっていた疑問を投げかける。
優しくしてもらえるのはありがたいが、されてばっかりでは申し訳なくて。
「んー、君って昔からほっとけないじゃない? それに……ううん、それはまだいいや」
「?」
「比企谷くんは気にしなくていいってことだよ」
「はぁ」
「私が好きでやってることだからね。それに、私、今楽しいんだ」
「楽しい、ですか……?」
「そ、学校で比企谷くんと一緒に働いて、こうして仕事終わりに一緒にご飯食べて。比企谷くんはどう? 私と一緒じゃつまんない?」
「や、それは――」
……そんなことはない。
確かに、総武高に赴任してからの日々は中々ハードモードだが、仕事にやり甲斐を感じるし。
こうして陽乃さんと仕事終わりに飲んだりするのはなんというか……落ち着くというか、好きだ。
あれ……俺もしかして……?
「まぁ俺もわりと気に入ってます……」
「そっかそっか。なら良かった」
「お待たせしました、こちら焼き鳥の盛り合わせと、厚焼き卵になります」
すこししんみりとした空気の中、注文したものを店員さんが運んできてくれた。
陽乃さんはここの厚焼き卵が大好きなのだ。
「うん、美味しそう。それじゃいただきまーす」
ぱくっと一口食べると、
「ん~、おいひぃ」
頬に手を当てて幸せそうにする陽乃さんを見て俺も自然と笑みがこぼれた。
* * *
明日が休みだということをいいことに、散々飲んだ陽乃さんと俺。
伝票を見ると結構な金額になっていて。
うん、今月はカップ麺生活だな。
「雪ノ下さん、帰りますよ」
「…………」
会計を済ませ、座敷で休んでいる陽乃さんに声をかける。なお反応はない模様。
珍しいなこの人さんが酔うなんて。
「雪ノ下さん? 起きてください。帰りますよ?」
「う、うーん……」
これ完全に潰れちゃってるな……。
「お、起きないとキスしちゃいますよ……?」
……何言ってんだ俺。あれだ。これは酒のせいだわ。やだ、お酒って怖い。
「…………してもいいよ」
「――っ!?」
目を閉じたまま、顔をこちらに向ける。
えっとちょっと待ってヤバイ今の状況何?
これ陽乃さん起きてんの? それともただ寝ぼけてるとか? ……わっかんねえよ!
「お客さん大丈夫ですかー?」
「あ、だ、大丈夫です」
心配してくれたのか店員さんが声をかけてくれる。
その声でようやく陽乃さんも目を開けて、ボソッと何か呟いた気がした。
「ほら、帰りますよ」
「うん……」
店を出ると、陽乃さんがトンと肩に寄りかかってきて。
「比企谷くん、おんぶして」
「や、え……?」
急に甘えた声でおんぶを要求する陽乃さんに困惑する。
確かに、この人の家までそう遠くないし、おんぶできない距離ではないけれど。
金曜日の夜というのもあり、街にはまだたくさんの人がいて。
「えっと、タクシー呼びましょうか……?」
「やだ。おんぶがいい……だめ?」
「…………」
耳元でそんな破壊力あることを言われてしまえば、俺の理性に限界がきそうになっちゃうんですけど……。
なんでこの人、こんな可愛いんだよ……!
「わかりました……」
「ん、ありがと……」
結局俺は、陽乃さんの頼みを断れずに了承する。
ゆっくりしゃがむと陽乃さんが背中に自分の身体を預けてきて、彼女の豊満な胸が俺の背中に押し付けられる。
女性をおんぶすると起こりうるイベントだが、自分で体験するとこんなにも生々しいのか。
やばい、理性ぶっ飛びそう……。
「じゃ、いきますからね……」
最後の抵抗として頭の中で素数を数えながら歩いていく。
しばらく歩いてると、耳元で「スースー」という寝息が聞こえてくる。
振り返ると、陽乃さんが幸せそうに寝ていて――
「まぁこういうのもたまにはいいか……」
「…………比企谷くん……」
「あ、起こしちゃいましたか?」
「…………」
なんだ寝言か……。自分の名前が呼ばれただけに、どんな夢をみているのだろうかと気になってしまう。
「――好き」
「え……?」
陽乃さんからつぶやかれた言葉。『好き』と。これが何に対してなのか。なんとなくだけれど、わかってしまう俺がいて。
「……俺も好きですよ」
気づけばそう言っていた。
「…………」
それから陽乃さんが寝言を言うことはなくて。
陽乃さんの言葉が寝言なのか起きてるのか、今はわからない。
それは彼女が起きてから聞いてみることにしよう。
そんなことを考えながら家路についた。