マクロスAG 第一話「生きるということ」
「…バトル“ヴァルキュリア”、こちらは第6機動艦隊群所属ブレイブ小隊…部隊コード12006402、哨戒任務終了につき着艦の許可を願う。」
「こちらヴァルキュリアコントロール、ブレイブ小隊…IFFを確認した。着艦を許可する。本艦左舷グアンタナモ第2ゲート使用されたし。繰り返す、左舷グアンタナモ第2ゲートを使用せよ。誘導ラインはフルオープン。」
「よし…。」
管制の返答に一息息をついた。
身体が非常に重く、だるい。軽いはずのパイロットスーツでさえ、身体に纏わりつき水を吸った衣服のように何とも言えない気持ち悪さを感じさせた。
「早く戻って熱いシャワーでも浴びたい…。」
気持ちが急いていた。
操縦桿を握る手は少し震えているように感じる。いや、痙攣という方が近いのかもしれない。
正直なところ、今回はただの哨戒任務だった…敵と会敵したわけでもなく、これが初任務というわけでもない。それなのに、それなのに手が痙攣するほどに、操縦桿を握る手はずっと力が入っていた。
「あら、ブレイブ・ワン、私もずっと警戒勤務中なの。その気持ちはよく分かるわ。着艦したらゆっくりと熱いシャワーを浴びてね。」
俺の独り言が無線でつながったままになった相手へと流れてしまったらしい。多少、心の内を聞かれてしまったことへの気恥ずかしさを感じた。このむず痒いような感覚を残しつつ、彼女の言葉で先ほどの憂鬱な気分は少し和らぎ、少しはマシなトーンで返答ができた。
「あぁ、ありがとうございます。すいません、なんか愚痴みたいで。」
「いいのいいの。今回の任務、いい気分な人なんてそうそういないでしょ。」
彼女は努めて明るく、そして励ますような感じさえした。
「そうですね、ほんとに…」
嫌ですね…と続けようとしたその時だ。
無線の向こう側で警報が鳴り響いた。
心臓が跳ね上がる。目が見開き、目の縁に痛みが走った。
「…何?警報?…ちょっとまって!」
無線の向こう側は警報と同時に騒々しくなる。何人もの話し声、大声が警報と交じりあい先ほどまでの明瞭な音は聞こえなくなり、ノイズのように耳障りなものへと変貌していく。
「…レーダーに感あり!これは…ヴァルキリー!?数は…およそ2個小隊が接近中!IFF及び機種を照合中っ!ブレイブ・ワン、ブレイブ・ワン!着艦中止!着艦中止っ!ブレイブ小隊に迎撃要請!燃料は問題ないか!?」
大声というより叫び声。無線に早口で、粗暴ともいえる口調で言葉が放たれる。
「…っ!問題ないっ!ブレイブ小隊迎撃する…不明機の迎撃ポイントを知らせっ!」
言い終わるかどうかの時にはもうすでに操縦桿は引き起こされ、スロットルレバーは全開に押し込んでいる。コクピット内にエンジンの回転音が呻り、機体の振動が自身の鼓動と共に大きくなる。
「ブレイブ小隊、迎撃ポイントは02-パープルK233、繰り返す、02-パープルK233が迎撃ポイントっ!本艦右舷斜め後方ですっ!」
「了解した!ブレイブ小隊全機、フォーメーション2-A!」
「スクランブル!スクランブルっ!不明機が本艦に接近中っ!イーグル小隊、ゼブラ小隊緊急発艦準備継続中!各機発艦急げっ!護衛艦は何をしている!」
無線からはずっと差し迫った声が漏れる。それだけで気持ちは焦り、身体に力が入った。
機体はフルスロットルでバトル“ヴァルキュリア”の左舷から下方に回り込み、右舷後方に出る。姿勢を制御するためにエルロンを右へ、加えて操縦桿を捻ってバレルロール。回転する景色に星の光と人工の光が交じり合い、視界の端で線を引いて流れていく。一回転…機体は止まり、視界がはっきりと不明機のヴァルキリーを捉えた。
「ブレイブ小隊へ!接近中の不明機はIFFに応答ありっ!機体名VF-31ジークフリード、第27次移民船団“エターナル”所属機と断定!繰り返す、不明機は“アメイジング・グレイス”所属機!特約交戦規定に基づき不明機を敵機とする!オールウェポンズフリーっ!撃滅せよ!」
そんな馬鹿な…とその気持ちが大きかったと思う。最初にこの任務を上官から説明を受けた時、吐き気がしたのをよく覚えている。
人類は西暦2000年代初頭異星人と接触、初めての星間戦争を経験し、種の絶滅という絶望的な危機に瀕した。これを“文化”の力で生き延びた人類は種の繁栄と保存のために未開宙域へと足を踏み出し、まだ見ぬ移住可能な惑星への移民を始めた。そこで多くの惑星を見つけ、多種多様な人類種、生命体と遭遇し再び自身の存在をかけて戦ってきた歴史がある。多種多様な生命体は人類の想像を超える形で人類へと絶望的な危機を与えたこともあった。
例えばスピリチュアという生命エネルギーを奪うもの、ネットワーク生物として存在する共有意識集合生命体などだ。
宇宙は広い。とてつもなく広い。その中で俺たちが知らないことなど山ほどあるのだ。何が俺たちに牙をむき、想像もしない形で襲い掛かってくるのかまったく想像はできない。そう言ってしまっても間違いではない。そう思う、いやそうとしか思えない。
操縦桿を握る手は力が入る。
右に、左に、上に、下に…そうやって忙しなく動かしながら、重しでも乗せられているかのように重い親指を動かした。親指はゆっくりと保護カバーを弾き、そこにある射撃ボタンを露出させる。ただそのボタンを押すだけで、目の前を飛ぶ“敵”を破壊することができる。いつもはそれを押すことに躊躇なんてしたことはない。
ただ、今回は別だ。本当に別だ。
でも…でもと自分の心に問い掛け続け、何度も何度も言い聞かせた。
敵の尻を追いかけ、Gが身体を右に左に押さえつけたとしても。
そして俺は、とうとうそのボタンへと指をかけた。
人間は、頭の中に映像を描くことができる。
それは現実に起きた記憶でも、思い描く妄想でも同様に。特に、自身が視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚と呼ばれる五感で感じたモノはより鮮明に映し出せる。ただ、それがどの感覚に頼り、どの感覚が自分にとって大きな役割を担っているかは様々である。ゆえに、同じ事柄を経験した人間が多数いたとしたら、それを頭の中に思い描いたとき、それぞれによって微妙に異なるのだ。つまり、“感じ方”が違うのである。
では、妄想はどうか。
まぁ、簡単に想像がつくと思うがこれも同様であり、人それぞれ異なる。なぜなら、妄想はその人が経験した事のある内容が強く反映されるからだ。経験とは実際に感じた事だけではなく、他人が経験した事柄を聞く、見るというような行動からも得ることはできる。これも“感じ方”によって差異はもちろんある。
つまり、記憶、妄想はすべてが人それぞれで独立しており、完全に共有されることはない。
脳内で映像を思い描くとき、それは何をしている時だろうか。
たぶんに思いつくのは、何かを思い出そうとしているときではないか、何かをその記憶の海から得ようとしている時ではないか。それが経験した記憶でも、何かを思い描く妄想でも。
単純にその事柄だけを捉えた場合、同じ生命体であるにも関わらず、これだけに差異が起きることは一体どれだけ不都合があるのか、と考えたくもなる。事象を見れば単一な内容でも、捉える側の生命体が多様な内容として解釈してしまうのだから。
これが所謂、“感情”を産む。そして、それは感性としてその生命体一個一個に育まれる。
同じ生命体でありながら、差異を含み、それを個体として認める。集合体でありながら、個を見出し、その個を重要視する。その矛盾が一種の生命体を昇華させるのかもしれない。
では、その矛盾を解消し、差異を共有した上で統合した場合、それは生命の昇華とはならないのか。それは衰退、現状の維持と成りうるのか、それはどちらなのか。
それを見出す答えは残念ながら、今の私たちにはない。
解を求める計算式すらも見当がつかない。それが現実だ。
一部抜粋 《 『感じる』 著 ジェームズ・セルゲイ 》
金属を通して“それ”を見る。
円の中に見える中心に“それ”を合わせ、指に力を籠めた。一瞬の閃光と、衝撃が肩を打ち付けた。小さな破裂の音と金属が弾き出されるような高い音が耳に突き刺さる。鼻につく煙のような匂い、そして一瞬の熱が顔に降りかかる。
“それ”は赤い液体を吹き出し、糸が切れた人形のように倒れこむ。ただ、それが人形と違うのは倒れた後も痙攣のようにピクピクと動いてることではないか。それが何かに縋るように、何かに抵抗するようにも見える。
俺はそれを何度も何度も繰り返す。何度でも、何度でも。
「…アカツキ?」
遠慮がちな声、擦れるほどではないにしろ小さな声、そんな声で思考を現実に呼び戻される。別に不快ではない、ただ気持ちが乗らない。
「…何?」
その返事はぶっきらぼうだと良く言われる。別にそんなつもりはないけれど、他の人からはそう感じるらしい。
「や、ちょっと話をしたくてさ。おまえ疲れてない?」
こいつは割とそういう事も気にしない。だから、話をしていても割と億劫にはならない。それでも、ただ淡々と答える。
「別に…そうでもないよ。」
「そうでもないよって、そうは見えないから聞いたんだけどさ。」
ため息が聞こえてきそうな嘆息気味の声。だけどため息はつかない。
「まぁおまえがさ、本当に疲れてたって言わないだろうなってのは短い付き合いだけど何となくわかる…気がする。」
心配しているような声。ただ呆れも含まれているだろうか。
「この前の時もさ、お前ずっと前で戦ってただろ?何ていうか、無心のままにっていうかさ。皆は泣いてたり、怖がってたりするのに。それでもお前はずっと撃ち続けてんだもん、何かあるのかと思うさ。」
「…。」
何て答えればいいのか、そういう沈黙。または黙秘。それをこいつは肯定と取ったのか、まぁいいさと自分で納得させたように言い、立ち上がる。そして、少しばかり声のトーンを落としてこう言った。
「俺たちさ、どうなるのかわかんねぇけど“生きようぜ”。最後まで足掻いて、足掻いて。」
「ま、そうだな。」
何となくこの言葉には応えないといけない気がした。だから短くても声に出した。
自分たちが巻き込まれたこの状況、そうならざる負えなかったあの状況…その中でどうにかするには“生きる”ことしかない。失くしたもの、手に入らなかったもの、そういったものを全部チャラにするにはそうしていくしかないのかもしれない。諦めてしまうことは簡単で、とても優美な匂いがするけれども、きっとそれは後悔するのだろう。泣いて叫んで苦しんで悔しがる…そう思えてしまう。それ程までに俺らは若かったし、幼かった。
俺らはどこに向かうのだろう。どうなれば正解で、どうすれば幸せなのだろうか。そんな疑問が付き纏うのに、誰も今はそこに触れたくはなかった。触れられなかった。
ただ、“今”をどうするか。それだけがすべてだった。
意識が深い記憶から呼び戻されたのは、けたたましく叫ぶサイレンだった。
赤色灯が点滅を繰り返し、そのサイレンを憎ましいものに見せつける。
「ッ!アカツキ!」
「わかってる。また来たのかも。」
努めて、落ち着いた声で彼に答えた。
「ったく!今日何回目だよっ!」
小さく舌打ち。それと同時に彼は盛大な悪態をついて見せた。まぁ、俺自身もそれには同意。
サイレンが施設中に響き渡り、周りがざわつき騒ぎ始める。叫び声が周りで聞こえ、激しく地面をたたく音が聞こえた。皆、このサイレンの意味を理解している。
そう…
「敵が来た。アカツキ、迎え撃つぞ!」
ぐっと何かを呑み込んだような声を彼は押し出し、俺に手を伸ばした。この手はスタートの合図、地獄へと踏み込む狼煙、突撃を現す信号弾、それらにまったく相違ない。でも、その手を取るしかない。いつものように、今までそうしてきたように。
だから、俺はその手を握りしめた。そして、地面を踏み締めて走り出したんだ。
いつまで続くのか分からないこの道を、彼と一緒に。
激しい爆発音、濛々と昇る煙がこの場を支配していた。硝煙の独特な匂いが鼻についた。割と長い間嗅いできたとはいえ、まだ慣れる気はしない。壁に背を預け、身をかがめる俺の頭上を鉄の塊が飛び交っている。
「それで?この状況どうする?」
激しい爆発と跳弾の音、そんな中で落ち着いた声で問い掛けられた。こいつ本当に頭おかしいんじゃないかと時々思ってしまう。何を呑気に、と。
「とにかく、敵の前衛とあの小銃をどうにかしないと突破できない!」
爆発と射撃音で普通の会話すらままならない状況の中だ、俺は叫ぶように答える。そいつはそれを聞いて何かを考え込む。ただ、それは一瞬の間。考え込んだと思った矢先、銃身を手で撫でた。何かを込めるように、何かを祈るように。ああ、たまにそんなことをしているなと思考を外した時、その次に思考を呼び戻したのはそいつが今まさに敵の銃弾から身を隠していた壁から身を乗り出そうとしていた。一瞬何が起きたのか理解していない、それでも身体は常識を把握していたのか、咄嗟にそいつの身体をつかんでいた。
「アカツキ、何してんだよっ!死ぬ気かっ!」
これでもかと叫んだ。敵の銃弾が飛び交う真正面に身体をさらけ出す奴がどこにいる。自殺願望者か狂人のそれしかありえない。ただ、こいつはそうじゃないとわかるのだが。
「何するんだ…?」
心底不思議そうに聞いてくるから、こっちがおかしいのかと思ってしまう。でも間違ってない、そう決して間違ってはいないはず。
「何が…じゃない!死ぬ気かって聞いてるんだよ!」
何度目かわからない叫び。
「大丈夫、別に問題ないよ。」
アカツキは平然と答えた。
「大丈夫ってお前さ、あんな中で何をする気だ!?」
「ん?だってさっき、敵の前衛と小銃をどうにかしないとって言っただろう?」
カナンは不思議だと言わんばかりの顔で俺に問いかけ、俺の答え待たずに“だから”と続けた。
「潰してくる。」
そう言うと、止める間もなくもう一度飛び出していった。ずっしりと重いはずのアサルトライフルを抱えているにも関わらず、飛ぶように跳ねるように走りぬけていく。それを見ながら俺は思う、こいつが人間に見えないのは何時からだろう。同い年に見えないのはいつからだろう。
この状況になる前に一度だけ、カナンを見たことがある。“アイランド・ワン”にある新統合軍の基地に郊外学習で行った時だった。特に目立ったことはなく、記憶は曖昧だった程だ。ただ、一つ思い出せると言えばヴァルキリーを熱心に見ていたことぐらいか。別に珍しいことではないと思うんだ。男の子は誰しも機械という名のカラクリは大好きだし、戦闘機というものに憧れ、統合戦争で活躍したスカル小隊やマクロス7のファイヤーボンバー、バジュラ戦役でのSMS、どれをとってもヴァルキリーというモノにかっこよさを感じているというのが少年心だろう。でも、あいつは、アカツキがヴァルキリーを見る目は違って見えたんだ。その時からあいつは何かが俺たちとは違うと感じさせていたと思う。
アカツキは飛び交う銃弾の中を踊るように、飛び交わすようにすり抜けていく。一歩踏み込む度に地面を踏みつけ、空中に踊り出した。身体を空中で捻り、重力を感じさせない動きで相手に近づいていく。何歩目か分からない踏み出した足を地面に叩きつけた刹那、身体を沈み込ませてアサルトライフを構えた。その大きくもない身体が縮こまったように固めた一瞬、短い爆発音が連続で鳴り響き、アサルトライフルから鉄の塊を撃ち出した。
俺が血と硝煙の匂いを感じた時には、アカツキはすでに身体を前に屈めて走り出している。流れるように、淀みなく。
そう、あいつには躊躇なんてものはないとしか思えない。
だから、あいつ以外の人間には命知らずとしか思えないんだ。
このクソみたいな世界で、あいつだけが何にも変えようもなく順応しているんだと思い知らされる。
「クソっ!今だ!みんな行くぞっ!」
今日何度目か分からない悪態をついてから、俺たちも走り出した。手に持つ銃を前に構えて、目に映る敵という敵に撃ちつけながら。
あぁ、くそだ。本当に、クソだ。
本当に、この世界はクソだ。
人はみんな、毎日同じことを繰り返しているとは思わないだろうか。
もちろん微妙なところでは多少差異はあるだろうけど、ほとんど同じだと思う。
そして時間は有限だと良く言うけれど、誰しもがそれを理解しているにも関わらず、毎日同じことを繰り返している。
「刺激がない」、「面白いことがない」、そんなことを言いながら。
俺もそんな一人だった。
朝起きて、学校に行き、部活をこなし、家に帰る。
毎日がこれだ。
何かが変わる?…いや、変わらない。本当に毎日同じことを繰り返している。壊れたテープが永遠に同じ箇所を再生しているかのように。
だから、何か刺激が欲しかった。何か面白いことが起きないかと願っていた。
でも、結局みんなそうだと思うけれど、実際にいつもの世界が壊れたとしたら…きっと前のほうが良かった…そう思うんだろう?
あんなに退屈で、あんなに惰性な生活が良かったって感じるんだよ…きっと。
快晴。
突き抜けるほどの青い空とそれにコントラストのように浮かぶ雲。暖かな光を届けてくれる太陽。もうこれだけでいつもと何も変わらない。
そんな春のような陽気の中をぐだぐだと歩いていた。周りは同じく学校に行くのだろう制服に身を包む学生や、スーツを着て眠い目を擦るサラリーマンがちらほらと見えた。そんなに大きな通りでもないから人通りはそんなに多くはない。いつもと同じ光景、同じ時間、同じ人たち。
「あぁ、面白くないな。」
ため息をつきながら、そんなことを呟いた。天気のように晴れ晴れとしない気持ちの中でも仕方がない、歩くのだけはやめていない。
“皆さま、おはようございます。我らが第27次新マクロス級超長距離移民船団「エターナル」は、西暦2070年10月21日の朝を迎えました。ただ今、銀河系外円部を航行中です。本日は政府から次回の超長距離フォールドの計画が発表となります。累計6回目となる超長距離フォールドは…”
いつもの通学路を学校に向かう中、大きな通りに出たところでビルの大きなスクリーンに映る美人のニュースキャスターは、毎朝恒例の挨拶を誰に聞かせるともなく、慣れた口調で元気に語りかけていた。
“さて、本船団と同航路を取る第28次超長距離移民船団「ウォーカー」政府発表によりますと、精神統合共感覚システム…通称「ヒム」の開発が臨床実験段階に進んだと発表しており、新統合政府と共同でこの実験に従事することを…”
信号が青に変わるまでの数分、こちらの憂鬱な気持ちを汲み取ることもなくキャスターは淀みなく軽快にニュースを読み続けている。
こんな時は占いでもやって、こちらの気分を多少なりとも紛らわしてくれないか。そんな理不尽な要求をスクリーンの向こうにいる美人キャスターに向けていた。
信号が青に変わる。
重く、煩わしい足を前に踏み出した。
「ふぅ…。」
自然とため息が出る。
学校へと向かう道、数十分の通学路、これだけで今日一日が予想できてしまう。
「おーい、ユウ!」
快活。その一言に尽きる声が背から聞こえてきた。振り向かなくとも誰が声をかけてきているのか分かる。まぁ、間違いなくこの憂鬱な気持ちを晴らしてくれるものではない。ただ、その声を無視するのも忍びない。だから、俺は振り向いて声に答えることにした。
「あぁ、アントンか、おはよ。」
「おう、おはよ!なんだ朝からしけてんな!」
俺の気持ちなど一つも汲み取らない彼は、表情だけは読み取るらしい。
「そうでもないさ。俺、朝は低血圧なんだ。」
嘘ではない。それっぽいように首を捻り、気怠そうに見せる。悪癖でもあるが、これでよく他人から“いつもだるそうだ”と高評価を頂いている。しかし、アントンは何も気にしていないというように肩を竦めてみせてから、話を続ける。
「それよりさ、新曲聞いたか!」
「ん?なんの?」
と、ここで盛大にため息をつかれた。
「何っておまえ。さては非国民だな!」
これは流行りのジョークである。彼の中で。
「はぁ…わかってるよ、ミファー・ソルトの新曲だろう?」
「そう!めっちゃ可愛いよなぁー、ミファーちゃん!」
光悦と、悶えるように身体をクネクネと捩る。こいつはあのアイドルの顔が好きなのか、歌が好きなのか、俺の中ではずっと謎である。本人に聞いたこともあるが…“おまえ、そんな質問は真のファンにとって邪道だぜ”…という俺の理解が及ばない答えが返ってきたので、もう諦めている。
「新曲“パラレル・アフター”のさ、あの衣装と表情…もう最高だよ。」
…前言撤回。
「まぁ、確かにかわいいし、歌もいいかな。」
「だろう?あれでまだ俺たちと同い年なんだぜ?しかも、学校はチャーチル・ウエストンだ。名門女子高っ!最高だろう!」
何がだ…。
そんな他愛もない会話が続く。
ふと、交差点に通りかかった時、軽快な音楽が耳に入ってきた。多調なリズムの中に聞き心地のよいドラム、クラッシックのように流れる優美なピアノと金属楽器、そして琴のように響く歌声、その音楽を構成する全てが聞く者の心に深く深く浸透していく。
「これだよ、これ!」
興奮したように隣が叫んでいる。
「かぁー!かわいい!」
ほんと、真のファンは“これだよ、これ”。
「でも、ウォーカーのユリア・アナタトも捨てがたい!」
もう、何度でもいいよ。
アントンはいいやつだが、熱狂的になりすぎるところが面倒だ。
人類は“歌”という“文化”で生き残ってきた事は歴史で学んでいる。だからこそ、この時代…アイドル、歌手といった類で名が売れるほどになるにはそうとう狭き門だとアントンが言っていた。エターナルのミファーやウォーカーのユリアという彼女たちも相当努力しているんだろうとは思う。ただ、何となく俺たちのように何も刺激がない世界とは別次元の存在で、その世界で住む住人という事に羨望とちょっとした嫉妬を感じた事がある。
確かに、歌やルックスで好意的ではあるがあんまりいい感情を持っていないのも事実だった。こんな事をただの一般人の俺が言うのは変な話だが、アントンのように熱狂的なファンが傍にいるにも関わらず、俺が熱狂しない理由はそこにあった。
「ほら、学校に着いたぞ…アントン?」
意識を思考の海から戻してアントンに問いかけた。だが、アントンは前を見たまま惚けて固まっていた。俺の言葉は聞こえていないのか、何の反応もなくただ前を見つめている。
「アントン…?」
「おい、アントン!?」
何度か問いかけても反応がないことに業を煮やした俺は、何だと不思議に思いながら前に眼を向けた。そこにはいつもはない人だかりが出来ていた。それだけではなく、黄色い声と言えるような高い声や叫び声が飛び交っていた。
「何だ…?」
人だかりのほとんどは俺の同級生達だったが、所々に黒いスーツに身を包んだ明らかにSPと言えそうな連中も混ざっている。
「ユウ…あれ、ユリアだ…。」
アントンが俺の服を掴みながらそう呟いた。
「ユリア?エヴァの?」
何を言い出したのか、と正直困惑した。有名人がこんなとこにいるはずがない。そもそも何で来る理由があるのか。熱狂的過ぎて幻覚でも見えるようになったのかと本気で心配になった。ただ、いつもと違う光景が目の前にあるのは現実だ。
アントンは首が千切れるんじゃないかと言うような速さで俺の方に向き直り、叫びに近い大声で叫ぶ。
「ユリアだよっ!間違いないっ!嘘だろ…まじかよ!」
そう言い残して彼は人だかりに向かって走り出した。
「おいおい…。」
呆れというより驚き。嘆息というより深呼吸。友人のキチガイな行動に俺はとうとう疲れた。それでも、視線はその人だかりから離せてはいない。どことなく、俺自身も何かに期待していたのかもしれない。いつもの日常とは違う刺激を。
そしてそこで俺は、日常の中に突如として現れた非日常に心臓を高鳴らせることになった。
人だかりの垣間から見えたのは光り輝くような金髪、風になびき流れるように揺れる長髪。すらっとしたスタイルに、大人びた整った顔だった。
「あ…ほんとだ。」
それを呟いたのと同時に、彼女はこちらを見たような気がした。一瞬だ、そうだと思っただけで違うかもしれない。ただ、彼女は俺に向かって笑ったように見えた。
垣間見えたその笑顔はスポットライトが当てられているのかのように光り輝いていた。
眩しく、神々しく、それを構成する全てのものが彼女を祝福しているかのように。
これが…全ての始まり
そして、全ての終わり。
日常は非日常へと変貌し、生きていた者は死に、死んでいた者が目を覚ました。
そう、神は死んだ。
与えられるべき“恩寵”は消失し、鳴らされるべき“福音”は遠く消え去った。
ここで生き残るのは“人の意思”、“人の意地”だ。
与えられたものじゃない。
俺たちが作り出したものだ。
ありがとうございました。