地噴の帯び手   作:観光

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 抱きしめたまま蹴ったら、反動が奥さんにもいくだろ常考。って考えは不思議パワーでなんとかしたんだってことで。



1-3/3 「憤怒」

 

 

 

 

 

 

 フレイムヘイズとはなにか?

 簡潔に述べるのならば『紅世の王に器を捧げた人間』である。

 

 だが、これだけでフレイムヘイズのすべてを理解するのは一を知って十を知る天才といえど至難の技であることは間違いない。

 そもそも器を捧げるということを断片的な情報すら無いままに理解するのは難しい。器を捧げる、という言葉がすでに比喩表現なのだ。酒の注がれた酒器を祭壇に置くのとはわけが違う。

 ならば器とはなんなのか。――それは自らがこの世界にもつ自分の存在の領土だ。

 

 例えばある国が存在するとしよう。もちろん国と言うからには領土がなければいけない。領土があるからこそ国として存在できる。

 だがもしこの領土がなければどうなるだろうか。

 住んでいた人はいる。

 主権もあった。

 だが領土がない。ならばその国は周囲に国として認められるのか。未来に国としての存在はあるのか。

 ――無い。領土の無い国は国ではない。あやふやでいつかは消えるもやのようなものだ。

 そしてこの例えにおける国こそが人なのだ。

 

 つまり、器を捧げるということは自分の領土を他者――契約者へ譲り渡すことであり、それがフレイムヘイズになるということなのだ。

 この世界の領土のないものに、この世界の理は適用されない。現代風にいうのなら国連の決めたルールに火星人が従う義理はないということだ。

 ゆえに、世界の共通の理たる時間はフレイムヘイズに流れない。

 時間が流れないということは肉体的変化が無くなるということだ。

 変化が無くなった肉体は成長もせず、老いることもない。それが――フレイムヘイズ。

 

 繰り返そう。

 フレイムヘイズに肉体的変化はない。

 

「ゆえにフレイムヘイズが子供を産むことは不可能だ」

 

 静謐な社の最奥で地壌(ちじょう)(かく)の契約者・クズキの声が反響する。それを聞く穂乃美は顔向きを下にし、表情を伺うことはできない。

 しかし両肩を落とした彼女の姿から負の感情が渦巻いていることは容易く察せた。彼女の左耳につけられた勾玉から森のそよ風のように優しげな剥追(はくはく)(ひょう)の慰めが穂乃美にかけられる。

 

 最上の喜びから一転してどん底までたたき落とされてしまった穂乃美に何か言わなければならないとわかっている。ただ何と言えばいいか分からず、クズキは唇を噛み締めた。

 口の中に溜まる唾を飲み込む程度の時間の後、俯いていた穂乃美が顔を上げる。

 涙に濡れ、研磨された鉄のような色の瞳は悲しみに揺れていた。

 

「もう……け……あり……ん……もう……け、ありません……申し訳、ありませんっ……私の、私のせいで……」

「いや、いいんだ」

 

 クズキは穂乃美の手を強く握る。

 

「ですが……私の、私のせいで子供が……」

「いいんだ」

「子供が、子供が生まれな――」

「――いいんだ、穂乃美」

 

 嗚咽を漏らす穂乃美の肩を抱き寄せ、赤子をあやすように彼女の頭を撫でる。優しく、何度も何度も穂乃美の髪を梳いてやると次第に彼女の震えも収まっていった。

 お互いの間に子供を熱心に欲しがっていた穂乃美にとって、この宣告は辛いだろう。クズキは彼女が少しでも穏やかに、癒されるように、気持ちを言葉に表す。

 

「お前がいてくれれば、それで。俺はそれでいいんだ」

 

 これから永遠に近い時間を共にする半身に自分の気持ちが少しでも伝わればいい。自分には彼女がいてくれればそれでいいんだ、とクズキは自分の本音をさらけ出した。

 

 

 だがしかし。

 伝わるからこそ、傷つけてしまう時がある。

 

 

 クズキは現代人だ。現代に生まれ、現代で育った。いかに時を飛ばされて激動の時代を過ごそうとも、根っこには現代で育まれた土壌が存在している。

 しかし穂乃美は違う。彼女は古き時代に生まれ、古き時代に育った女だ。クズキとは基盤が違う。土壌が違う。同じ人の姿をしていても、決して同じではない。

 二つの時代には明確な考え方の差があるのだ。

 今までそれが問題にならなかったわけではない。しかし物のように明確でないそれをクズキは今までなんとなくで解決していた。

 だからこそクズキは本当の意味でそれを理解していなかった。

 

 突然の衝撃。誰かに押されたようにクズキと穂乃美の距離が開いた。

 一体なにが?

 状況を理解できないクズキの視界には、呆然と自分の手を見る穂乃美がいた。それを見て穂乃美がクズキを押したのはすぐに理解できた。しかしその事実にクズキは顔を青くした。

 穂乃美は巫女だ。彼女はいつだって自分を巫女たらんとし、これまで一度だってクズキに直接的な力をふるったことなどない。

 なのに彼女はそうした。

 それはつまり、彼女が自分を律することを忘れるほどに、苦しんでいるということではないのだろうか。

 

 我に返って慌てて彼女の名前を呼ぼうと口を開いたクズキだが、彼の言葉よりも早く穂乃美は立ちあがり、クズキと視線を合わせ、言った。

 

「――子を、産めぬ女に。いったいどんな価値がありましょう――?」

 

 それは彼女を引きとめようとしたクズキの動きを止め、思考すら真っ白にする衝撃だった。

 穂乃美はその思考の空白の間に野兎のような速さで社から走り去る。

 咄嗟のことに追いかけられないクズキの元に残ったもの。それは彼女のいた場所に残る涙の染みと、彼女の言葉の二つのみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地噴の帯び手1-3

 

 

 

 

 

 

 

 

 社を飛び出し、村の外へと出て、森の中に入っても穂乃美は走り続けた。

 左耳にゆれる勾玉からは何度も”剥追(はくはく)(ひょう)”の静止の声が聞こえたが、穂乃美は止まれなかった。

 ようやくある程度操れるようになった『存在の力』で強化した肉体を全力で操作し、弓矢のように穂乃美は大地を駆けた。少しでも社から遠ざかりたかったのだ。より正確には……仕える神クズキ・ホズミの傍から。

 

「――このぉッ! いい加減に――――止まれェええええッッ!!」

 

 一心不乱に走る穂乃美の耳に、もはや衝撃と何ら変わらない声が轟く。今だ残る動物としての本能か、穂乃美の体が一瞬緊張し、足をもつれさせた。速度に乗った体は慣性に従い、穂乃美の体を一間ばかりの距離転がす。

 いつの間にか近隣の草原まで来ていたようだ。転んだ痛みはなく、仰向けになって空を見上げることになった。

 

「……う、うぁ」

 

 周囲に人はない。ただ太陽が穂乃美を照らすだけだ。

 空の青は吸い込むようで、眼前に広がる空の広さは開放感を湧きあがらせ、自然と穂乃美の自制心を緩めていく。

 

「うあ、ああ、ああぁぁぁぁぁ!」

 

 緩められた口元から溢れたのは後悔の絶叫。

 緩められた眼元から溢れたのは悲しみの涙。

 穂乃美は今。醜聞もなく責務も忘れ、子供のように泣いていた。

 

――どうしてあんなことをしてしまったのか!

 巫女としての責務を忘れ、領分を越えて神に暴力を振るうとは!

 あまりの羞恥に身動きも取れない。

 

――いや、それよりも。

 

 きっと彼はやさしいから。ちゃんと謝れば笑って許してくれるだろう。

 だから後悔ではなく、反省すればいいだけなのだ。

 だからこんな、こんなことよりも(・・・・・・・・)

 

 

――どうして。

 

 

――どうして、私は。

 

 

――私は!

 

 

 目元を抑える手とは反対の手で腹部に触れる。その皮膚の下には子供を産むための臓器――子宮が存在している。しかし、未来永劫この臓器が本来の目的を果たすことはないだろう。もはや不必要とすらいってもいい。

 それはつまり――子供が産めなくなってしまったということだ。ごまかしようはない。

 事実を口の中で言葉にするだけで、大粒の涙が頬を伝った。

 

「ねぇ、少しは落ち着いた?」

 

 耳元から半身たる”剥追の雹”の声が聞こえる。

 穂乃美はそれに首を振った。

 死にたくなるほどの悲しみと後悔が胸の中を暴れまわっているのだ。落ち着けるわけがない。

 そんな穂乃美の様子に、心なしか”剥追の雹”はためらいながら、

 

「……ねぇ、どうしてそんなに悲しいの?」

「……意味がなくなってしまったからです」

 

 か細い声で穂乃美が答える。

 

「私にはもう、あの人の傍にいる価値が……ないっ。もう……生きる価値すら、ないのです……っ!」

「――なにいってんの! クズキだっていってたじゃないっ、あんたが傍にいるだけでいいって! なのに生きる価値すらない? ふざけんじゃないわよ――ッ!」

「そんな価値は――――ッ!!」

 

 ”剥追の雹”にも負けない大声で涙交じりに穂乃美は叫んだ。

 

「――価値はっ……価値が、どこにあるのですか……私があの人の傍にいる意味が、私のどこに……」

「だーからー。あ・ん・た・が! あいつの傍にいる、それだけで十分な価値で、意味があるの! 紅世の徒に人間の心情を説教されてどうすんのよ!」

 

 ”剥追の雹”の言葉に穂乃美はかっとなって、耳元から勾玉を外して地面にたたきつけた。

 

「一体この世のどこに――――子の生めぬ女をほしがる男がいる!」

 

 突然の暴挙に驚く”剥追の雹”にたたみかけるように穂乃美が叫ぶ。

 

「次代に血の繋げない女になんの価値があるのですか! 神の血を残せない巫女にどんな資格があるのですか! ――夫の子も宿せぬ妻にどんな意味があるのですかっ!」

 

 血を吐くよりも辛い声に”剥追の雹”は言葉をはさむこともできない。

 

「いったいどんな顔をして彼の隣に立てというのです……ましてや! あの日あの時――私があの人を助けられていたなら――」

 

 激情のあまり穂乃美は土を握りしめ、”剥追の雹”へと投げつけた。

 この三カ月の付き合いで”剥追の雹”は穂乃美が礼節をわきまえた、慈しみに溢れた女であることを知っている。その彼女がここまでしたのだ。子の産めぬ事実は彼女に大きな痛みをもたらしたのだ。

 

「――――あの人はまだ子供をつくれた。私はあの人の未来を、血筋のすべてをっ。守り切れなかった!!」

 

 彼女はとうとう膝をついて両手で顔を覆うと、静かに肩を震わせ始めた。涙の嗚咽が”剥追の雹”を沈黙させる。

 ここにきて”剥追の雹”はクズキの綺麗な言葉に何の意味もなかったことを悟った。

 あれはクズキの考える最善の答えだった。しかしそれはクズキという現代人にとっての最上の答えだ。決して古代人たる穂乃美にとって最善の答えではない。二人にはお互いに確固たる育ての土壌が存在し、まったく異なる価値観の存在なのだ。

 

 そして今なお穂乃美を絶望に浸らせるもの。その正体こそがこの価値観だった。

 

 現代人であるクズキにとって、夫婦間に子供がいない、ということは決して悪ではない。ごくごく普通に有りうる当たり前のことだった。

 子供の産めなくなった女性はかわいそうと思っても当たり前に受け入れられた。それは現代においてそういったハンデをもつ人間が社会において受け入れられていたからだ。食べ物に溢れ、健康に満ちた現代社会において、ハンデをもつ人間は差別の対象ではなかったのだ。

 

 では穂乃美はどうだろうか。

 結論から言おう。穂乃美にとって子供が作れないということは悪だ。断言してもいい。

 そしてこれは穂乃美だけの過激的な思考、というわけではない。むしろこの時代――少なくとも穂摘の国において当たり前に存在する『常識』ですらある。

 なぜか?

 その答えは単純明快にただ一つ。――余裕がない。それに限る。

 

 穂乃美の育った古代とは、いかに安定した食料を得るか人間が思考錯誤する時代だ。この時代において食料とは常にぎりぎりだった。現代の牛乳のように毎日数千リットルも捨てられるものではなく、米の一粒だって無駄にできない生活なのだ。

 

 そんな生活に無駄飯ぐらいを抱える余力はない。比較的稲穂が育つ穂摘の国ですら、無駄を抱える余裕はない。もし体に異常をもった子供が生まれればすぐにでも見捨てられる。現代ならばその子にも生きる権利があるなどと声高だかに叫ばれるのだろうが、そんなことはない。一人増えるだけで年間に必要な食糧量は跳ね上がるのだ。満足に働けず、自分の分すら糧を得られぬ人間を養う余裕などあるはずもない。

 あらゆる技術が洗礼され、余裕のある現代ではない。ここは古代なのだ。

 

 厳しい時代に育った穂乃美にとって満足に働けない無駄飯食らいは死すべき悪だ。

 男であれば戦えず、畑作業もできないような男。女であれば――女の責務も果たせない女。それが穂乃美の無駄飯ぐらいの定義だ。

 そして穂乃美の考える女の責務は子を産むことだ。男の血筋を未来に紡ぎ、将来の労働力を増やす。それこそが穂乃美の考える責務だ。果たさなければ生きる意味もない。そう考えるほどに果たすべき責務――だった(・・・)

 

 そんな考えの穂乃美に「傍にいてくれるだけでいい」。そんな言葉の何が慰めとなるのだろうか。

 ましてや巫女としての責務もあったというのに。彼女は巫女として神の子ももっと産まなくてはいけなかった。

 

 繰り返すことになるが、彼女の生きる時代は常にぎりぎりの時代だった。それは食料という意味でもあったし、命の危険という意味でもある。

 この時代ではまともな医療も発達しておらず、常に感染症や病による死があった。現代であれば薬を飲んで寝ていれば治るような病で死ぬことすらあった。一説によれば縄文時代では十五歳まで生きられたのは半分ほどだったという。穂乃美の周囲も大人になるにつれて同年代が減っていき、今では三割しか残っていない。

 ならば穂乃美は巫女として確実に次代に血を残すために、三人は子供を産んでいなければならなかった。今の一人ではちょっとした不幸で死神に連れ去られてしまい、血を残せないからだ。

 

 だが、その責務ももはや果たすことはできない。

 穂乃美はもう子供を産めないのだから。

 

 子の孕めぬ女は無駄飯食らいだ。そして無駄飯食らいに生きる価値はない。

 そんな穂乃美の中にある常識、価値観が、絶望となって穂乃美の体を縛り付ける。

 いっそのこと死んでしまおうか。契約を解除して、このまま楽に――そんなことさえ本気で考えてしまう。

 今、穂乃美は間違いなく追い詰められていた。

 

「私に、価値はない。生きることに意味はない……」

 

 彼女は死への逃避を選びかけ、

 

 

 

 ふと――脳裏に浮かぶ光景。

 ――腕に抱かれた赤子の無邪気な声。

 ――隣に立つ男の太陽の笑顔。

 

 

 

「……でも――ッ。それでも――っ!」

 

 ――ぎりぎりのところで踏みとどまる。価値観という強力な鎖が死へと心を引きずり込もうとする中、それでも彼女を生に繋ぎ止めるものがあった。それは――

 

「私は――生きていたい! 一緒に、いたい……あの人と、一緒に。ずっとずっと――!!」

 

 ――ひとえに、愛。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 そして幸か不幸か、それは訪れる。

 

「――ッ」

 

 最初に気がついたのは何をすればいいか分からずうろたえていた”剥追の雹”であり、次に穂乃美だった。

 そこにあるのにあってはならない。物と物の間に無理やり入ったような、そんな違和感。

 

「……この気配は――」

「ええ、紅世の……徒! それも――王なみの強烈な気配よ!」

 

 穂乃美の広い感知範囲にかかったのは、紅世の徒のなかでも特に強力な”王”に分類される徒だった。”剥追の雹”には気配だけでこの徒が強力なことが読み取れた。

 おそらく穂乃美単独では歯が立たないだろう。気まずいとは思うが、クズキと合流すべきだ。”剥追の雹”はそう提案をしようと考え、穂乃美の奇妙な表情に息を飲むこととなった。

 

 瞼を赤くはれさせ、頬を引きつらせた。――奇妙な笑み。

 

 それを見て”剥追の雹”は咄嗟に待ちなさい! と鋭い声で穂乃美を叱責する。だが、穂乃美はふらふらと揺れながら気配の方向へと歩き出してしまった。

(今の穂乃美は――まずい)

 基本的にフレイムヘイズの契約者は自分の意識を表出させれる『神器』を好きな時にフレイムヘイズの元へ戻すことができる。”剥追の雹”は悪寒に突き動かされると、その力で穂乃美の耳元へ戻った。

 穂乃美の足取りは一歩ずつ徒へ向かっている。徒も穂乃美を目指していることから、遠からず接触するだろう。させじと”剥追の雹”は耳元で声を荒げる。――逃げろ、とにかく合流しなさい、と。

 

 だが足が止まる様子はない。

 徒の気配を察した時、穂乃美はあることを思いついていた。

 

「穂乃美! あんた聞いてんの? 聞いてるなら少しくらい返事をしなさい!」

「……仲間としてなら」

「――?」

「……もう女としても。巫女としても。私に意味はない……それでもせめて仲間としてなら、あの人の傍に立てるかもしれない」

「――このバカ! そう思うならさっさと合流しなさいよ」

 

 契約者の内心の発露に、”剥追の雹”は久方ぶりに本気で怒鳴った。なんて馬鹿な女だろうか!

 ”剥追の雹”の激怒に、しかし穂乃美は首を横に振った。

 

「……今のあの人に倒せると……本当にお考えですか?」

 

 ”剥追の雹”は穂乃美の指摘に押し黙る。それが答えだった。

 つい三カ月ほど前、クズキは強大なる紅世の王”万華胃の咀”を一撃の元に討滅した。その威力は紅世指折りの王達と比べても見劣りしないものだった。しかし、今のクズキはそれを使うことができていない。

 

「存在の力を十全に扱うためには意思総体による自身の掌握は必須。ですがあの人の保有する存在の力は大きすぎる。あの力のすべてを掌握するというのは、空の果てを見通すようなものです。いかにあの人といえど……そう易々とできることではないでしょう」

 

 フレイムヘイズの力量を存在の力の総量で語るのならば、彼は間違いなく最強だ。間違いない。しかし並ぶものない力が彼の成長を妨げていた。

 

「そうね。今のあいつは大したこともできないフレイムヘイズよ。

 でも一人よりも二人のほうができることはずっと多い。なにより死にずらい。それは間違いないの。あんたにはこれからも一緒に強くなって戦っていかないといけないのよ。こんなところで死ぬなんて私は認めないわ」

「……死にたいとは露ほども思っていません」

「なら……どうして歩き続けてるの! あんたの向かう先は後ろでしょう!」

 

 ここにきて穂乃美の足取りは力強さを取り戻してきた。彼女は赤くなった目尻に残る涙を指で払い、

 

「今なら合流することは難しくないでしょう。ですが、しません」

 

 ぬぐった涙を地面に捨て、立ち止まる。

 周囲を見渡せば太い木々に囲まれている。太い根によって隆起した地面の高低差もあり、見通しも悪い。

 ここならばちょうどいい(・・・・・・)

 

「合流すれば確かに一人よりは安全に戦えるでしょう。ですが、それよりもずっといい方法があります。先に一人で戦い、可能な限り情報を手に入れ、そして消耗させる。そうすれば残った一人は有利に戦うことができる」

 

 穂乃美は二度三度掌に力をいれると、数十の雹を生み出し、周囲に浮かべた。

 浮かぶ雹の数はすぐに増え、木枯らしのように穂乃美の周囲を舞う。背中には青墨色の炎を纏う。穂乃美の戦闘態勢が出来上がる。

 

「まさか。もう一度だけ言うわ。合流すべきよ」

「しません。してはならないのです」

「また価値とか意味とかくだらないことでわめくつもりなの!?」

「私にとっては大切なことなのです。

 もし合流すれば私たちの危険度は下がるでしょう。けれど私は血をつなぐことができなくとも巫女なのです。少しでもあの人の危険が少なくなるのならば、それをする責務があります」

 

 穂乃美の脆い笑みに契約者が怒鳴る。

 

「あいつは認めないわよ。まだ三カ月ぽっちの付き合いでも、あんたの旦那がどんな人間かくらいはわかる!

 あいつは穂乃美、あんたのことをそんな使い捨ての道具のようになんか絶対に使わない!

 もっと長い目でみなさい。これからも戦いは続くのよ!」

「いいのです」

 

 周囲の動物が逃げ出すような契約者の怒気に、それでも穂乃美は笑ってみせた。

 その笑みはまるですべてを包み込む聖母のような笑みだった。

 

「たとえ使い捨ての道具でも、それがあの人の傍にいる理由になるのなら」

 

 こんな話がある。

 あまりにも透き通った水には魚が住めない、という話だ。

 どぶ川にも、そこそこの河にも、それこそ少量の川にだって魚はいるのに、水のきれいすぎる川に魚は住めないというのだ。

 穂乃美の笑みはまさにそれだった。

 その笑みに生気はない。

 未来への渇望も。自身の欲望も。なにもない純粋すぎるからこそ、そこに未来へと生きる生気が見えなかった。

 ”剥追の雹”は数百年もの人との付き合いで、初めて笑みを恐ろしく感じた。

 これが、人。

 紅世でもとうとう見ることのなかったこの笑みは、人と紅世の徒が”似て非なる何か”であることを強く実感させた。 

 

 あまりに強烈な実感は時としてあらゆる感覚を消失させる。例えば時間。例えば思考。例えば、聴覚。例えば――

 

「……きますっ」

 

 ――知覚。

 あ、と思った時には遅かった。

 気がつけば森の闇の中から徒が顔を出していた。穂乃美を合流させる時間は零になったということだ。

 人の新たな一面に我を忘れるべきではなかったのだ。

 

 自身を叱咤し、すぐさま生き残る最善策を考える。この思考の切り替えはさすがだ。初期の初期からフレイムヘイズとして活動しているだけのことはある。

 しかしその活動の厚みが”剥追の雹”を絶句させてしまう。

 

「三ヶ月間歩き通して、ようやく辿りついたと思ったら……あぁん? あの腐れミミズの気配はなくて、代わりに討滅の道具(フレイムヘイズ)……なにこれ、私に喧嘩売ってんのぉ……え゛ぇ?」

 

 影から現れてまず目につくのは獅子のたてがみを思わせる金髪。くしの一つも入れない髪は四方に跳ねているが、粗暴な姿は一層見る者に野性を感じさせる。うっすらとした森の中で爛々と金色に光る眼は腰を抜かすほど力強い。

 

 力強いのは眼だけではない。鍛え抜かれた四肢は鉄のような視覚的重さを伝えてくる。

 穂乃美が会ったことのある徒は”万華胃(ばんかい)()”のみ。彼はどこか雰囲気が軽く、人ならぬ怖さはあっても重苦しい重厚感はなかった。

 

 だがどうだろう。

 目の前にいる女性から伝わるこの重さは。穂乃美は目の前にしてようやく知った。

(これが紅世の王……! なんという存在の重圧、傍にいるだけでわかる……――彼女は強いっ!)

 穂乃美は契約者とそろって言葉を無くした。それに現れた徒は片眉をぴくりとあげる。

 

「はーん、無視。私を無視、ねぇ?」

「あ、あんたは……」

「あーん゛? この声はどっかで聞いたことあんぞー?」

 

 頬を野獣のように歪めた徒に対し、”剥追の雹”は震える声を自覚した。

 

「なんで、どうして。どうしてお前がここにいる――”業剛(ごうごう)因無(いんむ)”!」

 

 ”剥追の雹”の絶叫に穂乃美は内の契約者に語りかける。

 

(あの徒を知っているのですか?)

(最悪! 本当に最悪よ! ”万華胃の咀”に続いてあの”業剛因無(ごうごういんむ)”! どれだけここは呪われてるの!)

(落ち着きなさい! 今は少しでも情報が必要なのです……!)

 

 焦る”剥追の雹”は契約者の言葉にわめきたいのを我慢する。

 我慢して我慢して、それでも我慢しきれなかった声が勾玉からもれた。

 

「~~~~っ!」

 

 穂乃美は油断なく”業剛因無”をにらみながら、自分の周囲に浮かぶ雹をゆっくりと回転させる。

 油断はない。

 この三ヶ月間で教わったフレイムヘイズの戦い方の定石を今一度確認しつつ、”剥追の雹”に情報を促す。

 

(……あれは強敵(つわもの)ぞろいの紅世の王の中でも特に強大な紅世の王。正直にいって今の私たちに勝ち目はないわ)

(やってみなければわからないでしょう)

(いいえ。わかってる。だって――)

 

 内心で会話を続ける穂乃美たちを興味深そうに見ていた”業剛因無”だったが、彼女は何か思い出したように頭をかいて、

 

「ああ、あの時のアマか! また契約できたのか、よかったじゃねぇか!」

「――――――あの時はよくもやってくれたわね」

 

 穂乃美の耳元から空恐ろしいほど冷たい声が聞こえた。

 契約者をして、ぞっとするほど冷淡な声に、穂乃美は”剥追の雹”と”業剛因無”のだいたいの関係を把握する。おそらく以前の契約者は”業剛因無”と接触、戦闘しており、その時は決着がつかない、あるいは敗北したのだろう。

 

 やってみなくてもわかる、というのはつまり自分以上の実力者が試して無理だったからなのだろう。

 自分は間違いなく先代の契約者より弱い。

 なるほど。”剥追の雹”の言う通り、このままでは勝ち目がないのかもしれない。まったくの犬死にかもしれない。

 

 だが穂乃美に引く気はない。

 

 引いてどうなる。

 なにもせず仕える神の御前に顔を出すなど、それこそ死んだ方がましだ。

 引けば情報を持ち帰れるが、それは戦わずに得られる名前のみ。どうやら”業剛因無”は有名のようだから、クズキ達も遅かれ早かれ手に入れる程度の情報でしかない。

 ゆえに、穂乃美は”剥追の雹”の説得に応じるつもりはなく、不退転の覚悟を決めていた。

 

 もちろんただ死ぬつもりはない。

 基本的に”剥追の雹”の先代契約者は雹での攻撃を中心としたフレイムヘイズだった。それゆえの『雹海(ひょうかい)降り手(ふりて)』の称号である。

 だが”剥追の雹”の本来の力は雹を生み出すことではない。先代はあまり学のある人間ではなく力押しを好んだため、雹を生み出し操る『雹乱運(ひょうらんうん)』を使っていたが、”剥追の雹”本来の力はむしろ転移し追って剥ぐ自在法『剥追(はくはく)』なのだ。

 そして穂乃美は『剥追』のほうに適正がある。

 

 称号は基本的に契約した紅世の王によって引き継がれるため、契約した人間が変わっても同じ称号になってしまうが、穂乃美と先代では戦い方まったく異なるのだ。

 ならば、先代にできなくとも穂乃美にできる可能性はある。

 

「おお、それでよぉー、私あのくされミミズを探してんだが――」

(いい? とにかく戦おうとせず『剥追』で逃げるのよ、いいわね!)

 

 ”業剛因無”に聞こえない小声で止めようとする”剥追の雹”の声を無視し、穂乃美は指先を噛むと、血を唇に塗る。

 どこまで削れるかはわからないが、最終的に死ぬことは逃れられない。ならばもしクズキが自分を見た時、少しでも化粧をした自分でいたかった。

 

 塗り終え、指先の血を拭うとそこに傷はもうない。

 今更だが、本当に人ではないという事実が、すとん、と胸の中に落ちてくる。

 何がおかしいのか、自分にも分らぬままに穂乃美は唇に笑みを作った。

 

「おい無視か。無視なのか……つか、てめぇ目元が赤ぇが泣いてた……のか?」

(ちょっと穂乃美! 話を聞――)

「――自在法『剥追』」

 

 まるで溶けるように。穂乃美の姿が虚空へと消える。

 業剛因無の疑問も、”剥追の雹”の制止も、なにもかもを無視して。

 この突然の消失に”業剛因無”は一瞬の思考停止を余儀なくされるだろう。

 穂乃美の『剥追』は雹から雹へと転移する自在法。気がつかれないように”業剛因無”の背後に配置した雹へと転移した。

(一撃で決める!)

 両手に雹で作ったつららのような剣を存在の力で限界まで強化しつつ、”業剛因無”の首へと突き出す。

 未だ”業剛因無”が気づいた様子はない。振り返ろうともしない。

(とった――!)

 穂乃美は確信と共に剣をもつ両手に力を込めた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 それが聞こえた時、穂乃美はまず自分の聴覚を疑った。

 耳に聞こえたのは生々しい肉を貫く音ではなく、氷の破砕音だったからだ。

 そして目を疑った。

 そこに血にまみれた剣はなく、中空で乱反射する氷のかけらが視界を満たしたからだ。

 

「私はさぁー?」

 

 呆然としたのはわずか。

 ”業剛因無”の震える言葉にはっとしたように転移し距離をおく。

 ”業剛因無”は無傷だった。突かれた部分をさすり、首を一蹴させ、穂乃美を見た。

 

「これでもいちおぉー、話し合いをしようとしてたんだぜぇ。この私が善意で行動してたんだぞぉ……おぃ」

 

 そこには青筋を浮かべる鬼がいた。

 怒髪天、宙をつく。たてがみのような髪が浮かび上がり、怒りに震えていた。

 

「それを、それをてめぇらはよぉ……」

「――自在法『雹乱運』」

 

 穂乃美の周囲を渦巻く雹の軌道が変わる。

 星空のような円運動がぴたりと止まり、まるで蛇が空を這うように空をうごめき、”業剛因無”を中心に無作為な軌道を取る。蚊にたかられたような顔で”業剛因無”は舌うちをした。

 

「てめぇらはよぉ……人の善意を無駄にしやがって……」

 

 穂乃美は慎重に”業剛因無”を観察する。

 すでに奇襲は失敗した。敵に転移できることを知られてしまった以上、次は奇襲にならない。今のままでは彼我の差は大きく、勝機は針に糸を通すような小さなもの。鹿を射ぬく一瞬のように集中力を高め、穂乃美は敵を見据えた。

 対する”業剛因無”は穂乃美の姿に体を震わせ、腹のそこから大太鼓のような圧迫感のある声で叫び声をあげた。

 

「しやがってよぉぉぉぉぉおおお!!」

 

 ずしん、と一際”業剛因無”の周囲が重くなる。高密度の存在の力によって強化された肉体がそう感じさせるのだ。

 ”業剛因無”は穂乃美が時を図っているのを知りながら、腕を振り上げた。その腕には十分すぎるほど力が込められている。

 巨大な大木が倒れる瞬間のあの予兆すら感じる腕に、穂乃美の集中がより一層増していく。

 どんな攻撃がくるかわからない。だがどんなものであろうと避けてみせる。穂乃美はそう腹に決め、

 

「ぶっとべごらぁぁぁぁあああ!!」

 

 振り下ろされる。

 剛腕が鉄槌となって大地を叩きつけた。

 落雷のごとき轟音と共に地面がめくれ上がった。強力な一撃が大地を液状化させたのだ。破裂した土砂が爆風を追い風に周囲を蹂躙する。

(何を――?)

 舞いあがった土砂を回避するため、大きく後ろに跳躍しながら穂乃美は”業剛因無”の意図を考えていた。

 穂乃美はてっきり自在法、あるいは直接的に殴りにくると考えていたのだが、”業剛因無”は予想を外れ土砂を舞いあげた。

 

 土砂程度でどうにかなるほどフレイムヘイズは軟ではない。ならばなぜ? 視界を悪くするのが目的か? 確かに今日は風がない。しばらく残留するだろう。だがそんなものは少し退避してしまえばいいだけのこと。ならば――

 

「前よ!」

 

 ”剥追の雹”の鋭い声が穂乃美の思考を遮った。

 見れば土砂のカーテンを突っ切るように”業剛因無”が飛び出していた。その速度は穂乃美が思っていた以上に速い。強烈な存在感の塊である”業剛因無”が近づくその様は坂を転がる大岩のようだ。

 矢よりも速い”業剛因無”の突撃を足でかわすのは不可能。穂乃美は瞬時に判断し、『剥追』を使おうとした。

 だが、

 

「雹が、ないっ!?」

 

 確かにあったはずの雹がどこにもなかった。

(そうか、あの時の土砂は――雹を潰すために!)

 舞いあがった土砂は爆風によって加速され、その質量と相まって弾丸のごとく雹を砕いていたのだ。

 大地を殴打したのは土砂による雹の粉砕、およびそれの隠ぺい、強襲の三つの意味を含めたものだった。わずか一回で『剥追』の特性を見抜くとは、野卑な外見からは想像できない判断力である。

(そもそも徒の外見で判断しようとしたのが間違いだったっ!)

 徒の外見は千差万別、実力に外見は関係ない。

 同じ人型だったせいか、どうしても人間としての常識が穂乃美の中にあった。知識としてわかっていたのに、どうしても常識に考えが寄ってしまった。

 目の前には拳を腰だめに構える”業剛因無”。今更の後悔である。

 

(まだ……まだっ!)

「余計な抵抗なんぞしてんじゃねぇぇぇ!」

 

 飢えた”業剛因無”の瞳が金色に輝く。

 穂乃美はまだあきらめないと掌から雹を放出、機関銃のように雹を打ち出すも”業剛因無”の表皮は弾丸のすべてをはじいた。剣を砕くほどの表皮には傷一つなかった。

 

「穂乃美ぃぃぃぃ――!」

 

 ”剥追の雹”の絶叫をコーラスに腰だめに構えた拳が唸りを上げ、”業剛因無”の剛腕は穂乃美の下腹部へと突き刺さった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 森の中を突っ切って穂乃美を追いかけたクズキが見たのは、まるで石が水面を跳ねるように吹き飛ばされた妻の姿だった。

 フレイムヘイズの動体視力を持ってして残像が尾を引くその姿に血の気が引く音が聞こえる。

 クズキは後先考えず、穂乃美の傍に駆け寄った。

 

 妻の姿は無残なものだった。拳を受けた下腹部には穴が空き、吹き飛ばされた時にぶつけて全身に青あざができている。

 人間ならば即死していてもおかしくない。

 ただ、息はあった。か細く、今にも途切れてしまいそうなほど小さなものが。

 

「あ゛~んぅっ?」

「後ろだ――!」

 

 叱責にクズキは穂乃美を抱えて飛びずさった。

 爆音。

 クズキのいた位置を中心に土砂が空を舞う。滝つぼのような破裂音の後、土煙のおさまった視界には粗野な風貌の女、”業剛因無"がいた。

 

「てめぇ……そこの女の関係者かぁ?」

「――ずいぶんと懐かしい顔だね、”業剛因無”?」

 

 クズキの神器・勾玉からの声に”業剛因無”が目を丸くする。

(彼女と僕は古い知り合いでね? 会話で時間を稼ぐから君は治癒の自在法で彼女を)

(俺に……できるのか?)

(焼け石に水かもしれないけどね? その水が命運を分ける時もあるんだ)

 頷き、クズキは穂乃美の――特に傷の酷い腹部に力を注ぐ。

 

「おおっ? その声……”地壌(ちじょう)(かく)”か! こらぁずいぶんとなつかしい顔じゃねぇか!」

「いつぶりだろうね? 僕としては会いたくなかったけど」

「モーなんとかが海割った時以来じゃねーか? 私としては会いたかったんだがよぉ……」

 

 拳を握り、関節をならす。

 

「前の契約者はどうしたぁ。あれは私に生意気な口を聞いたんだ……血達磨にしなきゃ気がすまねぇ……思い出したらむしゃくしゃしてきた」

「君はあいかわらず馬鹿だね? 契約者が変わるのは死んだ時だけだよ」

 

 ぷちん、と何かが切れる音がする。

 ”業剛因無”の周囲が再び熱を持ち、ざわめきが森に広がった。

 

(もう時間稼ぎは無理みたい)

(はえぇ! せめてもう少しくらい稼げよ! まだ全然終わってないんだぞ! あと少しは悪びれした声で報告しろよ!)

 

 クズキは抱きかかえた穂乃美を置くか考える。

 彼女の傷は大きすぎる。このまま放っておくと死んでしまうかもしれない。

 だが目の前の徒が傷を治すのをみすみす見逃してくれるとも思えない。彼女にかまい過ぎればクズキも致命傷を受けてしまうだろう。

 彼女を置いて戦うべきだ。理屈では分かっている。それでもクズキは妻を置いて戦うことを良しと断ずることができなかった。

 

「仕方ないかな? うん、それでいいよね」

 

 迷うクズキを前に”地壌の殻”が問いかけた。

 何を。クズキが答えを探す合間に、彼女(・・)は答えた。

 

「ええ、仕方ないわ。 ――私たちのことは放って逃げなさい」

 

 それは愛する妻の耳元から聞こえた。

 ”剥追の雹”の声だった。

 

「――な、何言ってんだ!」

「この状況じゃ穂乃美は助けられない。共倒れになる。なら穂乃美を捨てて討滅に専念すべきよ」

「馬鹿言ってんじゃねぇ! んなことできるか!」

「できるできないじゃない。あんたがフレイムヘイズならそうあるべきよ」

「ふざ――」

「来るわよ?」

 

 山が大地を踏みしめるような、重すぎる一歩が踏み込まれる。

 強大無比に顕現した”業剛因無”の一歩にクズキの総毛が立った。

 早いわけではない。ゆったりとした一歩一歩にクズキの喉が干上がっていく。目を離せない存在感を放つ”業剛因無”はまさに王だった。

 

「ほら、さっさとしないと――死ぬわよ」

 

 王が、踏み込む。

 瞬間、クズキの脳裏に走った感覚を何と言うのだろうか。虫の知らせ? 直感? あるいは本能だろうか。クズキは人体の発した信号、「横に飛べ」という警鐘に全力で従った。脊髄が脳を介すことなく、全力で体を飛ばす。

 そして見た。

 クズキのいた位置を薙ぐ”業剛因無”の剛腕を。

 

「――腕力自慢は速度が遅いのが世の常だろ!?」

「どこの常識よそれ。それと……ほら次が来るわよ、さっさと放りなさい」

 

 振り切った体勢のまま”業剛因無”の視線がクズキを捕えた。再び高速で”業剛因無”が接近する。これをクズキは再び飛びずさって躱そうとするが、やはり穂乃美を抱えたままでは距離が短い。”業剛因無”はクズキの動きに対処し、振りかぶった拳をクズキへと振り下ろす。

 

「やれやれ?」

 

 "地壌の殻”の意識を表出させる神器が強烈な光を放つ。

 太陽色の炎の光は咄嗟に閉じた瞼を超え、”業剛因無”の眼球に直接攻撃する。

 ”業剛因無”が眼球を健常に顕現し直すまでの僅かな時間に、クズキは距離を取る。

 

「助かった――!」

「それはいいけど? 早く放り出した方がいいよ。その子」

 

 ”剥追の雹”だけでない。契約者すら穂乃美を邪魔もののように言うその様にクズキは薄く青筋を浮かべる。

 

「お前らは……さっきからなんなんだ! 俺がこいつを見捨てられるわけないだろ!」

「とはいってもね? 僕たちの目的を忘れたわけじゃないだろう。僕たちはフレイムヘイズ、『世界の歪み』を乱す徒の『討ち手』だ。至上目的を勘違いしちゃいけないよ」

「な――っ!」

「僕たちにはこの世界、ひいては紅世に訪れる『大災厄』の回避をするために戦っている。

 ――君ほどの資質を持つフレイムヘイズを僕は知らない。後々のことを考えれば、ここで一人切り捨ててでも君は生き残るべきなんだ」

「二人組の話はどうなった!」

「それは資質が低いフレイムヘイズの話だよ。君と言うあたりを引いた以上、そこにこだわる必要はない。それにもし必要ならまたこの近くで”剥追の雹”が契約すれば済む話だよ」

「そんなもん――!」

 

 ――ただの道具じゃねーか!

 溢れそうになった言葉をクズキは飲み込んだ。

 言ってしまえば心が弱って戦いも治療もできなくなる気がしたからだ。

 

 正直なことを言えば、フレイムヘイズになった時、クズキは自分が特別になった気がしていた。

 過去に戻った時以上に自分が特別な存在の気がしていた。

 物語の中に紛れ込み、まれにみる資質をもつ。まさに主人公のようじゃないか。そんな想いがクズキの心にはあったのだ。

 

 だが、これはどうだろう。

 自分の半身と思っていた存在は次を探せばいいなどと軽く言う。 

 理路整然と諭すのだ。

 人生の伴侶を、愛すべき比翼の翼を切り落とせと。

 

 信頼が。愛情が。

 音を立てて崩れていくような気がした。

 だがクズキに混乱していられるような陽気な時間はない。

 強烈な閃光に呻いていた”業剛因無”が顔を上げていた。

 

「さぁ?」

「早く!」

 

 選択は眼前。

 ”業剛因無”が踏み込むまでの刹那。クズキは選択しなければならなかった。

(穂乃美……)

 わずか、手の力がゆるみ――

 

 

 

 

「てめぇ……その女とどんな関係だよ」

 

 

 

 

 思わぬ声かけに身を固くした。

 怒り狂っているとばかり思っていたが、”業剛因無”はむしろ落ち着いた様子でクズキを観察していた。

 意図はわからない。しかし穂乃美を治癒させる時間はあればある程いい。クズキは治療のためにあえて会話に乗る。

 

「俺の女房だ」

「はーん。そうかいそうかい」

 

 先とは打って変わって、楽しそうに”業剛因無”が笑った。 

 楽しそう――といっても満面の笑みではない。含むものがある見る者を不愉快にさせる笑みだった。”業剛因無”の頬をひっぱたいてやりたい衝動にかられるも抑える。今は時間を稼ぐべきだ。

 

「ところでよぉー」

「なんだよ。そのもったいぶった言い方、気にいらない」

「そういうなよ。……私がその女に会ったとき、そいつ泣いてたんだぜ?」

 

 ”業剛因無”の思わぬ一言に、クズキは歯を食いしばった。

 泣いていたことは想像できていた。だから追いかけてきたのだ。だがどうして”業剛因無(こいつ)”にそのことを言われなければならないのか。

 見も知らぬ他人(てき)に繊細な部分に触れられ、心にさざ波が立つのを抑えられなかった。

 

 そのさざ波を人は隙と呼ぶ。

 

「ちょっと貸せよ」

「――なに?」

 

 ぐん、と”業剛因無”が右手で中空を掴み、引っ張った。

 まるで体に巻かれた見えない綱をひかれたように、穂乃美の体が”業剛因無”に引き寄せられる。

 まさかそんなことが起こるとは思っていなかったクズキの腕の中から穂乃美の体が飛び出した。”業剛因無”は無造作に穂乃美の頭を掴んで受け止め、髪を引っ張って持ち上げ笑った。

 

「はは! やっぱりこの目元は泣いた後だな!」

 

 じろじろと目元を覗き込んだ後、奪い返そうと飛び出したクズキに”業剛因無”は穂乃美を投げつける。

 クズキは穂乃美を抱きとめるも、剛腕で投げつけられた人体を完璧に受け止めることはできず、巻き込まれるようにごろごろと転がった。

 

「そいつはよぉ……私が会う前に泣いてたんだよなぁ。傍にいたい。傍にいたいってよぉ……」

「それがどうした……お前に言われることじゃない!」

「てことはよ、あれが泣いたのはお前のせいってことだよなぁ。お前が泣かせたんだろ? だったらお前が悪いんだ。なぁ……」

 

 今度こそ穂乃美を取られないようしっかり腕に抱えながら、”業剛因無”を睨む。

 

「言われなくともわかってる。だから俺はこいつを追いかけてきたんだ」

「そんなこと関係ねぇーなぁ。お前は泣かせたんだ。泣くってのはつらいよな。苦しいよなぁ。嫌だよなぁ……」

「お前……誰に言ってるんだ?」

 

 ”業剛因無”の言葉は誰に当てたものでもない。

 壁が話し出すような奇妙な忌避感にクズキの顔が歪む。

 

「彼はそういう徒だよ? 推し測ろうなんて無駄なことはしないほうがいいと思うけれど」

「”地壌の殻”、お前こいつを知ってるだろ」

「ああ、知ってるよ? どちらかと言えば知りたくもないけど知ってしまったたぐいの知識だけど」

 

 自分を見ているようで見ていない今なら逃げられるかもしれない。

 クズキはそっと逃げようと後ろに重心を移すも、そういうときに限って”業剛因無”の体が鋭敏に反応する。どうやら逃げられそうにない。

 

「徒っていうのは自由奔放なんだよ? ”紅世”が過酷な環境だったからっていうのもあるけど、大体の徒は自分の欲望のままにこの世を渡り歩く。欲望のままに、なんて言う通りその時々で自由気ままに動くんだけど、まれにそうじゃない徒がいるんだよ。

 あれはその代表格。

 笑って、怒って、泣いて。そんな自由奔放に欲望を満たすんじゃない。むしろ逆。あれはたったひとつの欲望に忠実で、それ以外を知らない徒なんだよね。ああ、なんの欲望かはいわなくてもわかるから言わないでおくよ」

 

 ”地壌の殻”の言葉を皮切りに”業剛因無”は自分を抱きしめた。

 

「辛くて苦しくて嫌なことは駄目だよなぁ……嫌なことをされるのはさぁ……いらつくよなぁ……」

 

 にんまりと笑う笑みの端が――裂ける。口角が耳元まで広がり、頬の筋肉の隙間から肉食獣の歯が現れる。

 ほしかったものを見つけた子供のようで、それでいて飢えた狼のような、そんな笑み。

 

「いらついたらよォ……おぃ! その分やり返したっていいよなぁ! 目には目を、歯には歯を!

 女ぁあ! 喜べよ、私がお前を泣かせた奴をぶっ殺してやるからさぁ!」

 

 ”業剛因無”の体から蒸気が噴き出した。

 関節の節々から間欠泉のように溢れる蒸気はひどく熱い。大気との温度差によって煙の中に隠れた”業剛因無”の黒い影が陽炎のように揺らぐ。

 

「ああ、もう手放しなよ? これからはそんなことしてたらすぐに終わるから」

「”地壌の殻”の言うとおり。ここからが本番よ」

 

 影が揺らぐ。

 影は右に、左にゆれるたびに徐々にその姿を大きくしていった。

 

「おい……嘘だろ?」

 

 徒は人に限りなく似た異世界――紅世の住人だ。

 だが彼らは人ではない。

 感情的動きが人に酷似していても、彼らは決して人と同一の存在ではない。その最たる違いが徒たちの外見だ。

 人型の徒は存在しているが、その多くは人の姿にしているだけで、本当の姿は違う。

 

 例えば以前戦った”万華胃の咀”の本来の姿は巨大なミミズだ。あくまでミミズの姿よりは人のほうが便利だから擬態しているにすぎない。

 また穂乃美と契約した”剥追の雹”は巨大な雹塊の姿である。

 このように徒の姿は千差万別。生き物ですらない姿の場合もあるのだ。

 

 クズキも多くの徒を知識では知っていた。

 だから”業剛因無”の本来の姿をみて、そういう姿の徒もいておかしくないとわかっていた。

 それでも。

 クズキは目の前に立つ”業剛因無”の姿に驚愕を隠せなかった。

 

 見上げるほど高く、背の高い木々ですら全長の半分程度しかない。

 その腕は大木のようであり、四肢に皮膚はなく、むき出しになった筋繊維は一本一本が鉄線のように太く、しなやかだ。

 その体は熱を帯びているのか、水蒸気を纏い陽炎を背負う”業剛因無”の姿は――見上げるような巨人だった。

 

「Ghaaaaaaaaaaa!!」

 

 ”業剛因無”はゴミを見る目でクズキを見下ろし、雄たけびを上げた。

 人の数十倍の人体が放つ音波は木々すら傾けた。ただの声ですらもはや兵器に等しい。

 

 今の”業剛因無”と比べれば、クズキなどくるぶし程度の大きさでしかない。

 クズキは”業剛因無”を討滅しなければならない。だというのに”業剛因無”を前にすると、高層ビルに挑みかかるような徒労感すら浮かびあがってくる。

 

 これが徒。

 これがフレイムヘイズ。

 

 小説を読むだけでは感じられなかった焦燥感と不安、恐怖に、フレイムヘイズというものがいかに非常識な存在なのか、その一端を感じた。

 

「さぁ? どうする?」

 

 ”地壌の殻”の他人事のような問が耳を通り抜けた。

 どうするもこうするもない。

 大きさとは力だ。

 体格差とはハンデだ。

 

 現代では公平にするために体格によって分けられるスポーツが多々ある。だが逆に言えば分けなければ公平ではないということだ。人間の体格差――たかだか二十か三十そこらの差が大きな差になることは、現代では常識だった。

 それは事実だ。

 バスケだって、サッカーだって、テニスだって身長が高い方が有利だ。

 柔道や剣道も身長が高い方が有利だ。

 背が高い、ということはただそれだけで巨大な利点なのだ。

 

 ならば!

 数十倍もの大きさの巨人と小さな人の間には、どれだけの差があるのだろうか。

 

 『存在の力』で肉体を強化すればいい。なんて甘えたことは考えられない。それは向こうもできることだからだ。

 むしろ存在の力に不慣れなクズキよりも”業剛因無”の方がはるかに優れている。

 力の操作技術も戦闘経験も、体格すら劣っている。それに加え、今のクズキは穂乃美を抱えている。

 クズキが勝るものなど存在の力の総量くらいだろう。それも使えなければ意味がない。

 

 新米フレイムヘイズは徒を前にして、いかに自分が危機的状況にいるのか理解してしまった。

 本能ではない。人間としての理性が、勝ち目がないとはっきり認めてしまったのだ。

 

「どうする……どうする……どうするっ!?」

 

 どうすればいいのか。

 口に出して思索するが、それはどうすると言い放つだけの思考放棄だ。

 頭のなかにはひたすらどうするという言葉だけが反芻していた。

 

 見捨てることなんてできない。

 でも死ぬこともできない。

 だからといって理性が挑むことを愚かだとあざ笑い、立ち向かおうと心が震えることもない。

 

 クズキは今、巨人の振り下ろす一撃を待つ哀れな木偶の棒だった。

 

 蒸気に包まれた”業剛因無”がゆっくりと動きだす。

 樹齢千年の大木のような左足が高く持ち上がる。頭の上にまでまっすぐ伸ばされた足はまるでギロチン台のようだ。ただ見ているしかできないクズキの内心はギロチンの解放を待つ死刑囚のようなものだったのだから、ギロチンの例えばあながち的外れでもないのかもしれない。

 

「う、うぉぉ、うぉおおおおおお!!」

 

 だめだ。

 このままだと死ぬ。

 クズキは立ち向かうために雄たけびを上げた。

 カラ元気でもいい。虚勢でもいい。この冷たくなってしまった体を動かす熱になるのならば。

 クズキは理性の諦めを吹き飛ばすために、穂乃美を抱きしめる腕に力を込

めた。

 

 そんなクズキの精一杯の行動は。

 小さな虫の威嚇にもならない。

 

 命を刈り取るギロチンとなって”業剛因無”のかかとがクズキ目がけて振り下ろされた。

 巨大さに見合わない俊敏な足の先端は容易く音速を超える。これほどの質量の物体が音速を超えたことで、空気の壁は破裂し、木々を吹き飛ばすほどの衝撃破が周囲に吹き荒れた。

 落雷など比にならない爆音が響き渡る。その音は東の麓から半日以上ある穂積の国を超え、隣国にすら聞こえ、大地を揺るがす振動は地響きとなって唐沢山の一部に山雪崩を引き起こした。

 

「――――!」

 

 粉塵と爆風が満ちる空間で、”業剛因無”はのっそりと手を振って、土煙を払った。

 ”業剛因無”はなぎ倒した木々を見渡し、首をごきりと鳴らす。そして少し離れた場所に転がっているであろうフレイムヘイズを探した。

 

 ――”業剛因無”がこの姿になるのはずいぶんと久しぶりのことだ。

 直撃すればクズキは穂乃美もろとも死んでいただろうが、あの瞬間、クズキのすぐ横に”業剛因無”の足が落ちて直撃にはならなかった。

 人間だった時との感覚のずれがクズキの首一枚を繋いだのだ。

 

 とはいえ、木々をなぎ倒す衝撃破をまともに食らい、クズキの体はかなりの距離を吹き飛ばされていた。山となった木々の残骸の中で、クズキは穂乃美を抱えながら膝をついている。

 衝撃と落下によって痛みつけられた体はボロボロで、上半身に身につけていた服は赤く染まっている。

 

(さて? どうするんだい?)

 

 ”地壌の殻”が声ならぬ声でクズキに問いかけた。

 今、舞いあがった粉塵と吹き飛ばされたことで”業剛因無”はクズキの姿を見失っている。

 逃げるのならば今しかない。

 うまくやればクズキは逃げ切れるだろう。

 だが、それも一人ならばの話。

 これは”地壌の殻”の最後の通告だった。

 ――見捨てて、お前だけで逃げろ。そんな残酷すぎる、最後の通告だった。

 

 無論、クズキは即断する。

 ――そんなことできるか。

 

 クズキにとって穂乃美は妻だ。なにもわからない古代に飛ばされ、必死の思いで生き抜いて手に入れた半身。心の底から愛した女なのだ。

 傍にいるだけで、時おり手を触れるだけで、視線を絡ませ合うだけで。クズキの心に温かさをくれる、そんな最高の片翼。それがクズキにとっての穂乃美だ。

 勝ち目があるとかないとか、そんなこと関係ない。

 たとえ何があろうとも、それこそ死のうとも――見捨てられるはずがない!

 

 クズキは”地壌の殻”の言葉を跳ねのけようと口を開き――心の隅にいた弱いの自分の囁きが言葉をせき止めた。

 

 ――きっと、穂乃美は死んでほしくないと思うよ。

 

 弱い自分はきれいな服を着ていた。仕立ての良い、古代では生成不可能な学生服に身を包んだかつての自分は続ける。

 

 ――どんな経緯であれ穂乃美はクズキが生きてることを望むと思う。

 

 弱い自分の囁きはじんわりとクズキにしみ込んでいく。

 まるで呪詛のようだ。

 聞きたくないのに、聞いてしまう。

 その言葉に思わずすがりついてしまいたくなる、そんな呪い。

 

 ――だから逃げよう。ここで二人で死ぬくらいなら穂乃美の想いを組んで、逃げるべきだよ。

 

 しみ込んだ呪詛はクズキの体から力を奪う。

 半身を抱きしめる腕の力が徐々に抜けていく。クズキにそんなつもりはない。”業剛因無”に取られないように力強く抱きしめているつもりだ。

 それでも呪詛は腕から力を奪っていく。

 

 ――僕は最強の資質を持ってる。だったら必ず復讐しよう。必ず強くなって、いつかアレを討滅するんだ。

 

 一滴の水が大地にしみ込むように。弱い自分の言葉がクズキの脳裏にしみ込んでいく。

 

 自分ならば年月を積み重ねていけば必ず”業剛因無”を倒せるようになるだろう。

 一度は”業剛因無”と同格の”万華胃の咀”を討滅しているのだ。あれが使えるように成りさえすれば”業剛因無”など一撃で討滅できる。

 ここで死ぬくらいなら――

 

 ――だめだ!

 

 いつしか心の端に追い詰められた自分が叫ぶ。

 

 ――まだ腕の中の穂乃美は生きてるんだ!

 ――でもこのままなら僕も彼女も死ぬ。無駄死になんて君だって嫌だろう?

 

 弱い自分の言葉に押し黙ってしまう。

 無駄に死ぬなんて御免だ。黙って死ぬなんてクズキにはできない。古代ですら諦めなかったクズキの反骨精神はだてじゃない。

 その心があがいてあがきぬいてやると勇猛に叫んでいた。

 

 ――だったら。逃げてでも生き抜いて。必ず復讐してやろう。――絶対にだ!

 

 弱い自分の力強い叫びがクズキの中に広がった。

 それはとうとうクズキのすべてを支配し、穂乃美を抱える腕がゆっくりと地面に下ろされていく。

 せめて、とクズキは丁寧に穂乃美を地面の上に下ろした。

 そして彼女の泥だらけになってしまった頬を優しく撫でる。

 

「ごめんな……」

 

 もれた言葉は謝罪。

 クズキはこれが最後と彼女の頬についた泥をぬぐった。

 

「…………ぅん」

 

 それはいったいどんな神の悪戯だろう。

 最後に触れた指の熱が穂乃美の目を開かせた。

 

 穂乃美はクズキの顔を見てわずかに目を見開き、朗らかな笑みを浮かべた。

 彼女はクズキの表情だけですべてを悟っていた。

 

「あなた……」

 

 小さくつぶやかれた穂乃美の言葉に、クズキは目をそらすしかなかった。

 穂乃美のクズキを想う瞳を見る勇気がなかった。彼女の澄み切った瞳を見てしまえば、クズキは罪悪感に心を押しつぶされてしまう予感があった。

 

「……気にやまないでください」

 

 穂乃美はクズキの頬に手を添えた。

 そして慈母のようにクズキの頬を撫で、髪をすく。その手つき一つひとつが想いに満ちていた。見なくても、ただ触れられるだけで彼女の心が流れ込んでくる。

 自分のことなんてなにも不安に思っていない。

 ただただクズキのことを想っていることが伝わってくる。

 

「俺は……っ、おれは……!」

「――あなたが生きている。私がその一助となれるのならば。これ以上の幸せは無いのです」

 

 穂乃美は反対の手で腹部をなでる。

 

「私はあなたの子を産めた。あなたと共にいられた。こうして死に目を看取ってもらえる。これ以上を欲しがれば罰があたりましょう」

 

 そして穂乃美は左手の薬指につけられた指輪を顔の前に掲げ、二度三度と触れた。

 遠い時代を思い返す瞳のまま、指輪に息を吹きかけ泥をぬぐう。

 

 そこにどんな想いがあったのかクズキにはわからない。

 ただ聖母のような笑みの向こう側に小さくない悲しみがある気がした。

 穂乃美は子を抱くように指輪をつまむと、指から引き抜く。それをクズキの指に通した。

 

「……どうして……」

「これはあなたの伴侶が持つものでしょう? 死に別れる私が持っていてはいけないものですから……」

 

 穂乃美の表情に初めて悲しみの色が宿った。

 瞳は涙にぬれ、今にもこぼれそうだ。

 気丈だった表情が崩れ、言葉が震える。それでも彼女は笑った。

 

「わ、私は幸せ者ですっ。あなたと共にいられたことを誇りに……ここで朽ちましょう……」

 

 笑う彼女を前に、クズキは抱きしめたい想いが膨れ上がった。だが抱きしめることなんてできない。抱きしめたら間違いなく、クズキは動けなくなるからだ。

 そんなクズキの想いすら読み取って、穂乃美は胸の前で手を組み、

 

「どうか……生きて」

「穂乃美……」

「生きてください……私を忘れてしまうほどに」

 

 涙が一滴、穂乃美の頬を伝う————

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「   ふっ、ざけんなぁぁああああああああああああああああ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人を”業剛因無”から隠していた周囲の木々が太陽色の炎に包まれた。

 恐れを吹き飛ばすための咆哮ではない。悲しみに浸る叫びでもない。穂乃美は初めてみる夫の怒号に目を白黒させた。

 

「あなた……?」

「……見捨てられるか? 見捨てられるか!? ――見捨てられるか!!」

 

 戸惑う穂乃美を抱き上げ、クズキは彼女を抱きしめる腕に力を込めた。もう力は逃げない。

 

「――俺は見捨てない。絶対に見捨てなんかしない。こんないい女、手放せるかッ!」

「で、ですが……」

 

 穂乃美は自分を見捨てる利点を言おうと口を開いた。

 しかしクズキは彼女の腕を引き、妻の唇に自分の唇を押しつけた。

 

「――あ」

「お前は――いいから黙って俺の腕の中にいればいいんだよ!」

 

 黄金の炎に囲まれた中、クズキの言葉を理解した穂乃美が顔を真っ赤に染めた。

 穂乃美は手を顔の前で恥ずかしさをごまかすように振って暴れ、それでもクズキが穂乃美を離す気が無いと悟ると、小さな声で「……はい」と返事を返す。

 顔を真っ赤した穂乃美が黙った代わりに、彼女の耳の勾玉から”剥追の雹”が怒気交じりに叫ぶ。

 

「――ちょっと! あんたなにしたかわかってんの?」

「ああ、わかってる。ちょっと俺の位置をあれに教えただけだ」

 

 振りかえればどこからでも見える巨体の”業剛因無”がこちらを見ていた。

 炎の中心に立つクズキと視線のぶつかった”業剛因無”は裂けた口をゆがませ、笑みを作っている。

 

「あんた……馬鹿なの? 馬鹿なんでしょ! どうして逃げなかったのよ!」

「そうだね? 僕としても納得のいく説明をしてほしい所だよ」

「――んなもん決まってるだろ」

 

 クズキは穂乃美を抱えたまま、”業剛因無”と向き合う。

 ”業剛因無”はゆっくりとクズキへと歩き出してきた。

 

 今度は臆さない。

 クズキもまた穂乃美を抱きしめたまま”業剛因無”へと歩き出す。

 穂乃美が焦ったように声を上げるが、そのすべてを無視する。今だ彼女の腹部の傷は大きく、治癒をかけ続けなければいけない。

 

「決まってる? ――そうやってお荷物を抱えたまま死に行くことが?」

「ざけんな。誰が死ぬかよ」

 

 今の穂乃美は間違いなくお荷物だ。

 そして”業剛因無”はお荷物を抱えたまま勝てるような徒ではない。

 だが、クズキに穂乃美を下ろす気などまったくない。

 

「それなら君は――」

「――なぁ”地壌の殻”」

 

 穂乃美を地面に置いて逃げれば、彼女は傷が原因で死ぬだろう。

 穂乃美を地面に置いて戦えば、彼女は戦いの間に死ぬだろう。

 比翼の翼を生かすためには、クズキが抱えたまま治療し続けるしかないのだ。

 

 それは無謀だろう。

 力も経験も体格も負けているのに、お荷物を抱えたまま戦うなど正気の沙汰ではない。

 

 そんなこと――クズキだってわかってる。

 だが穂乃美を失ったクズキに何ができる。

 比翼を無くした鳥がどうして空を飛べるのだ。

 クズキがクズキでいるためには。空高く、誰にも届かない天空を制すためには。隣に穂乃美が必要なのだ。

 

「――俺は最強なんだろ?」

「そうだね? 確かに君の資質は間違いなく最強だ。でも資質であって実力じゃない」

 

 どこか不安なそうな顔で――感情のたがが外れたのか――穂乃美がクズキの顔色を覗き込む。クズキは穂乃美の額に軽くキスすると、ムズ痒い表情でクズキから視線を外す。

 

「でも資質と実力は比例してる」

「そうかもね? 実力は資質以上にはならないから。でも今の君は資質に実力がまったく追いついていない」

「なら今追いつけばいい」

 

 ゆっくりと歩いてくる”業剛因無”は腕をまわし、体の調子を確かめている。

 よほど一撃で仕留められなかったのが腹にすえたのか、口からは大量の蒸気を吐いていた。

 

「無理だね? そう簡単に実力が伸びるわけがない」

「――なぁ”地壌の殻”。俺が昔いたところではさ、よく資質もないような主人公が最強の敵に勝つって展開の物語があったんだ。隙を探して、作って、運すら味方にして。

 けどな、相手は最強なんだぞ? 一番強いから最強なわけで、弱い奴が少し工夫したからって勝てるわけない。

 そんなもん――最強なんて呼べないよな」

「君は何が言いたいんだい?」

 

 初めて、”地壌の殻”が苛立ちを含ませた声を放った。

 それに苦笑いしながら、徐々に近づく”業剛因無”を眺める。

 

「穂乃美を抱えるってのは不利だ。体が小さいってのも不利だ。大した自在法が使えないってのも不利だ」

 

 近づいた”業剛因無”は膝を曲げ、体を沈めた。

 巨体が落ちようとする力に対して大地が砕けながら巨体を押し返す。その力を利用し、”業剛因無”の巨体が空高く飛び上がった。

 その着地地点にはクズキというアリのような人間がいる。

 

「抱えたままじゃ腕は振るえない。もともと大した自在法は使えない。戦った経験なんぞほとんどない。俺が勝てる要素なんて皆無だ。けどな。それでも――」

 

 巨体は自分の身長ほどの高さまで飛び上がると、星の引力に引かれ大地へと落ちてくる。

 同時に足を突き出し、蹴りの威力をさらに高める。

 実に七階建ての高層ビルに等しい大きさの巨人が落ちてくる様は、隕石のようだ。

 事実威力はそれに勝るとも劣らない。

 

 高速になった思考でいやにゆっくりとした”業剛因無”の落下を待ちながら、クズキはこれの威力を考える。

 おそらく、隕石のクレーターのように大地がはげ上がることは間違いない。

 どんなフレイムヘイズであれ、真正面から受け止めれば即死は確実だろう。

 だが、それでも、

 

「――――俺が最強だ」

 

 ”業剛因無”の一撃が着弾した。

 今度こそクズキに叩きこまれた蹴りの余波が大地を液状化させ、周囲を吹き飛ばし、轟音を轟かせた。

 かつてない威力の一撃だった。

 ”業剛因無”の全体重が乗せられた高所からの一撃は他の紅世の王にもまねできない一撃だった。

 自在法を用いない攻撃としてはあの壊し屋”不抜の尖嶺”のフレイムヘイズ『儀装の駆り手』すら及ばないだろう。

 これを食らい生きているものなど、”鋼鉄竜”や”嵐蹄”のような一部の例外くらいだ。いや例外であったとしても全霊をもって防がねば討滅されるだろう。

 それほどすさまじい威力だった。

 

 だからこそ。

 ”業剛因無”は理解できない。

 あれは間違いなく最高の一撃だった。なのに、

 

「腕が振るえないなら振るわなきゃいい。自在法が使えないなら使わなきゃいい」

 

 ”業剛因無”の足の下で、

 

「腕に抱えてるからどうした。殴れないなら蹴ればいい」

 

 強烈無比な蹴りを直立させた足で受けとめ、

 

「惚れた女を抱えて戦うなんぞちょうどいいハンデだ」

 

 最強のフレイムヘイズは無傷で立っていた。

 

 そこには弱々しい、いかにも成りたてのフレイムヘイズなどいない。

 いるのは全身から存在の力をこれでもかと溢れさせ、自信に満ち溢れた獰猛に笑う男だけだ。

 ”業剛因無”をして絶句させるほどの存在の力を纏った男の体は淡い太陽色に輝き、見るものすべてにこの男こそが世界の中心だと思わせる。

 

「今まで俺はうまく存在の力を使えなかった。それは明確なイメージがなかったからだ。

 でもな、今ようやくわかった。俺は『どんな相手にも負けない』なんてあやふやなイメージじゃだめだったんだ。

 例えば――」

 

 過剰に供給される存在の力がクズキの体を強化していく。

 明確な志向性を持った意思が存在の力を用いて望む結果を作り出す。

 すなわち、

 

「――目の前の巨人をぶっ潰す自分の姿! それを想像し、自分をそうであれと顕現させるだけでよかった!」

 

 クズキが足に思いっきり力を入れ、”業剛因無”の体を押し返す!

 密度の濃い”業剛因無”の超重量級の体がのけぞり、クズキによって押し返された。

 同程度の体格ならまだしも、まさかくるぶし程度までしかない人間に押し返されるとは。初めての事態に”業剛因無”は体勢を崩してしまった。

 

 それは隙だった。

 クズキは穂乃美を抱えたまま跳躍する。跳んだ先には”業剛因無”の巨大な顔がある。そこは地上から遥か高い位置で、飛行ができないフレイムヘイズがいて良い位置では決してない。だがクズキは強化した肉体の脚力だけで地上数十メートルもの高さまで飛び上がったのだ。

 驚愕に目を見開く”業剛因無”に容赦などしない。

 身をひねり、思いっきり強化した足をぶん回し、全力で顔面を蹴りつけた。

 

 瞬間、”業剛因無”の巨体が浮いた。

 強すぎるクズキの脚力が”業剛因無”の体を浮かび上がらせ、木々よりもはるかに大きな”業剛因無”を蹴り飛ばしたのだ。

 吹き飛ばされた勢いで太い木々を巻き込みながら転がった。蹴られた頬を呆然と抑える”業剛因無”に向かって、クズキは凄絶な笑みで叫んだ。

 

「――――ぶっちぎりの最強ってやつをみせてやる!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 我に返った”業剛因無”が最初にしたことは怒りにまかせた咆哮だった。

 そして腹の奥で煮えたぎる怒りのままに周囲を足でなぎ払う。そして体の半分ほどの大きさの――三階建てビルほどの木を握りしめると、振りかぶってやり投げのようにクズキに向かって投げつけた。

 

 一瞬で音速を超えた木が存在の力によって強化され、鋼鉄の槍となってクズキへと一直線に飛んでいく。

 それをクズキは一足飛びで横に飛んでかわした。今のクズキは自身の保有する莫大な存在の力を湯水のように使用し、肉体を強化している。普通の徒どころか王ですらすぐに枯渇するほどの力で強化された肉体ならば、一足で相当な距離を移動できる。

 投げられるものが一本ならば(・・・・・)この程度の遠距離攻撃、当たる気がしない。

 

「やっかいだなおい!」

 

 当たり前のようにクズキが避けた位置に第二射がせまっていた。それどころか”業剛因無”はすでに三本目を投げ、四本目を握りしめていた。

 どこで覚えたのか知らないが、まったくもってやっかいな攻撃だった。

 

 だがそれでも。この程度の障害でクズキを止めようなどと片腹痛い。

 クズキは穂乃美を抱きしめたまま、”業剛因無”目がけてまっすぐ走りだした。

 無論”業剛因無”とてそれを見ているだけではない。

 次々と槍を投げつけ、クズキの足を止めようとする。

 それに対しクズキはジグザグに走りながら対処する。

 

 ”業剛因無”の投げるのは槍であって点の攻撃だ。威力は高いが素早く動く小さな標的を狙うのは恐ろしく難しい。

 事実”業剛因無”はクズキに当てることができなかった。

 そこで”業剛因無”は投げ方を変える。すでに半分ほどの距離を踏破されているが、焦ることなく木をハンマー投げのように投げたのだ。

 木は回転し円を作りながら飛ぶことになる。

 槍の点に対して、これは線の攻撃だった。攻撃範囲が一気に広がる。

 クズキは木を前にして一瞬跳びかける。

 

「おらぁあああ!」

 

 すぐさま跳躍をやめ、足を突き出して突撃する木を粉砕した。

 飛んでいる時に狙われたら飛行の使えないクズキは避けられないからだ。

 踏ん張りも効き、すぐに体勢も立て直せる地上とは違い、空中ではいいとこ二度程度しか攻撃できない。こちらは一発もらえば穂乃美が危険なのだ。避けられる危険は回避しなければならない。

 

 そして粉砕するために僅かに速度が遅くなったクズキ目がけて存在の力で念入りに強化された槍が投げられた。

 

「はっ! 学習しないな”業剛因無”!」

 

 だが槍投げではクズキには当たらない。

 クズキは当然のように横っ跳びで槍をよけようとし――突如として軌道を変えた槍に目を見開いた。

 槍はすでに横を通り過ぎていた。

 だというのに慣性の法則を無視して九十度曲がってクズキたちを襲ったのだ。

 槍の先端はまっすぐ穂乃美を狙っていた。

 

「させるかぁぁぁあああ!!」

 

 クズキは横っ跳びの最中に片足を地面に振り下ろし、飛ぶ軌道を変える。

 しかしそれに合わせて槍も軌道を変えた。再びの九十度変化である。完全に物理法則を無視している。

 こんなこと普通ならできない。

 だがこの世界の存在ならば起こす方法がある。

 それが世界を自分の思う通りに変化させる力――自在法だ。

 

 おそらく”業剛因無”は自在法を用いてあり得ない結果を作り出しているのだろう。

 

「これはね? ”業剛因無”の自在法『引禍(いんか)』だね。自在法で印をつけて、それを引き寄せたり、あるいは瓦礫を引き寄せさせたりする自在法だよ」

「情報提供ありがとう! なんであれ、正面から潰すだけだ!」

 

 クズキはすぐさま地面に踏ん張って向かい来る槍に蹴りを叩きこんだ。

 強化されたとはいえ、クズキの脚力の前には粉々に粉砕されるほかない。

 粉々になった木はばらばらと地面に転がった。

 

「他のが来るわよ!」

 

 穂乃美の耳についた勾玉から”剥追の雹”の注意が響いた。

 見れば今までとは全く違う軌道で槍がせまっていた。四方からせまりくる槍の数は全部で五本。加えて前方からは”業剛因無”が走りこんでいた。

 おそらく五本の槍はすべてに追尾の自在法が刻まれているのだろう。

 それを考えると避けながら”業剛因無”の攻撃をかわさなければならない。さすがにそれはクズキとしても無傷でいられる自信がない。

 

 クズキは即断した。

 まずは木を破壊する。

 

 今までは”業剛因無”のほうへと飛んでいたが、今度ばかりは反対に飛んで他の槍に近づく。

 投げつけられた五本の木をまず破壊すべきだろう。

 まっすぐ近づく”業剛因無”よりも早く壊せるかは微妙なところだが、いっぺんに二つも相手にするほうがリスキーだ。

 

 クズキは”業剛因無”から距離を取りながら、落ち着いて向かってくる木を順番に蹴り壊していく。

 少なくとも壊せば自在法が解けるようだ。これで破片一つ一つに追尾性があったなら、厄介きわまりなかっただろう。

 

 クズキが下がりながら五本目の木を破壊した時、”業剛因無”はクズキとの距離を零にした。

 ”業剛因無”は木による攻撃が大した意味を持たなかったことに苛立ちの表情をしながら、振りかぶった拳を振り下ろす。

 走る速度が乗った拳は唸りを上げてクズキに迫った。

 木の槍を破壊するために足を振り上げたクズキの体勢では、”業剛因無”の剛腕を迎え撃つことは難しい。

 クズキは自らに潜む膨大な存在の力を組み上げ、強い意志で脚を強化すると、腕と接触するまでの僅かな時間で背後へと飛んだ。せまる剛腕はクズキを殴りつけるが、クズキはその力を利用して、はるか後方まで飛びずさった。

 

 

「さて? どうやって『引禍』を攻略するんだい?」

「さて、どうするかな――」

 

 

 思った以上に厄介な自在法だ。クズキは”業剛因無”固有の自在法『引禍』にひとりごちた。

 あの自在法、印に向かって(わざわい)――つまりこの場では木の槍(対象物)を引き寄せさせる自在法のようだ。厄介なのは自動で引き寄せるところで、”業剛因無”が自由に行動できる所だろう。

 自在法の対処に集中すれば”業剛因無”が。”業剛因無”に集中すれば自在法が、クズキに致命傷を与えようとせまってくる。

 どちらも疎かできないだけに厄介だった。

 

 

 さらに何度も連続で使われたことで気がついたが、この印、穂乃美の体につけられていた。おそらく穂乃美を殴った際についでにつけたのだろう。致命傷を与えていたのに、油断せず『引禍』の印をつけるあたり、ますます侮れない。

「つっても対処法なんていくらでも浮かぶんだけどな!」

「へぇ? どんなのか聞いてもいいかい?」

「この手の引き寄せる系はお約束ってのがあってだな――――っと!?」

 

 

 ぐん、っと”業剛因無”が再び空中で何かを手繰り寄せた。同時に腕の中の穂乃美が強烈に引っ張られた。当然、クズキが穂乃美を手放すはずもなく、クズキの体ごと宙へと浮き上がった。

 引き寄せられた先には、大リーガーのように振りかぶった”業剛因無”の姿があった。ただし球ではなく固く握りしめられた拳が飛んでくる。

 

 これに強烈な蹴りで反撃し、拳を潰してやりたい。が空中では踏ん張ることができない。クズキは真正面からぶつかることはまずいと判断し、突き出される”業剛因無”の拳に合わせ、膝で衝撃を吸収しながら、”業剛因無”から再び距離を取った。

 クズキは我ながら神業だと冷や汗を流した。今のをもう一度やれと言われてもできないだろう。

 とはいえ、状況が変わらない以上もう一度引っ張られたらやるしかないのだが。

 

 穂乃美につけられた『引禍』の印を消さない限り、クズキは都合のいいサンドバッグだ。印を消してしまいたいが、クズキではどこにつけられているのか見当もつかず、消す方法もわからなかった。

 殴り慣れていない初心者はまれにサンドバッグに反撃されるが、”業剛因無”はそれほど容易くないだろう。

 

 次の一手に悩むクズキに対し、”業剛因無”は足元の太い木を引き抜いた。槍にするには短く、太すぎる。手に持つにはちょうどいいサイズの木だった。

 ”業剛因無”はそれを何気ない仕草で空中に放り投げた。ぶつけようとも、投げつけようともしない。何となしに川に石を投げ込むような、軽い仕草だ。

 木はくるくると回転しながら放物線を描いていく。ちょうどクズキとの間の中間点で放物線は頂点を迎えた。

 途端、木は空中で固定され、一際強く木が輝いた。三角形を囲むように円が書かれた炎の陣――自在法がまばゆい光を放ったのだ。

 

「――――!」

 

 三度、穂乃美の体が引き寄せられた。

 クズキの体がものすごい速度で空中にある木に引き寄せられる。

 

 空中をなすすべもなく引き寄せられるクズキを見ながら、”業剛因無”は腰を落とし、腰だめに拳を構え、その耳元まで裂けた大きな口を開いた。

 

「 G h a a a a a a a a !! 」

 

 体の節々から高温の蒸気が噴き出す。

 嵐の風のように荒々しい蒸気は瞬く間に周囲に広がり、実に六十間(100m)もの距離に広がった。

 そして次の光景はクズキの心胆をぞっと震え上がらせた。

 

 ”業剛因無”を中心に周囲六十間内のあらゆるもの、木、岩、はては大地に『引禍』の自在法が刻まれていたのだ。

 

「 U B o a a a a a a a !! 」

 

 すべての自在法が強く瞬いた。

 まるで宇宙から見た未来の東京のように大地が輝く。

 ”業剛因無”の『存在の力』により『引禍』はその効力を発揮した。

 

 ばき、ぼき、という名付けがたい音、あるいは地割れのような地響き。様々な音がいたるところから同時に起こった。

 そして次の瞬間――クズキの眼下の大地が浮かび上がった!

 

「おいおいほマジかよ……世界崩壊の序章みたいなことになってんぞ!?」

 

 『引禍』の印をつけられた大地が空中のクズキに向かって引かれ、浮かび上がる。

 大地は引き裂かれ巨大な土砂塊に、木々は槍に。六十間内のすべてがクズキをへと殺到する。

 弾丸と呼ぶには大きすぎる物体が、群れをなして空を駆ける。その行き先に迷いはない。

 クズキは空中で動けず、踏み締めるべき大地はそのすべてがクズキを押しつぶさんと動き始めている。

 

「これはまずいね? しんだね」

 

 耳元で”地壌の殻”が諦めた。

 他人事のように――事実、クズキが死んでも彼は死なないので他人事と言えば他人事であり――彼はこの状況を詰みと判断した。

 

「いや、違う! これはチャンスだ!」

 

 半身の言葉に、クズキは目を見開いて叫んだ。

 いかにクズキとはいえ、数十トンにも届こうという土砂の弾丸を受ければ、器ごと砕け散るだろう。それが眼下すべての大地だというのだから、絶体絶命であることに間違いない。

 だが、だからこそこの状況こそが活路となる。

 

 眼下の大地すべてが敵の攻撃であり、視界いっぱいに広がる壁となってクズキを押しつぶさんと迫っている。

 クズキは自身を引き寄せた大木に両足で着地すると、ロケットのように”業剛因無”へと跳躍した。

 みるみる近づく障害物、それはすべてクズキへと最短距離で近づいている。一見すれば隙間などないように見えるが、その実、大きさによって速さが違うため、所々に隙間があった。

 クズキはその隙間に身を通すために跳躍したのだ。

 

 なにより自分を中心に近づいてくるということは、後になればなるほど隙間が小さくなるということだ。分度器を見ればわかるのだが、遠くに行けばいくほど一度で産まれる誤差距離は大きくなり、近づけば小さくなる。ゆえにクズキは即断決で行動したのだ。

 

「対処法ってのはな。ずばり――」

 

 そしてクズキの考えは正しかった。

 小さく存在した隙間を通り、クズキは土岩砂の壁を無傷で抜けだせたのだ。

 クズキは抜けだした勢いのまま”業剛因無”の股下を通って背後へ回り込む。

 ”業剛因無”が股下を通るクズキに気がつき、振り返りながらの回し蹴りをしようとするが――もう遅い。

 

「本人にぶつけちまえばいいじゃん、ってことだ」

 

 『引禍』によりクズキへと殺到していた土砂は、基本的にクズキに当たるまで止まらない。

 ここで一つ問題。

 今、土砂から見て、クズキはどこにいるだろうか?

 答えは――”業剛因無”の向こう側、だ。

 

 実に数千トンにも及ぶだろう土砂はクズキ目がけて殺到し、その途中にいた”業剛因無”へと降り注いだ。

 

 ”業剛因無”の全長は大体十二間(20m)ほどだろう。

 見上げるほどの大きさには感服するほかない。しかし”業剛因無”が巨大だからといって六十間もの範囲の大地とは体積がまるで違う。

 剛力で知られる”業剛因無”といえど、そのすべてを受け止めることはできるはずもない。

 

 ”業剛因無”の体に大地が激突する。

 『引禍』によって加速された大地が弾丸となって体を殴打した。骨のきしむ音が盛大に響く。

 強烈な痛みには徒も人間と変わらない。そして激痛に声もあげられないのもまた、変わらない。

 『引禍』を解除するも、すでにある速度は変わらず、あまりの衝撃に”業剛因無”ですら一瞬意識が遠のき、ぐらりと体勢を崩した。

 

 ――そして思い出す。

 自分は戦っていたことを。

 ――何と?

 あの”万華胃の咀”を討滅した底しれぬ新米フレイムヘイズとだ。

 ――ならば、この隙にあいつは何をしている?

 

 強烈な悪寒に”業剛因無”は倒れこみながら背後を振りかえった。

 そこにいたものを目にした時、かつて”万華胃(ばんかい)()”が経験した忘我を”業剛因無”もまた知ることとなった。

 そこには遥か大海を思わせる膨大な『存在の力』を繰るフレイムヘイズが立っていた。

 

「うぉぉぉ――」

 

 ただひたすらに足に『存在の力』を込め、より強く顕現する。

 拙い力の繰り方ゆえにか、足からは使いきれなかった無駄が炎となってゆらめく。その無駄に出ていってしまう炎ですら”紅世の王”を討滅するのに十分すぎるほどの力が込められている。

 卑怯だと言ってしまいたくなるほどの圧倒的強者がそこにいた。

 

「ぉぉぉおおおおお――」

 

 ”業剛因無”は羨望すら感じるクズキの力に拳を振るおうとするが、強かに打ちすえられた体はピクリとも動かない。ただクズキのほうへ倒れこむことしかできない。

 

 ひたすらに強化した足で一歩、クズキは踏み込んだ。

 踏み込んだ瞬間、大地が震えた。

 規格外の顕現に大地が慄き、常識外れの踏み込みに大地が揺れたのだ。

 そして倒れてくる”業剛因無”に合わせ、その左足を思いっきり――

 

「――おりゃぁぁぁぁああああああーーーーー!!」

 

 ――振り抜く。

 音を置き去りにした蹴りが、”業剛因無”の上半身を消し飛ばした。

 さらにその向こう側にあった千トン近い土砂が吹き飛び、粉塵となった。

 クズキのフレイムヘイズ数万人分もの力を込めた蹴りは余波だけで土砂のすべてを吹き飛ばしたのだ。

 

 ”業剛因無”の肉体が徐々に空気に溶けていく。

 それを油断なく最後まで見据えてから、クズキは空を仰いだ。

 空は舞い上がった土砂で曇っていた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 腕の中には未だ温かな妻がいる。

 それを守りきった安堵に穂乃美を軽く抱きしめる。

 今までは肉体強化に回していた『存在の力』もすべて治癒に回す。

 しばらくして、わずかならがら続けてきた治癒の自在法が効いてきたのか、妻はまどろみから目を覚ました。

 

 しばし喉の奥でかわいらしく唸り、ゆっくりと両目を開いていく。

 

「ほんとに……本当によかった……っ!」

「――あ」

 

 穂乃美の黒い両目を見た時、穂乃美がけが人と言うことも忘れ、強く抱きしめた。

 起きたばかりの穂乃美は状況がよくわかっていないのだろう。しばし目を白黒させた後、クズキの体を抱きしめ返す。

 わからないことだらけでも、抱きしめられた腕から伝わる熱に、穂乃美は答えたかった。

 

「なぁ、穂乃美――」

 

 クズキは穂乃美を抱きしめたまま、耳元でささやく。

 

「俺は――お前が死んだら、俺も死ぬ」

「なっ、なにを――」

 

 クズキはゆっくりと名残惜しそうに彼女から体を離し、目と鼻の先で彼女を見つめた。

 

「俺にはもう過去なんてない。家族もいない。この世界に来た時、俺が持ってたものは何も持ってこれなかったんだ。それこそ――生きる理由だって」

「そんな、あなたほど生きるべき人はいないでしょう――?」

「違うんだ、聞いてくれ」

 

 クズキは努めて穂乃美の目を見つめた。

 その目には真摯な光が灯り、穂乃美は思わずそれに見惚れた。

 

「俺は今、絶対に死にたくなんてない。死にたくない理由がある。

 それは(げんだい)のことなんか関係ない。俺が生きていたいと思ったのは、あの日。俺がこの世界に来た時、お前を見たからなんだ」

 

 もう三年前になる。

 あの日、この世界に来た時。クズキが最初に見たのは何かに必死で祈りをささげる彼女の姿だった。

 突如現れたクズキを見て言葉を失う穂乃美の姿に、クズキは思ったのだ。――綺麗な子だな、と。

 

「俺は国を守りたいと思ってる。でもそれはお前が民を守ろうとしてたから。だから頑張るお前を助けたくて戦いに口を出して、国を守ってきた。

 俺は子供の未来をいいものにしたいと思ってる。でもそれはお前を愛して、お前との間に生まれたからだ。だからあの子も愛おしくなって、俺は未来をよくしようと努力した。

 俺が生きようとする今の理由は、全部お前から始まったんだ。だから――」

 

 細い体に背負わされた民を守るため、必死で努力する彼女が気になった。

 だからクズキはつい口を出して、いつしか彼女と共に戦い、共に人生を歩んでいた。

 

 気がつけば頬を涙が伝っていた。

 穂乃美の頬に触れて、そっとなでる。

 

「――価値が無いなんて言わないでくれ。意味が無いなんて言わないでくれ。

 お前はもう、俺の生きる理由なんだから――――」

 

 そしてもう一度穂乃美を抱きしめる。

 ぎゅっと腕の中に閉じ込め、震える声でクズキは懇願する。

 

「生きてくれ、傍にいてくれ、俺の腕の中にいてくれ。――頼む」

 

 それは懇願だった。

 国主とあろうものがすべきではない、ましてや神がするものではない、懇願だった。

 

 沈黙があった。

 お互いの息以外の音がすべて消え失せる。

 クズキは心臓が痛いくらい脈打つなか、みじろぎもせず穂乃美の言葉を待つ。

 

「それが……」

 

 審判をぎゅっと目をつぶったまま待つクズキの耳に、呆れた声色が聞こえた。

 そして穂乃美は――クズキの抱擁に両腕で答えを返した。――強く、クズキを抱きしめ返したのだ。

 クズキの頬に涙が伝った。

 クズキの涙ではない。

 穂乃美の涙だった。

 とめどなく溢れる涙と堪え切れない嗚咽が彼女の肩を震わせていた。

 

「それがあなた()の命令だというのなら、生きましょう。それがあなたの願いだというのなら傍にいましょう。それが、あなたの愛というのなら、腕の中で笑いましょう――」

 

 そういって穂乃美はクズキの頬に両手を添え、ためらいなく唇を合わせた。

 

「――今、はじめて穂摘 穂乃美になった気がします」

「そうか……なら、これは今返さないといけないな」

 

 クズキは指につけられた二つ目の指輪をはずした。

 それは死を覚悟した穂乃美から返された夫婦指輪の片割れだった。

 

「例え……天壌の魔神を相手にしたとしても」

「――あなた?」

「蛇神に祟られたとしても、辛く苦しい戦いが続いたとしても」

「――私を愛することを誓いますか?」

 

 クズキの言葉が夫婦になったときの宣言を変えたものだと気がつき、穂乃美は瞳を潤ませて言葉を続けた。

 

 クズキは一度だけ目を閉じ……そして想像する。

 そして静かに微笑んだ。

 きっとフレイムヘイズとして生きるということは辛く険しいのだろう。終わりのない闘争にいつかはくじける日が来るのかもしれない。強敵との戦いに恐怖におびえる日が来るのかもしれない。

 けれど、それがどうした。

 

「――誓う。穂乃美と共に、この長い生を歩むことを」

 

 彼女が隣にいてくれるというのなら何を恐れる必要がある。

 一人では辛くても、二人なら。

 一人ならば転び、立ち上がれない日が来ても、二人なら助け合っていつまでも歩いていられる。永遠も、戦いの輪廻も。クズキは何一つ怖くなかった。

 

「穂乃美は……俺を愛することを誓いますか?」

「誓います」

 

 即答で答え、穂乃美もまた微笑んだ。

 

「長い生を共にし、黄泉路の果てでも共にあることを」

「――ありがとう」

 

 クズキは穂乃美の左手を取ると、薬指にそっと指輪をはめる。

 純金の指輪は斜陽を反射し、眩しいくらいに輝いていた。

 帰ってきた指輪を二度三度撫で、穂乃美はクズキの胸にもたれかかる。

 

 決してすべてが終わったわけではない。

 傷が癒えたわけではないし、これだけの戦闘に国からも人が来るだろう。その対処を考えねばならない。

 そして自分たちの命をすぐに諦めた契約者たちとの話し合いもしなければならない。

 まだ二人にはすることがあった。

 

 けれど今だけは。

 二人静かに寄り添っていたかった。

 触れ合い伝わるこの暖かさを実感するために。

 

 

 

 

 

 

 


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