瞬間最大風速 作:ROUTE
春季東京都大会決勝戦前、控え室。
投手を燃やしたり燃えたりと色々あったものの、結果的にいつにない好調で勝ち上がってきた青道高校の相手は、帝東高校。
東の横綱と名高い、東東京地区の名門。
その東の横綱のエースは、一年生。ほんの少しまで、中学生だった男だった。
向井太陽。左投げのサイドスローと言う珍しさもさながら、彼はそれだけでエースになったわけではない。
抜群のコントロール。それが彼の唯一にして無二の武器。
正捕手は、二年の乾憲剛。抜群のキャッチング力と状況を選ばないパンチ力のある打撃が持ち味の大型捕手。
決勝戦。
青道高校の先発は、これまで好投を続けてきた丹波さん。
スターディングメンバーは一番から四番は変わらず。
五番にレフト斉藤智、六番にキャッチャー宮内、七番白洲、八番サード樋笠、九番ピッチャー丹波。
御幸は相性の関係からベンチ。
対戦相手は帝東高校。前にも言った通り、東東京の強豪である。
『春季東京都大会、決勝戦です。青道高校の先発は丹波くん』
そうアナウンスされてはじまった、決勝戦。
丹波の投げた初球は、綺麗にセンター前に運ばれた。
もうこの時点で嫌な予感しかしない。ベンチで待機している御幸は、そう思ったと言う。
宮内のリードは、慎重なリード。それは巧く嵌まれば七回4失点くらいの好投を演出できるが、悪い時はとことん悪い。
投手の調子に引き摺られる傾向にある。
『初球、センターに運ばれました。これは乱打戦が来るんでしょうか?』
そうだよ、とでも言うように、二番が甘く入ったカーブを捉えた。
ライト前のツーベース、ノーアウト二、三塁。
ここで宮内がマウンドに駆け寄るが、一度崩れ出したら止まらないのが悪い時の丹波。
その後二連打を浴び、二人を歩かせて三失点、なおも満塁。
ここで迎えるは、七番高木。一発のないバッターで、所謂守備の人、の筈だったのだが。
ここでまさかの満塁ホームラン。7対0。
あ、まだノーアウトです。
「マズイんじゃないですかね、純さん」
「…………見りゃわかんだろ」
スタンドへ消えたボールを見送ったレフトとセンターが一回表とは思えないほどの会話を交わす。
丹波光一郎、燃える。
関東大会への出場は決まっているからいいが、どうせなら優勝したかった青道高校としては、これは少しキツかった。
「で、何がマズイと思った」
「いや、逃げたら四球、その結果追い詰められて一発、という懐かしのコンボがですよ」
斉藤智巳は守備が下手なので、伊佐敷はレフトよりに守っている。
幸いにもライトの白洲は守備範囲が広いので、智巳がレフトの半分、伊佐敷がセンターの3分の2とレフトの半分、白洲がライトとセンターの3分の1を担当する変則シフトを敷いていた。
「対処法は?」
「ノーコンで苦しんだことないんでわかんないです。それにピンチこそ楽しく思える質なので、逃げたことないんですよね」
「…………懐かしのってのは、やったことがあるってことじゃねえのか?」
「いや、俺はエースなのであんなことはしませんよ。エースがあんなことしたら、敗けてしまうでしょうし」
元投手で、ノーコン速球派の伊佐敷としては羨ましい限りである。
そして、ぐうの音も出ない正論。
そうこうしている内に、丹波がやっとアウトをとった。
セカンドゴロゲッツー。これで一気にツーアウト。点差は1点追加されて7点差。
その後ワンアウトを取り、丹波は初回7失点。初回の失点としては、丹波歴代ワースト二位タイ記録。
「さあ、攻撃だ。1点ずつ返していくぞ」
まだ諦めていない監督・片岡鉄心の檄に、野手陣が『応』と気勢を上げる。
まだ、全員諦めていない。二桁失点するが、二桁得点できるチーム。それが青道高校なのだから。
だが、帝東高校の一年生エース、向井太陽が抜群の立ち上がり。
一番倉持、三振。
二番小湊、セカンドゴロ。
三番伊佐敷、サードゴロ。
新チーム発足した後の青道高校で初めて、上位打線が三者凡退に仕留められ、あっという間に攻撃が終わった。
「……まあ、あと八回あるし」
「下手しなくてもここのままなら五回で終わるんじゃないんですか、智さん」
隣に座っていた御幸の小声ながらも熱い正論に何も言えず、智巳は黙ってレフト向かった。
先発は、引き続き丹波。というか、イニングを稼いでもいないのに先発ピッチャーが降りられるとブルペンのやりくりが困る。
智巳は関東大会へ向けての調整中、川上憲史は前の試合で先発に回ってしまってこの試合は使えない。中継ぎ陣は炎属性でスタミナなし。
片岡鉄心としては、苦心の末に続投を指示せざるを得なかった。
その苦心を察したのか、丹波は何とか1失点に抑えて二回の表を終える。
二回の裏。
タオルを顔にかぶせて汗と涙を拭う丹波は、既に精神的に限界に近い。
そう判断したのは、智巳だけでは無かった。
「監督、三回から俺に行かせてください。関東大会へ行けたとしても、こんな敗け方じゃ勝ち進めません」
「……敗戦を取り繕うつもりか?」
心にもないことを、片岡鉄心は問うた。教育者としては問うてはならないことでも、監督としては問わなければならない。
高校野球は、負けたら終わり。だが、ここで負けても関東大会には行ける。
負けを取り繕う為に、エースを使うべきではない。
しかし、そうではないだろう。
そう片岡鉄心は確信していた。
眼を見ればわかる。斉藤智巳の眼は、闘志溢れる、何も諦めていない者の眼である。
「まさか。勝ちにいくから、俺が投げるんですよ。8失点なんざ、返せない点数じゃない」
「……本気で信じている者にこそ、道は開ける」
頼むぞ。
任されました。
言葉にせずとも、意思は伝わる。
四番の結城哲也が打席に立ち、次は自分。
「さあ、ひっくり返してやりましょう」
エースとは、チームに一人しかいない絶対的存在。キャプテンに次ぐ、精神的主柱。
少し前まで三者凡退のお陰で暗かったベンチに、ほのかに活気が戻っていた。
「なにせ、8失点しない試合より、する試合の方が多いんですから」
その軽口に、皆が笑う。
エースが諦めていないことは、監督への発言を見ればわかる。
キャプテンが諦めていないことは、打席を見ればわかる。
エースとキャプテンが諦めていないのに、諦める奴は青道高校には居ない。
「当たり前だオラァ!いくらでも点取ってやらァ!」
「はは。事実だけど、言うようになったもんだね」
「ヒャハハハハ!そこまで言われてマジにならねぇ奴は居ねぇつーの!」
伊佐敷が吼える。
小湊が不敵に微笑む。
倉持が笑う。
場の雰囲気に呑まれずに、消沈しているのは丹波のみだった。
それはそうだろう。これまでエースを目指して必死に投げ抜き、ここで好投すれば或いは後輩に追いつけるかもしれないと思った、春季東京都大会の決勝で、乱調してしまったのだから。
責任感は、人一倍強い。だからこそ、悔やむ心が自分を苛んでいた。
「丹波さん、夏の甲子園では頼みますよ。ここはまあ、後輩に良い所を任せてください」
「良い所……?」
「8点ビハインドからの逆転劇。絵になる場面になると思いません?」
まるで理解できないという様子の丹波に、智巳はいたずらっぽく笑って答えた。
その笑みが、まるで『逆境なんざ楽しむ為のものですよ』、と言っているようで、丹波は思わず息を呑んだ。
自分なら、先発の擁護のしようがないヘマでこんな点差がついた試合で志願登板しようとは思わない。
そこの差が、エースとエースではないものの差かと、彼はどこかで腑に落ちた。
「さて、哲さんに続いてきますかね」
結城哲也、ツーベースヒット。
ベンチに居た智巳は、素振りもしていない。
打席に向かうまでに軽く振っただけで、智巳は平然と打席に立った。
『さあ、ここでレフトに居るエースが打席に立ちます』
実況も、何かを期待している。
それはそうだろう。決勝戦が、一方的な虐殺であって、楽しめる筈がない。
智巳は、実況の言葉を知らない。だが、この逆境が楽しかった。
この逆境。この不利。ここから皆でひっくり返せるのが、野球と言うスポーツ。
それが、たまらない。
「よろしくお願いします」
打席に立つ前に挨拶をし、オープンスタンスにバットを構える。
狙いはヒット。
自分からあんなことを言って凡退したら、一生ネタにされるだろう。
だが、そう簡単に打たせてもらえるわけもない。相手は東の横綱、帝東高校。エースはこれまで戦ってきた投手とは比べ物にならない。
真中要は調子が悪かった。だから打てた。しかし、絶好調であれば打てなかっただろうと考える。
だから、ヒットを。
『一球目、ボール。慎重です』
投げられた球は、内角低めのストレート。ストライクと言われても、おかしくないギリギリの球。
制球力が素晴らしい。これで一年生と言うのだから、驚きだ。
深呼吸をして、構え直す。
こうなれば、ヤマを張る。打撃は下手だから、ヤマを張る。そうした方がいくらか出塁率は増すだろう。
敵の投手は、どこかで見たことがあった。
(一年生ってことは、シニアで一回戦ったのか)
少し考えて、思い出す。
コントロールがうまい、一歳下。
(御幸がカモにしてた奴か。確か名前は……向井太陽。前あった時はそれ程でもなかったが、成長したんだな)
だが、御幸なら打つだろう。逆転の目は充分にある。
では、何にヤマを張るか。
『帝東高校先発に向井くん構えて……投げたっ!』
高めギリギリ、釣り球。
手を出したくなる、ギリギリの場所。
打ったら多分凡打だろう。いやらしい制球力だと、言わざるを得ない。
正直、手が出なかった。考え事をしていたから、甘い球でも手が出なかっただろう。
計らずとも、うまくいっている。
そんな彼を後ろから見る帝東高校の捕手・乾憲剛は、大江戸シニアの猛威に最も晒された世代だった。
同い年で、大江戸シニアの最強コンビの片割れと同じポジション。
強いシニアには、強い選手が集まる。素晴らしいキャッチング技術とパンチ力のある打撃があると高評価だった乾憲剛は、そんな二人が巻き起こす旋風になすすべも無く負け続けた。
世代最強捕手。欲しい称号ではないといえば、嘘になる。
だが、そんなことは今やどうでもいい。
(これが、馬の合う投手をリードするという感覚)
あの二人は、ベストバッテリーと言われていた。傍から見てもそうだし、敵に回してもそうだった。
自分も、そう言われるほど相性のいい投手と会ってみたかった。
球を受けてみたかった。
その望みがこの春に叶った。
向井太陽のピッチングを見て、彼に雷の如き天啓が落ちる。
―――自分にとってのエースは、この男である、と。
何をせずとも、そうなった。
乾憲剛は二年生にして四番で正捕手に。
向井太陽は一年生にして暫定だがエースに。
紅白戦の結果、抜擢された。
その、初陣。青道高校であることに運命を感じた。また、雷が落ちるような衝撃を受けた。
向こうは覚えてもいないだろうが、こちらは覚えている。
やっと会えたベストパートナーを、見せてやりたかった。
(だが、それは叶うまい)
敗戦処理に、エースは出ない。
二番手をぶつけてきたということは、関東大会に主眼を置いているということ。関東大会で当たれれば、その時はバッテリー同士相対しよう。
だからせめて、この打席は打ち取る。この試合には勝つ。
次に戦った時に、このようなことが起こらないように。
そう考えて強気に、されど慎重に攻めたが、斉藤智巳は動かない。
(むぅ、流石の選球眼)
二球目は考え事をしていただけだ、とは思わない。
乾憲剛はあの二人を買っている。それだけに、見極めたのだと考えた。
(太陽。外角いっぱいの、奥スミを)
(オーケー)
ストライクゾーンは、紙に書かれたような平面ではない。
ボールが通過してストライクかボールかの判定が下る以上、奥行きがある。
二次元ではなく、三次元を意識した、文字通り次元の違うコントロール。それが向井太陽の強み。
『三球目、スライダー。ストライクです』
驚いたように、智巳は乾憲剛を見た。
彼も投手である以上、敵のやったことが如何に難しいことかはわかる。
だが、それでも笑った。
この逆境が楽しい。追われる時には、責任感がある。点をやらないという、責務がある。
だが、追う時にそれはない。ただただ、野球を楽しめる。
楽しい。こんな技術を持った投手がいることが。
嬉しい。まだまだ格上の技術があるということは、成長できるということだから。
「これ、何て言うんだ?」
「奥スミだ」
「奥スミ……いい投手だ。是非とも教えを請いたいな」
「太陽は、教えを既に請うたようだ。恩には報いるだろう。素直ではないが」
まだ、智巳には余裕がある。
自分が登板した試合で、こんなに離されていたのはいつ以来か。
楽しい。
「思い出したよ。三振の取り方ってのを、教えたんだったな」
外角低め、ストレート。
立っているプレートの位置をずらしたのか、斜めに入ってきてストライクゾーンを抉る。
『ツーストライク、ツーボールです。追い込まれてしまいました』
―――決め球は
乾憲剛は、思った。
斉藤智巳も、思った。
―――内角低めの、ストライクゾーンをギリギリかすめる、斜めに落ちるスクリューボール。
それが、向井太陽のウイニングショット。
「……ッ!?」
振り抜いた。
掬い上げたようなフォームから、背中へ。
担いだようになった金属バットが、地面に落ちた。
「意地ってヤツなんだろうな。それがなきゃ、俺は三振だ。バットをクルクル回してな」
この男相手にスクリューボールを使ったことは、聴いていた。
三振の取り方ってのを教えてもらったと、言ったことも知っていた。
だが、一歩及ばなかった。
「さあ、反撃開始とさせてもらう」
8対2。
青道高校、2点を返す。
だが、向井太陽もこれ以上の得点は許さない。
宮内を三振、白洲をファーストゴロ、樋笠をショートフライ。
完璧に抑えて後続を断ち切り、エースの貫禄を見せつけた。
スリーアウト、チェンジ。
青道側の応援席の顔色は、まだ暗い。
「御幸、あの負けムード。俺とお前で勝利への希望に変えてやろう」
「希望?」
ピッチャー用のミットをつけた智巳が軽快に言うと、プロテクターをつけて、御幸は笑った。
「確信の間違いだろ、智」
大胆不敵に笑い合って、マウンドへ向かう。
――――青道高校、選手の交代をお知らせ致します
――――六番宮内くんに代わりまして、御幸くん。九番丹波くんに代わって、坂井くん。坂井くんがレフトに入り、ピッチャー、斉藤くん。ピッチャー、斉藤くん
敗けを感じさせない大声援が、神宮を沸かせた。