瞬間最大風速   作:ROUTE

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夏の終わり

暑い、暑い夏。

これからはじまる筈だった、季節が終わった。

 

夏を終わらせた敗戦投手は、ゆっくりと二段ベットの下の段で身を起こす。

締め切ったカーテンを少し開けると、鮮烈なまでに明るい日差しが眼をさした。

 

「起きたか」

 

上の段から、声が聴こえる。

御幸一也。敗戦投手の女房役。所謂腐れ縁での付き合いで、小中高と同じ学校、同じクラス、同じチーム。

 

これまで敗戦投手が積み重ねてきた連勝の立役者であり、一年生ながら古豪・青道の正捕手になった実力者。

 

「心配をかけた」

 

サヨナラ敗け。

それがわかった瞬間、青道のエースナンバーを背負った一年生・斉藤智巳は崩れ落ちた。

後ろで苦戦を経て甲子園行きを決めた稲城実業の選手たちが喜ぶさまを見ることも、チームメイトが泣いている姿すら見ずに、青道のエースはマウンドに膝をつき、利き手の拳を地面に置いて支えとし。

 

立ち上がることも、泣くことも出来ず、ただ何かが切れた感覚と共に敗けという感覚を心に受け入れようとしていた。

 

目の前が暗くなる。力が根こそぎ消え失せたような身体をやっとのことで支える。敗けたということを、繰り返し感じる。

それしかできなかったエースに、監督と正捕手は肩を貸そうとした。

 

悲しむ暇もなく心配させてしまったことに彼はここで気づき、何とか自分の脚で立ち上がった。

そして、自分の脚でベンチに、自陣に泣きながら帰った。

 

泣いている先輩たちが必死に悲しみを圧し殺しながら自分を労う言葉を耳にしながら、座っていた。

 

「そりゃ、な」

 

明らかに、ここ十日間の彼は暗かったのである。

投手としてではなく、御幸一也が知っている斉藤智巳と言う人間を構成する柱が叩き折られたかのような消沈ぶりで、御幸は本気で投手として自殺でもするのではないかと警戒していた。

 

幸いにも、御幸と彼は人数の関係上同室であるから、監視するには困らなかった訳だが。

 

「敗けたんだな」

 

十日練習を休んで自分の敗けた姿を延々と見続けた男は改めて、苦渋を噛み締めるように歴然たる事実を口に出した。

 

「……そうだ。俺達は敗けた」

 

御幸もそれに応え、全く誤魔化すことなく事実だけを述べる。

青道は、敗けた。不動の四番も、怪物・東清国を中軸とした強力打線の構成者も、二番手ピッチャーも、居なくなった。もう、全く同じメンバーで彼らと野球をすることはない。

東清国が甲子園で暴れることも、ない。

 

「……俺はチームの中で一番勝てる投手であろうとしたし、勝ち続けたからエースをやってきた」

 

ポツリと、エースは言葉を漏らした。

一見すると自慢にしか見えないが、事実としてこの男とバッテリーを組み続けてきた御幸としては頷かざるを得なかった。

時々、凄まじく重要な試合で重篤な無援護病に悩まされるが、七回五失点で五回連続で完投勝利できる投手を、彼は知らない。

 

失点するだけ、打線が取り返す。こう言う味方からの援護を受けられる星の下に生まれてきたのだと、本気で考えたこともある彼の勝率はなんとリトル・シニア・国際大会等の公式戦では10割。

その代わり、練習試合ではちょくちょく敗けていた。

 

だが、公式戦では無敗なのだ。

 

と言うか、だった。

 

「当然チーム自体は負けたことがある。後続が打たれて敗けたこともあったし、俺が出ない試合もあった」

 

前者はままあったし、後者はほぼ間違いなく敗けたもんな。

 

そう言いかけて、御幸は黙った。どうやら事実とはいえ、そのようなことを言っているような雰囲気ではない。

何やら、彼の心境に変化があった。それは、今の言葉からもわかる。

 

どちらかと言えば、この男は勝敗をそれほど気にしなかった。連勝記録を伸ばすというより、自分の力を磨くことに執念を傾けているようなところが、あった。

だから敬遠のサインにも首を振ったりするし、割りと独り善がりなところがある、典型的なエースな性格をしている。

 

勝ち負けと書いて勝負と読むわけだが、智巳にとって勝負とは自分の実力を発揮するものでしか無かった。と言うより、実力と実力とのぶつかり合いの末に、結果として勝ち星が転がり込むと言う認識だった。

少なくとも今までは。

 

「敗けるってのは、エースからしたら許されない。実力とかそう言うこと以前に、勝たなきゃならない。それに」

 

「それに?」

 

「敗けるより、勝った方が遥かに気分が良い」

 

「―――まあ、そりゃそうだわな」

 

獰猛な鷹の如き凄みが溢れる笑みを見せた彼を見て一先ず安心した御幸を他所に、エースは思う。

 

―――自分の所為でだけでなく、チームが敗けて泣く姿を、自分は二度と見たくはない。

 

今までどこか、自分の後続が打たれても他人事だった。『あ、まずい』くらいは少し頭を過ったが、それも割りとどうでもよかった。『ああ、敗けてしまった』と思ったし、悲しみも湧いたが、どこか自分の所為では無いという考えがあったことは否定できない。

チームメイトに頼られ、投げる。そうすれば殆ど、自分の義務を果たせた。普通に先発エースとして駄目な失点をすることもあったが、それでも敗けはしなかった。

 

それだけでは駄目だと、打たれて敗けて初めてわかった。

エースは、チームを勝たせるからエース。後続が打たれて敗けたら、その黒星は打たれた後続の所為ではなく、エースの所為。

 

エースは、どのみち星を背負う。背負わなければエースでは無いと、斉藤智巳はこの時思った。

 

「で、今日は練習に出るだろ?」

 

また複雑な顔をし始めたエースに、女房役が声をかける。

さっさと意識を切り替えさせるのも、キャッチャーの務め。この辺りの察しの良さは、流石は御幸と言うべきだった。

 

「そうだな。己の無力さをもう一度確認してから、監督に謝りに行く。練習に出ていいかは、その時に決めてもらうつもりだ。勝手にサボってしまったわけだから、それなりのこともあるだろうし」

 

「そっか。ならまあ、一足先に行ってるわ」

 

どこに行くかと言えば、素振りだろう。青道の打撃陣は、暇さえあればバットを振っている。

御幸一也もそのクチであり、それは決勝の勝ち越しのチャンスで凡退してからより激しくなっていた。

 

「ああ」

 

日が差し込む机の上で、パソコンが立ち上がる。

画面の中を矢印が動き、そのまま迷いも躊躇いもなくショートカットをクリック。

 

動き出した風景の中で、自分が立っていた。

 

『先発の斉藤君、これまで素晴らしい投球を見せていましたが九回裏ツーアウトでピンチを迎えています』

 

実況の声が、状況を告げる。

素晴らしいと言うのは言い過ぎだと思うが、我ながら八回までは良かったと思う。無失点というのは、いい出来だった。

 

だが、結果として敗けたから何も褒められない。ただの敗戦投手である。

 

『この回を乗り越えて延長に入るか、このチャンスをモノにして甲子園行きを決めるか!』

 

そう言って、ストレートが投げられた。

高い球。それを、原田雅功のバットが弾き返す。

 

脇を抜け、二塁手の小湊亮介が横っ飛びに捕る。

代走として出てそのままショートに入った倉持に向けた送球が逸れ、二塁はセーフ。

 

ホームにカルロスが帰り、サヨナラ。

 

間に合わなかったバックホームをしようと踏ん張る倉持が愕然とした様に辺りを見回している。

天を仰ぐ御幸。

崩れ落ちた自分。

そして、東清国等、三年生が泣いていた。

 

動画を止め、着替える。

行くべきところに、行かねばならない。

 

すれ違う他の部活の部員たちに軽く頭を下げながら、彼は目的の部屋の扉に立つ。

 

「失礼します」

 

ノックをして、入る。

そこにはサングラスをした強面の男性が座り、眼鏡をした知的な女性が立っていた。

野球部の監督と、スカウト。前者はここ半年で大分人となりを知ることができ、後者はかなり前、リトル時代からの顔馴染み。

 

その二人に頭を下げ、先ずはとばかりに謝った。

 

「私情で練習を休んでしまい、申し訳ありませんでした」

 

「頭を上げろ」

 

真一文字に結ばれた口から強面にふさわしい声が出て、斉藤智巳は頭を上げた。

 

「身体に問題がないなら、今日から練習に復帰しろ」

 

「……良いのですか?」

 

「ただ休んでいたわけではないことは、こちらもわかっている」

 

青道高校の監督・片岡鉄心は、かつてドラフトの目玉とすら言われた青道高校のエースだった。甲子園決勝まで勝ち進んだ彼のスタイルは、目の前に居る今のエースとよく似ている。

 

三振を一つ奪う度に吼えるその姿は、OBから見ても似ていると言われるほどに似通っていた。

だから、わかることもある。自分の所為で敗けたということを、強く受け止めたエースは、それを乗り越えるまでに時間がかかる。

 

そのことは、他の部員たちもわかっていた。

誰も何も、言わなかった。ただただ、その復帰を待っていた。

 

練習への復帰をあっさりと許された嬉しさもあるが、どこか釈然としない部分もある。

 

そんな複雑な気持ちを抱えて、彼は久しぶりにグラウンドに顔を出した。

 

すぐさまこちらを見つけ、ニヤニヤと笑いながら手を上げた相棒に反応を憮然としたまま受け、切り替えて周囲を見回す。

そして、グラウンドに集まった全員に聴こえるような大声で、彼は言った。

 

「自分の不甲斐なさを見つめ直し、戻ってきました!これから休んでいた分を取り返し、それを凌駕する勢いで練習に励みますので、よろしくお願いします!」

 

深々と頭を下げ、上げる。

二年生と一年生しかいないグラウンドを少し寂しいような気持ちで見渡した。

 

「よく帰ってきた、エース」

 

バットを置いて、結城哲也は皆を代表してそう言った。

嘗ての五番としての立場ではなく、今の代のキャプテンとして。

 

夏が終わり、秋がはじまる。

新チームの始動と言う一番重要なことを任された主将は、どこかぎこちなくそこに居た。

 

「新チームになっても、よろしく頼む」


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