あなたの香りに包まれて   作:bui

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紫陽花の香り

小野寺さんが律だと分かったのはあの出会いの日、律の友人だという清宮尚に会ったからだ。彼の口から律という言葉が出て初めて目の前の小野寺さんが10年前に消えてしまった恋人の律だと知った。

10年前、確かに俺は律をひどく傷つけたのだ。俺が意図したことではなかったのだけど説明も弁解もするすべなく、そのあと律はぶっつりと消息を絶った。

探しても探しても律はどこにも居なかった。

そして俺の悪夢のような日々が始まったのだ…。

 

 

 

 

10年前、俺はとある私鉄の路線を使う学校に通っていた。俺の学校は公立一貫の男子校、それなりに学力が必要な偏差値の高い学校だったけど男ばかりのせいで年齢的なこともあり、周りの奴らは女の子の話ばかりをしていた。

 

その話題の多くは同じ路線にあるハイソな私立の一貫校の子のことばかりで、白いチヤペルまで校内にあるその学校は、通学時間帯だけ専用の車両を連結して路線に走らせていた。当然むさい俺たちはその箱には近づくことは許されず、男たちの多くはそんな排他的な雰囲気に興味をそそられていたのだ。

 

「最近見かけるりっちやんさ、中学までは運転手様の送迎だったらしいぜ。」

「すげー可愛いよな。」当時唯一の友人の横澤が自分の所属しているサッカー部の仲間が主になっているそのグループと親しかったために、部活のない日などは俺も一緒にそのグループと帰ることが多かった。

 

ただその仲間に対しては興味があるわけでもなかったために、いつだって話題のほとんどは俺の耳には入っていなかった。

だからその『りっちゃん』の事はそのあとも良く知らないままなんとなく時間が過ぎたのだった。

 

そのグループの面々は『どうしたらりっちやんと知り合いになって仲良くなれるか』を楽しそうに話していて、「ぶつかる」「ハンカチを落とす」「手紙を渡す」といろいろとシミュレーションをし始め、とうとう『りっちゃんに迫ったら何日でお友達になれるか』の賭けまではじめたのだ。

どうやら超セレブで可愛いりっちゃんとお友達になれることは彼らにとって十分なステイタスで、さらにゲームのように楽しめることらしい。

そして俺は益々どうでもいいことだと白けた気持ちになっていた…、そんなある日だった。

 

部活をやっていない俺は帰りはいつも一人だ。進学校の部活動は三年生になってすぐに終了する。当然横澤のサッカー部も夏の試合のために練習はしているもののおそらく早々に決着がつきそうなレベルらしく、負けたらすぐに引退だと言っていた。

それでも朝練夕練と最後の夏を飾るべく練習に励んでいるようで、俺は横澤と帰宅をすることはほとんどなくなった。

 

とは言っても普段の日の俺は家に直行するわけではなく、図書館で時間をつぶしたり最寄り駅の本屋をぶらぶらして帰宅する時間を遅くしていた。

早く帰ったところで家で待つ人もなく、無駄に広い家は一人を余計に実感させる。たまに偶然会う家族も俺の存在を喜んではくれない。

 

三年ともなれば塾に通ったりするべきなのだろうと思わなくもないけど、それを相談する両親は俺のために時間を作らない。

 

 

そんな俺はその日早い時間に電車に乗った。いつもより少し早い帰宅は、最近拾った猫のソラ太が気になったからだった。

先日の雨の日に、段ボールの小さい箱の中でブルブルと震える子猫を見つけた。 せめてもの雨よけにと置かれたはずの(のき)は、しかしほとんど役に立っておらず、(ひさし)を伝って冷たい滴がタラタラと落ちて猫の被毛にあたっていた。

猫の毛からも氷雨が滴り落ちて寒々しい空間を痛ましく作っていた。

 

子猫は人を警戒するように俺を見てミャアと鳴き、また婿びるようにもミャアと鳴いた。寸前までは温かい母親の体温に包まれていたのだろうに。何が自分に起こったのかもわからないのだろう子猫…。拾ってくださいと書かれたものがあるからには野良というわけでもあるまい。

 

人に拾われるしか生きる道がないくせに人の手を恐れている瞳。 このまま降り続ける冷たい雨に体温は奪われておそらくその灯は一晩は持つまいに...。

そのあっけなく見える命の軽さがいつも一人ぼっちの自分と重なって、つい手を差し伸べてしまい、小さいその躯を胸に(いだ)くとまた猫はミャウと弱々しく鳴いたのだった。

 

その時間帯の電車はひどく混んでいて、ギュウギュウと押されるように乗り込むとさらに後ろから入ろうとしている奴らが強く押してくる。俺が下りるのは3つ先なのであまり奥には行きたくない。ドアの横のバーに凭れるように身を置くとドアがやっとという感じで閉まった。

 

まだまだ寒い日もある不安定な季節なのに車両の中は蒸し暑く、誰かの荷物に今夜のおかずが入っているのかひどく刺激的な香りが辺り一面を覆っていた。

 

気持ち悪い…。

 

丁度買い物帰りの客も多くいるような時間なんだと、自分が選んだこの帰宅時時間の失敗に身もだえるけどもはや手遅れだ。

あと少しだけ我慢すれば自分の降りる駅なのだからと、人より少し高い背に今日だけは感謝をしていると、急に俺の制服がグイっと引かれる感じがして密着したそこを見ると茶色い髪の毛がぐらぐらと揺れいる。

電車が揺れたわけでもないのに俺に縋っているそいつを見下ろすと、制服を掴んでいた手から力が抜けていくように今度は下に引かれる感じが消えた。

 

人に挟まれているからそのまま倒れこむことはなさそうだったけど、揺れた瞬間に見えた顔の色はどう見てやばそうだった。

 

「お前!?大丈夫?」

やっとのことで腕を上げて肩をつかんで声をかけると「大丈夫です。」とまったく大丈夫ではなさそうなか細い声が胸の辺りから聞こえてきた。

 

とりあえず、まだ何とか返事をできるぐらいの状態ではあるようだと少しほっとして、自分の降りる駅だったのでそいつを抱えたまま開いたドアから外に出ると冷たい風が吹いていてやっと息が出来たような気がした。

人で充満した車内がいかに蒸したががよくわかる。

 

プラットホームの端にあるべンチにそいつを引きずって行って座らせると「すみません。」とそいつはまたか細く言った。

しかし顔を上げるのも辛そうで、「駅員を呼ぶ?」自分にはもうどうにもできないことが分かっていたのでそう聞くけど「少し休んで帰ります。お世話をおかけしました。」とそいつは申し訳なさそうに少し顔を上げて俺に告げた。

 

放っておいても大丈夫という意味だとは思ったけどこのままこいつを放置しても行けない。普段は面倒事はごめんだと思っているけど、さすがに具合の悪い人を見捨てるほどには冷酷にはなれなかった。

 

自動販売機で冷たいイオン飲料を買って、ベンチの背もたれにぐったりと寄りかかるそいつの座っている横に座ると、はっとしたようにまたそいつが顔を上げた。

 

緑色に見える瞳は大きく、呆れるほどまつげが長い。

とても男とは思えなかったけど制服は男子物で、あの私立の一貫校のヤツだと一目見て分かった。

 

男女の比率はどうなのだろうか?あの特別室のような車両は女子ばかりだったような気がするけど男も乗っていいのだろうか?

 

男子は適当に一般車両に乗れってことはないよな?

なんとなくそんなことを思いながらとても同じ高校生とは思えないその華著で綺麗な姿を見ていたら「一緒に降りてもらってすみません。俺は大丈夫ですから。」と気を使うように言うので「俺の降りる駅がこの駅だから。」と言ってやるとやっと少しだけホッとした瞳をした。

 

「お前どこまでだったの?」 起因はこいつでも引きずって途中下車をさせたのは俺なので今度は俺が少し申し訳ないような気がして聞くと「ここは?」とそいつは周りをキョロキョロと見回した。

 

「北駅だけど。」そう言うと少しだけ強張った顔つきになって「中央駅まで行きます・・・。」 とつぶやく。

中央駅はずいぶん先だ。あのまま乗っていたら吐いたり倒れたりしただろう。

何だかニンニク料理のような香りが凄かったし体調が悪いならあれはきはさぞやきつかっただろう。

 

「乗り物に弱いの?」

「そうでもないんですけど・・・。」

背もたれに斜めに身を預けている姿を見て、横になった方が楽なのだろうけどと、相変わらず具合が悪そうに土壁のような顔色のそいつの頭をぐいっと引いて膝に乗せてやると、そいつは少しびっくりしたようで、身体が一瞬こわばった。

しかし自分の状態が抵抗するほどよくなかったのだろう、すぐに力を抜いて「すみません」とまた小さい声で言ったのだった。

 

 

先ほど近くの自動販売機で買った冷たいペットボトルをハンカチで包んで頬に当ててやるとピクリと肩を揺らしたものの、少しだけ気持ちよさそうにホッと息を吐く。

「すみません」とまた言うので謝らせてばっかりの自分の行為が押し付けではないかと心配になる。

しかしなぜか放っておけない気持ちになって俺のその負の感情は胸の中に仕舞った。

 

「飲めるなら少し飲んだ方がいいけど。」そう言うと頬に当ててあるペットボトルを手に持ち、蓋を開けようとするのだけど力が入らないようで、蓋を掴んだ指はスルスル滑っている。

俺はそのペットボトルを手から取ってもう一度首元に戻してやって、自分用に買ったペットボトルの口を開けて口元に寄せてやる。

瞬間少しだけ戸惑ったような、このまま飲んでいいのだろうかとか、迷っているのだとは思ったけど今更俺が手を放すのもおかしいし、こいつだって妙に意識するのは変だと思っているだろう。

「飲んで。」

短く告げると、そいつはペットボトルの口に唇を寄せてススっと小さな音を立てて液体を喉に流し込んだのだった。

 

 

 

 

さえぎる物のないプラットホームは真冬は極寒、真夏は灼熱に感じるのだけどその日は気持ちの良い風が吹いていた。

 

小さいそら太がじやれまくった挙句俺の足の間で眠ってしまった時のように、安心して身を預けている見知らぬヤツの髪を、そら太にするようにスルスルとさすりながらお互いに無言のままの時間をすごしていると、少しは気分が良くなったのかそいつはむくりと起き上がった。

 

そして「いろいろとすみませんでした。」と丁寧に俺に礼を言った。

 

まだ顔色は戻りきっていないけどここに長くいても良くなるとも限らない。むしろ家に帰ってからまだ不調なら医者にいけるのかもしれない。そんなことを考えているとその沈黙が心配しているように見えたのだろう、そいつはまた少しうつむいて申し訳なさそうに 「車内の臭いがきつすぎて気分が悪くなってしまったんです…。俺臭いに弱くて…。なのに今日ハンカチも忘れちやって…。」 と説明をした。

 

確かにあの匂いは俺でもきつかった。臭いに弱いという自覚のあるヤツならなお更だろう。ならもう大丈夫か。

そう思いながらふと思いついたのは体育の授業のあとに使かっているものだった。

 

「ミントの香りとかならスッキリするんじゃね?」 そう言って鞄に入っていた制汗剤を見せると興味深そうにそれを見たので、そいつの顔と反対側の空中にシュッと噴いてやると猫のように空に向かって鼻をスンッと鳴らした。

 

「すっきりして気持ちがいいですね。」

そう言って無邪気に笑った顔を見て少しだけほっとした俺は、先ほどのペットボトルに巻いたハンカチを外し、制汗剤を噴いてもう一度そいつの手にポスリと渡してやる。その行動が何なのか分からなかったらしいそいつは、パチパチと瞬きをして俺を見つめる。

「こう鼻を覆ってさ、帰れば?」俺が手で自分の口元を覆うような仕草をしてやるとやっと意味が分かったらしく、俺を見ていた大きな目は胸の位置で受け取ったハンカチに視線を落としてからそれを口元寄せた。

そしてまたスンっと一度匂いを嗅いで、安心したように目を月型に細めてもう一度大きく息を吸い込んだのだった。

普段取り立てて使うシーンもなく、ただ毎日義務のルーチンワークでポケットに入れているだけのハンカチは、今日はやっと日の目を見たことになる。

白いハンカチは、取り立ててどこそこブランドとかいう立派なものでもなく、ただ清潔さだけがとりえのような簡素なものだった。

そして「これもお前にやるから持ってけばいい。」 ミントの香りの制汗剤も手渡すと、丁度タイミングよく電車がホームに入ってきた。

 

二人でぼんやりとその電車の入口が音を立てて開くさまを見ていたら、

「お、織田。織田リツと言います。」とそいつはハッとしたように自分の名前を名乗った。

そうか、確かに自己紹介もしていなかったと気づき

「ああ、俺は嵯峨政宗。」と俺も自分の名を告げた。

「嵯峨、先輩ですね。本当にありがとございました。」

織田リツは少し恥ずかしそうにまたそう言うので

「具合が悪くなったら飲み物も飲め。」と飲みかけのペットボトルと口のあいていないペットボトルを指さして言い出発のチャイムが響く中、早く電車に乗れと俺は目で促した。

 

織田リツはまだ何か言いたそうだったけど電車はさっさと行ってしまう。肩を押して中に入れてやると、ずいぶん空いて見える車両の中は冷房も効いていたようだった。

 

今度は大丈夫だろうと 少しほっとしていると織田リツも閉まった扉のガラス越しにいつまでも俺の方を見ている。

いい加減座ったらよさそうなものをと思ったけど動き出した電車はそのうちに尻も見えなくなり、やっと現実に戻ったような気がしてソラ太が待ってるな、と子猫の事を思い出して俺は足早に家に向かったのだった。

 

 

 

 

 

翌朝、学校に行くために駅に着くと、驚くことに織田リツが一人でそこにいた。

 

「なにしてんの?」 明らかに俺を待っていたという顔をしたそいつに声をかけると 「き、昨日はありがとうございました。おかげさまで無事に家に帰れました。」と丁寧に深くお辞儀したまま俺に向かって紙袋を差し出してきた。

 

「昨日のハンカチとミントの香りのスプレーを・・・。」少し声が上ずっているけど今日は気分は悪くなさそうだ。上げられた顔は桃色に染まっていた。

受け取った紙袋の中を見るとハンカチ(だと思われる)小さい紙の袋と、見るからに新品の昨日と同じのミントの香りの制汗剤が入っていた。

 

「わざわざ買って持って来たの?」

 

昨日だってそんなに早い時間に帰ったわけでもないのだろうにとあきれて俺が言うと、真っ赤な顔のまま織田リツが困ったように動きを止めたので、到着した電車にそいつを引きずるように連れて乗った。

あまりぼやぼやしていると学校に遅れてしまう。

 

通学時間は昨日の帰りの電車並みに混んでいて、ドアの近くの手すりの隙間にそいつを庇うように入れてやるとはじめは緊張したような雰囲気があったのに、少しするとふっと安心したような息が聞こえた。

 

こいつ電車で通うのは無理なんじやないのか?今までどうしてたんだ?

大きなお世話とは思ったもののつい「気分は大丈夫か?」と聞くと「は、はい。だ、大丈夫です。昨日のミントのスプレーを服にかけてきました。」と押されて俺に張り付いている胸のあたりからこもったような声が聞こえてきた。

 

そう言われて意識したせいか、昨日やったあのミントの香りがそいつの服から香ったような気がして、使っている時には自分の香りはあまり感じないのに人が使っているとこうやって感じるんだな、となんとも不思議な気持ちがした。

今日は制汗剤がなかったために取り立てて香りをつけずに来たのだけど、織田リツには俺の汗の香りがするのではと気になり始めてしまって、結局無言のまま電車のゆれに身を任せた。

そして…、織田リツからはミントの香りとともに甘い心地よい香りがするように感じて今日は俺の方が何だか香りに酔いそうだと思ってしまった。

 

俺たちの学校がもうすぐなので多くの生徒はそこで降りる。その先は数駅で織田リツが通う学校だ。もう気分が悪くなるって事もないだろうけど…。

「じゃあな。」わざとそっけなく言って電車を後にしたのだけど、本当は心配で学校までついて行ってやりたいぐらいだった。

 

小学生でもあるまいに…。

 

多少自虐的に笑ったのは後ろ髪を引かれる気持ちを断ち切るため。そして最後にそいつの髪をワシッと一つかき回して俺はそこを離れた。

 

それはそいつがなんとも不安げな顔をしたからだった.…。

 

 

 

 

 

 

横澤たちサッカー部の連中は、相変わらず大きな試合が近いために朝も夜も練習に明け暮れていた。

昼休みに話す話題も相変わらずで、練習で女の子とお知り合いになる機会もないとか、そのあとは受験だ、だとかそんな感じの物ばかりだった。

いっそ男同士でとかふざけたことを言ったりしていたけどガタイのいい腕や足には萌えを感じないのだそうだ。そう言うものなのか?

同性愛の意識も経験もないから分からないな…。

 

「ああ、俺りっちゃんがいいなぁ」

 

誰かがまたりっちゃんの事を口にする。

 

「そんなに可愛いのか?」

 

珍しく話に参加した俺に皆はちょっと驚いたようだったけど「ん~、可愛いって言うか、可憐って感じかな?帰国子女でその上金持ち。仲良くできればコネクション広がりそうだしな。」

ふーん、多少は打算もあるんだな。

それは口にせずに話題から静かにフェードアウトしてそう言えばあいつもりっちゃんだな、まあ、男だけどリツって名前なんだからと、弱々しくて庇護欲をそそるあいつのことを俺は考え始めていたのだった。

 

リツはその日も俺の乗る駅で青い顔をして電車を見送っていた。呆れていると、いつも何回も途中下車して様子を見ながら電車通学をしているのだと言う。

自分はもう高校生なのだから誰かに頼らずに電車ぐらい一人で乗れるように頑張りたいと言っていた。

なのでそれからの俺は、そいつが電車に乗っていないかを常に気にして何本か電車を遅らせたりしながら偶然を装ってリツと同じ電車に乗った。

誰かに頼りたくないと言う気持ちを尊重してやるために、わざと作る『偶然』はなかなか大変だった。

 

しかしある時から俺の乗る駅でそいつが時間を調整するようになっていた。

 

嵯峨先輩、嵯峨峨先輩と学校も違うのにそいつも俺を慕ってくれてくすぐったいような心地よさをくれる。弟がいたらこんな感じなのだろうかと俺は一緒の時間を楽しんでいる自分に驚いていた。

もともとは拾った猫のそら太をかまうような気持ちだったのかもしれない。しかしソラ太との圧倒的な違いはリツからも俺に気持ちを渡す努力をしてくれるところだった。

 

ある時リツが「先輩の香りが変わった…。」と俺に言った。

「お前そんなに鼻がいいの?」驚いてそう言うとリツはっとした顔で「すみません。」と謝りながら顔を伏せる。

「いや、別に謝んなくてもいいけど、すげーなって...。ミント系のだけどおんなじメーカーのなくてさ。」俺はありのままをリツに伝えた。だからと言ってそんなに深く探したわけでもなく、こいつがミントの香りが気に入っていることを知っていたのでないならばと別の目にしたものを手にしただけだった。

「どこのですか?俺も同じの買います。」

「はあ?だってお前一昨日買っただろ?」

リツがキュッと真一文字に口を結ん言葉を止める時、言いにくい何かが裏に隠れている。

 

「リツ?」

その言いにくいことを言わせようと名を呼ぶけど案外強情なこいつはなかなか口を割らない。

「りーつ」

「リツ!」

「り~つ~。」

声音を変えて何度か名を呼ぶとやっと小さい声で「だって、同じ香りだと、先輩にギュっと抱きしめられているみたいで…。ごめんなさい、気持ち悪いですよね。」と言った。

 

「電車とか、すごく混んでても先輩と同じ匂いがあれば我慢できるんです….。先輩が俺をかばってくれてる時みたいに…。俺男なのにいつまでもこんなで…。」

羞恥に赤面するリツが可愛くて、触れたい気持ちをとめられなくて、いつもするように髪をワシワシとかき混ぜるとリツが気持ちよさそうに目を細めた。

リツほど俺を必要としてくれているやつはいない。両親さえも俺の存在を面倒だと思って いる。リツは俺がいないとだめなんだ。

そう思ったら愛しさがあふれリツのすべてが欲しくてたまらなくなった。いつも髪をかき混ぜる行為は実は俺にとってはリツに触れてキスをするのと同じなのだ…。

俺を必要としているリツを俺も必要としている。リツがいなければ俺のこの乾いた気持ちは埋まらない。

 

リツがいなくなったらきっと俺は俺でなくなってしまう…。

 

「もっと、同じ匂いになる?」 その日、俺はリツをほぼ一人暮らしの自宅に誘った。

身も心も全部、リツのすべてを俺のものにするために。

 

 

リツは生まれたてのひな鳥のように俺にすがってかわいらしく啼いた。

その戸惑いや羞恥が俺の征服欲を掻き立てて、はじめてにおびえて震えるリツを貪る手を止めるすべはなかった。

 

そして…、すべてを手にいれたつもりだったのにまだもっととリツを欲しい気持ちが膨れ上がる。

リツを俺におぼれさせたい。もっともっと俺がいなければ生きていけないと思うほどにどろどろに溶かしてしまいたい。

 

リツが先輩と呼ぶ声が心地よかった。先輩が、先輩なら、先輩しか...。いつだってリツの中心に俺はいた。

そんな日が永遠に続くと勘違いしていた俺の幻想を打ち崩す出来事がその日に起こった。

 

俺の住む街のはずれには大きな川が流れていて、その川に沿って美しい紫陽花が植えられていた。開花の時期にはその美しさを讃えるような祭りがあると聞いて、休みの日の夕刻、俺たちは待ち合わせをしてその祭りを楽しむことにした。

 

紫陽花は移り気という花言葉を持つそうだけど、そのネガティブさが不似合いなほど美しかった。いや、美しいからこそそのように言われるのかもしれない。

そして紫陽花の本当の花はその中心の小さなツブで、花びらに見えるものは実は花びらではないと聞くと、まやかしの美しさもここまでくれば本物だと二人で驚いたりもした。

 

特にカシワバという名札のついたものは紫陽花とは思えない円錐形の白い花で、風に揺れて美しくリツが気に入ったようで庭に植えたいとはしゃいでいた。

 

リツは女子の着るチェニックのようなシャラリとした生成りの服をなびかせて嬉しそうにその紫陽花の花の香りを嗅いだ。端から見れば男女のカップルにも見えたことだろう。それほどにリツは中性的に見える。

まあ、男同士と思われても別にかまわない。俺にとってリツはもはや恋人以外の何者でもなかったから。

 

長い遊歩道を二人でアジサイを見て出店を冷やかして歩いていると、途中でかなりきつい臭いがしてきたので「平気?」と聞くと、キョトンとした顔のリツが「屋台は初めてです。これは何の匂い?」と聞くので、早速ソースの香りがプンプンするタコ焼きを買って食べる事にした。

 

普段きつい食べ物の臭いには敏感に反応する癖に今日のリツはご機嫌だ。それは俺がいるからに違いないとひどくうぬぼれた気持ちが湧いて、もっともっとリツを笑わせたいと思ってしまう。

 

リツをどろどろに溺れさせたいと思うくせにそれ以上に自分が溺れていることを自覚して口元が緩んで妙に気恥しい。

 

近くのベンチに腰掛けて丸い団子のような熱々のタコヤキを上から見下ろすリツが、踊る鰹節をうれしそうに見ている。

 

そのきらきらした顔が可愛くて居たたまれない。

外なのに抱きしめてキスをしたい…。

重症だ…。

 

こんな大きなタコ焼きはリツのその小さい口に入るんだろうか?やけどしたりしそうだといろいろな事が心配になってくる。

 

せめて冷たい飲み物を用意してやろうと自動販売機を探すと、ベンチのすぐ上の段に機械のうしろ姿が見えた、しかしそこは手の届かないほど高い壁の上で、上の段に行くにはぐるりと回らなければ買えなさそうだ。

俺はリツをベンチに残したまま少し離れた所にある階段を上って自動販売機の場所に到着するとリツがすぐ下にいて、木の葉の影から顔をのぞかせて手をヒラヒラと振った。

 

日暮れとは言え日焼けが心配だったけどベンチには木が丁度良い日陰を作っている。

これなら大丈夫そうだとホッとしたのもつかの間、二つのジュースを手に取ったところで偶然祭りに来ていたらしい横澤が俺を見つけたらしく俺の名を呼んで近くに寄ってきた。

 

「お前にやらなきやならないと思ってたんだ。ちようど良かった。お前さ、最近りっちゃんと仲良しなんだってな。」

横澤の言っている事が分からなくて返事もしないでいると、横澤は俺のその態度には構わずにポケットから少し折れ曲がった茶封筒を引きずり出して、飲み物でふさがった俺の手の隙間に突っ込むようにそれを握らせた。

 

「なに?」

「賭けの勝金だ。」

 

賭け?賭けってなんだ?

 

「まさかお前に先を越されるとは思わなかったけどさ、少し興味もある感じだったしな。俺たち賭けをしてただろ?りっちやんに迫ったら落とせるかってやつ。まあ男同士だから仲良くったって限界があるからな。」

 

何の事だ?

りっちやんって…。

 

ふと見下ろすとベンチから立ち上がって呆然としているリツがそこにいた。足元にはさっき買ったタコヤキがペシャリと落ちていた。

 

リツがりっちゃんなのか?まさか!りっちゃんは女の子じゃなかったのか?!

 

そのときに以前あのグループでりっちやん可愛いと騒いでいた連中の事を思い出した。

 

「違う!」

 

ダッと駆け出したリツを追おうとするのだけど目の前には高いフェンスと段差があり追いつけない。

 

人ごみが苦手なリツなのにどんどんと人の波に飲まれていく。

 

 

今まで出した事のないような大声でリツを呼びながら追い続けたけどリツの姿はとうとう見つからず、理由を察知した横澤も途方にくれた俺の隣でいつまでも立ち尽くしていた。

 

 

「すまん、あいつらに言われて勝手に俺が金を立て替えていたんだ…。」

横澤の声だけが頭の上を滑って行った。

 

 

そしてその日から、オダリツは俺の前から消えてしまった。

 

織田リツは探しても探しても逃げ水のように実態が見つからなかった。

 

何かがりつを隠してしまう。そもそも織田リツという存在がない。

確かに手の中にいたはずのリツは近くまでたどり着いたかと思ったても煙のように消えてしまうのだ。

 

 

そして俺は、両親が離婚をして嵯峨から高野になり、遠い香川の祖母のところへ行かされる事になった。

 

結局リツの事は何一つ見つけることができず絶望のままに…。

 

 

 

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