あなたの香りに包まれて   作:bui

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痛みの香り

<尚>

 

律の実家は大きな会社をやっていて、律はその直系の息子だ。

 

元々は軍需産業の裾野をうろちょろとしているそこそこの大きさの会社だったそうだけど、時代も良かったのだろう、律の曾祖父は戦時中にうまく立ち回って巨大な財を成したという。

 

そのひいじいさんは没落した元華族の令嬢の律の曾祖母に惚れて惚れて惚れぬいて、ある意味では金に物を言わせて結婚したという噂だった。

 

余談だが公家の血筋であった曾祖母(おおおばあさま)の親類は今でも香道の家元をやっているほど香りに精通していて、律の香りに対する感度は遺伝なのかもしれない。

 

曾祖父(おおおじいさま)曾祖母(おおおばあさま)も、いつもにこにこと幸せそうで血なまぐさい話もどろどろとした金の話も感じさせなかった。

しかし現実はかなりの恨みを買うような出来事があったようで、律自体も幼いころから誘拐をされかかったり事故を装った殺人めいたことに巻き込まれそうになったりと命の危険にさらされていた。

 

律の身を心配した家族は小さい律を海外に住まわせて、小野寺ではなく織田とい名字を名乗らせて小野寺の家とのつながりを隠した。やっと周りが落ち着いてきた頃、進学などのことも考えリツは日本に戻された。

しかしリツはその頃はまだ小野寺律ではなく、オダリツとして暮らしていた。

 

ところで、リツのじいさんと俺のじいさんは幼馴染でとても仲が良かったそうだ。そこにはいくばくかの物語もあったようだけど結論から言えば、お互い結婚してからも家族ぐるみで付き合いをする良い関係を継続していたのだそうだ。

 

しかし突然の病で祖父も祖母もあいついで亡くなり、医学生だった父は近い親族もなく、慈善事業のような医院をやっていた父親の遺産なども当てにできず途方に暮れていた時に、リツのじいさんから援助を申し出てもらい、医者になった。

 

父は今でも小野寺の家には足を向けて眠れないと口癖のように言っていて、俺も小さいリツが慕ってくれるのをいい事にリツを弟のように可愛がり、弟以上に甘やかした。

 

そんなリツがある日ぐずぐずになって帰って来た。

 

いや、病院に保護された。

 

家とも学校とも異なる区の、川の下流で水に落ちたところを釣り人に保護されたのだそうだ。

 

当初女の子だと思われていたために若干情報が乱れていたそうで、夜中になっても帰ってこないリツを探すために、事件事故の両方で警察に届けを出していたにも関わらず、りつが保護されたと連絡が来たのは翌日の昼を過ぎていた。

 

俺たちはりつがひどい事件に巻き込まれたのではないのだろうかと生きた心地がしなかったのだが、戻って来たリツは更にひどい状況だった。

なにを聞いてもただダラダラと涙を流し何に対しても反応をしないリツ…。

 

何がリツに起こったのだろう?すでに曾祖父が亡くなって十年以上経つ。実際に当時の主犯格の一味はすべて粛清されていたはずだ。確かにリツを利用しようとする人々は老若男女後を絶たないとは言え、こんな風に今更恨みの残り火がリツへの矛先になるとは思えない。

 

しかしりつは食事どころか身の回りの些細なこともできないほどの心神喪失で、自分を保っていられる状態ではなかった。

意図的に何かされたのか、事件性があったのか、しかし複数の目撃者の証言では、リツはふらりと一人で川に入って行ったそうだ。

 

取り立てて外傷もない…。

 

薬物を使われた形跡もない。

 

途方に暮れるも取り急ぎ最悪の状況を踏まえて住んでいた家を処分し、ある程度の身の回りのものを持ってきて、リツがそこにいた痕跡は消した。

 

かき集めて来たリツの物の中には何種類かの制汗剤があった。香りに対して過敏に反応するリツの事だからこれにもなにか思い入れがあるのだろうと、もし気に入っているモノならば何かの反応をしてくれるかもと、すがる思いでリツの身体にシュッと噴きかけると焦点のあっていなかったリツがその香りに視線を上げた。

 

事故から初めてリツは俺の顔をじっと見たのだ。

 

しかし、次の瞬間大声で叫んで、泣いて、暴れて、慌てて抑えた俺の手をすり抜けて部屋から飛び出して行った。

 

急いで追いかけると、リツは閉まったままの外への窓ガラスに激突してガラス戸の向こうに転げ落ち、破片で血まみれになりながら自分の身体についた香りを払うように腕をかきむしっていた。

 

身体についたガラスの破片が深く刺さり傷が深く刻まれていく。

 

暴れるリツを俺一人では抑えきれず、騒ぎに駆け付けた父親が取り押さえてやっとリツの動きはとまり、その後クスリで眠らせるまでリツはイヤダと言い続けたのだった。

 

その日からリツは時々正気に戻るようになった。しかしすぐに何かを思い出して叫んで暴れてせっかく治りかけた傷口もそのたびに開いて、また血まみれになり鎮静剤で眠らせるという事の繰り返しになった。

 

俺はそんなリツを毎日抱きしめて泣いた…。

 

自分を無くしてぼんやりと落ち着いているように見える時のリツは、嬉しそうに何かを呟いていて目の前に誰かがいるように語りかける。

しかしそのうちにハッと何かに気づいて錯乱する。

 

そのトリガーが何なのか俺たちには分からない。リツはそれを語れるような状態ではない。

 

深層心理に深くもぐりこむ事は非常に危険だとは分かっていたけど、このままではリツは本当に戻ってこなくなってしまう。そしてリツの精神は肉体が滅びるまで地獄の中をさまよい続けるのだ

 

そう、みんながそんなリツを見ているのが辛かった。

 

辛い事のすべてを忘れさせる。

そうしないとリツのすべてが壊れてしまう。

 

俺と父さんは、大事な大事なりつが自分たちを忘れてもいいから、全部全部まやかしでもいいから、リツの中の辛さを楽しい記憶に置き換えることにしたのだった。

 

 

父は精神科の医者なので、リツに時間をかけて暗示を施した。

 

繰り返し繰り返しささやきかけて、嫌なことは忘れていいんだ。楽しいことを考えようと心に刻んだ。

 

 

そしてリツがやっと昔のリツに戻った一年後、俺は本当はずいぶん年上なのだけどリツの友人として一緒にイギリスに渡った。さも偶然出会ったように装って。

 

ここならだれもリツの事を知らない。リツが何かを見てそれに反応して忘れたはずの記憶を取り戻すことも無い。

 

リツは自分の過去をゆがめられていることを知らない。新しく植えつけられた出来事を信じている。

 

ごめん。それが正しいのかどうか今でも俺にはわからない。でもそんな罪も全部俺が負うから。

 

だからたまに出るまやかしと本物の揺らぎを俺が塗りつぶす。

 

催眠は暗示だ。

 

リツにそうあるべきと言うキーワードを与えてある。

 

ずっとずっとリツを見守っていた。大事な大事なリツを俺は腕の中に抱えて守り続けて一生を過ごす。

 

リツだけのための俺になる。

 

そんな覚悟をしていたのに、あの日…、そもそもの元凶のそいつが俺たちの前に現れたのだった。

 

 

 

 

<高野>

 

酔っ払ったリツを家に送ったあの日、俺の前に現れた清宮尚は俺にリツに近づくなと言った。

 

その慇懃無礼な態度に腹を立てて、自分は昔のリツの知り合いだと告げるとさすがに驚いたようで、リツがなぜ今こうなっているかを説明された。

 

それは誤解なんだ。

 

俺はずっとリツを探していたのだと告げるも、あの後のリツの悲惨な状況を事細かに説明されると胸が苦しくなった。

 

「誤解も六階もないと思う。リツは傷ついておそらくあのままだったら今存在していない。あんたがもしリツを好きだというのなら、もう一度どうするのが正しいのか考えて欲しい。」

 

清宮尚は静かにそう言った。

 

 

リツが川に落ちた時、清宮は「死ぬつもりで飛び込んだように見えた」と目撃者が言っていた事も俺に知らせた。

 

真相はリツしか分からない。でもあのときの状況を照らし合わせてみればそれほどその行為は常軌を逸してはいない。

むしろしっくりと来る解釈だ。

 

俺は結局その時の彼の覚悟の前にすごすごとその場を引き上げるしかなかった。

 

 

なによりも酔っ払って苦しかろうと外した首のボタンの中に、赤黒くケロイドになった傷跡が無数に見えたのだ。

 

リツはいつだって襟のボタンをきっちりと止めていた。

体調が悪かったあの再開の日さえ、その首元はゆるめられはしなかった…。

この傷の事をリツはどのように理解しているのだろうか?

 

その盛り上がった傷跡は、まだまだ痛々しく癒えていないのだと主張する。

そして俺もいつまでもグズグズのままの過去を隠して隠されて、そして出来たまやかしの張りぼての城の上にいるだけなのだ…。

 

もう一度やり直したい…。

 

そう思ってもしばらくはリツの顔をまともに見ることができなかった…。

 

ごめん、リツ。

追い付かなくて。見つけられなくて。今まで気づかなくて…。

 

 

だから…。

 

俺はもう昔のリツを追うのはやめよう。俺の中に鮮やかに残る愛しいリツの残像は俺の中に宝物としてしまっておこう。

 

 

そしてリツと今を始めたい。

 

その考えが正しいのかどうかわからないけど、リツ、俺を拒絶しないで。

 

 

お願いだから…。

 

 

 

 

 

 

 

「小野寺さん」

 

高野さんの声が耳元で聞こえて意識がふわりと浮上する。

 

ああ、そうかと自分をすっぽりと包んでいる温かさに夢から今に戻る。

ひきこもってどれくらい経ったのだろう?今日は何日で今は何時なのだろう?

 

寝室の遮光カーテンは部屋をいつも闇夜に変えるけどちらりと覗く隙間の向こうは明るく見える。

 

「朝なの?」

 

呟くように問うと「もう昼に近いかな。」ともう一度強く抱きしめられて低くて響く声が耳元に聞こえた。

 

耳がくすぐったくてくすくす笑いながら「オナカ空きましたか?」そう聞きながらも自分自身が思い出したように空腹で喉も乾いていることを再度実感した。

 

高野さんに好きだと言われてそのまま俺は身も心も高野さんを受け入れた。

色々なことを考えなければならなかったはずなのにすべての事を棚の上の方のさらに奥にしまい込んで。

 

なんで高野さんは俺を好きだって言ったんだろう?忘れられない恋人がいるって言ったくせに。

それとも忘れられない恋人の事はもうどうでもいいのだろうか?そんな薄情で軽薄な人には思えない。

じゃあなんだろう。俺の気持ちを知って同情?

 

冷静になればこんなにぐるぐると自分では答えの得られない事ばかりを考えてしまっている。

 

「デリバリでも頼もうか?」

 

高野さんがスマホを手にそう言うので、近くにデリバリサービスをしてくれるお店があることを思い出した。身体を起こそうとするとあちこちが重くてどうにも身体を動かせない。ろくな恋愛経験もない俺なのにまさかいきなりこんなことになるなんて不思議だ。

 

起こそうと思っていた身体をもう一度シーツに沈めると高野さんが背中からギュッと俺を抱きしめて頬ずりをした。

 

 

ハッカ煙草の匂いのしない高野さんの香りは俺の気持ちをざわつかせ、目を瞑ると何かが脳裏を横切る。

でもそれを追いかけようとしても実態をつかむことはできない。

 

深く深く思い出を潜るように意識を飛ばすけどやっぱりそこには陽炎のような実態のないものしかなかった。

 

「俺…、昔事故にあって、一年ぐらい昏睡だったそうなんです。」

 

何を聞かれたわけでもなく、なんの言い訳も必要ないのに急にそのことを高野さんに告げたくなった。

身体を抱きしめてくれている手で気持ちもギュッと抑えてほしかったのかもしれない。

 

「そのことが原因かどうかわからないんですけど度々精神的に不安定になることがあって…。事故の原因とか、家族も何も教えてくれないんですけど、家がらみで誘拐されそうになったり、脅されたり、仲良くなった人に利用されていたと解ったりということがあったので、そういうことなのかもしれないです。」

 

自分からしゃべり始めたくせに途切れ途切れになってしまって、自分でも何を伝えたいのか分からなくなってしまう…。

続く言葉を出せずにいると高野さんが腹に回した手を上げて「小野寺さんの不安は俺が受け止めますから大丈夫ですよ。」と髪の毛をワシっと一回かき回した。

 

その手がひどくうれしくて、ホッとするのと同時にやっぱりざわつく。

 

 

 

高野さん、高野さん。

 

高野さん……。

 

 

 

 

続く言葉は今の俺には見つけられない気がして身を預けたまま目を瞑ったのだった。

 

 

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