あなたの香りに包まれて   作:bui

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夜桜の香り

ぼそぼそとした話声に眠りから覚めるとそこは自分の家の寝室だった。

うっすらと目を開くけど眩しくて大きくは開けない。

誰がいるの?と思うけど目が開かない上に身体も思うように動かない。

この感覚、ずっと昔どこかで経験した事があるような気がする。

 

周りで誰かがずっと何かを言っていて、でも身体も動かなくて、言われている事も言葉は分かるのにそれが何かを理解できなくて…、なんで理解できないのか分からないのだけどそれが分からないことが異常だとは分かった。

 

そんな変な感覚のままもう一度目を瞑っていると今度はすこしだけ頭の中がクリアになったように状況がわかり始めてきた。

 

そんな時に、小声ながらも言い合いをしているような厳しい口調の声が近づいて来た。

 

声の主は尚と高野さんのようだった。何で二人が?

確かに尚はこの部屋の鍵を持っている。

頻繁に訪れるわけではないけど定期的には来ていたような気がする。

写真家だからカメラを持ってあちこち飛び回っている尚だけに来る時はいつも突然で帰るのも突然だ。

 

「なにが引き金か分からないと言っておきましたよね。だから俺はやめて欲しいと言ったんです。」

部屋に入ってきてからも小声で、しかしきっぱりと話す尚の言葉は高野さんを糾弾するように感じた。

普段の尚は頭の回転が速いからいじわるな言い方をすることもあるけど他人に対しては決して乱暴な口の聞き方をしたりはしないのに今の尚の言い方はかなりきつい。

 

「あなたがリツに近づかない、それが一番正しいはずです。」

 

高野さんが俺に近づかない?

 

俺と高野さんの事を尚は知っている?

 

とっさに羞恥の気持ちが湧くけど相変わらず身体も動かないし声も出ない。

 

第一なんで尚がそんなことを高野さんに言うんだ?

言われている高野さんは少し返事を迷っているようだったけどそれでも低い声で「知られないようにしてますし、あなたとの約束通り昔の事を思い出してしまいそうな時はこうやってお知らせしています。」と言った。

 

「眠っている状態では暗示のかけ直しもできません。とりあえず様子を見ることにしますけどあくまでも一時的なものでしかないんです。本格的に記憶をまた閉じ込めるには父のところに行かないと無理ですから。」

 

尚がチッと舌打ちをしながら言うのを高野さんはどんな顔で聞いていたのか。

 

記憶…。

 

暗示…。

 

そんないくつかの言葉を聞きながら自分の中にいるもう一人の自分の記憶が流れ込んでくるような錯覚に駆られた。

 

悲しい事や苦しい事を全部引き受けてくれていたもう一人の俺は少し皮肉っぽく笑ってお子様の時間は終わりだと言ったような気がした。

 

 

 

学生の頃の俺はいつも学校に送迎されて通っていた。

 

日本にはまだ邪な気持ちを持っている人がいないとは限らないと、少し病的とさえ思えるほどおびえている母が俺の一人での行動を赦してはくれなかった。

 

そう言いながらも母は俺を見るのが嫌らしく、一緒に暮らそうとは言わない。

 

幼いころ息子が受けた暴力に対しての疑似体験が辛すぎて俺を直視できないのだ。

 

なのにイギリスから俺を呼び戻したのは、体面とか体裁とかそういうものだったのだろう。周りの不穏な人々が明らかにいなくなったのにある程度自分のことができる年齢に達した本家の長男を海外に置いて置けばバッシングも厳しくなる。

それでなくても相続のことなどでいろいろと言われることが多かったようなのに。

そう、誰にも文句を言われないような一流の学校を出て会社を継ぐ。それが俺の役割だった。だけどその立場に対して俺はひ弱で、並み居る屈強猛者の系列会社の長を束ねていくなどとうてい無理だと一目瞭然だったのだから。

 

それならばと通うことになった中学は御三家と呼ばれたりトップ校と呼ばれたりすることのない一風変わった教育を行っているところで、祖父が俺のために用意してくれた帰国子女の学びの場として優れた小さい私立の中学校だった。

 

学校のカラーは自由。体験を重視した小人数制で、教師はほとんどがイングリシュネイティブだった。

 

 

 

 

 

 

 

入学式を終えて少しした頃、毎日送迎という生徒はさすがに少なく、甘ったれの坊ちゃんと思われるのが恥ずかしくてある時期電車通学にチャレンジをした。

 

でもヨーロッパの冷たい空気と異なる独特の芽吹きの香りを含んだ地熱にボーっとしてしまい、目眩を起こした時にその人がよろけた俺の腕を「大丈夫か?」と言って引き上げてくれたのだ。

 

笑えるぐらい唐突な話だけど、たったそれだけで場所にも環境にも緊張していた尖った気持ちが、面取りをするようにツルツルと丸みを帯びていくのが分かった。

 

日本は怖い所だからと言われて育ったためか、ここにいることが不安で、でも男のクセに怖いとか嫌だとか恥ずかしくて誰にも言えなくて、周りの何もかもが自分に良くないもので構成されているように感じていた俺の世界に、ポツンと灯りが点ったように思えた。

 

それから後も、心配する家人のせいで電車で通うことはほとんどできなかったけど、それでも隙を見つけては苦手な電車での通学を試みていた。

 

ただその人の姿を見たいだけの理由で。

 

真夏の陽炎が立つような厳しい日差しの中でも、真冬の凍り付くような木枯らしの風の中でも、その人は表情を崩すことがなく、ゆれる前髪はいつだってほんのりと暖かく見えた。

 

ただ見るだけでいい。だってその人は男の人で俺も男だから。

この感情が何なのか、うまく当てはまる言葉は見つからなくて自分にさえはっきりと説明することはできなかったけど、あこがれている先輩がいて、そんな先輩を見たいだけだからいいじゃないかと自分に言い聞かせつづけた。

 

近づくなんて無理だった。話をしたいとか触れてみたいなんておこがましい。

その人は俺にとってそういう対象ではない。偶像とか、崇拝とか、そう、神様みたいなものでひたすら見つめていたいだけだった。

 

その人は俺のことを何も知らないし俺もその人のことを知らない。でもそれで良かった。

 

見てるだけなら悲しい気持ちは持たなくて済む。

好意をもっている人に裏切られることも無い。

冷たい目や嘲笑する顔を見たりすることもない。

 

それでも高校生になって、お世話係りを説き伏せて電車で通学をする許可をもぎ取った。

香りのこと以上に乗り物にも弱かった俺には長い道中の通学は苦行の連続ではあったけど、少しだけ精神的には開放されて、好きなことに時間を使うこともできた。

 

一番好きだったのはプラットホームでその人の黒い制服が薄桃色の桜の舞う背景に浮かびあがっていた時。

みんな同じ服を着ているのにいつだって俺はその人をー番に見つけられるんだ。

 

雨の降る日、迎えの車の窓からあの人が愛しげにーつの命を抱えあげたのだって見つけた。

 

もう大好きがあふれて止まらない…。

 

 

そんなある日、電車の中のひどい混みと不快な香りに気が遠くなった俺は、近くに寄らない誓いを立てていたのに、あろう事かその人にすがってしまった。

混み方がひどすぎて近くにいるとは思っていなかった。それもすぐ横にだなんて…。

そのあとは夢のような時間だった。いろいろな気持ちがない混ぜになって俺はその人の知る人間となった。

 

今もはっきりと顔を思い出せる。涼し気な長いまつげ、くっきりと影を落とす彫の深い顔…。

あの時お友達と俺をかけて遊んでた先輩は、そうだ…、高野さんだったんだ…。

 

閉じ込められていた記憶の断片がフワリフワリと縁日で作られて空に放たれる風船のように頭の中にぽっかりと浮かんでいく。

先輩と付き合うようになってそういうところも行けたらいいなと夢を見ていた景色のままに。

 

 

先輩は今度はどんなゲームを俺に仕掛けたんだろう。

 

今度は俺から何を奪えば勝者になるの?

それとも友達だと思い込ませていた尚と騙されている俺を見て楽しみたかったんだろうか?

 

何度も、何度もあなたのことを好きになる俺は本当に馬鹿なヤツ…。

 

そうだね、今なら桜の香りを作ることができると思う。

 

今度こそ本当に作ることができる。

 

夜の闇に浮かぶ夜桜…。

 

振袖に身を包み、憎んで蛇に変化してとり殺してしまおうか…、愛しい人ごと街に火をつけようか…。

 

 

 

そんな香りだね。

 

 

 

 

 

 

 

「尚と高野さんがなんでいるの?」

 

本当は疾に起きていたのにさも今起きたばかりの振りをして俺は二人にそう聞いた。

 

おそらく同時に顔を出すことでその質問をされる事を予測していたらしい二人は共に心配そうにしながらも

「たまたま寄ったらお前が気を失ってるってこの人が慌てていたから。」

「救急車を呼ぼうかとうろたえていたところで清宮さんが来たから助けてもらった。」 と淀みなく言った。

 

「病院に行こう、律。」尚が俺に向かってそう言うけどそれに応じる気持ちはなかった。

 

「今は何だかシャキッとしなくて動きたくない。」

 

もごもごとそう言うと高野さんが「でも一度みてもらったほうがいい。このままでは心配だ。」と言う。

 

病院に行かせて何をするつもりなんだろう。それは尚の父親の病院なんだろうか。 顔では精一杯平気なフリをしてみせても心は疑心暗鬼で倒れそうだった。

 

「行きたくない。」

ひたすらただ行きたくないと繰り返すと尚はあきらめたようで

「ならおまじないだけやろう。」と言った。

 

暗示にかけて眠らせて、それからきっと病院に運ぶつもりなんだろう。そうすればどうにでもなると思っているんだ。

 

「ごめん、今日はそれもいい。静かに休めば大丈夫だから少し一人にして。」

と、二人に大丈夫だから帰れと促すと高野さんが柔らかく頬を指の背で撫でた。

 

「どうしたの律?」

俯き加減に目を背けてみるけど、その顔を下から覗き込まれて目があったその顔が綺麗だと見とれてしまう自分がいる。

 

ああやっばり俺はこの人が好きだ。

好きでだまされていたって分かっても、それでもかまわないと思うぐらい好きなんだ。

 

キュっと喉が絞まって胸がグチュリと痛む。

 

だまされたまま何も言わなければ今までのままでいられるのだろうか?

 

このゲームはいつまで続くの?終わりを告げるのは誰?

 

出ない答えに何度も何度もゆれながら、最後の細い何かにすがりつきながら俺は「新しい香水のイメージが湧いて少し考えて整理したいから…。」とやっと言うことができた。

 

尚は結局渋々と帰って行き高野さんは俺を放って置けないといつまでも俺の傍にいた。

 

寝ている俺を連れて行くつもりならきっとその前にしていただろう。

だって二人は俺を病院に連れて行こうとしていたじゃないか。

俺が病院に行きたくないと言うとは思っていなかったから?

眠るのが怖い。また俺から大事なものを奪うつもり…。

 

ぐるぐると思考が廻る。

それでも高野さんの腕の中に身を預けるとあれほど揺れていた心が喜びに震え、すべてをゆだねてしまう自分がそこに確かにいた…。

 

 

それほどに俺はこの人に溺れているのだ…。

 

 

 

 

 

トップノート チェリー、グリーンティー、ネロリ、スペアミント

ミドルノート ローズ、ローズゼラニウム、ジャスミン、ミュゲ、ピーチ、フランボワーズ、パチュリ、クローブ

ラストノート チューベローズ、サンダルウッド、ユーカリ、ムスク、ベルガモット

 

甘い、甘い香り…。

そう、瞬間甘くてとろけそうなイメージだけどその実とてもダークだ。

妄執、執念を感じる。

そしてこれはぎゅっと抱きしめた人に香りを感じてもらうための香水なのだ。

 

香水は地肌に近い所につける。

 

それは通り過ぎた人に香りを感じてもらうためのモノで、そこに居るだけで主張するような付け方はひどく下品だ。

気づいたらいつの間にか虜になってしまうような、そんな香りにしたかった。

 

しばらくこの香りを完成させることに没頭していた俺は、高野さんにも尚にも合わずにラボにこもっていた。

 

その間思考のほとんどは香水にとられていたのだけど、気持ちをきちんと整理することもできた。

 

本社にカルテを送ったらほどなくしてOKも出た。

これでやっと肩の荷が下りた。

 

次回の更新までもうしばらくは香水の事を考えなくても済む。

気持ちとしてはかなり自由になった感じだ。

 

その日俺は、久しぶりに高野さんに連絡をして難航していた仕事の終わりを告げ、会いませんかと家に誘った。

 

 

 

 

 

「高野さんをイメージした香りです。つけてもらえますか?」

 

小さいアトマイザーを手渡すと高野さんがこれが?と言って空中に少しだけ霧を吹くようにアトマイザーの頭を押した。

 

霧散した香りは初めは柑橘系やミントの爽やかな香りがして、次にフルーティな南国のような香りと高貴なローズの香りが漂う。

 

そして最後は男性らしいどっしりとしたウッディな香りとチューベローズやムスクなどのエロティックな香りが残る。

 

日本の和の中にある女性のエロスを受け止める男性を表現していると説明をした。

 

 

 

高野さんのシャツの裾に手を入れて、俺がそのすべらかな胸板に這わせるように手を動かすと日焼けしていない白い肌が露わになる。

 

香水のついた指でその胸をまるで丸みに沿わせて塗るようになぞると、高野さんが俺を荒々しく引き寄せてシャツに滑り込んでいた腕を背に回させた。

 

バランスを崩した俺の身体は高野さんに覆いかぶさるように倒れ込み、二人で床に寝ころぶ格好になった。

高野さんの大きな手が頭をグイっと強く鷲掴みにして、口は塞がれ息が詰まる。

上に乗っていたはずの俺の身体はいつの間にか反転させられ高野さんに組み敷かれていた。

 

「リツ…。」

 

高野さんの甘い声が耳から身体に侵食して身体じゅうを覆ったと思った頃からもう俺の理性はここには存在しなかった…。

 

 

 

 

リツ?なんで泣いてるの?

 

甘美な嵐の去ったあと、高野さんが俺の頬をさすりながらそういう。

自分が涙を流していたなんて気づかなかった俺は頬を触り驚いていた。

 

そう、なんだか急に懐かしいような変な気持ちになって、ちょっとだけセンチな気持ちがしていたのだ。

 

「高野さん、もう少ししたら俺この香水の件でちょっと家を空けます。」

 

俺がそう告げると高野さんが怪訝そうな顔で「香水の件で?」と言う。

 

どこに行くんだと訝しく思う気持ちも分からないでもない。しかしこれは別に珍しい事ではなくレギュラーな行動なのだ。

新作の香水のラインナップが揃ったのでそのあとの細々したことやマーケティングの打ち合わせなどが必要になるからだった。

 

「調香が済んだからと言って、カルテ送ってはいよろしくと言うわけには行かないんです。」

 

ベッドの中でシーツに顔をつけたまま俺がそう説明をすると

「どこに行くの?」と高野さんがまだ怪訝そうな声で言う。

 

「行くのはイギリスです。」

「どれくらい?」

「2週間ぐらいかな?マーケティングのこともあるので少し時間はかかりますけど。」

 

予定を頭の中で組み立てて告げると高野さんはやっと

「分かった。待ってるから早く帰ってきて。」

と諦めたように言って俺の身体をシーツから引きはがしてもう一度ふわりとした敷布に沈める。

 

「もう少しつきあって…。」

 

高野さんがそう言いながら腰骨から手をさらに下に伸ばし、唇で首筋を甘噛みするように摩る。事後のまだ敏感な身体は少しの刺激でも反応してしまって抵抗することなくもう一度淫靡な世界に引き込まれる。

 

今だけ、今だけ閉じ込められてあげる…。

 

どこかでそんなことを思いながら、俺はぴたりと合わされた愛しい人の香りを身体にいっぱい取り込んで、その身にすべてをゆだねたのだった…。

 

 

 

 

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