「あんたが小野寺さんか?」
女性の多いアロマの店には少し不似合いな大柄の男性が俺の名を呼んだ。
当初その男性は懇意にしている女の子に香りのグッズを贈りたいのだと言って店を訪れていた。
そしていろいろなお勧めの中から魔法のランプの形の小さい香水瓶を葡萄の葉と弦を模した金糸のような細いワイヤーで巻いてある華奢なデザインのペンダントと、ネロリ(みかん)の香りのアロマオイルを一緒に購入してくださった。
サービスでその香水瓶には購入いただいたネロリのエッセンスオイルを入れて差し上げたので包んだあともその甘い柑橘系の香りが漂う。そう、ネロリという香りは嫌味なほど高価だけどその値段に似合わず可愛い。
桃色とブルーのリボンでラッピングをして、香りのしおりをー緒に入れた小さな紙袋を手渡すと、その人が俺の名を呼んだのだった。
「はい。そうです。」
警戒心が湧くものの、外向けのやわらかい(はずの)笑顔で応対すると、その人は自分の事を「マサムネの親友」と名乗った。
「最近あなたのことをマサムネがよく話すから丁度ヒヨ、いや知り合いの娘さんへのプレゼントを買おうと思って来たんだ。少し話をしてもいいだろうか?」
思いがけない言葉に改めてその顔を見ていると湧き水が湖底で砂をかき回しながら湧くように記憶が浮かんでくる。そう、この人はいつも先輩の近くにいた人だ…。
賭けの話を先輩としていたあのときの人だ…。
俺はその人に壁際の椅子を勧めて自分も彼の目の前の椅子に腰かけた。
「俺はその…、同性同士の恋愛に偏見を持っていない。だから…。」
その人は小声で言いよどむ。
確かに人の性癖を暴露するような内容の言葉にどきりとしないでもない。
でもあの頃この人は少なくとも俺がりっちゃんで嵯峨先輩と付き合っていたことを知っていて、だからあの場で賭けの賞金を渡すと言ったのだから。
途端に過去の苦しさがこみあげて来て、硬さのない透明な大きな手がろっ骨など無いかのごとく体内に忍び込み、心臓を鷲掴みにした挙句扱くように絞りあげられるような痛みを感じた。
呼吸が止まりそうになって冷汗が身体の中から太い押し棒で突かれるようにあふれ出る。
相槌も打てずただその挙動のみに意識は集中した。
「マサムネと仲良くと言いたいんだ…、」
一応パブリックな場にふさわしくない話題に、小声で勇気をふり絞るようにしゃべるその顔を見ていると、その人も俺と同じようにひどく緊張しているようだった。
その一言を言うためにどれほどの勇気が要ったのだろうか。
そして…、俺の顔はどんなだっただろうか?
高野さんから何をどう聞いているのか分からないけど今の俺がすべてを知ったとは思っていまい。その人のセリフは真摯な言葉だとは思ったけど、あなたとあなたの向こうにいた多くの人たちに俺がどんな気持ちでいるかなんてこの人は知らない。
「きっと何か勘違いされていると思います。高野さんには忘れられない人がいるって聞きました。」
こんな場所であなたから唐突にそんなことを言われた俺がどんな気持ちかなんてわからないでしょ…。おせっかい過ぎて笑う気持ちも起こらない。
「あ?あいつそんなこと言ったのか?」
その人は少し考えているようだったけどさっきよりはだいぶ落ち着きを取り戻したようで「たしかに恋人との別れをあいつはずっと引きずっていて、自棄になったりした時期もあったけど今は落ち着いている。」と言った。
忘れられない恋人はやっぱりいたんだ。
何をどうすればいいんだろう?
やけになった時期ってどういうことだろう?
ひょっとして俺を賭けの対象にしたりしたのはその頃だろうか?やけになって、そしてそんな遊びをしたのだろうか。
ただただ甘くて優しくて大好きだった先輩。
先輩が高野さんだって知って、だまされたふりをしたままでも先輩の隣に居たいって思った。
だけど目の前に現れたこの人の言葉に浮かれた仮想は現実に引き戻される。
時間が人を癒すのは本当だ。騙されたことも裏切られたことも自分の中だけの見えない頑丈な箱にしまってがっちりと鍵をかけ、仮初でもいいから高野さんとの幸せな時間を送りたいと願っていたのに、こんな小さなことでその箱は呆気なく崩壊する。
こんな些細なことでも扱かれ続けた心臓がペチリと握りつぶされるように痛い。
「もう苦しい想いはしたくないんです。」
自分でもどうしたらよいのか分からない気持ちに、つるりと口をついた言葉に目の前の人が眉をピクリと動かして困惑の表情を見せた。
そして一瞬の沈黙ののち、「俺はマサムネに幸せになって欲しいと思っている。だからよろしくな。」とその人の顔から先ほどの戸惑いは消えそう言った。
結局言葉を返せない俺にその人もそれ以上の言葉を発することはなく、その人はすっと立って帰って行った。
よろしくってどうすればいいんだろう。
傷つけるようなことをするなってことなんだろうか?
結局箱に入れた過去はこうやって出て来て俺を揺さぶる。
高野さんが何を思って俺とこうやっているのか分からないけど、きっと俺はいつか高野さんを恨んで傷つけてしまう…。
もうどうにもならないんだ。苦しくて息ができない。深海に沈んで水圧でぺちゃんこにつぶれる。目のない魚に身が食い荒らされて人のたどり着けないそこで何者でもないものになり果てるのだ。
色々なことにきちんと答えを出さないといけない。
彼の訪問はそれを俺に決断させた。
▽
リツが旅立ったのが6月の終わり頃だった。
お互いに忙しく見送りもできず電話もできなかった。
「気を付けて」とメールをしたがリツからの返信はなかった。
海外と言っても連絡はすぐにつく時代だ。メールも電話もリツにつながるモノは何でも揃っている。
行ったばかりの頃は忙しいのだろうと思っていた。
そしてそんなことを思っているうちにこちらも再び忙しくなり不眠不休の日々が続いて連絡どころではなくなった。
毎日毎日携帯を気にするけどいざメールを打とうと思うとあれもこれもと思案した挙句、結局送るための内容を作り切れなかったのだ。
『仕事はどう?元気?ごはん食べてる?』
『いつ帰ってくる?』
たったそれだけのメッセージさえ送れない自分が女々しすぎて苦笑してしまう。
リツは仕事で行ってるのにそんなメールが送られてきたら呆れられてしまうだろう。
いくら少女漫画編集だからって乙女脳過ぎるよな…。
じりじりと時間が過ぎていく。
そして、俺がウダウダとしているようにもしかしてリツも連絡をしようかどうしようかと迷っているのかもしれないと思いあたる。
やはりなんでもいいから連絡をしよう。
やっと意を決して携帯電話の画面を開いて、送れず保存されていたメールを送るとすぐに着信の音がなった。
もしかして同じタイミングで?
一瞬期待でもり上がった気分はその内容を見てひどく落ちた。
それは送信メールが送れないという連絡だった。
リツは携帯ってどうしたんだろう?海外にそのまま持って行くとばかり思っていたけど海外仕様のモノに持ち替えているのだろうか?
聞いておかなかったことにこれほど後悔を強いられるとは思っていなかった。電話も繋がらない「おかけになった…、」と不躾な機械音が繰り返されるだけだった。
リツ、なんて?どうして?
連絡がつかないことに焦り、最後に逢ったのはいつだったかと記憶を絞るように思いを巡らすけどあの柔らかい笑顔しか思い出せない。
単なる連絡のミス?携帯が繋がらないだけでこんなに不安になるなんて…。
あいつに、あいつに会わなければいけない…。
履歴の一つを見つめながらそいつに連絡を取るために席を立ったのだった。
▽
『こちらが聞きたいくらいです。』
リツはどこにいる?という問いに電話の主は不機嫌な声でそう答えた。
彼は常にあいつを見守っていたのではないのだろうか?半信半疑で返事を聞いたが
『電話も繋がりませんし、働いていた会社にも長期休暇を申請しているそうです。もともと年俸制の契約社員で正規雇用というものとは違っていましたので、このまま期間が終了してしまえばそのまま非継続という形になるそうです。ただ惜しまれているので一旦休業となったらしい…。』
と清宮尚はそう言った。
リツも彼もお互いの仕事もあるために常にストーキングをしているわけにも行かないらしい。
リツの傍を離れなかった彼の方が困惑が上回っているのかもしれない。
結局なんの解決も糸口もつかめないままの状態に、リツに何かあったらと何度も繰り返していた。
清宮尚の気持ちなど今までうわべでしか考えたことがなかった。
彼はずっとずっと長い間自分をないものにしてまでもリツを守りながらリツを最優先に生きて来たのだ。
そして俺という存在を知り、すべてを知ってもなお、リツがそれを望むのであればと本当は近づけたくもなかったのだろうに俺を容認した。
「もうどうしていいか分からない。」
彼の小さなつぶやきは俺の戸惑いなどとは比べ物にならないのだろう。
でも俺は…、どうしたらリツを見つけられるのか分からないけど何もしないまま昔のようにリツをあきらめるわけには行かない。
▽
「高野、ちょっといいか?」
会議のあと、横澤が俺を引き留めた。それほど時間もないが、「ちょっとだけなら。」と言って喫煙室に移動して、会議の間お預けを食らった煙草をお互いに火をつけた。
「その後どうだ?」
いきなりのオープンクエスチョンに眉を顰めると「いつだったかな…、ヒヨにプレゼントを買おうと思ってあの店に行ったんだ。」と横澤は会議の資料を脇に挟んだまま背を丸めて紫煙を下に短くふっと吐いた。
「ああいう店って女ばっかりでちょっと入りづらいな…。」
目じりとこめかみの間に皺を寄せるように顔を顰めて横澤は苦笑した。
『ああいう店』がリツのアロマの店であることがそこで分かって、切っ先の鋭い刃を鳩尾に当てられたようにひやりとした。
「いらんお世話だと思ったけどどうしても話をしたくて…、そしたら…。」
言い淀むらしくない様を見せられてその顔を凝視すると「お前には忘れられない恋人がいる。もう苦しい想いはしたくないって言ったんだ…。」と驚くような言葉を告げた。
「なに?どういう事?」
「だからそれが何だろうってずっと考えていたんだけど…、あいつお前の事覚えてないんだろ?」
「そう聞いてる。暗示をかけてあるから。きっと暗示が解けたらひどい事になる。」
「でも、『もう、したくない」って言ったんだよな…、確かに。俺を見てハッとした顔もして…、」
そういう横澤の顔は相変わらずしかめっ面のままだった。
リツがもし昔のことを思い出していたらどうなんだろう?
誤解は解けていない。そしてまた俺はリツに昔のことを言わないまま近づいている。
絶望的な状況だった。きっとリツの暗示が解けたら大変なことになるとみんなが思っていた。でも、確かに最後の方ではリツは『おまじない』を嫌がっていた。
世の中の汚いものだけを集めた粘度の強い汚泥の塊が足元に湧いてどんどん嵩を増して身体を拘束していくような錯覚を覚える。
足に絡みつき、縋りつかれるような重さに引き抜くこともできず、身を芯から凍えさせるような冷たさに指先の感覚が麻痺していく。
また俺たちはだめなのか?
今いる場所も分からない。
自分はずっとここにいるはずなのに急に迷子になったように途方にくれた。