「・・・何よこれ」
目の前の光景に、伊織は震える声で言葉を搾り出した。
「無理だよ・・・こんなの」
美希も同様に絶望を含んだ口調で呟く。
6つ目の扉を抜けた8人は、この部屋で自分たちが行うべき行動をすぐさま理解した。
真正面の壁には扉がある。次へ進む為の扉が。
8人を絶望させているのは、扉の前の床と彼女たちが立っている床とを隔てる、深い崖。
崖の底には、日本刀のように長く鋭利な刃物が隙間なく敷き詰められている。
そして、その崖に掛かる、女性の足の横幅より僅かに広い程度の、妙に分厚い2本の鉄板。
しかも、その鉄板はまるでホットプレートの様な構造になっている。
靴越しでなら問題はなさそうだが、直接手で触れてはひとたまりもないだろう。
長さは、約25メートル。命を張るにはあまりにも長い距離だ。
「次の扉を開けるには、この鉄板を渡り切るしかない」
貴音が淡々と語る。
「更には、加熱装置によって、手をつき這って進む事は不可能・・・立って歩くしか無いのですね」
「言われなくても・・・分かってるわよ」
あくまでも強気に、伊織が返答した。
「無理だよこんなの・・・落ちたら死ぬじゃん・・・」
床に座り込み、涙目の亜美。
真美は青褪め口を開こうともしない。
「・・・真美?大丈夫?」
見かねた亜美は姉である真美に声をかける。
「うん・・・大丈夫。大丈夫・・・大丈夫・・・」
その目は据わっている。呼吸も浅い。
譫言を喋りながら、たどたどしい足取りで、鉄板の方へ向かう真美。
「ま、真美待って!ちょっと落ち着こう!ね?」
亜美が咄嗟に真美を引き止める。
このまま行かせては渡りきれるはずもない。
そんな様子を眺めていた伊織が、はっきりと言い放った。
「・・・私は渡るわよ」
伊織の右足の靴が鉄骨に触れ、かつんと小気味良い音を打ち鳴らした。
「い、伊織っ・・・!」
響が緊張した声を上げる。
それに伊織が冷たく言い返す。
「話しかけないで。気が散る」
言いながら、右足も鉄骨に乗せた。
彼女を支える心強い地面は、もう足元にない。
あるのは、僅かでも踏み外せばその身を滅ぼす、非情な茨道のみである。
そんな道を踏みしめ、伊織は淡々と歩みを重ねていく。
靴底から鉄板の熱がじりじりと伝わる。
今はまだ耐えられるが、じっとしていればその温度は増していく一方だ。
目の前の扉だけを目指し、ただ歩くのみ。
「・・・私も、行くよ。じっとしてるだけはもう嫌だから」
伊織の様子を静観していた美希も、意を決した。
伊織が渡る鉄板ではなく、もう片方の鉄板にその足を掛けた。
「・・・絶対に渡る。ミキは絶対に渡れる・・・」
自己暗示のように呟きながら、美希は足元から目を逸らさずに歩いてゆく。
その後ろを、一言も発さず貴音が続く。
「行くしかないよな・・・うん、自分は完璧なんだ・・・こんなの、ただの平均台だって思えば・・・」
響も美希と同様、自身に言い聞かせながら鉄骨へと踏み出した。
こつこつと、鉄骨を踏み鳴らす音は増えていく。
「春香、私は先に行くわ」
千早は春香に一言そう告げると、毅然と鉄骨に踏み出した。
「ち・・・千早ちゃん」
春香はまだ覚悟には至らない。
こんな鉄板の上でいつものように躓こうものなら、後悔する間もなく御陀仏だ。
「大丈夫。春香なら渡りきれる。自分を信じて」
背中を向けたまま、千早が声を掛けた。
春香には、その華奢な後姿がとても大きく、愛おしく思えた。
「・・・そうだね。行かなきゃね」
僅かずつ遠ざかる千早の背に引かれ、春香もそっと鉄板にその体を乗せた。
「・・・みんな行っちゃったよ。ねえ、真美、まだ良くならない?」
ずっと姉の傍に寄り添っていた亜美が、取り残されているという焦燥からそう切り出した。
当の真美の顔色は一向に晴れない。むしろ悪化しているようにさえ思える。
「大丈夫・・・大丈夫・・・大丈夫・・・」
それ以外、真美は口にしない。
震える歯がカチカチと鳴っている。見開かれた目も亜美を見てはいない。
「もう・・・亜美は行くから。絶対ついてきてよ。絶対だよ」
これ以上声をかけても無意味だと判断し、亜美は先をゆく者達の後に続いた。
二枚の鉄板の上をゆく7人に、一切言葉はない。
ただ、ゆっくりと、ゆっくりと。ある者は足を交互に出し、またある者は摺り足で前進していく。
しかし、常に足を鉄板に付けている摺足は、鉄板の熱を絶え間なく伝えてしまう。
「・・・つっ」
摺り足の美希が、その熱さに耐えかねて足を上げた。
瞬間、美希の体が俄かに均衡をなくした。
「・・・っ!」
心臓に氷水をあけられたかのような怖気が走る。
軸を戻そうとすればするほど、思惑とは裏腹に左右に揺れる身体。
「・・・美希!」
その姿に気付いた春香が思わず声を上げた。
しかし美希はそれどころではなかった。
足元がふらつく。
やばい、落ちる。死ぬ━━━━。
しかし、美希は落ちなかった。
その肩を後ろから支えたのは、四条貴音だった。
「まずは呼吸を整えなさい。ゆっくり、焦らず、歩めばよいのです」
小刻みに震える肩を押さえ、美希の耳元に囁く。
「・・・言われなくたって、分かってるの。もういいから。触らないで」
息を荒げながらも、美希は自身を救った貴音を冷たく突き放す。
それを受けて、貴音はそっと手を離した。
「・・・失礼致しました」
きっと彼女は、菊地真の約束された救出より自分達の未確定の生還を優先した私を蔑んでいるのだろう。
そう思い口を噤んだ貴音には反論の余地がなかった。
自分の身は惜しい。
それでも、目の前の仲間は救いたい。
貴音は葛藤していた。
今の私を動かすのは善か、偽善か。
私は生き残るべき人間なのか・・・。
「くぅっ・・・!」
ふいに先頭から声が漏れた。
伊織だ。
対岸までの距離は僅か3メートルほどにまで迫っていた。
しかし、焦りは彼女の重心を振れさせる。
「落ちてっ・・・落ちてたまるか・・・!」
叫びとともに、大きな一歩が踏み出された。
そしてまた一歩、さらに一歩━━━━
そこで、伊織の身体は大きく傾いた。
「伊織っ!」
貴音が声を上げたのとほぼ同時に、伊織は宙に蹴り出していた。
「・・・っ!」
他の者は咄嗟に目を伏せた。
無論、起こりうる最悪の事態を想定したからだ。
「はぁっ!ああっ・・・!!」
しかし、伊織は生きていた。
辛うじて、バランスを失う前に対岸に飛びつき、そして届いたのだ。
再び安定した大地に戻った伊織は、その安堵から仰向けに倒れた。
「やった・・・やったぁ・・・!私、生きてる・・・!」
これ以上ないほどの生への実感。至福のひと時。
未だ鉄板の上を歩む者達を気にも留めず、その多幸感を体いっぱいに味わう。
たかが25メートルほどしかない鉄の橋が、これ程までに恐ろしいものだとは。
伊織に限らず、全員がその覚束無い両足からひしひしと思い知らされていた。
「・・・もう少し」
歯を食いしばり、伊織を睨みつけながら美希が歩む。
あと3歩、2歩。
「これで・・・終わりっ!」
美希のすらりとした美脚が、待ち望んだ固い地面を踏み鳴らした。
そのままの勢いでふらふらと正面の壁に手をつき、もたれ掛かる。
腰を下ろして三角座りの姿勢になり、引きつった顔で項垂れた。
「はぁっ・・・はぁっ・・・」
安全圏内に至っても、美希の身体は死への恐怖に震え続ける。
それでも、彼女はまだ信じていた。
自分がただ一人の仲間を救い出そうとしたこと、その正しさを。
その後、貴音、響が順番に対岸に到達した。
「はぁ・・・冷や汗が止まりませんね」
「自分・・・もう、ダメだぞ・・・心臓が、爆発しそう・・・」
現在橋を渡るものは千早と春香、亜美の3人。
未だ入口の前で覚悟を固められずにいる真美。
「・・・春香、いる?」
千早は振り返らず、自分の後をついているであろう春香に声をかける。
「うん、いるよ。大丈夫」
春香にとって、千早の背はとても心強かった。
「もう少しよ、頑張って」
「千早ちゃんも、気を抜かないようにね」
「こっちのセリフよ、少しずつでいいから落ち着いて」
「うん、気をつけるよ」
離れてしまわないようにと、言葉を交わす。
お互いの存在を伝え合う。
それが、この状況下では何よりも強い命綱になった。
「・・・くっ」
千早が、ペースを変えることなく、鉄骨から足を下ろした。
対岸へ辿り着いたのだ。
「さあ、春香」
振り返り、春香の方へ手を伸ばす。
「んっ・・・、千早ちゃん」
焦らずに、そっと、足を前に出す。
そして千早の手を取る。
その手は汗ばんでいたが、心地良い体温だった。
きゅっと春香の手を引き、待望の混凝土へと誘う。
2人は同時に倒れこみ、抱擁を交わす。
「良かった・・・春香・・・」
「うん・・・すごく怖かった・・・」
皆一様に固く冷え切った地面に座り込み、待った。
鉄板の上でたじろぐ亜美と、未だ鉄板の手前で蹲る真美を。