疑似太陽の昼間の光の届かない回廊の奥深く、硬質な鉱石らしき青い石柱に囲まれた荘厳な回廊がずっと続いている。索敵スキルやスキル補助アイテムがあっても一定の緊張感を持たざるをえないこの場所は、アインクラッドの現時点での最前線74層の迷宮区である。疑似太陽光でない不思議な青い光の中、僕らは五人揃って横並びに立ち止まっていた。
不気味な怪物のレリーフが刻まれた重く大きな二枚扉。どんな想定も予想も不要な一つの確定現実。ここは、74層から75層へ至る凱旋階段を妨げるフロアボスのいる間である。その大きな事実の伴う扉を見上げて、アスナがキリトの裾をつかんで言った。
「これってやっぱり……」
「多分そうだろうな……ボスの間だ」
「どうする? ……覗くだけ覗いてみる?」
「……ボスモンスターはその守護する部屋からは絶対に出ない。ドアを開けるだけなら多分……だ、大丈夫……じゃないかな」
悲しいかな主人公くん、自信がなくて語尾が消え気味である。アスナはとほほという顔で縋り付く裾を安達に変更し、俺は無沙汰になったキリトの肩をぽんと叩いておいた。
「……双子はどうだ?」
「どうだって言われてもなぁ。ま、初見だしチラ見偵察くらいさせて貰っても罰は当たらねぇだろ。と、僕は思うぜ」
「そうね。どうせ後でアスナはマップを団長さんに報告するでしょ? 外見だけでも予備知識があったほうが、後発の偵察部隊は困らないわ」
「俺も賛成だよ。それに、ここまで来たらボスの顔くらい拝んでおきたいしね」
俺、安達、こーちゃんと続く満場一致である。所詮ゲーマーの頭の中身なぞこんなもの。俺はまだしも安達とこーちゃんからもゴーサインをもらったキリトとアスナは、よしと一つ覚悟を決めたように深呼吸をした。
「一応転移アイテムを用意しておいてくれ」
「うん」
「ほいほーいっと。あ、また俺買いにいかねぇとだわ」
「いざとなったら私が使うよ。さっき連れてきてもらったしね」
「お言葉に甘えます」
転移結晶買わないとと思ったことを忘れていた。事を今思い出した事を相棒組にバレた。事をざっくり察したキリトに溜息をつかれた。
「いいな……開けるぞ……」
神妙な顔をしたキリトが俺たちの顔を一巡見回して扉に手をかける。黒の剣士の倍はあろうかという鉄扉は、予想に反して滑らかな動きで奥へと開いていった。一旦動き出した扉は待ったを聞かない滑り具合で開ききって大きな音を立てる。静まり返った回廊に響いた重苦しい音に、安達の袖を握っていたアスナがぱっとそれを話して改めてしがみついた。因みに当の安達さんはどこ吹く風のへっちゃら無表情。可愛げがない。
それなりに広いように見えるその部屋の、入り口付近の足元で青白い炎が音を立てて燃え上がる。そこを皮切りに奥までボボボボボッと点火されていくその光景だけは、何度見ても綺麗だと思えた。
そしてその火柱の最奥。この広い部屋の奥で、この部屋の主がのそりと立ち上がった。
見上げる体躯は筋骨隆々。肌は炎をおして深い青。頭部はヒトではなく悍ましさを滲ませる山羊のそれ。太く捻れた凶暴な双角に、開かれた両目は炎のように輝く青白い光を持つ。
モンスター名《The Gleameyes》、輝く目。その見た目は正に、
「あ、悪魔……」
グリームアイズが入り口付近で未だに動かない俺たちを視界に収める。一拍して轟いた咆哮はビリビリとデータ気流の空気を揺らし、炎の柱を歪めて威嚇を放った。
で、その瞬間、それまでうんともすんとも言わなかったキリトとアスナが180度向きを変えて仲良く手をつないで雄叫びをあげて逃げていった。
「うわあああああああ!」
「きゃあああああああ!」
ボスモンスターは指定区域……つまりボス部屋からは一歩も出ない。それは先程キリトも自分の口で言っていた。それでも同じように悲鳴をあげ、ステータスパラメータ補正最大速でスタートダッシュを決めた二人は、長いはずだった回廊をものの数十秒で突っ切ってしまうのだろう。その場に残された俺と安達とこーちゃんは、ついでに出落ち要因に仕立て上げられたグリームアイズは、一瞬その光景に目を丸くして硬直した。
挑戦者なしと受け取ったシステムが、大きく開ききっていた扉を間抜けに閉めていく。
それが閉じきってから一様に吹き出した俺たちは爆笑しながら、見事な敵前逃亡を決めてくれた攻略組の若きプレイヤーを追いかけて走った。
「っはーいいもん見たぁ」
「……い、言っとくけどアスナも逃げたんだからな」
「心配しなさんな。アスナと仲良くおててつないで奇声を発しながら全力疾走する黒の剣士の動画しか写ってねぇから」
「! その結晶をよこせ!」
「え、なに、この写真結晶が欲しいの? キリトくんそんなにコレが大事?」
「超大事だ! いいか、ここにDEXがプラス25される腕輪がある。落ち着いてそれとこれをトレードしよう」
「えー、でもなぁ。俺写真結晶はこの一個しか持ってねぇんだよなぁ。もったいねーなー」
「──お前が前欲しがってた雷狼竜の短剣でどうだ!」
「……ほう。ま、それならいいかな。はいじゃあトレード成立ってことで」
「よ、よかった。……アルゴに情報が渡る前でホントに──ってコレ空じゃないか!」
「ぶはっ!」
絶対にフェアではないトレードを済ませた後、救われ顏で写真結晶の中身を確認したキリトがくわっと立ち上がる。怒鳴られたトレード相手の俺は包み隠さず吹き出し、観客席は嘆息したり呆れたり苦笑したりと三様の反応を見せた。
腹を抱えて笑っている俺に顔を赤くしてつかみ掛かるキリトに、あのねと安達がネタばらしする。
「キリトがホントにすぐ逃げたから、映像結晶を構える暇なんかちょっとも無かったんだよ」
「う、ぐ……」
「って言うか本当に気付いてないの? 二毛さん動画って言ったくせにずっと映像結晶じゃなくて写真結晶って言ってたんだけど」
「な、ん……」
「そもそも写真術スキル持ってないのにあそこまで高速で動く被写体なんかまともに撮れないってば」
「…………花芽抓ぇ」
「わぁかってるっての。冗談冗談。ほら、返すから機嫌直せよ。な?」
胸倉つかんで安全エリアの壁に押し付けられた俺は、片手で降参のポーズをとりつつ、片手で先程のアンフェアトレードの品物を二つ指に挟んでキリトにチラチラさせた。あっさりと忍衣装を掴んでいた手を離してそれをぶん獲り、代わりにデータの入っていない空のままの写真結晶を正拳突きと共に返される。安全エリアの為妨害コードに阻まれてダメージは通らないが、それに相応しい大仰なノックバックが俺にもキリトにも作用反作用で発生した。
ちなみに俺は未だに爆笑中である。楽しい世界をありがとう、キリト。ほっぺたつまんでギリギリしたって痛くないんだぜ。
大逃走を果たした二人に追いつくのに大した時間は取らなかった。安全エリアにいた二人は俺たちが合流するまでのタイムラグでなにやら話していたようだが、キリトの謎スキル疑惑の言及を諦めてさっさと話題を終わらせていた。ちなみにその時の離れ際のアスナのセリフが「……貴方たちの方が隠してること多そうだわ」だった事は聞かなかったことにする。しゃーないじゃん? 俺らが包み隠さずネタバレこいたら原作崩壊待った無しじゃん?
と、いうわけでそこからもう少しからかって現在に至る。お疲れ様でした。
「わ、もう三時だ。遅くなっちゃったけど、お昼にしましょうか」
「なにっ」
時計を確認したらしいアスナが、ぽんと合掌して提起する。その途端に色めき立って反応したキリトは、俺の頬をぱっと離してぐいっとそちらを向いた。
「て、手作りですか」
「アスナ、私も!」
「俺も!」
「君たち君たち。否お前ら。正規の餌係は此方ですよぉー」
「「二毛さんちょっと黙ってて」」
嘘だろ。嘘だろ。
苦笑したアスナがメニューウインドを操作して、大きめのバスケットを一つ出現させる。それに感嘆して顔を輝かせるお前らは流石に俺に対して酷くないっすか。
バスケットから取り出される紙包みを一つずつ手にして幸せそうに笑う友人たちをぽつんと見る。はっはっは。雨でもないのに水が出るよ。
と思ったら、キリトと安達が寄ってきてん、と手を前に出した。アスナの手にはアスナの分と、もう一つ分の紙包みもある。俺は訛りを気にせずむくれたままそれを見た。
「……なんしゃー?」
「作ってきたんだろ、人数分。もう怒ってないから食べよう」
「アスナもそれを見越して半サイズにしてくれてるんだから、コレで作ってきてないとは言わせないよ」
「なんだお前らいい子すぎか!」
「はい、花芽抓の分」
「ありがとう世界!」
アスナに渡された紙包みを両手で受け取ってうがあッと掲げる。大袈裟だよとのほほんと笑うアスナだが、俺はぼっち飯にならなかった感動でオーバーリアクション中だ。あれだ。ナーヴギアは確か感情が余剰に表に出るようになってた。筈。
わははわははとへらへら笑いながらアイテム欄を操作して、無駄に和風チックな竹籠をぽんと出す。その中に入っていたのは、安達やアスナの見通し通り半人前ずつのお米バージョンサンドイッチ通称おにぎらずと、竹籠に似合わないクラムチャウダーのボトル。アスナのお昼がハンバーガーっぽいサンドイッチだった事を覚えていた俺が、決定的に欠如した料理センスを絞って『和洋折衷とか言っときゃ誤魔化せっかな』とか考えついた結果である。クラムチャウダーは僕が食いたかっただけだが。
竹籠囲んで紙包みを手に、クラムチャウダーもカップによそって。おお、なんかピクニックみたいですごく楽しい。サンドイッチも上手いし、これもうクリアとかいいわ。
言ってられませんけどもね。
夢中というようにサンドイッチとおにぎらずを頬張っていたキリトが、クラムチャウダーを少し煽って一息をついた。
「う……うまい……二人とも、この味どうやって……」
「一年の修行と研鑽の成果よ。もっとも、花芽抓は目的の味だけ再現してすぐに飽きちゃったんだけどね」
「欲しいものだけ得たからいいんですぅー。てか貧乏舌に微妙な味の違いを求めるなっての」
俺が三ヶ月早々で研究を放り出したのを未だに忘れていないのか、肩をすくめるアスナがやれやれという風なので逃げ道を敷く。元々二人で始めたものを途中で飽きるのは全面的に俺が悪いが、俺の飽き性を理解したアスナはサボり始めた一週間後で既に諦めていた。攻略の鬼とも言われるアスナをそういう意味で屈服させるのは、恐らく俺が一番上手いのだと思う。
アスナの言う修行と俺の言う貧乏舌の関係が気になっているのか、下手な言葉を挟まずにキリトが話の続きを待っている。コミュ障が原因でない大人しさにくすっと笑って、アスナは得意げに話し始めた。
「アインクラッドで手に入る約百種類の調味料が、味覚エンジンに与えるパラメータをぜーんぶ解析して、これを作ったの。こっちがグログワの種とシュブルの葉とカリム水」
言いながらアスナは、バスケットに置いてあった小瓶を取り出してひと掬いを指に乗せる。何とも美味しくなさそうな紫色の半液状のそれを、間抜けな顔で口を開けているキリトの方へぴっと弾いた。
「……マヨネーズだ!」
「で、こっちがアビルパ豆とサグの葉とウーラフィッシュの骨」
今度は透明感のある赤いサラサラとした液体の小瓶。同じように弾こうとしたアスナの指を、感激のあまりぱくっとくわえたキリトは安達にごすっと殴られていた。
「醤油だ!」
「さっきのサンドイッチのソースはこれで作ったのよ」
「……すごい。完璧だ。おまえこれ売り出したらすっごく儲かるぞ」
「そ、そうかな……」
照れたような様子のアスナが、やったねと俺に笑いかけていた。
この世界の食べ物は大体が食べ物の形をしているが、味付けだけはどれもこれも微妙な違和感を持っていた。見た目が豪華なステーキでも、食べてみたら薄い練りゴマもののドレッシングの味がしたことだってあったくらいである。醤油の味のしない醤油ラーメンなんかまだ許せる方で、つまりこの世界の料理は、料理スキルもそうだが、きちんとした味を引き当てるリアルラックに頼っている部分もあった。
だが、俺とアスナはその限りではない。アスナは既に再現できるだけの調味料を作ってしまっているし、総量では遠く及ばないが俺も最低限の味は再現し終わっている。これを始めようと言い出したのはアスナだが、それに誘ってもらって本当に良かったと感謝の気持ちでいっぱいだ。
「……いや、やっぱりだめだ。俺の分がなくなったら困る」
「意地汚いなあもう! 気が向いたら、また作ってあげるわよ」
近いよリア充。君たちの物理的な距離感近いよ。いや、此処は仮想世界だから精神的な距離感か? どちらにせよはよくっつけやリア充。
などと馬鹿なことをしていたら、安全地帯の入り口方面から鎧の音が聞こえて耳が上を向いた。特に聞き耳スキルが必要な現象でもなかったのでキリト達もその音を聞いたらしい。近くに座っていたキリトとアスナはぴゃっと離れ、俺と安達とこーちゃんは入り口側をついと見た。