弓から落とされた矢は六機の高速偵察機、彩雲に姿を変えて高度を変えていった。偵察に使われる最小スロットの矢は蟇目を着けてあるから、きちんと射ればひゅうと長く尾を引く音が残される。瑞鶴の放ち方では音などするはずがない。
雲のない空と、真っ青な海の境が消えるところまでまっすぐ向かっていく編隊を彼はぼんやり眺めていた。一か月前には日常だった光景がようやく帰ってきた。もう十年も昔のことのように感じる。時間も巻き戻った気がして海面に立つ彼女の背に目をやった。ため息が漏れる。忘れろ、と二、三度声に出さず念じた。
振り向いた瑞鶴の横顔はどことなく暗かった。今朝のことがよほど悔しかったのか、退屈しているだけなのか彼にはわからなかった。
時刻一三三〇。天気、明朗。波、低し。穏やかな海。ここにいる限りは、だ。
結局、偵察機を定期的に飛ばすことになった。泊地の幕僚たちは最初からそのつもりで話を合わせて彼に迫ったと見ている。展開し放しになっていた陸戦隊を撤退させることもだ。報告会では彼は相当ごねると思っていたらしく、提案を呆気なく受け入れられた幕僚たちは視線を交わして訝しんでいた。
もう最後なのだから、それでいい。陸戦隊をすぐに展開できる状態に保つことを条件に、他のことはあの日の前へ戻した。埠頭に出るのが二人だけなのも同じ。海面に立って弓を携えているのが瑞鳳でないこと以外は。些細なことでしかない。一か月前の自分ならそう思った。今もそうでありたかった。今にして思えば冷たかった。あの冷たさが今、ほしかった。任務のためでも、部下のためでもなく、自分だけのために。身勝手だ。それこそ自己嫌悪を催すほどに。
哨戒範囲は泊地から東方、沖ノ鳥島方面。羅針盤が走査できるポイントのさらに数キロ先まで。瑞鳳がいたころはもう少し広範で、代わりに距離は絞っていた。そして毎日は行わなかった。不合理な哨戒にも出した。例えば荒天時。艦載機が使えないために普通なら空母など出撃させないが、副砲を吊らせて行かせたことがあった。確か、その何日か前にはぐれ駆逐艦が侵入したことがあり、警戒を強化するからと無理に理由を着けた。実際は彼と距離を縮めようとした瑞鳳への嫌がらせでしかない。今にして思えば、まともではなかった。あの夜のことがなければ、まだ同じことを続けていたのだろうか。そんなことはないはずだ、と言い聞かせた。彼の良心がまた痛み出さないように。
「何か見えたか?」
いくらか声を張り上げて瑞鶴に訊いた。返答はない。顰めて俯いているだけだ。艦載機からの光景を見ようとするとああいう顔になる者は多い。ある程度熟練の空母艦娘なら頭に無秩序に流れてくる情報も別の動きをしながら処理できる。やがては瑞鶴もできるようになるだろう。
平穏だった。聞こえるのは寄る波の音より他になく、水平線までを遮るものはない。見慣れた光景のはずなのに違和感があった。なにもない? そんなはずがあるのか。この一か月間、毎日のように何かあったのに。今なにもなかったら、瑞鳳はなんのために沈んだ? 彼に手を差し伸べた選抜射手はなぜ死んだ? なにかあるはずなのに……
受け入れるべきものが受け入れられない。安心すべきときにできない。それはすでに彼にとって日常ではなかった。彼が日常と認められる基準は一か月前の攻勢と、それからの緊張を強いられた日々へといつの間にかすり替わっていた。あれほど過ぎ去ってほしいと願った時間なのに、今ではその変化についていけていない。
誰かの大声で我に帰った。はっと顔をあげる。振り返っていた瑞鶴と目が合う。
「報告、いいですか?」瑞鶴は変わらず不機嫌そうに彼を見ていた。
「悪かった。いいぞ。いつでも大丈夫」
「一から六番機、現在地Bマス、速度は……」
速度、高度、そして何が見えているかを告げていく。報告によれば、一面の青。――いくらか不安ではあるが――潜水艦の影もなし。
敵は今朝のことがあってもそれほど動揺していないのか。それとも今頃艦隊の首脳を集めて慎重な審議でもしているのか。もう一度、今度は強行偵察を出してきてもおかしくない。
「何もないのは信じられなくないか?」
「さぁ。私、この海域のことはよく知らないし」
「退屈そうだな」
「退屈に決まってるじゃない。瑞鳳は毎日こんなことを?」
戻ってきた偵察機を格納する瑞鶴は顔をこちらに向けてはいなかった。よほどいやそうな表情をしているのだろうと思うことにした。
「本当なら何もないところだからな。上がってこいよ」
日差しが強くなって、思わず作業帽のひさしをさげた。何か言おうとしたが言葉が出てこない。瑞鶴の気を引きたいわけではない。単に今の気分を紛らわしたいだけだった。たったそれだけの雑談にも迷うことにうんざりした。
「暑いところだろ? 築地はどうだった?」
「あそこはいいところなんじゃない。遊ぶところが少ないから私は好きじゃないけど」
総て艦娘は築地の第六術科学校で教育を受ける。全ての艦種がだ。当初は正規空母として着任して十か月、そのすぐ後で装甲空母に改装されたからもう二、三か月別の課程に入ったのだろう。およそ一年過ごしていたことになる。気に入らない場所であれば長く感じるだろう。彼自身は築地で勤務したことがないからどんな場所なのか、イメージがわかない。いったことのある者の多くは「悪いところではない」と言っていた。彼にとってはその程度の認識しかなかった。
「遊び歩くのが好きか。だったらここは本土とは比べられないくらいひどいな」
弓袋を肩にかけた瑞鶴は早く戻りたいという態度を隠そうともしなかった。
「見ればなんとなくわかりますって」
「私の唯一の娯楽はデスクの中のボトルくらいだ。瑞鶴も何か見つけるといい」
おもしろいことを言ったつもりだったが瑞鶴は表情からするに困ってきているようだった。
その気もないのに話に付き合わせるのもまたよくない。
なんとなく、瑞鳳が無理やりにでも話をかけてきたときはこんな気分だっただろうかと感じた。自分の中に直視したくないなにかがあるから。今自分が見ているものから少しでも距離を取っていたいから他人との繋がりに逃げようとしたのだろうか。
つき合わされる相手にしてみればいい迷惑だろう。身勝手だが、今はそうしていたかった。
「なにか欲しいものがあったら言えよ。娯楽なら何でも、たばこからパソコンまで。輸送にはちょっとコネがあるんだ」
「なにもいらない。自分でなんとかするから」
「そんなこと言うなって。せっかく来たのに」
着任直後には腹立たしく、一緒にいる時間が少しでも短くなるように願っていた。彼女の言葉に我慢が利かず、銃まで向けた。今は距離を縮めようとしていた。つくづく、身勝手な人間だと思った。そこまで他人との関係にすがっていたいのか。
瑞鳳と過ごした最後の夜、彼女はそう明かしてくれた。艦だった時の記憶を消せないから、忘れていたいから他の誰かに依存することにしていた。どこまでも勝手で、惨めだった。彼がそれさえも受け入れたのは、相手に同じことを求めていたからではないのか。
「私のしたことも間違ってたよ。だけど、もう少し歩み寄ってくれてもいいんじゃないのか」
「間違ってたって……」瑞鶴はようやく彼の方へ向いた。「あんなことしといてよくそんなこといえるじゃない。爆撃でもされたいの?」