失望してはならないという金言をこれまでに何度も聞いた。友人が言った、かつての上司の口癖だった、白黒映画の中でコメディ俳優が聞かせた、とにかく色々なところで聞いた言葉だ。彼が受けてきたリクエストの中で最も難しいものの一つだ。少なくとも彼は――それが他人に言わせれば――些細な出来事にさえも簡単に失望してきた。
彼は今まさに失望している。たった一枚の海図ですっかり失望し、戦意を削がれてしまったのだ。どうしてこんなタイミングで? ひどく惨めな気がした。そして結局なにもできない自分にうんざりした。
「にしても、しつこいやつらだな。暴力的なくせに狡猾で注意深い」
瑞鶴は険しい顔で海図を見ながらそうね、とぞんざいに返事した。
こんな時瑞鳳ならなんて言うだろうか。きっと言うだろう。失望しないで、なんとかしましょうと。他人には前向きなことをよく言っていたが、その実自身は完全にふさぎ込み、負の記憶とそれについて回り絶えず膨らみ続ける負の感情に呑まれていた。彼女の中ではその明るい言葉すら負の記憶に由来していた。他人のためにそこまで好意を向けられるのはロボットみたいで気味が悪いとすら思っていたが、違う。他人のために向ける好意も、結局は自分のためのものだった。なんて愚かなことなのか。時間が進むことしかできないものである限り、他人の感情を自分の望むところに留め置くことなんてできない。瑞鳳はそれを知っていたのか? 知っていてあんな態度を貫いていたのなら、それこそ絶望的な戦いだ。エンガノ岬で軽空母瑞鳳が強いられた死に際よりもずっと救いなく、出口もなく、どうすることもできない絶望だ。
「今日は帰る。たまにはな。ラッパ鳴ったらすぐ帰るから、引き止めないでくれ。瑞鶴も一回くらい隊舎戻れよ」
「いいです。下の部屋使うから。荷物もあそこに入れちゃったし」
「本部のやつ捕まえて運んでもらえよ。声掛けとこうか」
「いいったら。子供じゃないんだから」
「さっきの話じゃないけど……」監視小隊長が持ってきたバインダーを既読の書類箱に放り込む。「これでも気にかけてるつもりだよ」
「そういうの、身勝手よきっと」
「どう言われたってもう気にならない。どうせ自己満足だから」
「自己満足の善意って不思議。偽善とは違うの?」
「不思議じゃないしきっと偽善でもない。たぶん、これが奉仕の精神の正体じゃないかな」
瑞鶴は難しい顔でしばらく顔を伏せていた。彼にとって苦痛ではない沈黙がしばらく流れた。
「瑞鳳は提督さんにそんな風に接してたの?」
「それは、違うだろうな。瑞鳳は確かに見返りを期待してた。私がついに、わかっていながら返すことのできなかった見返りを」
「どんな見返り?」
「どんな、って訊かれると難しいね。その内、いい言葉が思いついたころに言うよ。だけどその見返りを私はよこせなかった」
「今だったら、提督さんは瑞鳳にそういう気持ちで会うこともできる?」
「できるさ。それが彼女への慰めになるなら、私への慰めにだってなる」
口にしたあとではっとした。自分にも慰めがほしいのか? 瑞鶴からすれば、結局悪いのは彼であり、救済を求める立場にないはずだ。だが実際のところ、彼の心はあの日以来それを求めて浮遊していた。何が彼の救いなのかという答えを求めて、メビウスの輪に似た出口のない混乱と焦燥の中を浮遊していた。今もそうだろう。
何が彼の救いか? あの戦艦を倒すことか。もう一度瑞鳳の前に現れて、彼女の願いをまた叶えられることを証明するか。それとも、今は引き出しの中に横たわるベレッタにもう一度弾を込めて、今度こそ自身を撃つか。それがいい。それだけが唯一の、この失望から逃れ瑞鳳に報いる方法のような気がしてきた。死だけは、絶望の中にあっても常に、最大の救いになり得る。
不意に、あの日彼に手を差し伸べて死んだ若い水兵の顔が浮かんだ。息を切らし、まつげまで流れてきた汗。まだ二十歳だった。絶望的な戦場から解放の機会を与えた死は、最期まで大切に調整したマークスマン・ライフルを握りしめた兵士を幸せにしたか。答えが出ることは永久にないだろう。真実を感じることもなく本人は死に、残った人間には「きっとこうだろう」と推し量ることしかできない。
生きることだけがたった一つの正義だとは彼は思わない。生きる自由があるなら死ぬ自由もある。彼にもあっていい。瑞鳳の声が聞こえた気がした。自分だけ逃げるなんて、と。聞いたような言葉だ。逃げではない。何もかも失い、絶望のふちにたったものだけが見つけられる最後の選択肢なのだ。それはもちろん瑞鳳にとっても……
思索が良くない方向へ向かおうとした時、スピーカーから流れ始めたラッパの音でついに我に返ることができた。
「じゃあね、帰るよ」
ラッパの音が鳴り止むと間髪入れずに作業帽と鞄を掴んだ。
「ちょっと、本当に帰るの?」
「本当だって、言っただろ。瑞鶴も飯食って帰ればいいよ」
「食堂の場所もわからないんだけど」
「今になってそんなに威張って言うな。待って」
内線電話の受話器を取り上げ、監督班の番号を押そうとした。
「提督さんはここで食べてかないの?」
「私はいい。たまには家で夕飯が食べたいよ」
本当は前後不覚になるまで酒を飲むだけになるだろうけど、という言葉は飲み込んだ。久しぶりに帰ったところでその程度のことだ。どうせなにか起きてしまえば酔っていたくても呆気なく正気に戻ってしまう。結局はバッカスも溺死などさせてくれない。切れかけの裸電球の灯りに似た、心もとなく、切れてしまえばはかなさだけが残る夢を見せるだけだ。甘く優しいだけの夢も、目を背けたくなる回顧も、振り返ってみればよくよく憶えてなどいない。それでもその夢に溺れずにはいられなかった。
「提督さん、家で食事するの?」瑞鶴の顔に冷笑が浮かんだ。「料理とかしちゃうんだ?」
「する訳ないだろ。ありあわせのものをそのまま食べるんだ。あればね。生きてるって感じするだろ」
「そんなに荒んでるなら急いで帰らなくてもいいじゃない。ここ、案内して」
長居しすぎた。瑞鶴の言うことに構わず早いところ出るべきだった。
泊地内でも人の疎らなOクラブの存在をちらりと思い出した。オフィサーズ・クラブとは名ばかりの、民間業者が入った小さな施設。見栄えだけはいいレストランと古めかしいバーがあるだけだった。オフィサーズと名づけられてはいるが下士卒でも──手続きすれば民間人でも──入れ、最近は施設も充実していて清潔な元下士官クラブに客を取られている。人が入っていくところなど最近は見たことのないOクラブなら醜態を演じてしまっても……
「少しだけだぞ。行くのは一か所だけで泊地ツアーとかやらないし、六時までには帰るからな」
早い時間ということも手伝ってか彼の予想通り、Oクラブには将兵の姿がなかった。レストランにもバーにも人が入らないのを見ると、いっそ建物ごと無くしてしまった方がいいとすら思う。
彼が迷いもなく選んだのはいつも同じ中年の店員──バーテンダーと呼ぶのはふさわしくない気が彼にはした──しかいないカジュアルバーだった。
「将校クラブとかまだあるんだ」カウンターに座った瑞鶴はなぜか小さな声で言った。
「前は将校しか入れなかったはずだ。私が来た頃には誰でも入れるようになってたけど」
「じゃあなんでまだなんとかオフィサーズ・クラブなんて名前なの」
「こんなとこでも名前を変え、設備を変えたりするには膨大な文書も人も金もいるからな。そんなことに決済の印を要求する人間もいないはずだ」
たった一人の店員は彼の顔を見ただけで黙って薄いウィスキーソーダを出してきた。ベースに何を使っているのか未だに知らないし特別に気をつけるようなことではない気がした。
「好きなもの頼んで。何を飲むにも私の金だ」
ぼんやりとグラスを眺めながら言った。瑞鶴が聞いたことのない言葉を店員に伝えた。きっとカクテルか何かの名前だろう。この店でカクテルなんてものが作れることに驚いた。
浅いカクテルグラスに注がれて出てきたのは透明な液体で、小さい果実のようなものが二、三個あしらわれていた。どんな飲み物なのか訊く気になれなかった。
「名誉ある海軍と水底の同士たちに」
グラスを少しだけ浮かせてこういう時にはお決まりの文句をささやく。同じようにグラスを掴んでいた瑞鶴が乾杯と言ったのが聞こえた。
グラスの中身を一口、大きく飲む。炭酸は強く、ウィスキーの苦味は飲み下す直前に舌の奥で名残惜しそうに留まるだけだった。
「疲れてるの?」
「みんな疲れてるよ。色々ありすぎて。正直なところ……どうしたらいいのかわからない」
「提督さんの口からそれは聞きたくなかったんだけど」
「本当のことだよ。早く終わってほしい」
「どうしたら終わるの?」
「何度も言うけど、ひたすら待つだけ。奴らがもっと本土に近寄るか、北方攻略から帰ってきた横須賀の主力が叩き潰してくれるのを待つ」
口に出したくなかった。言うたびに何もできない自分を直視せざるをえない。終わった先に待っているものも見えていた。底があるだけだ。真っ逆さまに落ちていった先の終わり。先も見通せず登ることも到底できない谷底だろう。
考えを遮られるよう薄いソーダを飲む。
「本当はまだ選択肢があるんじゃないの」瑞鶴が真剣な眼差しを向けてきたのがわかった。彼女の掌が彼の肘に触れる。思ったよりも華奢な手だった。
選択肢だったらいくらでもある。しかし彼には待つこと以外の選択をどれも上手く運べる自身がなかった。
「無理だよ。負け癖がついてる。挑むのがこわい」
「もう一回くらい負けてもいいんじゃないの。どうせもう無くすものだって残ってないんだから」
瑞鶴の無遠慮な言葉で思わず彼女の手を振り払った。机の上に二、三枚紙幣を置く。グラスの残りを全て飲み干した。
「おやすみ。問題を起こさないように気をつけて、楽しい夜を」
「本当は、どうしたいかわかってるんでしょ? とにかく挑めば清算できるのに。全部」
立ち上がる間際に聞いた一言が、しばらく心臓にまとわりついて不快な鼓動を誘っているような気がした。