あの日へ   作:おばけっけ

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14.危機

 どこまでも身勝手だ。自分が捨てた日々、自分から目をそらした過去、自分で拒んだ人々。全ての代償が今こんな形でやってきた。そのときになって初めて気づく。それらがどれほど貴重で、代えがたく、大切にすべきであったのか。しかし気づいたときというのは大抵遅すぎるときだ。もう帰っては来ないと自覚して初めてわかる。負け戦ばかりだったのだからせめてそれらだけは後生大事に抱えていなければならなかった。それしか彼にはなかったのだから。

 今は何にすがっている? 過去だ。彼に唯一残ったのはたいして輝かしくもない、だが今では愛さずにいられない過去だった。あの日々を自分から拒み、塞ぎ込んだりしていなければきっと今は少し変わっていた。きっとそうだろう。それでいいか、と言われれば違和感がある。大切にするものはそれだけか。

 Oクラブで隣に座った瑞鶴の横顔が浮かぶ。彼の肘をそっと押した彼女はどんな表情だった? 彼の奥深くまで射抜こうとする眼差し。強い意志で、同調を求めていた。なぜそこまで戦おうとする? 答えはもうわかっている。二人が過去に会ったかどうかなどは、瑞鶴と瑞鳳の関係であるなら重要ではない。水底の闇の中でも二隻を繋ぎ止めていたほどの強い絆があることを知っていたなら、瑞鳳も他人との関係に依存するべきでなかった。よりにもよってこんな人間との関係に。

 いつか見た夢のようにかつていまわの際を共にした瑞鶴は、瑞鳳をまたも沈めた敵になんとしてでも復讐の一矢で報おうとしている。しかし彼は? 艦としての時代に負った傷を隠し、人の不信を恐れて手を差し伸ばした瑞鳳に彼は何をした?

 それは彼女の勝手な思いであり、押し付けがましい努力であったから、応えなければいけない訳など彼にはなかった。そう言うことは簡単だ。しかし彼は人間だった。情があり、良心があり、共感する力がある。だからこうして後悔し、むなしさを覚えている。もう今さら、彼女にしてやれることなどない。

 

 

 思いが浮遊していくのに任せながら、ふと自分はどこにいるのかという疑問をぼんやりと感じていた。瑞鶴と別れて自分の部屋に帰ってきて、それから。それからは記憶がおぼろげだった。シャワーを浴びて、ボトルを手に取り……

 ゆっくりと目が開いてきた。意識が覚醒してくれば目は勝手に開いてくる。不快な何かが脳を掻き回しているように錯覚した。そのせいで目が覚めたのだ。それは耳から入ってきて頭野中で膨れ上がる。

 電話だ。携帯電話の単調で甲高い着信音。上体を勢いよく起こし、ベッドサイドテーブルに手を伸ばす。幸運なことに電話はそこにあった。遠慮なく頭痛を起こすこの音に耐えながら部屋中を探すという災難は回避できた。一刻も早くこの音を消したい一心で、真夜中に電話があることの意味もろくに考えず出た。

 

「おやすみのところ申し訳ありません。先ほど監視小隊より報告が」

 

 中年の当直士官の声は落ち着いていた。今のところ泊地で冷静でいなければならない人間が誰であるのか心得ている。おかげで彼の意識は瞬く間にはっきりした。頭の中には鈍い痛みがこびりついたままではあったが。

 

「戦力不明の一個艦隊が高速を保って泊地に接近しています。このままだと四十分程度で泊地に到達。先行する航空機や潜水艦は確認されていません」

 

「陸戦隊は?」

 

「上番中の一個小隊がレベル3の武装で展開しました」

 

「警戒レベルはそのまま。警急かけるぞ。瑞鶴が来たら艤装受領させろ。出撃は待て。私もすぐ行く」

 

「お迎えのお車はいかがいたしますか」  

 

「けっこう。自分ので行く。それまで頼むぞ」

 

 電話を切り、カーテンの隙間から覗く空を見る。陽が昇りきるにはまだ時間がかかる。瑞鶴は戦えるか。空母に夜戦はできない。

 そこから先を考えるより早く、部屋を出ていた。

 

 

 

 

「敵は速度を落とさず依然として接近しています。監視小隊は〇四五〇頃に迎撃圏内への侵入を予期。陸戦隊はすでに展開完了。人員現況は……」

 

「艤装は展開できるのか? 瑞鶴は?」

 

 淡々と報告する当直士官の声を思わず遮った。単に事実だけを述べていく相手の平坦な声がなぜか挑発的に聞こえた。自分が焦燥しているだけではない。感情次第で重要な場面での相手への接し方も変えてしまう。彼の周りからついに誰もが離れていった理由だ。この些細な一時に自身の醜態を見たような気がして、彼は早くも自分を疑いはじめた。

 執務室にたどり着いたものの、椅子に腰を下ろすつもりはなかった。机に入れたままになっていた拳銃をプレートキャリアのホルスターへ収め、すぐに出る。その間にも当直士官は人員報告を続けていた。

 相手は彼が自身に抱く以上の不信感を持っている。二等水兵から叩き上げで大尉にまで上ってきた士官だ。何が正しいのか彼以上に分別がつくに決まっている。一回り以上若い、手のつけられないほど能無しの上官を心底軽蔑しているに違いない。

 士官は一瞬だけ押し黙り、目を伏せると再び話しだした。

 

「艤装の整備は完了しております。兵装の搭載も。准尉は格納庫前で待機中」

 

 口元がゆがみそうになったのをこらえる。艦娘に関わらずに勤務している者の多くは不思議なことに名前を呼ぼうとしない。階級や艦種であったりただ彼女とだけ言う者も見たことがある。きっと違和感があるのだろう。彼も最初はそうだったかもしれない。今では慣れた。

 埠頭へ続く扉を開くと南方特有のぬるく、湿気を含んだ風が弱々しく彼の頬をなでていった。朝焼けの空と塩気を含んだ香りが不安を揺り起こした。想像していた通り静かだ。気味が悪くなるほどに。思わず息をのむほどに。

 控えめに寄せては引くのを繰り返す波の音以外に聞こえてくる音はない。展開している陸戦隊員たちは武器の握把を握ったまま、いずれ見えてくるだろう敵をただ待つように水平線の向こうをじっと眺めていた。指揮官すらも彼に気付いていないのか、その場に立ち尽くして微動もしない。時間が止まったような気がした。緊張も緩慢も感じられない、停滞していただけだった。そして扉から出た所で歩を止めてしまった彼もその静止した光景の一部になろうとしていた。

 

「提督さん! 出撃まだなの?」

 

 我に帰り、声のした方を見る。瑞鶴は律儀にも昨日と同じくアビエーション・グリーンの制服を着て、やはり弓を手にしていた。すっかり焦燥し、興奮しているらしく声は上ずり、大きな目はさらに存在感を増していた。瞳には初めて会ったときに見たきらきらした輝きはなく、興奮のおかげでかすかに潤んでいるだけだった。これにも不安と同時に、うっすらとした失望の念が忍び寄ってきた。

 

「すぐに艤装を展開しろ。第四スロットの彩雲を発艦させて敵艦隊とその後方まで情報を収集する。迎撃圏内への侵入が確実になったら戦爆連合で迎撃。いいな」

 

 撃沈、という言葉はあえて使わなかった。深追いさせるつもりはなかったし偵察機と遭遇した時点で撤退するならそのまま逃がすつもりでもあった。潜水艦や航空機と違い知らぬままに懐まで入られるようなことはない。 

 

「彩雲に戦爆? 高角砲は?」

 

「普通なら空母には積まない。戦爆連合と彩雲の編成が緊急対処時の空母の兵装と規則で決まっている」

 

「彩雲なんていいから高角砲に換装して。索敵は艦攻でもできる」

 

「何言ってるんだ? あと三十分もしない内に迎撃圏内に奴らが到達するんだ。今あるものでやるしかないだろ」

 

 聞いたことのある言葉だ。今あるものでなんとかしろ。この一言だけで空母にとっては丸腰同然の装備のまま瑞鳳を哨戒に出した。何度も。

 しかし今回は違う。本来なら空母は接近戦など行わない。アウトレンジ攻撃による敵艦隊の崩壊を至上の任務とし、水雷戦隊突撃のきっかけを穿つのが彼女らのあるべき姿だ。高角砲などまず装備することはない。最初の瑞鶴は雷巡を高角砲の接射で沈めたが、本来なら駆逐艦や軽巡が取るべき戦法だ。ろくな技術もないのに間合いを詰めて挑めば呆気なく返り討ちに逢い、撃沈に直接繋がる。絶対にさせるべきではない。

 

「私しか海上で戦えないのに! 高角砲がないなら噴進砲でも集中配備機銃でもいいから、接近戦の装備がないと」

 

「戦爆連合があれば戦艦相手だろうとアウトレンジで決着がつくはずだ。撃ち漏らした敵は陸戦隊が水際で止めを刺す」

 

 瑞鶴はこれ以上はもう何も言いまいと口をきつく閉じた。眉を吊り上げて怒りを隠してはいない。これでいい。彼女も学習してくれたらしい。

 前回のように近接戦にこだわっていればやがて良くない結果を招く。取り返しがつかないほどに。  

 水平線の方へ視線を投げた。朝焼け。まだ夜の名残りは色濃い。

 

「発艦できるか? まだ陽は昇りきっていない……」

 

「できるに決まってます。東の空に明けの明星が輝きだしたなら、星の矢はまたあの海に閃く」

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