瑞鶴の視線が東に見える金星に向いた。大仰な言い方でありながら当人の表情は真剣そのものだった。瑞鳳も同じような言い回しをしたことがあった。その時は夕方で見えていたのは宵の明星だったが。そういう例えを使うことが空母艦娘の中に一つの文化としてあるのかもしれない。
「信じるからな。勝手な前進はなしだ。艤装、展開しろ」
瑞鶴は敵意を込めた目のまま海の方へ反転し、走り出した。彼もその後ろからのろのろと着いていく。陸戦隊の指揮官と目があった。首を振る。視線の端で青い光を捉えた。埠頭の端で歩を止めて、すぐ左隣に座っていた重MATの観測手の肩を叩く。
「銃、貸してくれるか」
日に焼けた若い水兵は立ち上がり、HK33小銃を控え銃のかっこうで差し出した。受け取り、コッキングレバーを引いて薬室を改める。空なのを確かめると弾倉を抜き出し、レバーが完全に後退した位置で留める。再び弾倉を装着して固定されていることを確認するとレバーを上から叩いて前進させた。金属どうしがぶつかり合う音が静けさの中で残響を引きずっていくほどに存在感を示した。レバーが完全に前進したことも手のひらで確かめてセレクターを安全位置に置く。これでいい。きっと撃つこともない。
洋上に立った瑞鶴は弓を構えてやはり引き絞らず矢を落とした。六機の彩雲はレシプロエンジンの唸りを置き去りにして水平線を目指し進んでいった。
また静寂が訪れた。胃がぎゅっと縮こまり、早鐘のような鼓動がはっきり聞こえているような気がする。錯覚だと思い込む。
今度はこの静けさの中に、張り詰めた空気が充満していた。その場にいる誰もが漫然と何かを待つのではなく、何かが迫っていることを確信したらしかった。
ここで敵を沈めたら、今度こそ後戻りできない。次は総攻撃が待っている。壊滅か、それとも内陸への撤退か。本当に逃げたところで、横須賀はこれ以上怒ることもないだろう。徹底抗戦を叫んでも待っているのは将兵や装備の減耗と、海域解放作戦の切り札たる装甲空母の喪失だけだ。万一この泊地が再び敵の手に落ちても、主力連合艦隊を投入すれば簡単に奪還できるのだから。
こんな状況なのにも関わらず抗戦の決意をしたがらない自分に愕然とする。見えているのは敗北の二文字だけだ。彼自身が戦うわけでもないのに。
「索敵成功。敵、一個艦隊三隻。旗艦に軽巡へ級。雷巡二隻、駆逐二隻が随伴」
いずれも強烈な魚雷を積んでいる。高速で接近しこちらに残存しているはずの艦に必殺の雷撃を叩き込み、速度を活かして反転、逃げ切る。可能なら情報も持ち帰って。或いは刺し違えてもこちらの艦を潰そうとするか。確実に艦娘を投入させるために対地砲撃も仕掛けてくる。
不意に違和感がやってきた。水雷戦隊にしては中途半端な編成だ。雷撃戦力を集めてきたにしてもこんな編成がありえるか。重巡もいないから砲撃戦も完全に諦めているし、対空戦もほとんど成り立たない。五隻というのも不自然に思えてきた。決死部隊なのに一個艦隊の定数限界ではない。胸の奥でまとわりついたようなもやは晴れない。
「彩雲の高度を下げろ。奴らの頭すれすれまで。何を相手取ろうとしてるのか教えてやれ」
小銃のストックを肩に載せてスコープを覗く。一機の彩雲の後ろ姿が丸い視界の中をゆっくりと縦断し消えていった。
ここらで引き返してくれ、と何度も声に出さず願った。何もしないならこっちだって手を出さないから、頼むから放っておいてくれ。まだ見えない敵に向かってそう哀願する自分が馬鹿らしくなってきた。
「そろそろ捉えただろう。あいつら、引き返しそうにないか?」
「全然。それ覗いてるならそろそろ見えるはずよ」
瑞鶴が言い終わるより早く視界には黒い点がぽつりと一つ映り出していた。単縦陣で迫っているのが分かる。熟練した狙撃手であれば、一キロ近く離れた敵の頭でも相応の銃があれば精確に撃ち抜けるという。5.56mmの小銃に八〇〇メートル先を狙うのが限界のACOGでは無理だ。大口径ライフルとカール・ツァイスの高倍率スコープを用意した所で彼が撃ったのでは命中は望めない。
彩雲がしきりに敵艦隊の頭上を往来して、ちらちらと視界の上端に黒いものが映る。もう泊地があちらの砲の射程入ってしまう。決意する時が来たらしい。ライフルを下ろす。
「もう撃たないとダメだ、瑞鶴。迎撃しろ、迎撃しろ」
明治時代に範を取ったイギリス海軍に倣い、命令は二度繰り返される。しかし兵の気を引き締め忠実に実行させるほどに厳かなものではなかった。諦めに似た、ため息のような一言だ。初めて彼女に正確に発した命令のような気がした。
瑞鶴はかすかに首をこちらに向けると小さく頷いて、矢筒から一本目の矢を抜き取り、つがえた。どんな顔をしていたか見えなかったが、今は見えない方が良かった場面だろう。
放たれた矢は十二機の天山に姿を変えて、V字形の編隊を整えながら高度を上げていく。彼が知るよりも明るいカラーリングの天山。瑞鶴が手ずから調整し、精鋭と自負した六〇一航空隊所属の機体だ。あの機体が艦隊決戦支援か何かで来てくれたらきっと心強かっただろう。長い鍛錬のお陰で精度も威力も底上げされた航空魚雷の搭載と高い運動性を両立している。文句の入る余地がない一流の装備だ。改修にも長い時間を費やしたに違いない。しかし今はあの艦攻も最悪の状況への呼び水になりえる。最悪の状況を覆す天からの一矢にはならない。
もう一矢つがえた瑞鶴は上体をいくらか逸らし、鏃を空の方へ向けた。驚いたことにきちんと引き絞り放っていった。斜め上方に打ち上げられた矢が重量に完全に囚われて頭を垂れた時、矢は二機の艦載機に姿を変えた。彼の立つ位置からでは機体が判別できなかった。更に後方を索敵するために出した艦攻だろうか。対抗する航空戦力がないのに艦戦を出すのはふさわしくない。
すぐ横の水兵があっという声を漏らした。彼も目を向いた。
単縦陣に展開した敵艦は全て瑞鶴に横腹を向けて魚雷を打ち出した。こちらは艦隊指揮で言うところのT字不利になる。それよりもその場の誰もが驚嘆したのは撃ち出された魚雷の数。見える雷跡はゆうに二十を越えていた。とにかく逃げ場を無くせるように広い扇型を描いて迫る魚雷がはっきり見えた。
上がれ、と叫んだ。何も考えられない時間が何秒か存在した。その数秒間、全てが間延びしていた。瑞鶴は魚雷が向かってくる方へ一歩踏み込んだ。そしてコンマ数秒遅れて放たれた隣の魚雷との隙間を巧妙に縫って呆気なく、絶望的な雷撃をやり過ごした。
目の前で起きたことに彼は言葉を失った。見上げた度胸だ。ほんの一瞬タイミングがずれたり、身体操作をわずかにでも間違えていれば確実に被弾していた。当たる確率の方が高かったのは誰の目にも明らかだ。それでもその中から確実に避けきるごく小さな道を見出し、実行してみせた。普通あそこまでひどいことになれば全速で後退して艤装を格納し、陸へ上がってくる。退かなかった、という選択が彼には信じられなかった。
瑞鶴の次の行動は彼にとってより信じられないものになった。魚雷をかわしても止まらずに敵への接近を始めた。また撃ってこないという保障などない。好機と取られて第二撃を誘うことになる。
「前進するな、戻れ。抗命する気か」
叫びながら小銃を空に向けた。いつかの時と重なった。彼女の矢筒は赤く、小さな振りのある袖が艦載機のダウンウォッシュではためいていた。忘れろ、今だけは。瑞鶴の後ろ姿と重なろうとしていた記憶を押し潰し、セレクターを単発位置に切り替える。引き金を引くことは出来なかった。
彼が逡巡する間に艦攻隊は敵艦隊に迫っていた。編隊は二手に別れると一隻を左右両側から挟み込むように魚雷を放った。この攻撃もタイミングがずれれば撃ち漏らしが出る。敵が雷撃を認めて速度を変化させたりすることも読んだ上で到達点を予測し、そこにピンポイントで魚雷が重なるように距離を調整して放たなければいけない。こればかりは天性の勘、それか尋常ではない数の戦闘経験に頼るしかない。瑞鳳はよく言っていた。そして自分にはそのどちらもないからと。彼女が爆戦や艦爆を多用したのはそのためだ。急降下爆撃ならば精密な照準とその後の操作で確実に命中させられた。
果たして瑞鶴にはその勘があったらしい。艦隊は減速したが旗艦から順も違わず一隻ずつ止まり、火を吹いていく。十秒もかからずに、今しがた圧倒的な魚雷火力を誇示した一個艦隊は全滅したのだ。
張り詰めていた空気が一瞬にして弛緩したのを感じた。瑞鶴が止まったことで誰もが戦闘終了だと信じたはずだ。
そして彼自身もようやく銃を下ろし、長いため息をついた。何時間も呼吸を止めていたような気分だった。この勝利で気分が晴れることはなかったが、ひとまずは終わった。まだ瑞鶴が浮いているということに何よりも彼は安堵した。誰も死ななかった。この事実が彼の不安を僅かながらに覆い隠し、沈鬱という発作を鎮めたのは今日が初めてだった。
再び編隊を組んだ艦攻が一本の矢に姿を変えて瑞鶴の手のひらに落ちたのが見えた。その矢を納めた瑞鶴だけは今の状況にそぐわぬ緊張感を発していた。彼女の周辺だけを取り巻いていただけの空気はすぐに陸にも伝播し、緊張はまたもはしる。
あの二機。宙に向けて放ったあの二機が帰ってきていない。どこに行ったのかも追っていなかった。
それに気付くのと瑞鶴が体ごと振り返るのは同時だった。振り向きざま、空き缶のようなものを一つ海面に叩きつけるように投げた。即座にごく小さな水柱が上がり、海面に黒い影が浮かぶ。
潜水艦、と彼が叫ぶのとカ級がその姿を顕にするのは同時だった。今度は敵が彼に背を向けるかっこうになっているから目の色は判別できない。昨朝に彼と相対したのと同じ個体に思えてならなかった。必死に掻き消す。そう思い込んでいるだけだ。妄想に過ぎない。深海棲艦などどれも同じ見た目なのだから。
「機関銃手、見えてるな?」
彼自身も小銃を構えて叫んだ。握把を握る右手が小刻みに震えているせいで全く狙えない。後ろから銃口を向けているから有利なのは確かだが、自分に向けられた機銃の銃口が脳裏にべったり張り付いて離れない。
瑞鶴はなんの表情も浮かべていなかった。視線はカ級に合わせたまま、確実に来るであろう実戦の衝撃を覚悟したのか口だけは固く引き結んでいる。
前回、たった一隻の潜水艦に装甲空母瑞鶴が追い込まれたのは誰もが知っているだけあり、重機関銃はぴたりとカ級に照準していた。しかし、瑞鶴は首を横に振った。場の視線が彼に集中したのを感じた。
撃つな、とトーンを落として言う。自身も銃を下ろす。そのときには水平線の向こうで彗星が瞬くのを見ていたからだ。迷う隙も、感じる暇もない。指差し、その光に水兵たちを注目させる。機影はレシプロエンジンの唸りを連れて正体を明かそうとしていた。先細った胴体と機種の下で大きく開いたエアインテーク。それだけの特徴があれば充分だった。
二機の彗星が帰ってきた。瑞鶴は最初から潜水艦を察知できていたのだ。その上で艦爆を発艦させた。彼女が決着をつけるために、誰にも言わず。最初の五隻などほんの前座だった。彼女にとってはたった一隻の潜水艦との戦いこそが決戦だった。
確かな終わりを運んできた彗星は日の出を背にした彼女の結った髪を揺らして通り過ぎ、浮上したカ級の真上に音もなく爆弾を落としていった。潜水艦の装甲なら二五〇キロで充分だ。今から急速潜航したところで間に合うはずがない。水中まで追いかけてきた爆弾は爆雷と同じ効果を発揮する。瑞鶴の背丈ほどの水柱が立つ。おかげで彼女は海水をかぶったが次に彼女の顔が見えたとき、彼女は目をきつく閉じて空を仰ぎ見ていた。二機の彗星だった矢は伸ばした手に落ち、矢筒に納めるとこちらに顔を向けた。
瑞鶴は目を細めて穏やかに笑っていた。彼女が来て以来、あんな表情を彼に向けたのは初めてだった。なんとなく、彼と瑞鶴は今同じことを考えているような気がした。
しかしその笑みも長くはもたなかった。瑞鶴が突然目を見開き、くずおれる。艤装の装着は解除され、生身の体は沈み出す。彼女の名を叫ぶのと、遠くで雷鳴が聞こえたのが同時だった。
「戦艦です! タ級、距離一一〇八メートル、反転して遠ざかっていきます」
双眼鏡を覗いていた陸戦士官が叫んだ。
一キロ以上先からの狙撃。これこそアウトレンジ攻撃だ。重MATなら届くが有線で誘導されるミサイルの速度は決して早くない。到達するより前にかわすことなど高速艦なら簡単だ。
陸戦士官が何か言っていることも頭に入らない。小銃を置くと走りだし、海に飛び込んだ。