静かな雨が降る日だった。シースタリオンの後部ハッチが開いた途端機内に吹き込んできた、生温かく湿った空気を今も忘れない。鮮明に想い出すたびにその時の、胃の辺りが重くなるような、鬱屈した気分も蘇る。
ため息と共にシートから立ち上がると機上輸送員が彼のダッフルバッグを手渡し、見送ってくれた。一歩外に出れば感じる気候は熱帯のそれだった。土砂降りでなくてよかったと思った。気温が低いときに降る雨は体温を奪い危険という理屈はあるが、高温多湿に雨という組み合わせの不快さには到底及ばない。髪は垂れ下がり、ワイシャツは肌に密着するせいで気持ち全身が重い。
ヘリポートのすぐ脇に立っていた小柄な水兵が明るい声で彼の名を呼びながら近づいてきた。黒いオールウェザーコートの襟から覗くネクタイは緑色で、肩の階級章はW―4を示していた。海軍で五つにランク分けされた准尉の階級章を着けるのは艦娘だけだ。彼女こそこの根拠地に配置された唯一の艦娘らしい。
「祥鳳型軽空母二番艦、瑞鳳です。ようこそ南西諸島泊地へ」
瑞鳳はかすかに顔を上げて視線を合わせると敬礼の代わりに官給品の黒傘を差し出してきた。
「ありがとう。しかしひどい天気だな。毎日こんな調子なのか」
「もう梅雨は明けましたから、雨のほうが珍しいです。いい天気の日ばかりですよ」
大きく赤子のように丸い目を細めて瑞鳳は笑った。人懐こい笑顔だが目の下にはうすいくまが浮いていた。きっと化粧が薄い。幼い顔立ちをしているが、彼と大して変わらない年齢のような気がした。
こんなに素朴な笑みを浮かべているのに、ひどく疲れているようだった。或いは、退屈で毎晩寝付くことができないだけか。
「雨も降ってますから、早く行きましょう。傘、さして」
たった今受け取った傘を取り上げ、わざわざ広げて差し出してくる。顔中の筋肉が硬直した。
例えば近しい人間がやるならなんと言うこともなかった。しかし初めて顔を合わせた人間にこんなことをされるのは気味が悪い。どことなく、彼女の笑顔に押し付けがましさを感じた。こういう善意が嫌いだ。そもそも人間の善意というものを彼は絶えず疑っている。理想としての言葉があるだけで、実在するものではないと。
傘を受け取ると瑞鳳は回れ右して儀仗隊の将校のように彼の斜め前までずれて歩きだした。
「なんか力んでるな。そこまで大げさじゃなくていいだろう」
「そう言う訳にはいきません。なにせ新しい提督ですから」
提督、と呼ばれると未だに胸がざわめく。能無しの若手将校の階級を無理に押し上げて何が提督か。
前任地の旗艦に言われた言葉が胸に刺さったままになっている。「あなたを提督だなんて呼びたくない」なにも面と向かって真面目な顔で言うことはないだろう。陰でこそこそ言っているのを聞いてしまったとしてもやはり悲しいが。瑞鳳もあと何ヶ月かして彼がどうしようもない人間だと気づいた時、そう冷たく言い放つのだろうか。もうそんなことは言わせないと固く決意したとしても、大抵は空回る。いつものことだ。決めるべきところで決められない。要するに、そんな器ではないのだ。提督だなんて呼ばれる器でない。誰かを動かす器でもない。もしかしたら誰かと深い関係を築く器ですらないか。今のままでいる限り、劣等感だけが太っていくような気がした。元のマークのままでよかった。望まぬマーク替えなのだから当然か。
近づいていく灰色の司令部庁舎に意味もなく視線を固定しながら浮かんでくる言葉は暗く希望からは遠ざかっている。こんな立場になってしまっては、今後の展望は全然なく一歩間違えればすぐに肩を叩かれ予備役編入を迎えてしまう。今の彼の中ではそれすらもまともに見えてくる。明るい考えはかけらもなく、そんな言葉を捻り出そうとする気力ももうなかった。
「こんな所ではありますけど、存外に悪くはないんですよ」
瑞鳳が振り返った。相変わらずにこにこしているが今のところ彼にはそこまで笑っていられる理由は見当たらない。
「ここは長いのか?」
「いいえ。三月に来たばかりです」
「まだ半年も経ってないじゃないか。それで良い所だと決めるのはちょっと……」
「早計なんかじゃありません。きっと提督もそう思いますって」
「前任者もそう言っていたかい? 私もこの前線根拠地を楽園と呼んで去りたいね」
つれない言い方。これでいい。興味なんて持たなくていい。好いてくれなくていい。こちらも好くことなんてないから。何かを与えなければ関係が始まることはなく、与えられれば返さなければ関係は保てない。時折例外を目にするが、一方的に与える関係が成り立つのは親子だけだ。歪な繋がりと思う。どうしてそんな関係が成立するのか。生物の本能が成すのか。彼にはわからなかった。他人どうしなら冷えた関係でよかった。それが必ずしも険悪な関係を意味するわけではないのだから。
不意に瑞鳳が立ち止まった。つられて彼の歩も止まる。どうした、と彼が訊いてもすぐには振り返らなかった。彼にとってはずいぶん間延びして感じられた、ほんの何秒かの後に振り返る。瑞鳳の顔からはようやく笑みが消えていた。童顔の割に、凄みがうっすら滲む横顔だった。
「前任の提督はどう思ってたんですかね。結局聞けないまま転勤していっちゃいました」
「私にはわからないよ。何も言わなかったのならきっとことさらにひどいところとは思わなかったんじゃないかな」
特別良い所だったとも、と胸の中で付け加える。こんな前線ぎりぎりの根拠地が良い所だなんて思うわけがない。前任者も逃げ出したくて仕方なかったはずだ。少なくとも本土ならどこでもここよりはマシだろう。
瑞鳳があんなことを言うのも、流されてしまったものへのせめてもの慰めか、でなければ本当にこの土地に合ってしまったどうかしている人間だということだ。
「そうならいいんですけど」
「前任とは仲良くなかった?」
「悪い関係ではなかったんです。本当ですよ」
「ならそんなに悪くは思わなかっただろう。印象を決めるのは場所じゃなくて人だ」
大した出まかせが漏れたと思った。実際にそう感じたことはない。良い所は良いし悪い所は悪い。感じ方でしかない。
「だったら、瑞鳳のせいで提督はここが最悪だったと思うのかもしれませんね」
冗談のつもりだったのだろうが、瑞鳳の笑みは寒々しい。病的だとすら思った。大きい割にくまのある目のせいだろうか。生来こういう笑い方しかできないのかもしれない。笑っているはずなのに誰かにすがるように目を細め、眉は困ったように下がっている。この表情が最も魅力的だと自分で見出したのか。だとしたらその見立ても誤りだ。射抜くように動かず、ガラス玉のように無機質に輝く栗色の瞳に見据えられれば息が詰まり、相手の庇護欲を誘い出すことはできない。単に彼は大きな目が苦手なだけか。
オーラ、という言葉が彼は嫌いだったが、瑞鳳からはどこか暗く冷たい空気を感じた。人が寄りたがらない、病的な空気が彼女の足元や髪で隠れたうなじから立ち昇っているように思える。敗北という結果で終わった戦争の中で最後を迎えた艦という由来がこの不気味な空気の原因だとしたら、艤装という兵器のなんと罪深いことか。
「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。行きましょうか」
瑞鳳自身も言葉を選べなかった自覚があるのか、いたずらっぽく肩をすくめるとまたゆっくり歩き出した。
庁舎はさらに近づく。