ガラスドアを抜けて司令部に一歩足を踏み入ればそのまま何かに区切りがついてしまうような気がした。彼がいつまでも留まっていたかった何かだ。味気ない灰色をした三階建の建物の中が異世界に思えて不要な緊張感が湧き出てくる。錯覚だ。しかし踏み出す一歩一歩が、なんの脈絡もなくアスファルトの路面を力強く突き破って現れた手に掴まれたように重く、建物に近づくことを拒んでいた。建物が拒んでいるのではない。彼が拒んでいる。進む方向を一八〇度変えてまだ離陸していないシースタリオンへ取って返せば、足取りは軽くなり走り出すだろう。実行できないアイディアはいつだって最も魅力的だ。実行できないから。
「ここの前はどこに?」
「木更津の航空隊。初任地でした。懐かしいなぁ」
「木更津! すごいじゃないか。精鋭空母だ?」
「全然、そんなことないですから」
木更津基地と鹿屋基地には戦闘行動半径の長い攻撃機や偵察機が配置され、前線で不足の事態があったときには真っ先にかけつけて情報を収集し、敵艦隊への攻撃を行う。QRFとしての機能も備えていた重要な基地だ。総じて熟練度が高く性能の高い機体が優先的に置かれる。母艦の定数は一隻だがやはり優秀な空母や水母が置かれると聞いていた。
彼が知っているのはその程度の、ごく概ねの事柄だけだったが、それを全て言ってしまうと瑞鳳ははっきり否定した。
「航空隊の空母なんてお飾りですよ。私、あそこにいるときは彩雲しか飛ばしたことなかったんです。基地には目一杯の攻撃機を配置したいからってあそこの提督は言ってました。本来なら水母のポストなんですよ」
「彩雲がないとここみたいに遠い所まで攻撃機連れてこれないんだよ。飾りなんかじゃない。自分を悲観するなよ」
瑞鳳の視線を感じた。他人に言うだけなら簡単だ。自分が実行しているかどうかなど考える必要もない気楽な助言。楽観できない状況で悲観するな、だなんて彼が言われれば途方にくれるしかない。
「提督はご自分の展望を悲観されたことは?」
「あるよ。きっと人よりも多いな」
ここに来れたことを悪いとは思わないが、と一言加えようとしたが飲み込んだ。こんな場面で言ったのでは嫌味の色すら帯びてくる。まさしく余計な一言だろう。それかただの社交辞令と取られるか。どちらにしろあまりいい一言でない。
「さあどうぞ。中もご案内します」
ガラスドアを開けたまま押さえた瑞鳳が庁舎の中を指し示した。ずっと後ろでかすかな風を感じる。シースタリオンは離陸しだしたらしい。退路も絶たれた。ため息をなんとか口の中で押しとどめる。いよいよ全ておしまい、そんな気がした。
着任申告の文言を言い終えると泊地司令官は彼を休ませて相好を崩したように振る舞った。丁寧に磨かれた跡のある立派な執務机と役職、姓名が浮き彫りされた木製の卓上名札だけで威厳は充分に伝わった。艦隊司令に選抜されてしまったから彼の年齢にあまりに不相応な階級が臨時に付与されているに過ぎず、本来であれば白頭鷲の階級章をつけた高級将校と直接関わることはほとんどない。やはりプレッシャーを感じて胃の辺りが重くなる。そんな彼の心持ちなど伝わるわけもなく、司令官はどこか冷ややかな笑顔のままでいた。薄くなりつつあるが色の落ちていない髪を後ろへ撫でつけ、堀の深い顔立ち。一見すると細見だが顎はがっしりしていた。イギリス海軍の将校だと言われても納得できそうな風貌だと彼は思った。
「監視小隊と艦隊が文字通り前線の目になる」抑揚は抑えられているが通る声だった。「ここの艦娘は今のところ瑞鳳一人だから、しっかり意思を通わせて役目を果たしてほしい。中央が解放作戦を立案したならすぐに情報を持っていけるように、それからこちらの海域に侵入しようとする敵は一隻足りとも漏らさないこと。大変な環境ではあるが、しっかり頼むよ」
彼が短く返事すると司令官は小さく頷き、退室を促した。特に期待もなければ失望も感じられない態度だった。きっと前任者はそこそこ上手くやっていたのだろう。あるいは平穏で何もないからこそ、誰がやってもそこそこ上手くいかなくてはまずいか。期待されるポストでは決してない。何か成し遂げようにも横須賀は今のところ北方海域解放に力を割いているからしばらくこちらは注目されない。
不運も重なった。まさに窓際。誰がやろうと同じ仕事。出世のレースから外された道。
それをいよいよ自覚させたこの空間から逃げるように出ると、扉の横で控えていた瑞鳳は小さく頷いた。
「ここの司令官、どんな人?」
「あの人は貴族ですね」瑞鳳は間髪入れずに、真面目な顔で答えた。
彼女なりのユーモアだったのかもしれないが、あまりにイメージ通りの単語が出てきたせいで納得してしまった。上手いことを考えたものがいる。前の艦隊司令がそう呼んでいたのかもしれないし、監督部の下士卒が給湯室でそう呼んでいたのかもしれない。どうであれ、あの見た目や人となりにぴったり当てはまる言葉が発見されてしまった時点でそれは泊地中を大事な命令の文書が受領されるより早く駆け回り、浸透してしまった。下らないが、笑わずにいられない。
「前の艦隊司令はあの人と上手くやれてた?」
「見た目とは違って気難しい人ではないですから、心配しなくてもいいですよ。それより……」
瑞鳳は彼の方に視線を向けたまま固定し、やがて立ち止まった。つられて彼も歩を止める。どうした、と言いかけて呑み込む。彼を見据える瑞鳳の目からはなんの感情も読み取れない。こうして見るとその瞳にはやはりガラス玉という例えがしっくり来る。無機質で、圧迫される。目線を合わせているだけで、彼の中の全てを読み取られるような気がした。傘を広げられたときに抱いたような些細な感情すらも、全て。
どうして他人をそんな目で、平気で見る? 彼女の小さな顔に掌を這わせて強引にでもその目をつぶらせたい。
怒りがそろそろと溢れる瞳で見つめられたときの息苦しさを知っている。失望が滲む瞳の、粉雪に似た柔らかな冷たさを知っている。ではこれは? 彼にはわからない。感情を全てやすりですり減らしてしまった単なる空虚だけがその瞳の無効に広がっているような気がした。
「それより、なんだ?」
「それより私が提督と上手くやれるか気にかかります」
「私の前任と何かあったのなら、正直に話してほしい。そんなこと言われると気になるよ」
「何も、何もありませんでした。本当に何も」
彼には瑞鳳の言いたいことが全くわからなかった。おかしな艦娘の上に着けられた。胸の中ではすっかり途方に暮れていた。半年に満たない前線での勤務で精神をすり減らし、参ってしまったのかもしれない。きっと彼の最初の仕事は彼女に精神科軍医への受診を命令することだ。
「ならそんな言い方じゃなくても。今はまだ……」
彼の言葉を無視して彼女は両手で彼の右手をそっと握り、引き寄せた。冷たく薄い手だった。細長く、指の形はかっこういいが青白く手の甲には血管が浮き出ている。爪には何も塗らずただ短く整えてあるだけだった。童顔のわりに手はもっと老けたように見える。そのアンバランスさが気味悪く思えてすぐに自分の手を引き戻した。
何秒かの間、瑞鳳は空を掴んだだけの自身の両手を見た。そして小さくため息をついた。せっかく手ですくった水が指のすきまから全て流れ出てしまったのを惜しんでいるようにも見える。
「ごめんなさい。変に思わないで……」
「私ならいい。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫。提督、最初に聞いてほしいです。瑞鳳は提督の期待にきっと応えますから」瑞鳳は力なく手を垂らして何か言葉を探すように下唇を噛んだ。「だから捨て駒なんかだとは思わないでくださいね」
こめかみの辺りの血管が膨れた。反応を顔に出さないようにするにはかなりの努力が必要だった。自己紹介がしたかったとは到底思えなかった。