あの日へ   作:おばけっけ

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6.夢幻

 また一人になった、と感じた。最初から一人だったのだからまた、と言うのもおかしいか。ここに来てからはずっと一人であることを望んできた。彼に親切を働こうとする者、親しくなろうとする者が全て内心では彼を蔑み、あまりに惨めな男に同情して優しくしているように思えた。自分勝手で、どうしようもない子供のような思い込み。人が離れていくのも当たり前だった。そんな中にあって瑞鳳はまさに最後の光だった。彼女を理解させるために彼を受け止めていたと気づくことができたが、今となってはそれも遅すぎた。彼の最後の行いで瑞鳳は結局、彼は何もわかっていなかったと思っただろう。信じること、裏切らないこと。意図せず彼女の望みを絶ってしまった。あんな形で。

 机のすみに重ねられた五、六部の冊子を手に取る。監視小隊が収集した情報を元に作成される日報だ。

 今の虚しさと焦燥感を敵への闘志に変える気力はなかった。現状では反撃の兆しを見せればこちらが逆に叩き潰されるだろう。そもそもそんな余力はない。沖ノ鳥島の主力艦隊がもう一度大規模な攻勢を仕掛けない理由は二つあるといわれている。

 一つはあれらがこちらの戦力を壊滅させたと思っていること。もしかすると奴らの関心は本州へ向き始めているのかもしれない。いずれにしてもこちらへの興味は薄れてきている。

 二つ目は瑞鳳が艦隊にそれなりの打撃を与えられたこと。航空戦で核となる正規空母と少なくない水雷戦力を失ったまま再建できていない。そのせいで他方面への侵攻を渋っている。

瑞鶴が一個水雷戦隊を倒したことで敵の目は再びこちらに向くか? ありえないことではないが、あちらの関心がそれつつあるのを見るに、前回ほど大規模なものはない。おそらく、あの艦隊は戦力回復も終わらないまま北方から戻った連合艦隊に蹂躙される。この泊地が出る幕はもうない。あとはこれ以上損害を大きくしないように努めるだけだ。その考えが彼を一層無気力にさせた。

 冊子に張られた回覧表に既読を示すチェックを入れるとソファに体を横たえた。時刻は一九〇〇。今なら寝つける。半端な時間に目を覚ますのは必至だが、構わなかった。瞼を閉じると思っていたよりもさらにたやすく眠りの中へ落ちた。

 

 

 

 

 

 彼は一人で埠頭を歩いていた。これ以上ないくらい晴れていて、展開しているはずの陸戦隊は撤収していた。なにもかも元通りだった。

 彼にとって不幸ではあるが、この光景は夢だとわかっていた。同時に、今日は悪夢をみていないと悟った。悪夢を見ているときは夢だなんて気づくことは滅多にないが、彼を悩ませることのないどうでもいい光景が映し出されるときに限ってはそれが夢だと気づいてしまう。なんて不都合なものだろう。こうなっては少しでも長く眠っていてほしいと願うだけだ。

 係留している哨戒艇の船尾に二つの人影を認めた。二人ともべたりと尻をつけて脚を伸ばし、座り込んでいるようだ。誰かはすぐにわかったが彼は近づいた。

 

「提督、もう艦載機は残ってないんですか?」瑞鳳の声はかすれ、ただ一言発するだけでも消耗するようだった。鉢巻の上からでも額が汗ばんでいるのがわかり、両目は潤んでいる。服は所々で小さく破け、胸当ての中心には蜘蛛の巣状の亀裂が入っている。「これの弾ももうありません」

 

拳銃を模した形の噴進砲が瑞鳳の手から滑り落ちた。

瑞鳳に後ろから抱きかかえられた瑞鶴はもっと深刻だった。額の切り傷から流れる血のせいで左目を閉ざし、力弱く開いた右目は虚空を見つめて動かなかった。死んでいるかもしれないとすら思った。

 

 ――どうしてこんなことに?

 

 彼はもうこれが夢だということを忘れていた。現実と変わらず、受け入れがたい事実だと認識していた。

 

「私たち囮役だったんですね」

 

 瑞鳳は目で彼に縋る。細やかな約束を迫ったあの夜と同じ目。

 しかし彼は何もできなかった。なぜこんなことになってしまったのかもわからず、今彼女たちがどんな状況かもわからない。自分がどうするべきかも思いつかず、途方にくれるしかない。焦りも、恐怖もない。ただ虚しかった。あんなことになってしまったかわいそうな瑞鳳がいるからか?

 

「瑞鶴も私も助かりません」

 

 瑞鶴の体で隠れていた瑞鳳の右脚は膝から下がなかった。驚きはしなかった。それが当然なのだとぼんやり思った。

 言葉がなくても二人の望みは分かった。わかっていた。それに気づいた時には彼の右手に九ミリベレッタが握られていた。彼女たちの望みはこれ。耐え難い苦痛と屈辱とに犯されてゆるやかに死んでいくよりは早く解放してやった方がいい。死ねば終わりの見えない苦痛からも戦いからも逃れられる。死は、何にも勝る救済だ。自らを救う勇気は中々ないが。

 瑞鳳の額に銃口を押し当てる。きっとこれでいいのだろう。彼には正解がわからなかったからそうするより他になかった。今に限っては自責することもない。

 決定的な死を控えた瑞鳳は早くも目を閉じていた。眠っているようにも思えた。自分を撃つことはあんなにためらうのに他人を撃つのはこんなに簡単だったか? 

引き金は鳥の羽のように軽く引き切れた。ダブルアクションでこんなに軽いはずがない。待ち構えていた銃声も反動もやってこない。気づけば目の前から二人の姿は消えていた。それでも彼は何度も引き金を引いた。遊底を何往復もさせ、ついには自分の喉に銃口を当てた。弾は出ない。なぜ?

 

「提督さん、どしたの?」

 

 背後から声を掛けられて振り向く。瑞鶴はぽかんとして立っていた。額に傷などなく流れる血の跡もない。あちこちが損なわれた艤装ではなくアイロンの利いた制服を着ている。

 

「もしかして、弾が出ないって焦ってた?」

 

 彼は何も答えない。

 

「そりゃあ出ないですよね。だって弾、込めてないんだから」

 

 瑞鶴が右手を掲げた。手のひらには十三発の九ミリ弾が入った弾倉。なぜ彼女が不思議には思わなかった。これは夢なのだから。だから先の展開もなんとなく読めた。

 

「普段抜いてると肝心な時に撃てませんね。役立たず」

 

「それ、返してくれるか?」

 

「ダメ。返したら、誰を撃つの?」

 

 自分に決まっている。今の彼にとって拳銃は介錯するものでも、将校の権威を象徴するものでもない。ただ自分を逃がすための手段でしかない。

 

「彼女から目をそらして自分だけ逃げるの? そんなの、絶対に許さない」

 

 最後の一言は、瑞鳳が言ったような気がした。彼も聞いたことのない冷たい声で。

 

 

 

 

 

 目が開く。目をぐるぐる回して、今自分がどこにいるのか認識しようとした。先ほどまでが夢であると確信できるように。執務机の後ろの窓からは陽が射している。もう朝だ。ひどい夢を見た。悪夢には変わりないが、普段よりは記憶にも残っていない。取るに足らないものだ。

 

 横になったまま、応接机を挟んで向かいのソファに顔だけ向ける。ソーサーを持ってカップの中をスプーンでかき回す瑞鶴と目があった。

 

「おはようございます」

 

 緊張感のない声で瑞鶴は言った。

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