あの日へ   作:おばけっけ

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7.兆候

「おはよ。眠れたか?」

 

「お陰さまで。私、眠れないなんてことあんまりないの」

 

 

 瑞鶴はカップの中身をすすって顔をしかめた。彼の前にも同じカップが置かれている。まだ湯気が昇っている。ソーサーにはクリームと砂糖のスティック。

 重い体を起こして昨日のことを思い出した。

 

「淹れてくれたのか? 来たばっかりなんだから気を使わなくたっていいのに」

 

「いいんです。一度淹れたら一人じゃ飲み切れないんだから」

 

 昨日だけで瑞鶴は彼を完全に嫌悪するようになったとばかり思っていたが、態度にはいくらか親しみがあった。ただの気まぐれに過ぎないかもしれない。

 カップにクリームパウダーを入れながら腕時計を覗いた。〇七〇〇。驚いた。思わず吹き出す。十二時間も眠っていたとは。夢の記憶は早くも薄れ、思い返す内容が本当に正しいのかも怪しくなる。悪夢だったのはたしかだ。夢の中で過ごした時間はほんの数分だったように感じる。

 時間の割にはよく寝たという感覚はない。体は重く頭の中はすっきりしない。酒のせいで眠りは浅かったのか。夜中、気づかない内に何度か目を覚ましたのだろう。

 まだ味も分からないほど熱いコーヒーを飲んでも思考はまとまらない。瑞鶴に何か言おうと思ったが何を言ったらいいかわからない。わからないまま、話し始めてしまった。

 

「昨日は本当に悪かった。来て早々なのにな。だから……」

 

 ——俺は何言ってるんだ?

 

 馬鹿らしいとは思っていたが彼が言葉を切っても瑞鶴は続きを待っているような顔をしていた。まだ互いに察して話をそのまま終わらせるほどの仲ではないのだ。なんでもないよ、と言えばこの話をなかったことにできるが、それは正しくないような気がした。大体こういう場面では正しいような気がした選択が裏目に出る。出来ることと言えばあとは言葉に気を使うくらいだろうが、それすらする気力はない。昨日の繰り返しも覚悟する。

 

「昨日のことは忘れてやり直そう。全部今日からだ」

 

 聞いたことがある文句だ。少尉に任官して間もないころ、別れたがっていた女に同じようなことを言った。よくとっさに出たものだ。

 瑞鶴は眉も動かさずに彼を見ていた。視線は冷たい。さぞ気持ち悪がっているだろう。彼の印象の上方修正はもう難しいが言い争うよりはマシだ。

 

「朝礼の前までにここにいてくれればいい。それまでは隣の部屋で自由にしててくれ」

 

「大丈夫ですか? なんか痛々しいけど」

 

「ありがとう。最初から痛々しかっただろ?」

 

 ゆっくりと立ち上がったが、身体中の関節が小さな音をたてた。両脚に小さなしびれ。ソファなんかで寝るからだ。しかしこのささやかな苦痛にも慣れた。今さらベッドの上で寝てもしばらくは落ち着かない。

 執務室の窓から見る埠頭の光景は一見すると昨日と何も変わらない。程よい陽が射し、風もない。危機がすぐ近くにあるようには見えない。もしかすると、危機などもう去ったのかもしれない。監視小隊の指揮所に行ってモニターを覗けば、昨日まであった赤く大きな点は消えていて小隊長がただ一言「穏やかな海です」と報告する。気楽な妄想にすぎない。妄想だから気楽か。

 静かですね、と隣に立った瑞鶴がつぶやいた。

 

「我々の見解を一つ示すと」ようやく気分がまともになってきたと彼は感じた。「沖ノ鳥島の敵艦隊はすでにここを制圧したと考えている。一ヶ月も反攻どころか動き一つないんだから。重MATや機関銃を脅威と感じるほど難しいやつらでもない。すでにここではない別方向に関心を向けている」

 

「それ、確実なの?」

 

「羅針盤を見ればわかる。潜水艦から成る斥候が西方に出された形跡もある」

 

「索敵機出せるけど。本土には伝えなくていいの?」

 

「横須賀はとっくに知ってるよ。もっと迫れば何とかできるだろうけど、北方から主力が戻ってくるまでは様子見だ。ここまで来て連合艦隊と一戦交えるほどの戦力はない」

 

「それでも敵の動向はもっと詳しく……」

 

「せっかく目がそれてるんだ、偵察機なんて出して下手に刺激すべきじゃない」

 

 ——ここで出来ることはもうない。

 

 直面すれば虚しくなるが事実だった。瑞鳳の仇を討つのも結局は本土の連合艦隊に任せるしかない。下手な感情に任せて動けば、今度こそ泊地は壊滅する。

 瑞鳳がこの様を聞けばどんな顔をする? きっと何とも思わない。彼女にとっては深海棲艦よりも自分を裏切り、銃口を向けた彼の方がよほど憎いはずだ。いつかは伝えるべきことを伝えなければいけない。本当にできるのか?

 

 窓際に立ったまま思考が浮遊していくのを感じた直後、執務机に放った無線機のマイクから擦過音が流れた。

 

「羅針盤に感あり。敵航空機、接近」

 

 瑞鶴が扉まで駆け出していくのを視界の端で認めた。慌てて制止する。

 

「珍しいことじゃないって。やり過ごすのが正しい。何もしなければ、何も仕掛けてこない。たぶんな」

 

 瑞鶴の視線にまた反抗の色が宿った。

 珍しいことじゃない。ここ一ヶ月の間は本当に。敵航空機が何もせずに引き返していったのも確かだ。普段と何も変わらない。本当か? 何か、いつもとは違うことが起きるような気がした。いつも来るのは水上機ではなくて空母に載せる型の偵察機だった。昨日瑞鶴が一個水雷戦隊を倒したことが今になって引っかかり始めた。

 

「陸戦、航空機は視認できるか?」

 

 マイクに吹き込むと間髪入れずにネガティヴ、とだけ返ってくる。

 

「もし水上機だったら……」

 

「潜水戦隊の可能性もある、ね?」

 

 瑞鶴の声は少し上擦っていた。興奮しているのか。何にせよ、二人の予想が一致しているのは確かだった。

 

「慌てるな。潜水艦だぞ」

 

「潜対地兵装を載せてたらまずいけど」

 

「そんなのあったらもう使ってるって。潜水艦の接近も何度もあったことだから。焦って艤装取りに行ったりするなよ」

 

 それでも瑞鶴は扉の前に陣取ったまま動かなかった。

 もし本当に潜対地兵装を積んだ潜水艦が近づいているのなら、それは危険な事態ではある。瑞鶴は対潜戦の訓練を受けていないと言っていた。見よう見まねで会得できるほど対潜は単純な技術ではない。

 瞬間、重機関銃の地鳴りに似た発射音が響いてきた。無線が錯綜した。

 

「陸戦隊、報告しろ。何が見えた」

 

「報告します。敵航空機を視認しました。六機の水上機が接近。対空射撃を……」

 

 瑞鶴と視線がぶつかる。小さく首を振って止める。何も示さなければ今すぐにでも出て行ってしまうだろう。

 まだだ。これだけでは何もわからない。

 

「直掩機だけでも飛ばさないと」

 

「いいか。聞けよ」彼は無線機をベストのポーチに収めた。「今から艤装と武器を受領して埠頭に出ろ。私が指示するまでは何もするな。発砲も、当然艤装の展開もだ」

 

 瑞鶴は頷かなかった。同意と見ていいとは思えない。そしてたぶん、小銃は受け取らないだろう。

 泊地にまた危険を呼びかねない選択だった。あとは瑞鶴がそこまで突っ走る人間でないことと、これがいつもの威嚇にすぎないことを願うしかない。

 

「先に出ろ。私も後から行く。先走るなよ」

 

 こちらに顔を向けるでもなく瑞鶴は早足に出て行った。どんな顔をしていたかは考えたくなかった。

 

 

 

 

 

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