ウーイッグのカテジナ・ルース 作:Mariah_Bastet
先に目を覚ますのはカテジナだ。
クロノクルは、朝はブラックではなくてカフェオレを欲しがる。
ベッドを抜け出すと、階段を鳴らさないよう静かに1階へ降りて、
2人分をのカフェオレを淹れる。
このあたりで気持ちよく目を覚ましてくれれば、それもいい目覚めなのだろうだけれど、
薫りは寝室までは届かない。
あまり家が広いというのも困りものだ。
――そうだ。
ちょっとしたことを思いついて、カテジナはフィルターから、
甘い薫りを放つコーヒー滓を薬指に掬った。
トレイを持つ手の、薬指だけをぴんと伸ばして、寝室に戻る。
肩でドアを開けば、愛しい人はまだ寝息を立てている。
トレイをサイドボードに置いて、コーヒー滓のついた濡れた薬指を、
クロノクルの高く尖った小鼻に擦りつける。
すると、ぱちっと瞼が開くのだ。
ちょっと垂れ目気味な、濃い睫毛にふちどられた、
うぐいす色の瞳が朝陽を透き通している。
――いたずらをする……。
鼻先と目をこすりながら、クロノクルは起きあがる。
――シーツが汚れるじゃないか。
「なら、ブラウンのシーツを買いましょうよ」
――部屋の趣味に合わんだろう。
「だったら、インテリアも全部変えてしまいましょう。
アメリア風の、うんとモダンなのに」
クロノクルは呆れたように笑う。
――君のいたずらのためにか。とんだお嬢さんだ。そんな浪費は許さんよ。
そのタイミングで、カテジナはマグカップのカフェオレをクロノクルに手渡すのだ。
ふだんと違うのは、その上にホイップクリームを乗せていること。
「それなら、こういう贅沢はいかが?」
クロノクルは口には出さないけれど、甘いものが好きだ。
顔にも出さないけれど、喜んでいるのが手に取るように分かる。
カフェオレはクリームの下になっていて温度が分からないから、そうっと口をつけて、
ひと口飲んで――その間にカテジナはベッドの脇に、クロノクルの隣に腰掛けている。
――ン……悪くない。ありがとう、おかげで良い朝だ。
コーヒー滓をつけた小鼻に、今度はホイップクリーム。
高く通った鼻筋には、こういう苦労があるらしい。
「鼻先にウインナ・コーヒーができていてよ」
そう言ってカテジナはじゃれるように、クロノクルの肩に腕を回して、
小鼻に軽く歯を立てるのだ。
――こら、コーヒーがこぼれるじゃないか。
「じゃあ、早く飲んでおしまいなさいな」
舌にクリームとコーヒー滓を乗せて、クロノクルににくちびるを見せつけるようにして、
カテジナは笑う。
くちびるの形と、歯並びの良さには自信がある。起きしなに軽くリップも塗ったことだし。
――ゆっくり味わいたいんだよ私は。
そんなことを言うのは、クロノクルは甘いものが好きで、本当は猫舌で……。
「………………」
揺り椅子に腰掛けて窓の外を眺めながら、
ときおりぶつぶつと何かを呟いているカテジナを見て、
マーベットはガラスの向こうから、店内に入っていいものかどうか少し迷った。
オリフィアをシャクティにあずけてきて良かったとも思った。
しかしそんなふうにオリフィアから離れるのも、
ルース商店から粉ミルクをもらってきたからできたことだ。
思い切って、ドアをノックした。
「カテジナさん、お久しぶり。私よ、マーベット……」
その声を聞くと、カテジナの半分開いていたくちびるが閉じて、
傾いていた首筋がすっと伸びた。
「どうぞ、入っていらして」
急に正気を取り戻したかのような様相に、マーベットはどきりとした。
――ひとりのときだけ、ずっとああなのかしら。
「……では、お邪魔するわね」
奇妙に傾いたドアが、ギイと唸る。
かつて整然と並んでいたであろう陳列棚は、みんな端に寄せられていて、
店内には大きな空間が拡がっていた。
なんだか、落ち着かない感じだ。
「椅子、借りるわね」
ストーブの前に並べてある椅子をひとつ取って、こちら側に向けて座った。
「ウッソがいろいろとしてくれているみたいね」
「ええ……マーベットさん。あなた、匂いが変わったみたい」
「そうかしら」
「そうよ」
戦場で機械油にまみれていた頃と、体臭が違うのは当たり前だ。
――それはそれとしても、子供を産むとやはり違うものかしら。
カテジナの目を灼いたのがウッソだということは、シャクティから聞いている。
しかし、その後ろめたさだけでウッソがここに通い詰めているわけではないということも、
マーベットは察していた。
だからこそ、その関係には何かごっこ遊びめいた、不健全なものを感じてしまう。
それは何故かと考えてみれば、マーベットは自身の存在に行き着く。
要するに、子供に任せていて良いことではないということだ。
カミオン隊で、ホワイトアーク隊で、何度もウッソを戦場へと追いやった罪悪感は、
今もマーベットの胸底で鉛のように居座っている。
大人でなければできないことを、しなくてはならないと思う。
「このまま、こうしているわけにはいかないのは、分かっているわよね」
カテジナ・ルースが、この少女こそが戦争の被害者なのだと、
マーベットは痛いほど分かっている。
けれども、だからこそ、しなくてはならない話だった。
「今は物資と引き替えという形でウッソ君に世話をしてもらっているけれど、
いつかはここの商品も尽きるわ。でもウッソ君はやめないでしょうね。
それについて、何か思うところはあるでしょう?」
「………………」
カテジナは、ぼんやりと窓辺に顔を向けたままだった。
「それはあの子の罪悪感と……惚れた弱みにつけこんでいるということになるのよ。
それをのうのうと享受する図々しさが、あなたにあるとは思えないわ。
きっとそんな生活は破綻する。
あなたは、子供に甘やかされているあなたを許せないからよ」
一緒に行動したのは短い間だったけれど、カテジナの潔癖さはよく分かっていた。
少年を戦争に巻き込んだこと。
地上を守るための戦争で、地上を汚染してゆくこと。
平和を得るための手段を、ゲリラ戦という先の見えない戦闘行為に委ねること。
そのひとつひとつに、カテジナは強い拒否反応を示した。
物思いに耽る少女にありがちな、大人や組織の意地汚さや欺瞞ばかりが目について、
何もかもが気に入らないというあの時期を、マーベットも経験しなかったわけではない。
ただマーベットにはその頃から港湾の仕事があって、
そういう鬱屈した気持ちをリフレッシュさせることが出来たし、
それが少し落ち着いた頃には、リガ・ミリティアという理想を掲げた組織にいた。
心の中に棲み着く潔癖な少女との、折り合いをつけるには良い環境にいたといえる。
オリファーという、導き手もあった。
「見ていて思うのだけれど、あなたはきっと自分が動くことに関しては、
倫理的ノイズをある程度無視できる人間よ。でも完全な受け手に回れば、
そういうわけにはいかないわ。意識が晴れてくればあらゆる欺瞞を、
自分の身に見出すはずよ」
「なら……どうしろっていうの。自分で命を絶つべきだというの?
私が死に損なったから、こうなってるって分かっているわ」
自分が子供を産んだ未亡人だからだろうか、5つ年下だということを考えても、
目の前の少女の態度はあまりにも幼く見えた。
それがカチンときた。
「あのねえ、それなら私だって死に損ないよ。夫も失って、それでも子供を産んだわよ。
あなたの命にも私の命にも、その下にはうず高く積まれた死体があるのよ。
ウーイッグにいればイヤでも分かるでしょう?
だから嘘でもそんなことを言っては駄目。
今の時代はね、自分の命だって、胸先三寸で粗末に扱えるものじゃないのよ」
「じゃあどうしろっていうの? 何を代償にしろというの?
何もない女にできる事なんて……あの子に身体を差し出せとでもいうのかしら」
頬っぺたを張り飛ばしてやろうかとマーベットは思ったが、
目の見えない相手にできることではない。
ふとオリファーの顔が頭に浮かんで、握りしめたこぶしは膝の横で空を切った。
「誰もそんなこと言ってやしないじゃないの!
あなた、看板にもあったけれど、ルース商会のお嬢様なのでしょう?
ご両親を亡くしたって、頼る先はあるはずよ」
マーベットのその言葉で、初めてカテジナは表情らしい表情を見せた。
わずかに眉間に皺を寄せて、下くちびるを噛んでいる。
そうしてしばらくして、カテジナは答えた。
「……私、ウーイッグをとても憎んでいたわ。特別居住権に胡座をかいて、
権益を貪る腐った街。でもそんなウーイッグから、離れようと思えないのよ。
目が見えないからじゃないわ。身体が、ここから動こうとしないのよ」
揺り椅子の肘掛けが、強く握られてギシリと鳴った。
あらがい得ないものにそうっと手首を掴まれて、
それを振り払うことができないというような歯がゆさが見て取れた。
――伝書鳩症候群。
マーベットはリガ・ミリティア広報の記事を思い返していた。
カテジナは、未だエンジェル・ハイロゥの軛に捕らわれているらしい。
「それならそれで、方法はあるはずよ。とにかくご親戚と連絡を取りましょう。
商会というくらいだから支店がいくつかあるのでしょう?
オフィス、調べさせてもらってもいいかしら」
「……やめてよ。私は父も母もルース商会も嫌いよ。みんな死んでせいせいしたのに、
後は私だけ。分かりやすい話じゃない。全部地獄に落ちようというところなのよ」
カテジナはどこまでもマーベットを苛つかせる。
「いくら親が嫌いでもね、あなたのすべてがそこから始まったという事実は、けして
変えられないのよ。だからこそ、利用できるものはなんでも利用しなければならないの。 それができない意地っ張りというのはね、潔癖ではなくて欺瞞というものよ」
「だったら放っておいてくれればいいでしょう」
「ウッソがあなたを放っておけないから、私がこうして来ているんでしょう!」
マーベットはとうとう、握った拳を思い切り円テーブルに叩きつけた。
フローリングが揺れる。
カテジナの揺り椅子が震えて、陳列棚の瓶詰めが鳴った。
――これじゃ私、バカみたいじゃない。
他人事みたいに、カテジナは答えた。
「……好きにしてちょうだい」
そういった言動がいちいちマーベットのカンに触るのだが、
ふと、カテジナがわざわざそういう言い回しを選んでいるのではないかとも思った。
どこか、救いから逃れようとしているようなふしがある。
――人を遠ざけることで、自分を罰しようとしているのかしら。
それなら、そんなふうに跳ねのけられて、
それでもカテジナに構おうとする私たちは何なのだろう。
マーベットはオフィスでアドレス帳を探しながら考えていた。
ウーイッグの電話回線は当然死んでいるから、探すべきは無線のリストだ。
ガソリン発電機まで準備している家に、無線機がないなんてことは考えられない。
発注リスト、受注リスト――ベスパのものがあるなんて!
缶詰工場のカタログやら、各支店の売り上げ一覧、業務改善項目――。
それらをひっかき回して、マーベットはリストを探した。
――贖罪を求めているのは、ウッソもシャクティも、
私だって同じなんだわ。
戦争において活躍したということは、どういう形であれ人を殺したということだ。
エンジェル・ハイロゥを自壊させて、戦艦やモビルスーツをその乗組員ごと
宇宙へ追放したシャクティも、人を殺めたということではウッソやマーベットら
モビルスーツ・パイロットと変わるところはない。
その戦争の目に見える最も大きな傷跡が、あのカテジナという少女なのだ。
だからみんな、彼女に引き寄せられる。世話を焼いてしまう。
――だからそれを拒む彼女の態度に、あんなに腹が立ったんだわ。
マーベットは、そのような形で自分の感情を納得させた。
「……あったわ」
ここからいちばん近くていちばん大きいのは――ラゲーン支店はここと変わらぬ
有様だろう。となると、ドレスデン支店か。
無線機もオフィスの中にあった。
「こちらウーイッグ、ルース商会本店です。コンタクトお願いします」
2、3分ほど呼びかけていると、応答があった。
『こちらドレスデン、ルース商会ドレスデン支店。
悪趣味ないたずらはやめてもらいたい』
多少ノイズが混じっているものの、不機嫌な声が聞き取れた。
「ルース商会本店。カテジナ・ルースは生きています」
『……お嬢様が!?』
音が割れて、マーベットはたまらずヘッドセットを耳から遠ざけた。
ガタガタと音が聞こえた。
「……しばらくお待ち頂きたい」
1、2分ほどして、別の男が出た。
『お待たせした。私はカテジナの叔父のステファン・ルースという者だ。
彼女が生きているのか? テングラシーとアレンカは?』
「カテジナさんのご兄弟ですか?」
『彼女はひとりっ子だ』
「……ご両親は亡くなったと聞いています」
『そうか……カテジナひとりが……』
しばらく沈黙があった。
『ムラダー・ボレスラフに私の弟がいる。彼を向かわせるよう手配する。
2、3日中にはそちらへ着くだろう。しばらくお待ち願いたい』
「了解」
マーベットはマイクのスイッチを切った。
「繋がったわ。叔父さまが来てくれるそうよ」
カテジナが何か返事をする前に、ヅーヅーと無線が鳴った。
『ルース商会ドレスデン支店。弟と連絡がついた。
明後日の夜にはそちらに着くと言っている』
「ありがとう。遠回りになるけれど、市内に入るときは北西の森からのルートを
取って下さい。他の道はまだ地雷が残っているわ」
『了解、伝えておく。こちらこそ、本当にありがとう。まさか今になって……』
「いろいろと、あったんです」
『声を聞かせてもらうことはできるだろうか?』
「ええ……少し待って下さい」
マーベットはあの状態のカテジナに受話器を渡して良いものか悩んだが、
叔父と姪の会話を邪魔する権利もない。
「カテジナさん、ステファン叔父さまだそうよ」
「………………」
カテジナは揺り椅子に座ったまま、黙って受話器を取った。
『カテジナ、私だ。ステファン叔父さんだ。元気にしていたかね』
少し離れていても、声は聞こえた。
「ええ、元気にしているわ」
カテジナが答えた。
「アメリアはとてもいいところよ。クロノクル大尉がコンドミニアムを借りてくれたの。
コロニーの生活は素晴らしいわ。光の川が美しいのよ」
『カテジナ、君は一体……』
「すごく大きな街なの。女王マリアの集会には百万人も集まるのよ。信じられて?
私、この街が好き」
「……もう、いいでしょう?」
マーベットがカテジナの小指に触れると、彼女は素直に受話器を手渡した。
「いろいろあって……彼女は心に傷を」
『……そうか。仕方のないことだ。いっぺんに両親を亡くしたのだから』
「それと、彼女は視力を失いました」
しばらく間があった。
『分かった。とにかく、弟を向かわせる。立ち会いをお願いしたい』
「もちろん引き受けます」
『あなたのお名前は?』
「マーベット・イノエです」
『ミズ・イノエ、本当にありがとう』
礼を言われると、マーベットの胸がチクリと痛んだ。
「……お互い様、ですから。それでは」
そう答えて、無線を切った。
カテジナは相変わらず、見えない目で窓を眺めている。
「マーベットさん。私、どうなるのかしらね」
明日の天気でも聞くように、そう尋ねた。
――17、8歳の女の子の後ろ姿がこんなに悲しいなんて、
認めたくないことだわ。あってはならないことだわ。
マーベットは、カテジナの肩に手を乗せた。
「……悪いようにはしないわ。必ずね」
マーベットは不屈の女だ。
どうなるにしても、できることはすべてしてあげようと、そう決めた。
マーベットさんの生い立ちは、ロメロたち男連中とは気兼ねなくやっていけるのに、シュラク隊の女たちとは少し距離がある、あの性格から推測しました。
おそらく、男社会で育ったのでしょう。“オリファーが集めた女たち”に反感を持っていたわけではなくて、距離を測りかねているような様子でしたね。
小説版でも、そのあたりは少しだけ描写されていました。
このふたり、人付き合いが苦手という所はとても良く似ているように思います。
次回はカテジナの叔父がウーイッグに訪れます。