ウーイッグのカテジナ・ルース 作:Mariah_Bastet
ここまでが、カテジナさんの盲目視点です。
ヅ、ヅ、ジー、ヅ、ヅ、ジー……
オートコンパスのブザーが、黄昏の廃墟に小さく鳴り響いていた。
登録された地図と実際の地形が一致しない場合、このような警告が出る。
人の歩行速度の半分以下までスピードを落としたワッパは、
大きく尻を振るようにして、進路上をセンサーで走査した。
多少の障害物なら、センサーが感知してオートパイロットの進路修正が働くのだが、
幅5メートル前方120度の範囲が障害物で塞がれていたり、陥穽を発見した場合には、
オートコンパスは、登録された地図が陳腐化したのだと判断する。
ピピッ
オートパイロットが解除され、ワッパはその場で静かに停止した。
爆撃によって露出した不安定な土面に、ワッパの固定脚が接地すると、
カテジナ・ルースの痩せた体がぐらりと揺れた。
乾いた冬の風に、舞い上がる落葉と同じ色のスカーフと、
毛先が焼かれ、旅の埃にパサついた金色の髪がなびく。
カテジナは茫洋としたオレンジ色の靄の中に、
黒い影がせり上がるのを感じていた。
廃墟と化したウーイッグに陽が沈むためではない。
崩落した建物の壁と、爆撃にめくれ上がった石畳に行く先を阻まれているためだ。
惰性で回転を続けるローター音が、
目の前の瓦礫に反射することでも、それは知れた。
「………………」
失明、といっても、その言葉通りに、カテジナは光を失ったわけではない。
あの光の翼に眼を灼かれ、失ったのは世界の輪郭だった。
今、白濁したチョコレート色の瞳に映るものは、
すべての自然物が土に身を潜めたような冬の色と、
教会の尖塔に身を隠しつつある夕陽の光だけだ。
――光が、色がきれいだ。
世界の輪郭を失うのと同時に、明確な思考のかたちをも失っていた。
クロノクルの思い出と、マリアの思想と、
廃墟と化したかつての特別区ウーイッグの、冬の光と音と匂いが混ざり合い――。
狂気というにはあまりに穏やかな意識の中で、
カテジナはワッパのローターを手動で再起動させた。
方角を少し変えて、スロットルを回した。
ぼやけたオレンジ色の世界を、このまま進もうと思った。
何が自分をウーイッグへと向かわせているのか、
彼女自身には分からない。
――もともとの平和とは、
混沌とした思考の中を漂う、暖かいノイズ。
――魂がそれぞれの家にもどることでありましょう。
それが何を意味するのか、今のカテジナにははっきり分からないし、
そういった言葉が具体的に思い出されるわけではない。
しかし、その曖昧な思考の律動に合わせて、彼女の乾いたくちびるは動いた。
「それぞれの家……」
そう声に出たとき、身体が地面に投げ出されていた。
ワッパが爆撃で出来たクレーターに突っ込んで、転倒したのだ。
抉れた土面に肩をしたたかに打ち付けた。
肋骨が叩かれ、肺から空気が絞り出される。
「ぐうぅ……ッ」
暗転した世界の中で、痛みと苦しみに呻いた。
それでも首の骨を折らずに済んだのは、ワッパが転倒した瞬間、
とっさにハンドルから手を放し、受け身を取ったからだ。
視力を失い、気力を失っても、カテジナの身体は生きていた。
フィーイイイイィ……
転倒したワッパのローターが空転して、土埃を巻き上げている。
「止めないと……」
カテジナは痛みに悲鳴を上げる身体を、無理矢理起き上がらせた。
下手にローターに手を出せば、手袋ごと指が千切れ飛ぶ。
クレーターの中では、風の流れも読み切れない。
長い髪が巻き込まれないよう、左手に束ねて握り、
そうっとワッパに顔を近付けたり遠ざけたりして、コントローラーの位置を探った。
フィーイイイイィ……リリリリリリ……リ
ようやくスイッチをみつけてオフにすると、夕暮れの静寂が戻ってきた。
オレンジ色が明度を落としていく。
風が少しずつ、冷たくなっていく。
その中に獣の唸り声を聴いた。
臭いの判別しづらい冬の風の中で、
カテジナの嗅覚は鋭く働いた。
野犬だ。
チャリ、チャリ、とクレーターの周囲を巡る足音。
――4匹、5匹、いや、6匹……。
カテジナには知りようのないことだが、獲物の少ない季節であるにも関わらず、
野犬はどれも健やかに肥え太っていた。
かつてこのウーイッグを襲った空爆は、建造物を狙ったものではなかった。
明確なマンハントだった。
イエロージャケットの兵士たちは、建物の倒壊を恐れて通りに飛び出した人間を、
機銃掃射で薙ぎ払うことを楽しんだ。
どうにかそれを逃れて町から出ようとした者も、
空から撒かれた対人近接地雷によってバラバラに吹き飛んだ。
まだ死体はいくらでも残っている。
死の街ウーイッグは、森よりも豊かな餌場と化していた。
それでもより新鮮な肉をありがたがるのは、人も野犬も変わらない。
人の味を覚えた野犬にはなおのことだ。
“新鮮な肉”は、動きを止めた機械の傍らで身をよじった。
あの邪魔っ気な厚い皮の下には、暖かい新鮮な肉が、
たっぷりの脂と水を循環させ、脈動している――。
グゥルルルルル……
唸りが行き交うクレーターの中で突如、獲物が叫んだ。
「クロノクル!!」
その声に野犬の何匹かは一瞬たじろいだが、それが合図になったかのように、
群のリーダーが跳びかかり、残りの5匹もそれに続いた。
よだれの糸を引きながら、牙を剥き、柔らかい肉に、爪を立てる、その瞬間、
乾いた音と共に、野犬の背中から熱い血が噴き出した。
地を蹴って跳びかかったその順番通りに、野犬の固い毛皮の中の柔らかい胸は、
計6発の銃弾によって正確に撃ち抜かれていた。
クレーターの周囲には、6匹の野犬が胸の空洞から湯気を上げ、ビクビクと痙攣している。
その中心、カテジナの手元では、ベスパの軍用拳銃が細く煙をたなびかせていた。
「見える……」
もちろん彼女の瞳に映るものは、夕暮れ色の靄にすぎない。
硝煙は風に消えた。
カテジナは痛みをこらえながら、ゆっくりと立ち上がった。
放り出された荷物を手探りで探し、その中から予備の弾丸を抜き出すと、
きっちり6発、拳銃に装填して懐にしまった。
――見事だ。どれも確実にコックピットを撃ち抜いている。
シミュレーターでははっきりと分からんが、
これだけ狙いが正確ならエンジンの爆発も避けられる。いいぞ、カテジナ。
「ありがとうございます大尉……」
瓦礫の影に向かって話しかけた。
――明日には実戦にも出られよう。
「期待に応えて見せます……」
――私には、発揮できる能力がある。
クロノクルが、私を見てくれている。
カテジナは荷物を脇に抱えると、倒れたワッパはそのままに、
茫洋とした世界の中、沈みつつある赤黒い夕陽に向かってひとり歩いた。
何度もつまずきながら、しばらく歩くと、
足が瓦礫ではない、何か柔軟な物をひっかけた。
人工物ではない。
その場で屈んで、手袋越しにその棒状の物に触れてみたが、
ごわごわとしてはっきりしない。
手袋を脱いで、再びそれに触れた。
植物の幹らしかった。しかし、街路樹にしては細すぎる。
クロノクルの腕よりも、少し細いかもしれない。
白いしなやかな指先を、その根本に向かって滑らせていく。
手触りというものが、そして何かに触れるということに、
思考を埋め尽くすほどの情報が詰まっているということを、
カテジナは今更ながらに感じていた。
クロノクルに触れた指先なのだ。
ゴトラタンを操った指先なのだ。
ざらざらとした植物の幹の、本を辿る指先が。
あの日クロノクルがいざなってくれた新しい世界の中に、
カテジナの指先はどこまでも深く食い込んでいった。
それは、自分でも止められるものではなかった。
そしてその先にいつも突き当たる岩盤が、ウッソ・エヴィンだった。
クロノクルの向こう側に、コックピットの向こう側に、ウッソがいた。
「……ッ!」
親指に走った鋭い痛みに、とっさに手を引っ込めた。
左手で親指に触れると、ぬるりと濡れていた。
何かで切ったらしい。
――白いやつ……!
反撃を食らったのだと思った。
それと同時に、
――クロノクル……。
濡れた指先は、クロノクルとの思い出を喚起した。
愛する人と戦場とが、どうしてこれほど精神の深い所で交わっているのだろう。
――ゴトラタンには白兵戦用の武器が2種類ある……
……違うわ、ここはウーイッグじゃないの。
カテジナが触れていたのは、フランツ生花店に飾られていた観葉植物だった。
人がひとり入るんじゃないかというような、立派な植木鉢に据えてあって、
花屋の主人は毎朝の水やりの後、これを丁寧に磨いていたものだ。
それが割れていて、指を切ったのだった。
左手で木の末を探ると、乾燥した葉に行き当たった。
揉むと、粉々になって風に散った。
「………………」
ここがフランツ生花店だとすると、ルース商会はその3軒となりだ。
手袋を左手に握って、傷ついた親指を内側に折り、
4本の指で壁に触れながら歩いて行くと、広い窓ガラスに辿り着いた。
カテジナの家だ。
触った指先にざらざらしたものが残っている。
砂埃にまみれているらしかった。
窓ガラスは割れていたような記憶があるから、これ以上触れるのはやめにして、
ブーツの先で軒先を叩きながら、入り口を探った。
ギイ……イイイイイィ……
家の中に入ると、据えたような埃のにおいがした。
そのにおいの底には、コーヒー豆の香りが沈んでいて、家に帰ってきたのだと思った。
ただいまとは言わなかった。
戸を閉めると、風の音がやんだ。
「窓は割れていなかったのかしら」
父が店を飛び出していって、爆撃で吹き飛んだあのとき、
ガラスは割れていなかった。
「割れていなかったのね。そう」
かといって、何を思うでもない。
家の1階は、個人客向けの小売りのスペースになっている。
ルース商会が主に扱っているものは、保存食だ。
だから連邦軍相手にも、ベスパ相手にも商売ができた。
棚に触れて回ると、爆撃があったあの日のままに、商品が並んでいるのが分かった。
ウーイッグが地雷原になっているのは知れ渡っていたから、
ルース商会までやってきて食料を盗み出そうというような命知らずはいない。
カテジナが無事家に帰って来られたのは、ただ運がよかったというだけのことだ。
「………………」
そんなことは知らず、彼女は陳列棚の側にしゃがみこんだ。
ぽたり、ぽたりと、指から血の滴る音が静かな店内に響く。
今更ながらに、自分の血の臭いが分かった。
これ以上指を怪我しないよう気をつけながら、下の棚に並ぶ缶詰を開けた。
――マスの酢漬けの缶詰か。私にはなかなかこういったものを食べる機会はなかった。
カテジナには、クロノクルの声がはっきり聞こえていた。
「女王の弟君は、いつも良いものを食べていらっしゃるものね」
ひとりごとが、静かな店内に響いた。
――そういうことを言わないでくれ。私の食事は極端なものだよ。
女王の弟をやらされるときは、堅苦しいマナーに従いながら、
思考も耳も研ぎ澄ませている。
鶏肉のソテーなんか出されても、味も何も分かりはしないさ。
軍にいるときはもっと気楽だ。
ただし、口に入るのはハンバーガーと穀物バーに合成ミルク。
マスの酢漬けにはどこにいたってありつけない。
「では良い機会だわ、たっぷり召し上がってちょうだい」
――マスの酢漬けの缶詰か。私にはなかなかこういったものを食べる機会はなかった。
「あら、そうなの、ここにはたっぷりあるわ」
――マスの酢漬けの缶詰か……。
気が付くと、カテジナはフタを開いたマスの缶詰に囲まれていた。
酸っぱいにおいが、淡いコーヒー豆の香りを塗りつぶした。
ずっと昔、母に連れられて、鮮魚市場に行ったことがあった。
何かのお祝いで、新鮮な魚料理を食べようということになったのだ。
その頃は母も毎日家にいたし、父は妻子に愛を注いでいた。
「やっぱり、コイのフライかしらね。クリスマスみたいだけれど」
「母さん。私、怖いわ……」
カテジナは母の腕にしがみついた。
高い台の上に並ぶ魚たちが、虚ろな目で自分を見ているように感じたのだ。
「怖いって、お魚はああいうものじゃないの」
「でも怖いの……」
目、目、目――。
いくつもの目が、カテジナを見つめていた。
――まだ私たちには放っておけないやつがいるんだよ!
――ウッソ!
――V2を信じるんだ!
見ている、目が、目が、目が――。
「きゃあああああああッ!!」
カテジナは悲鳴を上げると、マスの缶詰を何個かひっくり返して後ずさった。
陳列棚に背中をぶつけると、穀物バーが何本か降ってきて、頭に当たって転がった。
「クロノクル……クロノクル……」
闇の中、白濁した目を見開いて、愛する男の名を呼び続ける。
遠くで野犬の吠える声が、廃墟にこだました。
段落空け過ぎでしょうか?
これくらいの方が読み易いんですかね。
次の話から、カサレリアの人々が登場します。