世界は黒色だった、音は無く、景色も無く、幾重にも分裂した思考は考える事を許さない。自分は今何処にいるのだろうか、黄金の鎧を失った己は本分を全う出来るだろうか、敵は、パーンダヴァはどこに、ドゥルヨーダナはどうした。
出口を失った思考はグルグルと同じ場所を回り、薄っすらと視界が光を取り戻す。まるで暗闇の中に差し込んだ光の様に、瞼を開けて目を見開いた。視界は定まらない、まるで霧の中の様だ、しかし確実にその霧は晴れていく。
見上げた先は天井であった、白い天井、少なくとも見覚えのないもの。指先で触れる感触は滑らかな布、自分はベッドに横になっているのかと自覚し、それから自身の首に突き刺さる管に気付いた。
それを無理矢理引っこ抜くと、何か白い液体が飛び出る。何となくソレが汚いものに思えて、シーツで乱暴に拭った。管を地面に放り、何故か力の入らない上半身を無理矢理起こす、僅かな眩暈に襲われたが精神力で捻じ伏せた。
部屋は小さく、ベッドが一つと周囲に何か医療器具の様なモノが並んでいる。首に刺さっていた管は何か液体の入ったパックに繋がっていて、そのパックは別な四角い機器と接続されていた。その隣には心電図がある、見れば胸元にもパッチが張り付けてあって、引き剥がすとバイタルが横線一本となり電子音を鳴らした。
此処は何処だ?
少なくとも覚えのない部屋である、自分が何故寝かしつけられていたのかも分からない。ベッドから素足のまま降りると、ひんやりとした感覚に顔を顰めた。嫌に寒い、風邪だろうか?
自身の腕を擦るものの悪寒は消えない。隣の心電図の電子音が喧しく、思わず苛立って蹴り倒してしまう。機器は大きな音を掻き鳴らしながら地面を滑り、そのまま音は小さくなって止んだ。その後、何かドタドタと慌てた足音が聞えて来る。
「ッ、弦様!?」
そして部屋の出入り口から飛び込んで来たのは一人の女性――ミーシャだ。彼女は肩を上下させて呼吸を荒くし、ベッドから降り立って呆然としている自分を発見し、あからさまに安堵していた。
「よ、良かった……バイタル停止のアラートが鳴って驚きました、目が覚めたのですね?」
「……あぁ」
ミーシャは小さく笑顔を浮かべて頷くが、しかし次いで表情を一変させる。それは目の前に立つ弦の雰囲気、気配と言っても良い、それが余りにも豹変していたからだ。言っては悪いが一般人の持つ緩い、何か温和な気配から、戦場を渡り歩き血を啜って来た様な剛毅な雰囲気に変わり果てていた。
ミーシャはそんな雰囲気を発する人間を幾度と無く見て来た、没入後の時間に。
「……弦様?」
故に警戒する、僅かに眉を潜めて問いかければ、目の前の弦は首を傾げた。
「弦――? 誰だ、それは」
驚愕、同時に「あぁ、やはりこうなったか」と諦めの感情を覚えた。
弦の没入適正は非常に高く、上層部からも人格重複は時間の問題だと言われていた。前回の没入でも危険視されていたが、今回で遂に弦と言う人格がカルナという英雄に書き換えられてしまったらしい。あと一度、二度、せめて三度、そう願っていたが叶わぬ夢だったのか、ミーシャはカルナと成り果てた弦を見て唇を噛んだ。
「此処はどこだ、どうして俺は――いや、違う、弦? あ、カルナ、そうじゃない、俺は、俺は……」
しかし、カルナは未だ完全に弦の人格を上書きしていなかった。
カルナは突如頭を抱え、何かを堪える様に顔を顰める。それは奇しくも没入で行っていたカルナと同じ状況、一つの肉体に二つの精神が混在し、互いが主導権を握っている。
カルナの肉体であれば二つの精神を別々に、異なるモノとして管理出来ていたが、あくまでこの肉体は弦がベースとなっている。半神の英雄でもなければ万全な状態で黄金の鎧も身に着けていない、ただの劣化した英雄崩れ。
そこに本来の人格に加え、英雄の精神を宿すには余りにも器が小さすぎた。
「! 弦様、貴方は――」
「ッ、そう、だ、違う、落ち着け、俺は、弦――これは現実だ、没入じゃない、ドゥルヨーダナはいない、パーンダヴァも、これは、お前の世界ではない、カルナ、あぁ、そうだ、ここはお前の大地ではないんだ……」
頭を抱えて蹲る弦は、額に脂汗を滲ませながら必死に言い聞かせていた。
己の存在証明、カルナか弦か、その線引きは非常に曖昧だ。
例えるのなら一つの箱に水を満たし、中央に仕切りを作る様な感覚。分断された水はお互いに異なる色で、違う精神として孤立している。しかし、その水を区切る仕切りの強度がカルナは鉄製で、弦のは木製どころか段ボールに近かった。
じわりと水が染み出して、隣の水に浸食する。
それはカルナという英雄の水、色水が己を色付けし、誰であるかという部分を酷く曖昧にさせた。俺は誰だ、弦か、カルナか?
彼と共に居た時間が長い弦はカルナでもあり、弦でもあると答えられる。彼の人生を追体験した時間は僅か一日足らずであるが、しかしその経験と知識は実に何十年という積み重ねによるもの。
それを弦は肉体ではなく、脳で体験していた。
「カルナ、頼む、これは……これは、俺の生なんだ……!」
弦は叫び、内に潜むカルナに懇願した。
それは正しく懇願だった。
人の生を覗き見て好き勝手言っているのは自覚している、しかし記憶の人格に乗っ取られても良いと言える人生は送っていない。弦はカルナの人生を通して己の生を見つめ直し、そう叫べるだけの覚悟を身に着けていた。
カルナの精神が小さく揺れる、それから弦の肉体を覆っていた気配が徐々に小さくなり、等身大の、現代に生きる青年の人格が戻った。
「――ッは」
思わず詰めていた空気が漏れる、肩で息を繰り返し、掻き混ぜられた脳を整理するべく何度も酸素を求めた。駆け寄って来たミーシャは慌てて弦に寄り添い、その背を撫でる。その目元には僅かに涙が見え、ミーシャは今度こそ心から安堵した。
「良かった!……まさか、人格を取り戻せるなんて! あぁ、弦様、貴方はやはり――」
「っ、は、で、でも、ちょっと、コレ、きつ……」
弦はミーシャに何か言葉を掛けようとして、しかし余りの辛さに口を閉ざす。下手に話すと胃液が逆流しそうだった、こんな苦痛にカルナの肉体は易々と耐えていたのか。弦は驚愕した、これ程の不快感を覚えながら顔を顰める程度で済むなんて、やはり彼は規格外だと。
同時に、己は未だカルナの足元にも及んでいないと強く感じてしまう。そう考えると堪らなく悔しい、弦はただ歯を食いしばって激情を堪えた。
「弦様、もう少しだけ辛抱を……! 今、HMSを投与します!」
這い蹲った弦に寄り添っていたミーシャは何かを思い出したように駆け出し、周囲にあった機材を押し退けながらステンレススチールで出来た容器の上、其処に固定されていた数本の注射器を掴んだ。隣のボタンを殴る様に押せば注射器をロックしていた爪が解除され、それを手にミーシャは再び弦の元へ駆ける。
注射器は太い円筒状で針が無かった、元々皮膚に密着させナノマシンを注入するタイプのモノだ。ミーシャは注射器の上部に差し込んであった安全ピンを抜き放つと、弦の首筋に押し当て言った。
「投与します、息を吸って下さい!」
「ッ、すぅ――」
弦が身を竦ませ小さく息を吸った瞬間、パシュン! と言う音と共にナノマシンが注入される。僅かな痛みと不快感、弦はそれを甘んじて受け入れ、ナノマシンを注入した効果は直ぐに現れた。
まるで視界が嘘の様に晴れ、不快感がものの数秒で消え去る。流石は科学の力だと思った、どんな症状も一発だ。
「弦様、御気分の方は?」
「だい、じょうぶだ……あぁ、先程よりは大分マシになった」
注射器を地面に転がして弦の背を撫でるミーシャ、その問いに弦は何でもない様に答えた。何を注入されたのかは知らないが、恐らく人格重複を抑える薬か没入後のケアに用いる薬剤だろう。実際症状は緩和され、逆流しかけた胃液は何事も無く腹に収まっている。
「もう少しベッドで横になっていて下さい、まずは体を休めなければ……此処は没入者専用のメディカル・ルームです、個室ですから自室と同じように使って頂いて構いません」
「いや、結構だ、自室に――」
「弦様」
弦が無理矢理立ち上がって部屋を出ようとすると、ミーシャの硬い声が弦の足をその場に縫い付けた。いつもと違う、何か棘を含んだ表情。弦がミーシャを見れば彼女は不安と怒りを滲ませて言った。
「……十二時間、貴方が没入を終え、意識を消失してから経過した時間です」
真剣な表情で告げられた言葉に、弦は驚愕した。十二時間、つまり半日である、てっきり没入から一時間か半刻程度だと思っていたが、予想以上に時間を食っていたらしい。弦は己の頬に手を当てて、それから顔全体を何度か撫でた。
「――半日も寝ていたのか、俺は」
「はい、正しくは昏迷状態でしょうか、今回の没入は失敗です、ノアでの記憶追跡が困難となり、DNA内での弦様の自意識が
弦はその話を聞いて思わず顔を顰めた、連続没入というゾッとしない話もそうだが、データの入手という不穏なワードを聞いたからだ。しかしソレを問い詰めようとは思わない、弦は軽く頭を振ると独りで立ち上がった。
「弦様っ――」
「分かっている、ちゃんと寝る、でも自室でだ、環境が変わると良く眠れない」
覚束ない足取りで歩き出すと、ミーシャが慌てて肩を貸した。その表情には僅かな怒りが見えるが、仕方ないとばかりに溜息を一つ。
「……ちゃんと休息を取って下さいね」
「約束する」
弦は自室のベッドに横たわったまま思考した、さて、どうしたものかと。
ナノマシンの効果かカルナが自重しているのか、視界は良好だし思考もハッキリしている、体調は悪くなく体も何不自由なく動かせるようになってきた。寧ろ肉体的には一歩カルナに近付いたのか、何か言い知れぬ力強さの様なものすら感じた。
一度に二回の没入を体験してからだろうか、その神性の強度と言うか、量も幾分か増えた気がする。最も危惧していた黄金の鎧消失であるが、記憶の中で失っても弦自身には絶えず粒子が渦巻いている、その事に弦は安堵した。
「ヴァサヴィ・シャクティ……」
弦が呟くと、右腕に粒子が集まるのが分かった。このまま形成し続ければ恐らく、彼のインドラの槍を生み出す事が出来るだろう。この没入で弦はカルナの持つ最も攻撃的な武具を手に入れたのだ、いつミーシャが戻って来るかも分からないので取り出しはしないが、後でトレーニングルームを利用するつもりだった。
弦のベッドの隣には良く分からない医療器材ひとつ鎮座している、万が一の時の為にとミーシャが運び込んだものだ。頼むから大人しく寝ていてくれと何度も念を押され、弦はこうして嫌々ベッドに横たわっている。
カルナとの人格重複、まさかこの世界でカルナと同調してしまうとは思っていなかったが、これで弦はカルナと言う英雄の武具を揃えた事になる。少なくとも没入を開始した頃とは比べ物にならない、正に半英雄と言っても良い人間にまで成り上がった。
黄金の鎧に太陽神の神性、更にヴァサヴィ・シャクティ――インドラの槍まで手に入れた。
カルナの適正としては弓が最も扱いやすいが、単純な威力だけならばコレが最強だろう。
弦は全能感を覚えた、カルナの力を万全とは言えないが全て揃えた故に。
「―――!」
弦が何をする訳でもなく、ぼうっと天井を眺めていると、枕元に置いていたタオルから僅かに音声が聞こえて来た。弦はその事にハッと意識を引き締め、周囲を見渡してからタオルをベッドの中に引きずり込む。それから中にあった通信機を引っ張り出すと耳元に添えた。
「……ウィリス?」
「あぁ、良かった、繋がった、弦さん、今大丈夫ですか?」
「……多分」
部屋の出入り口を見つめながら、弦はベッドの中に潜り込む。そうすれば仮に突然入って来ても分かるまいと、そう考えたのだ。我ながら子供みたいな所業だが背に腹は代えられない、予防線を張るに越した事はないのだ。
「何か廊下が騒がしかった様な気がしますが……その、何かあったのですか?」
「あぁ、その……」
ウィリスの問いかけに弦は言葉を濁す。
十中八九、己が没入時に関する事だろう。少なくとも人格重複に呑まれかけたのだ、ある意味騒がしくなるのも当然だと思った。しかしソレをウィリスに馬鹿正直に話して良いものか、人格に呑まれた事が弦にとっては恥の様に思えた。同時に、ウィリスに対して心配を掛けたくないとも。
「………少し、没入後に記憶が混濁して、な」
結局弦は近い様な遠い様な、どうとでも取れる言葉でその場を逃れる。ウィリスは単純に、「大丈夫だったのですか?」と心配を露にし、弦は慌てて、「研究所の連中が大袈裟なだけだ」と嘯いた。実際あの苦しみは騒ぐだけのものだった、恐らくナノマシンを注入しなければ己は地面をのた打ち回っていただろう。
「ウィリスの方は大丈夫なのか、没入後の副作用とか……」
「えっと、私は没入適正がなぁなぁと言いますか、普通の人より少し良い程度のものなので、それ程は」
「そっか」
没入適正が低いと副作用も少ないのか、弦は少しだけ羨ましいと思った。恐らくあの苦しみを味わったばかりだからだろう、そうでなければ弦は適性を高めたいと言う筈だ。
「今回の没入では何か得られましたか?」
ウィリスは僅かに真剣味を帯びた声色で問いかける、弦は小さく息を吸い込むと、力強く答えた。
「多分――俺の英雄が持っていた最後の武具、それを手に入れた」
「……と言う事は、つまり」
「そうだな」
脱出の時が迫っている。
弦は強く頷いた。
「……ウィリスの方はどうだ?」
「私は――そうですね、多分、次が山場です、それを越えれば後はもう武具は手に入らないと思います、記憶自体も三回か四回程度で終わりそうですし」
「なら、実行するのは次の没入後……か」
存外早かった、そう思う。
最長で一ヵ月程度を想定していたが大幅に予定が前倒しになる。弦は己が緊張している事に気付いた、それはそうだろう、こんなデカイ組織を敵に回すと決めたのだ、足が竦むに決まっている。
それでもやめようと思わなかったのはカルナの精神があったからか、彼は弦の中で沈黙を保っているが、その存在は在るだけで弦に勇気を齎した。
「……計画は?」
弦は声を潜めて問いかける、口惜しいが武一辺倒の己はこういった計画を立案する事に向いていない。ウィリスの事だ、脱走に向けてある程度計画は練ってあるのだろう。そう思っての発言だったが、果たして、彼女は既に腹案を抱えていた。
「――実は、二日前から継承した才を使って周囲を探ってみたんです、彼の持っていた武具の中に偵察に向いている類の物があったので、オーバーテクノロジーも甚だしいですが、これが中々便利でして」
大雑把ですが、この施設、ノアの見取り図が手に入りました。
その言葉に弦は歓声を上げそうになった、流石とか、やはりウィリスは違ったとか、彼女を祭り上げて感謝を叫びたくなる。それをぐっと我慢して、「凄いな」と万感の思いで呟いた。ノアの見取り図が手に入ったのなら迷わずに済む、それは素晴らしい事だった。
「流石に全区画とは行きませんが、足の有る場所も分かりましたし、脱出路も決めました、足は旧式ですが粒子を使わないタイヤ式の搬入車両が三つ、丁度搬入口と思われる区画に用意されているのでソレをそのまま利用しようと思います――場所は私達の部屋から走って一分程度の場所です」
ウィリスの語った計画はそれ程複雑なものでもない、ある意味順当とも言える内容だった。
まず食料や衣料品を搔き集めて準備を整え――恐らく長旅になるだろうとウィリスは言った――次の没入が終わり次第、才能を使って自室の扉をぶち破る。そして周囲の英雄達の自室扉を破壊しながら前進、ウィリスは全員を救うのは無理だろうと言った。弦も最初から全ての英雄の子孫を助けるのは無理だと思っている、突発的な脱出なのだ、まず脱出の準備も出来ていないだろうし、没入を開始して間もない奴も居るだろう。そういう連中を連れて行くのは難しい、ならば希望をぶら下げ多少なりとも時間を稼いで貰おうという算段だった。
後はどれだけ迅速に搬入口へと辿り着けるか、ノアの連中が防備を固める前に搬入車両に向かう、認証キーはウィリスが何とかすると言った。どうやら旧式車両程度ならばキーの偽装は比較的容易らしい。
万が一同じく逃走出来そうな英雄が居た場合は同行させる、その判断はウィリスと弦の同意があった時のみとした。不確定要素は余り含まない方が望ましい、ウィリス徹頭徹尾二人での脱出を軸にしていたのだ。
「この施設の警備がどれ程かは分かりませんが、恐らく神性を含んだ防具を身に纏えば大した脅威にはならないかと、何か鎧や盾の防具はありますか?」
「鎧が一つある、光線銃程度ならビクともしない、電磁砲や爆雷は無理だと思うけれど……」
「古代のオーパーツを信じましょう、最悪武具や防具を使い捨ててでも突破します」
弦はウィリスの発言に驚いた、まさか武具や防具を使い捨てる等と言い出すとは。少なくとも弦には言えない、黄金の鎧もヴァサヴィ・シャクティも弦にとって、或はカルナにとって唯一無二の宝だからだ。
どうやらウィリスの英雄はかなり武具と防具に恵まれた英雄らしい、王とも言っていたが、かなり高名な英雄なのかもしれない。少しだけウィリスの英雄の名が気になった弦だった。
「因みに逃げ切った後は?」
「追手を振り切った後は、どこかに身を潜めるか、或は辺境の地にでも腰を落ち着けるか――少なくとも、大手を振って生きる事は出来なくなるでしょうね、隠居は確実です」
ウィリスは僅かな悲観を込めてそう口にする、「折角勉強して良い企業に入ったのに、これでパァです」と。弦はその事に少なからず衝撃を受けた、漠然と普通の生活は出来ないと思っていたが、そこまでとは。
「普通の生活には戻れないのか」
「無理でしょうね、職員の言葉を信じるならば此処は連邦そのものです、そこから逃げ出した時点で犯罪者と大した変わりはありません、家には勿論戻れないでしょうし、社会保障など以ての外です、連邦の力が及ばない辺境の地で細々と暮らせれば御の字でしょう」
ウィリス淡々と当たり前の事を言う様に言葉を紡いだ、言われてみればその通りだ。この施設が連邦のものであるならば、そこを脱走した時点で連邦の意向に背いたという事になる。その時点で社会に溶け込む事は不可能、指名手配されるかどうかは分からないが真っ当な生活を送れないのは確かだった。
学校にも通う事は出来なくなる、そう思うと何か、自分の中から人生のレールとも言える指標が剥がれていくのが分かった。それは恐らく一般的な価値観だとか、普遍の幸せだとか、そういうモノだと弦は理解する。
己は人の言う『普通』を手にする事が出来なくなった、それを改めて感じた。
「……怖いですか?」
どこか暖かさを感じさせるウィリスの声、それに弦は首を振って、「まさか」と強がって見せた。未だ社会にすら出ていない青二才だが、此処で尻込みする理由はない。少なくともこの施設で延々死ぬまで飼い慣らされるよりは良い、己は人である、人間としての矜持がある、こんな家畜の様な扱いを受けて満足する程腐ってはいないのだ。
「重畳、どうせ後は進むだけです、必ず成功するとは言えませんが、それほど低い数字でもない、後付けですが私達には英雄の才もある、為せば成ります」
「為せば成るか……良い言葉だな」
「えぇ、どうせ逃げるだけです、真正面から戦わなくとも良いのですから、気を楽に挑みましょう」
ウィリスは無線機の向こう側で笑っていた、何となくだが弦はそう思う。逆境でこそ笑顔を、ある意味彼女こそ英雄の精神を正しく引き継いでいるのかもしれない。弦はウィリスのその強さに憧れ、同時に敬意を抱いた。
「ともあれ、実行まではもう少し猶予があります、準備は念入りに」
「分かった、足りなければそれとなく担当に申請しよう、勿論悟られない程度にね」
弦は無線機に手を当て、「じゃあ、また」と口にした。ウィリスも一言添え、ブツッと通信が切断される。籠っていた熱を吐き出す様にベッドから抜け出せば、何となく室内の空気が美味しく感じられた。
無線機を握り締め、天井に向けて息を吐き出す。
「……やっぱり、ベッドの中は暑い」
額の汗を拭って呟いた、弦の視界に曇りは無かった。
六時間――弦がベッドから抜け出すのに要した時間だ。
結局体に何ら問題無しと判断されるまで、弦は大人しく惰眠を貪っていた。再びミーシャが自室にやって来た時、簡易身体検査を行って人格重複の予兆無しと判断された。後は医療器具一式を片付けたミーシャが退室したのを見計らってトレーニングルームに籠る。
試すのはヴァサヴィ・シャクティ、黄金の槍である。
「記憶通りなら一度の解放で崩れる筈だけれど……」
弓を取り出す感覚と同じで、神性を集めれば槍はすぐさま現れる。それは記憶と全く同じ外見を持ちながらも、やはり力は大きく失っていた。その場で握り締め軽く振り回す、普通に使う分ならば問題は無い。
一番の懸念は神性を解放した場合だ。
弦はヴァサヴィ・シャクティを眺めながら思う――少なくとも、一度の使用で壊れる感じはしないと。
そもそもコレは憎きインドラの作った槍であるが、現在は弦の使用する神性から作られたものである。記憶を追体験し、カルナの武具を手に入れた弦だが本質は弦の中にある遺伝子が僅かな神性を使って模倣した武具に過ぎない。
カルナに帰属した武具、つまりヴァサヴィ・シャクティは本来の神性から大きく逸脱していた。つまりコレはヴァサヴィ・シャクティであって、インドラの槍ではない。記憶では彼のインドラが太陽神スーリヤの神性に寄せたと感じたが、これは太陽神スーリヤの神性そのものだ。
弦はカルナと同調する事で、己の中にある英雄の遺伝子というモノを僅かだが理解し始めていた。
「インドラの槍なら一度で壊れる、けれどコレは俺の神性で作った槍だ――そう易々と壊れるか?」
ハッキリ言ってしまえば、仮に壊れてしまったとしても次のヴァサヴィ・シャクティを生み出せば事足りる。今の弦には黄金の鎧によるバックアップもあった、弦は僅かな疑問を抱きヴァサヴィ・シャクティを構える。
目前にはウィリスから拝借した神性を纏う壁――もとい盾。
黄金の弓では七割でも貫通しなかったが、槍ではどうか?
弦は無性に試したかった。
「分からないなら――試すまで」
槍は近接武器として扱えるが、投擲武器としての側面もある。元々カルナは槍を投擲するものとして見ていた、射手としての経験からかもしれない、神性を解放するとは即ち槍の全力投球を意味する。
弦は肉体の本能に身を任せ、槍を逆手に掴むと大きく上体を逸らし足を広げた。
瞬間、ボッ! と黄金の粒子を噴き出す。
投擲態勢に入った事により、ヴァサヴィ・シャクティが神性解放段階に移行したのだ。弦に戸惑いは無かった、何よりこの槍の扱い方はカルナが知っている。
彼が知っているのならば、弦も既知と同じ。
「神性を解放、インドラとは異なるが十二分だろう、銘は『
既にこの槍はインドラの手を離れている、槍を構成する神性も最早太陽神スーリヤのものと言っても良い。ならばこそ、この槍にヴァサヴィ・シャクティの銘は似合わない。
ならばこそ、弦とカルナは新たな銘を与えた。
「
叫ぶと同時、黄金の槍が一際強い閃光を放った。
投擲は一瞬、腕の力、腰の回転、足のバネ、全てを全力稼働させて腕を振り抜く。同時に黄金の槍が凄まじい勢いで渦を巻き、宛らロケット砲の勢いで手元から射出された。無論神性だけは手を抜き、十二分に加減して放った。
感覚で言えば九割減、凡そ一割程度の力で槍を構成。その程度ならば防げると判断したのだ。
だと言うのに槍は火薬鉄砲に迫る速度で飛来し、神性の盾へと衝突する。拮抗は一瞬だった、否、一瞬すら短い。投擲を終えた姿勢で弦は直感的に悟った――盾が抜かれる。
その思考は正しく、盾は数秒と経たず穿たれ、黄金の槍は背後の壁に迫った。その勢いは全く衰えず、恐らくそのまま衝突すれば容易に壁を貫くだろう。その直前に弦が慌てて神性を回収し、槍は壁に衝突する直前で消え去った。
残滓が壁に当たって拡散し、キラキラとトレーニングルームに黄金の粒子が舞う。
「……一割でこれかよ」
弦は思わず呟いた、欠陥だらけの空洞槍さえ肉体だけでも全力で投擲すればこの威力。穿たれた盾は摩擦熱に赤く発火しながらシュウ、と音を立てている。神性も含めた全力投擲ならば弓の
弦が再び神性を集めると先程と同じ黄金槍、メラーガルム・シャクティが構成される。やはりインドラの槍と異なり再び生み出せば連射も可能、つまり息切れさえしなければ先程以上の一撃が何度でも放てる訳だ。
構成された槍を掴み、弦はその場で回転させ脇に挟む。
「これは――最高の武器だな」
弦は笑みを隠し切れなかった。