太陽の子 我が名はカルナ   作:トクサン

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宿命と天命

 

「兄よ!?」

「ユディシュティラ、正気かッ!」

 

 先にアルジュナが悲鳴を上げ、クリシュナが引き留める声を発した。残ったビーマとナクラ・サハデーヴァも呆然としている。未だ諦める気を見せないユディシュティラに言葉が無かったのだ。

 ドゥルヨーダナはユディシュティラの領土を賭けるという発言に、最初は驚き、次に獰猛な笑みを浮かべた。正にカモが自ら寄って来た様な僥倖、カルナもまさか此処まで出してくるとは思わなかった。しかし自意識のある弦は驚愕しない、何故ならこれも全てマハーバーラタにて知識を得ているから。

 

「ユディシュティラ――貴様、その言葉に偽りはないか?」

 

 ドゥルヨーダナが先程まで見せていた笑みを取り消し、好戦的な表情を浮かべたまま告げる。本当にお前はその国、領土を賭け事の対象にするのかと。

 

「無論、無い! 我が国、我が領土、インドラプラスタを賭けよう!」

 

 ドゥルヨーダナの最終確認に、しかしユディシュティラは憤怒の声色で叫んだ。自身の拳を地面に打ち付け、そのまま肩で息を繰り返しながら肯定する。自国の領土、言ってしまえば国そのものを賭ける。

 王としては聊か以上に愚考が過ぎる。

 ドゥルヨーダナでさえ分かる事だ、恐らくユディシュティラは今負けが込んだために視野が極端に狭くなっていた。しかし情だとか情けだとか、そんなモノは外敵に微塵も持ち合わせていない男、それがドゥルヨーダナ。彼は歓喜に両手を突き上げ、そして高らかに宣言した。

 

「良い、良いぞ! 一国の王がまさか領土を、国そのものを賭けるとは! 傑作だ! そして素晴らしい決断だ! 宜しい、ならば我も応えようではないか!」

 

 こんな最高なカモを逃がしてなるものかと、ドゥルヨーダナは立ち上がる。そして己の背後に聳え立つ二つの財の山を指差し、それから言い放った。

 

「次、貴様が勝利すれば、あのちっぽけな財宝は全てやろう! 更にユディシュティラ、貴様の勇気に免じてもう一つ景品を増やしてやる! ――我が国の領土、ハスティナープラ、その半分をくれてやる!」

 

 それは驚愕に値する言葉であった、クル国の首都ハスティナープラ、それは富と繁栄を象徴する場所。あのドゥルヨーダナがその領土の半分をやると言い出したのだ、さしものアルジュナ達さえ言葉が無く、驚きに身を固めている。

 ユディシュティラに関しては殆ど呆然としており、まさかそこまで賭けて来るとはという気持ちであった。しかし、仮に勝利すれば大逆転どころの話ではない、財を全て取り戻し、その上領土まで勝ち取れると言うではないか。望外の事態、正に千載一遇のチャンス。

 ユディシュティラの瞳に強い闘争の色が宿った。

 

「――二言は無いな……?」

「ないッ!」

 

 ユディシュティラの言葉に、ドゥルヨーダナは胸を張って答える。そうして二人の王は互いの領土を賭け、一世一代の大勝負に乗り出した。中央に陣取るシャクニは両名に視線を寄越し、二人は頷く。

 それを開始の合図とした。

 

「参ります」

 

 指に挟んだ賽子、それを見逃してなるモノかとばかりに見つめるユディシュティラ。対してドゥルヨーダナはカルナを一瞥し、ニヤリと笑みを零す。最早勝ちを確信している顔、それはそうだろう、そもそもこの賭け事自体が計略、連中を陥れる罠なのだ。カルナはドゥルヨーダナの笑みに同じ表情で返し、それからさも真剣な表情を取り繕った。

 

 シャクニが四度目となる賽子を振る。

 カラン、と音を立てて椀に収まった賽子、それから流れる動作で蓋をし、音が消えた。

 

「―――」

「―――」

 

 張り詰めた空気、まるで棘を含んだ空間。

 ドゥルヨーダナとユディシュティラは一言も会話を交わさない、互いが互いに椀をじっと見つめ、汗を流していた。

 ドゥルヨーダナは勝利を目前とした興奮故に、ユディシュティラは己の尊厳を賭けた故に。

 この椀の下に国の命運が――生と死が眠っていた。

 

 

「――――エーク(奇数)

 

 

 ユディシュティラは額の汗を乱暴に拭って、そう告げた。

 対面に座すドゥルヨーダナの瞳をじっと見つめ、全く曇りのない目で、迷いなく。

 ドゥルヨーダナは彼の鋭く、抉る様な視線を受けながらも笑みを浮かべ頷いて見せた。

 

「―――ドー(偶数)

 

 ユディシュティラ(五王子の長男)エーク(奇数)を。

 ドゥルヨーダナ(百人兄弟の長男)ドー(偶数)を。

 それぞれ選び、宣言した。

 

 二人の視線が交差しカルナは人知れず拳を握った。カルナ自身がそうさせたのか、或は弦が握ったのか、それは分からなかった。中庭に緊張が走り、五王子も、ドゥルヨーダナの兄弟も、ドラウパディーさえ固唾を飲んで見守っていた。

 

「――」

 

 シャクニがゆっくりと息を吐き出し、それからドゥルヨーダナとユディシュティラを見る。二人は椀に注目し、その蓋が緩慢な動作で開かれた。

 三つの賽子の出目が白日の下に晒される。

 果たして、この領土争いに勝利したのは――

 

 

ドー(偶数)

 

 

 ドゥルヨーダナであった。

 

 彼は王らしさを投げ捨て、その場で跳び上がって喜ぶ。

 その両手を天に突きあげ、カルナに飛び掛かる勢いで抱き着いた。「やったぞ! 我はやったぞ! なぁ友よ! ハハハハハッ!」と上機嫌に笑い、体を揺らし、カルナの頭をくしゃくしゃに撫でる。

 カルナはこの勝負では何もしていなのだが、しかしドゥルヨーダナの凄まじい喜びっぷりを見ていると自分まで心が温かくなった。それは弦も同じである。

 

 対してユディシュティラはその場に崩れ落ち、ポタポタと滝の様に汗を流した。流れたのは脂汗か冷汗か、どちらにせよ染みを作って行くソレをカルナは哀れな気持ちで見届ける。

 あのアルジュナでさえ顔色を真っ青にし、戦慄いていた。それはそうだろう、例え王子とは言え国が無ければ王もクソもない。ただの肩書だけの一市民だ、王の義務だ責務だとほざいていた男が、自分と同じただの一市民に成り下がったのだ。

 カルナにはその事実が酷く心地よかった。

 

「あぁ、やったぞ、我はインドラプラスタを手に入れた! これでクル国は前王の時代と同じ一つとなったのだ! あぁ、これこそ真の【世界皇帝(ラージャスーヤ)】、我こそは世界を統べる王なりッ!」

 

 カルナと肩を組み、今にも歌い出しそうなドゥルヨーダナをカルナは満面の笑みで讃える。あぁ、そうだとも、君こそが世を統べる真の王であり、世界皇帝に足る存在だと。はしゃぐ彼を褒めちぎり心からの賛辞を送った。

 

「――まだだッ」

 

 喜びに沸くドゥルヨーダナとカルナ、そして兄弟たち。

 その祭りの様な熱気に水を差したのは他ならぬユディシュティラだ。滝の様な汗と涙を流しながら、痛いほどに握り締めた手を突き出し、叫ぶ。その表情は絶望の淵に一筋の光を見出した様な――しかし、狂人とも言える顔だった。

 カルナはその表情を見て、ゾクリと背筋が凍る。

 

「――我らの、我ら自身の身を賭ける」

 

 その言葉は中庭に良く響き、全員の耳に届いた。

 ユディシュティラの背後に居た兄弟たちは絶句する、よもやその様な事を言い出すとは欠片も思っていなかったと。それはドゥルヨーダナも同じであった、カルナは弦の知識から辛うじて驚愕する事を免れたが、それでも「まさか」という感情が浮かぶ。

 既に祭りの様な雰囲気は静まり返り、水を打った静けさだけが残った。

 

 己の身を賭ける。

 それはつまり、敗北すれば王家である事を捨てるという言葉だ。

 

 ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ、クリシュナの五人は最早何も言えなかった。最後まで沈黙を貫いていたビーマとナクラ、サハデーヴァでさえ、やめろと言わんばかりに顔を歪めている。

 

「冗談だろうユディシュティラ!?」

「兄よ、本気か……? 本気で言っているのか」

「おいおい、兄貴、流石にそりゃぁ……」

 

 皆はここまで来て、己の兄であり長であるユディシュティラが破滅への道を歩んでいると理解したのだ。このままでは負ける、己は王家の身すら追われ奴隷の身に落とされる。さすがにその一歩を踏み出すのは拙いと、兄弟たちが口々に反対意見を述べる。

 しかし。

 

「だがッ、だがしかし、国を失えば最早我々は死んだも同然! 責務も義務も権利さえ、我々は持つ事を許されなくなる――ならば身分が有ろうが無かろうが同じことッ!」

 

 ユディシュティラは兄弟たちの方を見向きもせず、ドゥルヨーダナに向かって吠えた。

 失ったものは余りにも大きい。私財は勿論、その国を丸ごと――辺境の地から死ぬ思いで発展させたインドラプラスタ、それを僅か一時間足らずで奪われたのだ。取り返したい、そう思う事は自然だろう。しかしその代償は己の身分、余りにも大きな代償だ。

 

「我が兄ユディシュティラ、少し落ち着いて欲しい、私達の言葉を聞いてくれ」

 

 アルジュナがユディシュティラの肩を掴み、優しく諭すように口を開いた。しかしユディシュティラは聞き耳を持たず、アルジュナの手を振り払う。それでも尚、アルジュナはユディシュティラの凶行を止めようとしたが、それよりも先にドゥルヨーダナが語りかけた。

 

「……王で在る事を捨てるか? ユディシュティラ」

「……民を見捨てる位ならば、この身を賭けよう」

 

 国を賭けの対象に含めた奴の台詞ではないな。

 ドゥルヨーダナはそう吐き捨てて、再び己の座椅子に腰かけた。その表情は先程までの喜びを失い、寧ろ憐みさえ感じさせた。そして細めた目で以てユディシュティラを射抜き、彼の顔を指差す。

 

「――これで最後だ、ユディシュティラ、勝てばそうだな……財宝はやらんが、国は返してやる、既に我は三度(みたび)勝利した、この権利当然主張させて貰おう」

「無論だ……領土だけで構わない」

「まぁ、本来ならば貴様らの首を五つ――否、六つか、並べたところでインドラプラスタとは釣り合わんが、別に構わん、これは王である我の慈悲である」

 

 ドゥルヨーダナが尊大にそう告げると、ユディシュティラは唇を噛み締めながら頭を下げた。その様子を我が王は大層嬉しそうに見ている、あのユディシュティラを屈服させた事が余程嬉しいのだろう。その口角は僅かに上がっていた。

 そして再戦の言葉を交わした以上取り消しは聞かない、アルジュナは唇を噛み締めながら引き下がり、ユディシュティラの背後に座した。

 

「シャクニ、何度も済まないな、だがこれで最後だ――貴様等の文字通り『命運』を賭けた賭博だ、心して選べ」

 

 シャクニがドゥルヨーダナに対して一度頷き、そして最後の賽子を振る。素早く放られた賽子は椀に入り、カラカラと音を鳴らす。そして椀は地面に伏せられ、賽子の転がる音は止んだ。

 ユディシュティラは既に賽子を見ていない、最早目で捉えても無駄と考えたか。瞼をぎゅっと閉じて祈る様に手を組んでいた。背後の兄弟たちはそんなユディシュティラを不安そうな面持ちで見つめており、ドゥルヨーダナはカルナの肩を枕代わりに頭を預けている、最早緊張も何もない。

 下手をすれば詐欺がバレてしまいそうな態度だが、仮にも勝っても負けても得しかないドゥルヨーダナ。ある意味勝者の余裕とでも言うべきか、その緊張のピークは既に終わっていた。

 

「決まったか、ユディシュティラ?」

「…………」

 

 長考。

 ドゥルヨーダナの問いにも答えず、ユディシュティラは祈りの姿勢のまま動かない。自分の父である正義の神ダルマにでも縋っているのか、或は単に迷っているだけなのか。傍から見ている限りは分からないが、その額には凄まじい汗を掻いている。

 ドゥルヨーダナは鼻を鳴らしでカルナに寄り掛かり、カルナはそんなドゥルヨーダナを支えながらユディシュティラと背後のアルジュナを見ていた。

 

 あれ程光輝き、嫉妬と憎しみの対象であったアルジュナが、今や国を失くして一般市民に落ちぶれたとは。仮に、万が一、この勝負にユディシュティラが勝利したとしても、あのドゥルヨーダナに情けを掛けられたという事実は一生消えない。

 その恥辱を背負って生きるのだ、どう転んでもドゥルヨーダナとカルナにとっては嬉しい展開でしか無かった。

 

 

「――ドー(偶数)……ドー(偶数)だッ!」

 

 

 祈りの姿勢から立ち上がり、叫んだユディシュティラ。その叫びを聞き届けたドゥルヨーダナは片手を上げ、「ならば、我はエーク(奇数)を」と言い放つ。ユディシュティラの目は血走っており、その肩は震えている。

 正に命懸け、己だけでなく一族の命を天秤に吊り下げたユディシュティラは必死だった。

 ドゥルヨーダナはそんな彼の姿を眺めながら、しかし薄く笑うだけ。

 

「シャクニ」

「――」

 

 ドゥルヨーダナの言葉に頷き、シャクニがゆっくりと椀を開く。その出目を這い蹲って確認するユディシュティラ、固唾を飲んで見守る五王子。

 そして告げられた結果は。

 

 

エーク(奇数)

 

 

 今度こそユディシュティラは崩れ落ち、額を地面に擦り付けた。

 瞳からは大粒の涙を流し、肩を揺らしながら嗚咽を零す。

 彼等五王子は既に王子では無く、バラモン(王家)からシュードラ(奴隷)に転がり落ちたのだ。クリシュナを含めた背後の五人は俯き、ドラウパディーに至っては信じられないとばかりに固まっていた。良い気味だ、たかが賭け事で全てを失うとは。

 

「……よもや、此処まで貴様らが賭け事に弱いとは、あぁ、しかし、賭けは賭けだ、貴様らの全て、確かに頂くぞ―――ドゥフシャーサナ(我が弟よ)、ドラウパディーを此処に引き摺って来い」

 

 ドゥルヨーダナは這い蹲って泣き喚くユディシュティラを見下ろしながら、ドラウパディーの近くに座していた兄弟、その一人に声を掛ける。すると彼は素早く立ち上がり、ドラウパディーの肩を強く掴んだ。そして呆然としたまま固まる彼女を引き摺って、ドゥルヨーダナの元に連れて行く。

 どうやらドラウパディーは未だ、己の境遇が信じられない様だった。

 

「ま、待ってくれ、彼女は私達の妻だが、この賭けには――」

「妻であるならば王家であると同じ、そうだろうアルジュナ? これは(ルール)だ、それともソレを破る気か?」

 

 連れていかれるドラウパディーに腕を伸ばし、止めようとしたアルジュナにカルナは声を掛ける。

 賭けの対象は既にユディシュティラが指定した、自分達の身分を賭ける。それはつまりこの場に居る王家の人間全てという事だ、そうでなければとても一国とは釣り合わない。そして元々パーンダヴァと関係無いとしても、彼女がアルジュナ達と婚姻しているのならば王家の人間である。賭けの対象は免れない。

 

「此処まで慈悲を見せたと言うのに、まだ喚くと言うのか? 我が王、ドゥルヨーダナは何度も機会を与えた筈だ、それを活かせなかったのはアルジュナ、貴様の兄だろう?」

「っ……」

 

 カルナが薄ら笑いを浮かべながらそう告げれば、アルジュナは射殺す様な視線でカルナを見る。だが言っている事は間違っていない、故に何かを反論する事は無かった。拳を硬く握り震えるのみ、やがてドラウパディーはドゥルヨーダナの弟によって目前に引き摺り出され、その美貌を全員の前に晒した。

 

 しかし、カルナとドゥルヨーダナの表情は優れない。愉悦も何も浮かばない、あるのはただ、コイツが気に食わないという共通の感情だけだ。

 

「ふん、大した女でもあるまいに、何故こんな奴を世の男共は欲しがるのか理解出来ん……なぁ、そう思うだろうカルナ? この女、どうすれば良いと思う?」

「そうだな友よ、心から同意する――何なら服を剥いで森にでも捨てたらどうだ? 性根の腐った女だが、その肉は獣にとっては馳走だろう、多少は連中の腹を満たしてくれるんじゃないか?」

 

 ドゥルヨーダナの問いに、カルナは笑わず、ただ淡々と答えを述べた。こんな女抱く気にもなれん、殺す気も無い、ならば服を剥いで森に投げ捨ててやれと。それは畜生を越えた悪魔の所業であり、アルジュナを含め五王子の反感を買うには十分過ぎる言葉だった。五王子の方から濃い殺気を感じたが、カルナはそれを鼻で笑い飛ばす。

 ドゥルヨーダナも気にした様子は無く、「それは良い」と頷いて見せた。

 

「そ、んな……」 

 

 ドラウパディーはカルナの言葉に漸く自意識を取り戻し、涙を零して体を震わせる。目の前の男から感じるのは慈悲の欠片も無い、まるで家畜を見る様な目。嘗て己をそんな目で見て来た人間は居なかった、故にそれは世を知らぬドラウパディーの心を無残に引き裂く。

 カルナは口元をふっと緩めると、壮絶な表情を湛えて告げた。

 

「言っただろう? 俺を侮辱した事――必ず後悔させると」

 

 いつか競技場で告げた言葉、カルナはそれを有言実行させるつもりでいた。

 

 

「テッ――メェエッ!」

 

 

 五王子の中から特に濃い殺気が漏れる、同時に叫び声が木霊して一つの影がカルナに向かって躍りかかった。

 五王子の一人、パーンダヴァの次男、ビーマだ。

 短絡的で暴力的、考える事を良しとせず何でもかんでも腕っぷしで解決しようとする風神ヴァーユの息子。流石に風の加護を受けているだけあって素早く、カルナが気付いた時には既に拳が顔面に迫っていた。周囲の誰もが制止を掛ける暇さえない、コレは避けられない、隣のドゥルヨーダナの表情が驚きに変わり拳がカルナを捉える。

 風の加護を受けた拳は素早く、鋭い、流石に直撃を許せば頭が吹き飛んでしまうだろう。

 

 しかし――ソレがカルナに届く事は無かった。

 

「ッ!?」

 

 ビーマの拳が黄金の粒子に包まれる、まるで拳そのものを絡めとる様に、ビーマの剛腕はカルナに届く寸前で止まった。ピタリと拳が固定され、風圧のみがカルナの背後に流れる。

 

【黄金の鎧】――これがある限り、何人たりともカルナを傷つける事は叶わない。

 

「――奴隷(シュードラ)の分際で早速主に拳を振るうか、パーンダヴァの王子と言っても、やれやれ、全く躾がなっていない」

 

 カルナは黄金の鎧によって腕を掴まれたビーマを見つめ、大した驚きもなくそう口にする。それから彼の額に指を近付け、ふっと笑みを零した。離れようと暴れるビーマだが、黄金の粒子は彼の腕を決して離さなかった。寧ろ振りかぶったもう片方の腕さえ絡め取り、更に強固な拘束と成す。

 

「貴様程度、指一本あれば事足りる」

 

 そう告げるや否や、ビーマの額に近付けた中指に粒子が集う。カルナの中に潜む弦は、それが太陽の神、スーリヤの力である事が分かった。まるで体が沸騰する様な熱、それを瞬間的に感じたのだ。

 カルナは一度ドゥルヨーダナの方を見て、彼が頷いたのを確認、それからビーマに向かい直った。

 

「馬鹿も叩けば治るやもしれん、まぁ物は試しだ――吹き飛べ俗物」

 

 パァン! と肉を打つ音。

 それはカルナが放った指の一撃、弦の価値観に基づいて言うのであればデコピン。それが神性を帯びた状態で放たれ、光の残滓を残しながら撃ち出された指は見事にビーマの額を直撃した。

 

 凡そ指一本で出せる威力ではない。

 

 直撃した瞬間に黄金の鎧を解除したカルナは、後方に勢い良く仰け反ったビーマを冷めた目で見つめていた。ビーマはそのままバク転する勢いで顔面着地し、地面に叩きつけられる。指で額を叩かれただけで人間が宙を舞う、正に常人では為せぬ技。カルナの指を受けた額は赤黒く鬱血し、ビーマ自身は白目を剥いて気を失っていた。

 受け身どころか防ぐ事も出来まい、カルナは小さく手を払うとビーマの体を蹴飛ばした。

 

「ふん、パーンダヴァも終わりか、存外、つまらぬ幕切れであったよ」

「ビーマ!」

 

 倒れた上に足蹴にされたビーマ()を心配し、叫ぶユディシュティラ。涙に濡れた顔のまま立ち上がろうとして、しかしドゥルヨーダナが手で彼を制した。

 

「ユディシュティラ、控えよ、此処は我の王座――貴様の立ち上がって良い場所ではない」

「ぐっ……しかし!」

「いつまで王の身であると勘違いしている? 貴様はもう、ただのシュードラ(奴隷)よ」

 

 ドゥルヨーダナの言葉に、ユディシュティラは項垂れて強く拳を握った。主に楯突いた奴隷に躾を施しただけ、暗にそう言っているのだ。故にこれは暴力でも何でもない、ただの正当なる教えである。王である事を許されない彼は、既に何をする事も出来ない。

 カルナは倒れ伏したビーマを見下ろし、それからドゥルヨーダナの隣へと戻った。五王子の皆がドゥルヨーダナとカルナを凝視し、凄まじい殺気を飛ばしてくる。

 

「――はッ、何だ逆恨みか? 財宝を賭けたのも、領土を賭けたのも、身分を賭けたのも、全て貴様らのやった事だろう、それで俺とドゥルヨーダナを恨むのは筋違いだ、見るに堪えん」

 

 カルナはドゥルヨーダナの隣に立ち、それから自身を見つめる五王子に向かって吐き捨てた。すると聞き捨てならないと、一人アルジュナが立ち上がる。あぁ、そうだ、貴様ならそうだろうアルジュナ、友を愛し、信義に厚く、正義を良しとする貴様なら。

 

「……確かに、それは私達の自業自得、なれどドラウパディーとビーマ、二人に対する仕打ちは余りにも――!」

「目には目を歯には歯を、侮辱には侮辱で返礼する、それの何が悪いアルジュナ?」

 

 憤るアルジュナを前に、カルナは全く悪びれもせず告げる。カルナは腹の底からそう思っていた、生憎とカルナと、そして弦は左の頬を殴られて、右の頬も差し出す程人間で来ても居ないし、逆にそんな奴がいるならば頬を差し出せなくなるまで殴り倒す。

 侮辱されて怒らない人間など居ない、そもそもその行為自体が相手を下に見ていると宣言している様なものだ。そしてアルジュナに王家としての責務、義務を重んじ、それを誇りに思う気持ちがある様に――カルナにも、決して譲れぬ気持ちがある。

 

「俺には侮辱されても汚れる矜持が無いと思ったか? 信条が無いと思ったか? ほざけ、どんな人間にも汚されてはならぬ存在、信条、矜持、想いがある、それを理解しない貴様に、俺を非難する資格などない!」

 

 カルナは叫び、それから言葉とは裏腹に笑みを以てアルジュナを見つめた。その表情から読み取れる感情は『愉悦』、確かに汚された矜持がある、存在がある、しかしソレ以上にアルジュナが苦しむ姿を眺めてやりたいと言う、ドロドロに濁った黒い感情があった。

 アルジュナはそれを理解していた、カルナと言う男が酷く口が回り、同時に建前と本音を混同した物言いをする事を。

 

「ッ――この、外道め……!」

「ふん、所詮は敗北者の囀り、心地良い位だ」

 

 アルジュナの殺意と、カルナの笑みが交差する。ドゥルヨーダナはそんなカルナの肩に手を添え、その場からゆっくりと立ち上がった。

 

「……カルナ」

「……あぁ、分かっているよ」

 

 ドゥルヨーダナの囁く様な言葉に、カルナは小さく頷く。

 ドゥルヨーダナという男は傲慢だ、嫉妬深く陰湿で、勝ちこそが全てと言って憚らない男だ。そしてそんな男が、こんなにもアッサリと、簡単に、容易に、宿敵である彼らを終わらせる筈が無かった。

 この場で首を刎ねる事も出来よう、己で死ねと剣を渡す事も出来よう、カルナが一人一人弓で射殺す事も出来よう。しかしドゥルヨーダナはどれも選ばなかった、こんな幕切れを良しとしなかったのだ。

 

「この様な最後では、我が父、盲目の王――ドリタラーシュトラも浮かばれまい、圧勝過ぎると言うのも考え物だ、もっと互いが互いに全力を尽くし、相応しい死を迎えねば嘘だ……そうだろうユディシュティラ、愚かな王よ」

 

 ドゥルヨーダナはそう言って、這い蹲っているユディシュティラの目前まで足を進めた。そして徐に足を上げると、そのままユディシュティラの頭を踏みつける。ゴッ! と鈍い音が鳴り、ユディシュティラの顔面が地面に叩きつけられた。

 

「ッ――ドゥルヨーダナ、貴様ァ!」

「兄から足を退けろッ!」

 

 背後に居たナクラ、サハデーヴァ両名が憤り、ドゥルヨーダナを睨めつける。しかしカルナが殺気を込めて二人を一瞥すれば、二人は委縮しそれ以上踏み込むことが出来なかった。カルナの右手には黄金の光が宿っている、そして光りは軈て一本の弓と矢を生み出し、カルナはそれを番えた。

 カルナの持つ太陽神の力、それによって生み出された黄金の弓である。

 

 競技では使用しない、正に彼が『殺す』為に使用する唯一無二の弓矢。狩りや戦争の時のみに猛威を奮い、カルナの卓越した技量に太陽の加護が合わさる事で正に馬鹿げた威力と精度を誇る。光そのものと言っても良い、正に実体を持たない武具。カルナはそれを惜しげもなく晒し、矛先を五王子へと向けていた。

 何かあれば射殺す、そう視線が告げている。

 ドゥルヨーダナはそんな双子には一瞥もせず、己の足裏で呻くユディシュティラに語り掛ける。

 

「賭け事で全てを失ったユディシュティラ、我は慈悲深い、同時に完璧主義でな、我の敵にも相応の水準を求めているのだ、こんな宮殿の片隅で行われた賭け事程度で宿敵の命を断つなど――つまらんだろう?」

 

 薄ら笑いのままぐりぐりと後頭部を踏みつけ、ドゥルヨーダナはそう言い放つ。相手の格が低ければ、己の格まで低く見られてしまう。ドゥルヨーダナは傲慢であった、同時に妥協を許さない男であった。

 

「故にユディシュティラ、財宝は返さんが領土は返してやる、ついでに貴様等の身分もな」

 

 ドゥルヨーダナはそう言ってユディシュティラの顔を軽く蹴飛ばすと、そのまま背を向けた。肩を落とし、首を気怠そうに傾けながら。

 

「だが条件がある――十二年――十二年を森で暮らせ、追放である、貴様らは我が領土、そしてインドラプラスタに踏み入る事を禁ずる、その森で慎ましく時を過ごせ、そして一年、その名を捨てて生きて貰う」

 

 それが領土と身分を返還する条件だ。

 ドゥルヨーダナが告げた内容、五王子の反応は様々だった。

 アルジュナは悔しそうに俯きながらも、どこか心配した表情で兄弟を眺め。

 ナクラ・サハデーヴァの両名は憤怒の表情のまま拳を震わせ。

 クリシュナは嫌悪と苛立ちに顔を歪めていた。

 

 森で十二年を暮らし、領土に戻った後も一年名を捨てて生きて貰う。それは王家の責務と義務を一時的とはいえ捨て去り、更には一年限りとは言え己を偽って生きなければならない、正に苦行と言って良い行為だった。

 無論、ドゥルヨーダナはソレを理解した上で言っている。己に負けた自分を恥じ、恥辱に塗れながら十三年もの時を生きろと言ったのだ。

 ドゥルヨーダナはカルナの直ぐ横に立ち、それから五王子を見下ろして薄く笑った。

 

「拒否権は無い――では、我が宿敵共よ……十三年後にまた逢おうぞ」

 

 カルナが手に持っていた弓を消し去り、ドゥルヨーダナが手を二度叩く。すると周囲に身を隠して待機していた戦士たちが一斉に五王子に殺到した。突然の事に彼らは反応すら出来ない、万が一の為にシャクニが用意した護衛達だ。その気配は巧妙に消し去られており、さしものアルジュナも対応する手が遅れた。

 とは言え各々が武芸の才を持つ者、最初の数人が殴り倒され、蹴り飛ばされる、しかし後に続く第二陣、第三陣が五王子の身柄を拘束する事に成功。ユディシュティラに至っては既に抵抗する気力すらなく、そのまま縄に結ばれた。

 反応が遅れてもこの結果、やはり半神というのは恐ろしい。

 

 ユディシュティラを始めとする五王子、そしてクリシュナは瞬く間に縄で縛り付けられ、そのまま中庭から引き摺り出された。そんな中、一人だけ最後まで抵抗していたアルジュナは拘束された状態から五人の戦士を蹴り飛ばし、カルナに向かって叫ぶ。

 

「ッ――カルナァッ!」

 

 その声は怒りと憎しみに満ちており、今にも殺してやると言わんばかり。しかしカルナはどこ吹く風でアルジュナの怒声を聞き流し、横目でアルジュナが取り押さえられる様を見ながら口角を上げた。

 

「無様だなアルジュナ、英雄として持て囃されるお前が……十三年後、もっとマシな舞台で決着をつけられる事を望む、それまで精々足掻け」

 

 カルナの言葉を聞き届けたアルジュナは何かを叫ぼうとして、しかし背後から全力で飛び掛かった戦士に押し倒される。そのまま抵抗空しく森の方角へと運ばれて行く五王子を見て、ドゥルヨーダナとカルナは静かに拳を重ねた。

 最後に消えたアルジュナを見て、カルナが覚えた感情は――愉悦でも、歓喜でもない。

 何かぽっかりと穴が空いた様な虚無感、それは達成感とは異なる空しい感情だった。それは別に五王子に対して思う事があるからとか、そういう事ではない。単純に、この選択が正しいのかと疑問に思ったからだ。

 

「……良かったのか、ドゥルヨーダナ?」

 

 ドゥルヨーダナの方を見ずに、カルナは問いかける。それはカルナの心からの問い掛けだった。

 すると、ふっ、と空気の抜ける音が聞こえて、それからドゥルヨーダナは言う。

 

「無論よ――この場で殺せば全てが円満の内に終わっただろう、見逃した以上、未来に我と争う事は確定した……十三年、高々その程度でくたばる連中でもあるまい」

 

 少しだけ陰のある表情で呟いたカルナ、それに応えるドゥルヨーダナ。その口調はどこか寂し気で、淡々としていて、ドゥルヨーダナは空を見上げ達観した様な目をして言った。

 

「光と影、陽と陰、五王子と百兄弟、世の認識は大して変わらん、そしてどちらが『斯くあれかし』と存在を決められたのか、そんなものは――遠い昔に承知しておる」

「……なら尚更、奴らはきっと力を蓄え戻って来る」

「だろうな」

 

 カルナの言葉に、ドゥルヨーダナは力なく笑った。

 カルナは顔を顰める、元より負けるつもりはない、アルジュナという英雄を打ち負かし、カルナは勝利を得る為に邁進するだろう。内に潜む弦も感じていた、カルナという男は微塵も己が負けるとは考えていない、感じてすらいない。

 しかしドゥルヨーダナは違う、理解しているのだ。

 それはカルナも同じ、心は勝利を求め体は闘争を止めない、だが頭では理解していた。

 

「カルナ、我は奴らパーンダヴァが十三年の時を粛々と経て戻って来ても、領土と国を還すつもりは毛頭ない」

 

 ドゥルヨーダナは不意に、隣に居るカルナを確りとした瞳で見つめてそう言った。それは余りにも直接的な表現で、戦士としての矜持も、王としての重みも感じさせない、まるで子供の我儘の様な言葉だった。

 流石のカルナもコレには驚き、僅かに眉間に皴が寄る。

 

「ドゥルヨーダナ、それは……」

「言うな、分かっている」

 

 カルナが苦言を零そうとすると、ドゥルヨーダナはそれを制止する。己の行いがどんなものであるか、ドゥルヨーダナはそれを理解した上で口にしていた。

 

「元より賭博の席で起きた事、先のアレは誓いだ、そして神に愛された連中の事、恐らく馬鹿正直に誓いを守るだろう、そして十三年後、我に領土の返還を求める筈だ」

 

 五王子ならば森で朽ち果てる事もあるまい、そして奴らは半神であり、中には義務と責務を尊ぶアルジュナが居る。ならばこそ、彼らは決して途中で投げ出さず、ドゥルヨーダナが口にした通り日々を過ごすだろう。

 そして月日が過ぎれば権利を主張する筈だ、十三年の時を経て約束を果たしたと。故に、次はドゥルヨーダナが誓いを果たす番、あろう事かドゥルヨーダナはそれを破ると言った。

 

「そうなれば必然、連中は我らに弓引くだろうな、彼らは許さない筈だ、戦争は確実に起こる――我がカウラヴァとパーンダヴァの間で」

 

 カルナはドゥルヨーダナの言葉を、ただ黙って聞いていた。そして戦争が起きた場合どうなるのか、カルナはその未来に想いを馳せ――強く拳を握った。

 

 

「シャクニからも言われた――我々の敗北は、天命に定められたものだと」

「………」

 

 

 天命。

 これ程分かりやすい因果も無い、ドゥルヨーダナという男は既に天から見放されていると、暗に自分自身でそう言っていた。彼は王としての器を持たない、本来ならば悪政、独裁の王として非難されるべき立場にある。だが、彼は彼なりに信条を持ち、そして己の価値観を腹の底から信じて突き進んで来た。

 そんなドゥルヨーダナを見て来たカルナは、何人たりともドゥルヨーダナを貶す事を許さない。何故なら己を救った彼は、ドゥルヨーダナは、誰にとって悪人だろうが、卑劣で見るに堪えない男だろうが、他ならぬカルナにとって英雄だったからだ。

 

 けれど、だとしても。

 この世には成せる者と、成せぬ者がいる。

 そしてカルナとドゥルヨーダナは、残酷な事に――後者として天に定められていた。

 

「――星見など、当てにならん」

 

 カルナは小さく弱弱しい声で吐き捨てる、それは自分でも嘘だと分かる程に弱弱しい声色だった。しかしドゥルヨーダナはそんなカルナに目を向けて、力強い笑みを見せる。

 

「……そうだな、我もただ破滅を受け入れる気は無い、所詮は星見よ、星など高い天の果てより我らを見下ろす事しか出来んのだ、実に動くは我ら人の子、ならばこそ、人の意地を見せてやらねば気が済まん」

「あぁ――俺は君に救われた、そして君に返しきれぬ恩義がある……だからこそ、この世の果てまで付き合おう」 

 

 カルナとドゥルヨーダナは天を見上げ、互いに肩を並べる。

 敵は強大であり、運命そのものと言っても過言ではない。しかし、だからこそ勝つ価値があると言える。

 

「我が友、カルナよ、我は――お前に出会えて幸せであったぞ」

「……その言葉、俺もそのまま君に返そう」

 

 二人の背には、悲痛な程の覚悟が感じられた。

 

 

 

 





 加筆したら一万三千になりました、長くてすみません。
 分割も考えたのですが前日に分割して7000字だったので、ぶっちゃけあんまり変わらないかなと思ってブッ込みました、仕方ない仕方ない。
 
 最近一ヵ月に作品を一本を仕上げられるペースまで執筆速度が上昇したので、このまま夏休みまで月に一作出す事を目標にしました。五月中にこの作品を完結させて、六月にもう一本、七月に更に一本書いて夏休みに突入したら修羅に入ります。
 毎日平均三時間~四時間くらいは執筆していますが、夏休みに入ったら一日中書き放題、やったぜ。

 書きたいモノが沢山あって手が足りません、背中から生えてこないかな、新しい腕。

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