シビュレ、と言う英霊がいる。
ギリシャ・ローマ神話におけるアポロンの託宣を告げたと言う女予言者達の総称だが、特に有名な者が二人いる。
一人はアポロンから直接願いを叶えられたクマエのシビュレだが、もう一人のシビュレは他とは大きく異なる。
彼女はアポロンではなく女神ヘカテーに仕えていたため、ヘカテーのシビュレと言われている。
彼女はギリシャ神話において、ケイローンの友人にして、同じく多くの英雄達の師匠であり、卓越した戦士にして魔術師だった。
その容姿は美しい黒髪と美貌を持つ絶世の美女とされ、元はギリシャ以前に起源を持つヘカテーの従属神が起源であると言われている。
よく知られる逸話としては、後のアルゴー号の船長にしてテッサリアの王子イアソンとの関係で知られる。
イアソンの父王アイソンの死後、叔父のペリアスが王位を継いだものの、後に王位を引き渡す事を拒み、母子の殺害を図った。
そこで母子はテッサリアより逃げ出した。
幾日も逃げ、遂にはヘラの神殿に追い込まれるものの、旅の途中にそこで夜を明かそうとしていたシビュレと出会う。
彼女は母子と自分の姿を魔術によって隠し、ペリアスの追手から匿った。
翌朝、事の次第を聞いたシビュレは母子を自分の旅に同行させるようになる。
母親に関して、後に老齢を理由に別の住処を与えたものの、イアソンだけは必要な事であるとして、共に旅を続けさせた。
その旅の最中、シビュレはイアソンを鍛え続け、イアソンがテッサリアへと戻る事を決意するまで、共に在ったと言う。
別れ際、彼女はイアソンにある言葉を残していった。
「何事も、自分の眼で見て判断しなさい。例え法としては正しくなくとも、道義としては正しい事も、往々にしてよくある事なのだから。」
この後、イアソンはテッサリアにてその言葉の意味をよく知る事となる。
……………
「さてイアソン、準備は良いですね。」
「はい!」
今日もボクはお師匠様と修行をする。
お師匠様との修行は辛く厳しく、心が折れるようだ。
時々、タウロスまで行ってケイローン様とお弟子の方々とも一緒に修行するけど、向こうも修行の厳しさは同じらしく、終わった後はいつも一緒に愚痴を言い合ったりする。
でも、何とか食いついている。
修行で自分の成長の事を教えると、お母様はいつも嬉しそうだし、師匠も褒めてくれる。
でも、前に才能は無いとはっきり言われた。
「貴方の才能は指揮官よりですね。前に出て戦うよりも、後ろで頭を使い、前にいる仲間や部下を支えるのに向いています。」
でも、僕も前に出たかった。
御伽噺の英雄の様に、怪物を倒して、たくさんの人に感謝されたかった。
でも、その事を言うとお師匠様はいつも怖い話をしてくる。
「良いですか、イアソン。このギリシャにおいて、英雄とは大体破滅が約束されているのです。そうして優れた者が劣化しないように直ぐに星座や冥府で保管すると言う神々の意図でもありますが、英雄となって知名度が上がると言うのはそういう事なのです。そして、貴方は既に女神から注目を集めてしまいました。これ以上はいけません。貴方のお母さんよりも先に死にかねません。」
お母様を残して死ぬ事は出来ない。
でも、英雄になる事を諦めたくもない。
だから、今日も僕はお師匠様と修行をするんだ。
「先日獲れた猪の肉が良い感じに熟成しましたから、今夜はお母さんと一緒に食べましょうね。」
「はい!」
後、修行の後の美味しいご飯のためでもある。
……………
(イアソンの育成は順調、か。)
後世、アルゴノーツを組織し、コルキスまで航海した事だけが取り柄とされる男。
小物かつ傲慢でお調子者であり、なのに本当に追い詰められた時だけは英雄としての姿を見せる。
そんな人物が型月世界のイアソンと言う男だ。
では、転生者と言うこの世界における異物である自分が培った技術を余す所なく使用して育成した場合、彼はどうなるのだろうか?
答えは単純、化けた。
確かに才能は無い。
英雄として、単独で怪物に立ち向かい、軍勢をなぎ倒し、多くの逸話を残す。
そんな才能は無い。
あるのは他者を支え、その力を十全に発揮できる環境を用意する事。
かと言って、一番後ろである司令部や玉座からでは油断や慢心が出やすい傾向がある。
となれば、イアソンにとって最も向いているのは…
(最前線よりも少しだけ後ろ、前線指揮官。)
部下が、自分が生き残るために頭を使う立ち位置。
これが王や司令官なら、部下や自分を餌にしてでも勝利を捥ぎ取る事が求められるが、彼にはそれが出来ない。
意外にも人情家で慎重な面もある彼には、それが最も適した場所だった。
(成程、アルゴノーツを率いれる訳だ。小物ながらも見るべき点はちゃんとある。)
その事実にほっこりする。
今はシビュレと名乗る自分の弟子に大成できる片鱗があるのは、師にとっては嬉しい事だ。
(とは言え、その程度で終わってもらっては困ります。)
彼と彼が率いる者達には何れゴルゴーンに挑んでもらうのだ。
この程度で終わってしまっては困る。
大英雄ヘラクレス。
彼の死因とは即ちヒュドラの毒に他ならない。
それさえ無ければこのギリシャにて彼に勝てる存在はいない。
彼は以前ゴルゴーンに敗れたアレスを正面から打破した英雄であり、怪物殺しではこれ以上ない程の大英雄であり、このギリシャ世界では彼以上は望めないだろう。
だが、問題もある。
ヒュドラの毒、それに匹敵する絶毒を持つシン・ゴルゴーンが相手では、如何にヘラクレスと言えど相性が悪いのではないだろうか?
最終的には勝ちそうであるが、その際の周辺被害が洒落にならないレベルに、それこそ以前の国が余波だけで二つ三つ滅びる以上の規模になる可能性すらあった。
そのため、ヘラクレスが十全に戦って早期にゴルゴーンを討つためにも、後方支援要員が必須だった。
そして、その後方支援要員を守るための壁も必要だった。
それがイアソンが将来集めるだろうアルゴノーツであり、アルゴー号だ。
そう、私は彼らをヘラクレスを十全に運用するための部隊とし、その指揮官にイアソンを据えようと考えていた。
他にも色々考えているが…まぁそれはその内にしておこう。
「まぁ、代価に幸せな人生を送れるようになるのですから、これ位は構わないでしょう。」
「師匠?」
「いえ、何でもないですよ。」
にこり、とこちらが微笑むとイアソンが顔を赤くする。
男としても日々成長しているようで、師匠としては寧ろ安心する。
でもごめんね、私は特にショタコンという気は無いので、君に手を出す気は無いんだ。
「さぁ、今日は猪鍋ですよ。」
「わぁい!僕、猪鍋大好きです!」
取り敢えず、今日の夕飯の事を考えましょうかね。
……………
それはイアソンにとって懐かしき幼少期の記憶。
美しい母と師匠との厳しくも暖かい日々。
その日々も彼が17歳になり、荒れた川を渡りたくて困っている老婆を助けた事から終わりを告げる事となる。
彼の人生において二つの大きな出来事、その一つ目であるアルゴー号でのコルキスへ向けた冒険が始まろうとしていた。