We, the Divided   作:Гарри

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01.「領有宣言」

 その艦娘は、静かに、そして滑らかに夜のオホーツク海を走った。靴の形をした脚部艤装から発生した運動エネルギーは、海水を優しく押しのけるようにして彼女を前に進ませていたので、海につきものの波打つ音の他には、彼女が背負った艤装の機関部が立てる、小さな低い唸り声しか響かなかった。時々大きめの波で足元が少しぐらつくと、両肩に一つずつ掛けたドラムバッグのショルダーベルトが、その度に肌に食い込んで彼女の顔をしかめさせた。パッドのついているバッグにするべきだった、という後悔が、彼女を僅かながら苛立たせていた。

 

 それでも、彼女の紫の双眸は淀みなく夜の暗がりを見つめ続けていた。自身の目指している方角と針路が合致しているなら、視界の中にやがては黒い島影が見えてくる筈だったからだ。二十分もすると、果たしてその通りになった。月の光と海面の照り返しを受け、闇の中に微かに浮き上がるばかりではあったが、それは彼女にとって明確な目印になり得た。その島影の形を、昼に同じ場所を通った時の記憶と引き比べる。あれは計吐夷(ケトイ)島だ、と彼女は考えた。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 第一戦速十八ノット、時速にして約三十キロで進み続ける。波がやや強くなり始め、飛沫が顔や胸元に散り、彼女の目と同じような深い紫の髪の毛を、白い肌にぴったりと吸いつかせた。彼女は左手を懐に伸ばし、ハンカチを取り出して片方ずつ目元を拭い、次いで額の汗を拭き取る。それから手首の腕時計のボタンを押し、文字盤の隅に表示された気温計を見て、溜息を吐いた。快適とは言いがたい低温。だが、幸いにして動き続けている今は気にならなかった。

 

 目的地に到着したのは二時間後だった。羅処和(らしょわ)島──彼女はもっぱら、ロシア名の「ラスシュア(Расшуа)島」で呼んでいたが──六十平方キロメートルほどの、小さな島だ。かつて何度か任務で上陸したこともあり、彼女は夜間でも迷わず島の西側、南北の合間にある小さな浜辺に近づくことができた。岩礁に全くかすりもしなかったことに、自尊心の高いこの艦娘は小さな満足を得た。それは彼女が秘めた意志を持って、古巣の単冠湾泊地を抜け出てきた時から数えて初めての満足だった。

 

 記憶を頼りに踏みならされた細い道を見つけ出し、生い茂った木々をかき分けて島の奥へと進む。足元でまだ乾いていない小枝を踏みしめながら、彼女は自分がかつて行かなければならなかった戦争の始まる前、まだ低木と草花の楽園だった頃のこの島を想像しようとした。しかし、それはどう頑張っても彼女の頭の中に浮かんではこなかった。余りにも現在の姿、島のほとんど全体を針葉樹林が覆い尽くしてしまった姿から、それがかけ離れていたせいだった。諦めて、彼女は足を速めた。空気が海のせいだけではない湿り気を帯び始めた為に、近い内に雨が来ると分かったのだ。艦娘は潮水に濡れることを避けられないものだが、それにしても不必要に濡れるつもりはなかった。

 

 その艦娘は小走りで道を進んだ。たまに行く手を塞ぐようにして枝が伸びていると、腰に差した得物を鞘から抜き、軽く振るって伐採した。彼女のもう存在しない姉が使っていた刀は、水気を含んだ生木をやすやすと切り裂いた。そのようにして急いだ甲斐もあり、彼女が目指した場所に到着するのと、雨が降り始めるのはほぼ同時と言ってもよいタイミングでだった。小走りで、コンクリート製の、よく擬装された古いトーチカに逃げ込む。鉄扉を開けるとかび臭い空気が押し寄せてきたが、彼女の鼻はもっと嫌な臭いを嗅いだことだってあった。濡れるのを厭って、真っ暗なトーチカの中へさっさと入っていく。

 

 内部に何が、何処にあるのかはよく了解していたので、彼女はすぐさま明かりをつけられた。空気の取入管は途中で湾曲しているし、トーチカの窓には鎧戸があったので、換気の為に開けている鉄扉さえ閉めてしまえば、外に光が漏れる心配はなかった。両肩のドラムバッグや手に持っていた武器をようやく下ろして、艦娘は大きく背伸びをした。腰や背中からぱきぱきと音がしたので、追加で軽いストレッチも行っておく。体がほぐれたところで、彼女は鉄扉を閉め、トーチカ内を見回した。埃の積もった丸椅子を見つけ、その汚れを払ってから腰掛ける。そうして、艤装の通信機を操作し、単冠湾泊地の通信室に繋いだ。

 

「こちら単冠湾泊地所属軽巡艦娘、龍田。認識番号MF71-5937693C。聞こえてる?」

 

 数秒遅れて、男の声で答えが返ってくる。

 

「こちら単冠湾泊地通信室、認識番号を確認。要件は何か、また、交信規則を守れ。送れ」

「お断りよ。そんなことより、よく聞きなさい。たった今から、ケトイ島、ラスシュア島、マトゥア(松輪)島を私のものにしたわぁ。欲しがりやの誰かさんは取り返しにくるでしょうけどぉ、近づいたりしたら、許さないからぁ」

「冗談は──」

「本気だって分からないかなぁ。じゃあ、教えてあげる。そこに時計があるといいんだけど、あと十五分で、そっちの物資集積所に火がつくのよねぇ。頑張って、消し止めてね?」

 

 通信機の向こう側にいた男は、言葉を失った。しかし、何か答えなければという刷り込まれた意志が、彼の重い口を動かした。彼は精一杯の力を振り絞って「了解しました」と通信を送った。龍田は先の形式ばった口調との落差に思わず吹き出してしまったが、その時には通信を切断していたので、不遜極まりない笑いを他人に聞かれるようなことにはならなかった。一通り笑ってから、龍田はトーチカの隅に移動した。そこにはトーチカそのものと同程度に古ぼけた機材が置いてあり、小さな駆動音がその中から漏れ出ていた。その音を聴いて、龍田はにこりと微笑んだ。

 

 ドラムバッグの中から一冊の冊子を取り出し、それを見ながら機材をいじり始める。彼女が機嫌よく鼻歌混じりに作業していると、艤装の通信機への入電があった。眉をひそめ、バッグから缶詰を取り出し、手で抑えていなくとも開いたページが分からなくなることのないよう、冊子の上にそれを置いてから、龍田はその呼びかけに答えた。彼女には相手が誰なのか、確信に近いものがあったからだ。少なくとも「彼」に対しては、それなりの礼を尽くすだけの恩もあった。

 

「もしもし、提督?」

「ああ、私だ。龍田」

 

 作業を続けながら、龍田は気兼ねのない質問を投げかけた。

 

「火は出たかしら? 気をつけて仕掛けたから、誰も死んでないとは思いますけど……」

「実に見事だったよ。君の連絡を受けた通信士が独断で避難命令を出してくれていなければ、大勢が怪我をしただろう。それを抜きにしても、単冠湾泊地には大打撃だ。大量の燃料と弾薬が失われた。ほんの少しの間、君を野放しにしておくことになる筈だ。全く、二年前に戦争が終わってなかったら、日本全体が危うくなるところだったんだぞ」

「あらぁ、思った以上に上手く行ったみたいねぇ」

 

 悪戯が成功した子供のように彼女はくすくすと笑った。提督はその笑い声が収まるまで黙っていたが、やがて重々しい口調で、断固とした決意を龍田に示した。

 

「だが、永遠にではないよ、龍田。私たちは君を捕まえにいく。君がどうしてこんなことをしたのか知らなくてはいけないし、問題を放置しておく訳にもいかない。君が何処に隠れても、私たちは見つけ出す。その時を楽しみに待っているといい」

 

 提督の言葉は、その立場に相応しい威厳を持っていた。龍田にもそれは分かっていた。彼が自分を放っておいたりなんてしない、そんなことはできないということも、完全に理解していた。今年は彼の艦隊に配属されてから七年目に当たり、であるからには龍田は既に新顔と呼べる存在ではなく、直属の上官にして指揮官たる提督を力強く支える、古参艦娘の一人だったからだ。提督は龍田のことを部下として気に入っており、龍田も提督のことを同じように気に入っていた。立場の差はあれども、二人は互いを認めていたのである。だからこそ、龍田は提督の間違いをそのまま見過ごして、後で彼に恥を掻かせるのを看過することはできなかった。彼女ははっきりと訂正した。

 

「それは違いますねぇ、提督」

「何がだ?」

()()()()()()私を見つけるんじゃあないの。()()あなたたちを見つけるのよ」

 

 そして龍田は、ずっとマニュアルを見ながらいじくり回していた機材──ラスシュア島に設置されたレーダーの制御盤を操作して、乗っ取りを完了させた。

 

*   *   *

 

 単冠湾泊地の小会議室は深夜であるにも関わらず、極めて緊張した雰囲気の下にあった。もちろん一番大きな、直接の原因は軽巡龍田の脱走と不法占拠なのだが、その次に大きな原因は、泊地総司令がその場にいたからである。彼は痩せて背の高い、老境半ばの男だったが、その場にいる誰よりも軍歴が長く、経験豊かで、巨大な権力の保有者であった。彼の目は鋭く、また老いたりと言えどその能力には衰えがなく、その場にいた他の日本海軍軍人たち、つまり龍田を指揮していた提督と彼が連れてきた数人の艦娘たちのほとんどは、総司令にちらりと見られるだけで我知らず背筋がぴんと伸びるほどだった。彼と彼女らは一人の例外を除いて完全に畏縮(いしゅく)状態にあり、総司令の言葉を待つばかりでいた。

 

 一方の泊地総司令は、彼らのその様子を見ながら心中で深い吐息を繰り返していた。彼の眠気がうっすら交じった意識は、自身の過去にあった。

 

 人の天敵として突如現れた怪物たち、『深海棲艦』との戦いは、彼の一生そのものと言っても過言ではない。今の役職に就く前には彼もまた、深海棲艦と同時に現れた謎の種族『妖精』の協力を得て、人類が生み出した戦力、()()深海棲艦と対等に戦うことのできた唯一の存在、『艦娘』を指揮していたのだ。彼の生涯は、祖国とその国民を防衛する為の絶え間ない試練に捧げられていた。

 

 無論彼は、人間として完璧な清廉さの持ち主という訳ではない。出世するに従って増えた政争を勝ち抜き生き残る為に、他人を犠牲にしたこともある。国家の防衛こそが己の使命である、などとは毛頭思っていない。実際的な利益が彼の動機だった。艦娘を指揮して深海棲艦を倒せば、国は力を取り戻し、豊かになり、己は相応の名誉や権力を手に入れられる。その為にこそ、彼は全身全霊で軍務に励み、成果を上げ、泊地総司令という立場にまでのし上がった。それは彼の目指し得る最高の高みではなかったが、彼は必要十分以上を望むことが危険であることを知っていた。大体にして、彼が政争の際に真っ先に処分したのは、そういう欲望が本人の能力以上に肥大化した、腐敗の温床とも言える連中だったのだ。

 

 それからも彼は労苦を重ね、危険を犯し、多大な重圧に耐え、奇跡的に彼と彼の属する世界は共に戦争を生き延びた。ただ人を殺すのみの生命と思われていた深海棲艦と意志を疎通し、互いにこれからも生存を続けていく為に、妥協するということを成し遂げたのである。人類史上最大の利益を、彼は手に入れることができたのだ。終戦の日ほど、彼が人生で喜んだことはなかった。それから二年が経っても、その喜びは一寸たりとも弱まっていない。日々復興していく故国、そこから自分が得ることのできる何もかもが、彼を海軍一幸福な老人にしていた。だからこそ、今回の龍田の脱走、満ち足りた幸せに波紋を生じさせる一石は、彼にとって許しがたいものであり、何としても解決せねばならない懸案事項だった。

 

「それで」

 

 長い沈黙を破って、総司令は呟くように言葉を始めた。

 

「結局、その龍田は何を要求しているのかね? 通信士は『島に近づくな』以外聞いていないという。彼女と親しくしていた君のところの艦娘も、手がかり一つ知らないと言っているそうじゃないか。となると、後は直接会話した最後の人間である君に聞くのがよさそうだと思うんだがね」

「いえ、閣下、彼女は自分にも一切要求してくることはありませんでした。私が訊ねる前に、彼女は通信を切ってしまいました。それ以降、応答はありません」

「逆探知を警戒しているのだろう。折角レーダーを乗っ取りまでしたのに、位置を知られては困るだろうからな。いやはや、それがロシア側との取り決めだったとはいえ、艦娘に定期点検をさせるようにしたのは間違いだった」

「話すことなどない、と考えているのかもしれません。彼女は戦後組ではなく戦中組ですから、戦闘ストレスが影響している可能性もあります。それと、戦争中の海上の安全度を考えると、艦娘たちに任せる他なかったかと」

 

 戦闘ストレスだとしたら面倒になるぞ、と総司令は苦々しく思った。精神に傷を負った兵士は、想像だにしないことを平気で実行する。艦娘であろうとも、それは変わらない。その上、彼女たちの武装は大抵の兵隊と比べて遥かに殺傷能力で勝るし、生存能力にしてもただの人間とは段違いだ。艦娘ではない単なる人間が腕を吹き飛ばされたら、その人間は一生を片腕で生きていくことになる。深海棲艦はそれよりもしぶといが、大きくは変わらない。が、艦娘はその二者とは違う。修復材と呼ばれる薬剤を用いればあっという間に傷は塞がり、血は止まり、失った腕は生えてくる。今から自分たちが相手にしなければならないのは、大砲を持った不死身の狂人かもしれないと考えると、総司令は「島そのものを吹き飛ばしてしまえれば」などと思うのをやめられなかった。

 

 実際、違う場所でなら日本海軍はそうしていただろう。そうできないのは、よりによって龍田が北方領土にいるからだった。深海棲艦との戦争が始まってから暫くして、領海という考え方はかなり形骸化していたが、既に戦争は終わっている。砲撃にせよミサイル攻撃にせよ、ロシア政府は自国領土への大規模な攻撃を絶対に許さないだろう。かと言って、ロシア側に対応を丸投げすれば軍の面子は潰れ、連中に借りを作ることにもなる。総司令は大規模に軍を動かすことなく、どうやって潜伏した一人の軽巡艦娘を処理するかを考え始めた。

 

 案は二つあった。一つは、「海上警備と設備点検」を名目に艦隊を送り込むこと。戦争は終わったとはいえ、深海棲艦の中にはまだ人間に攻撃を仕掛けてくるものもいる。そういう手合いが発見されたとでも言い訳して、現地に向かわせることは難しくない。二つ目は、海上保安庁にやらせること。海軍としては難色を示さざるを得ない選択だが、軍を動かすよりは余程ロシアを刺激せずに済む。国外に借りを作るより、国内に作った方がまだいい。問題は、前者が「資材の消費」、後者が「時間の消費」「戦力不足」にあった。せめて幌筵(ぱらむしる)泊地がまだ残っていれば、より素早い対応が可能だったものを、と総司令は終戦直後に当該泊地を解散させた海軍最上層部の判断を恨んだ。けれども、恨んだところで何がよくなる訳でもない。彼は迅速に判断し、提督に告げた。

 

「まず、海上保安庁とロシア政府に連絡しよう。海保とは繋がりも強いし、情報漏れの心配はないだろう。彼らに巡視船を回して貰い、件の海域の警備と封鎖に当たらせ、ロシアには事態を説明し、静観を求める。なに、連中も相手が艦娘だと知れば、わざわざ火中の栗を拾おうとは思うまい。まして旨みも特にないのではな」

「マスコミにはどう対応しますか? 現時点では、単冠湾泊地に対するテロ攻撃だとしか思われておりませんが、遅かれ早かれ感づかれる筈です」

「心配はいらない。報道規制を掛けておく……だが確かに、早く解決したいものだ。いつまでも黙っていてくれるとは限らんからな。それから海保とロシアからの返答を待つ間に、こちらから一度仕掛けるぞ」

「仕掛ける、ですか? 青森の大湊警備府から余剰資材を送るように頼んではいますが、届くのは早くとも明後日以降になるかと。それまではどうやりくりしても──」

「うん、君のところの水上打撃部隊は動かせないだろうな。だから、警戒艦隊を使う。丁度いいことに、輸送隊の護衛任務から戻っている艦隊が一つある。彼女たちを海上警備活動として龍田のところに送り込む。今すぐにでも」

 

 それを聞きながら、龍田をよく知る提督はその攻撃が失敗に終わることを予感した。彼も低燃費な軽巡と駆逐艦娘で編成された警戒艦隊が泊地にいることは知っていたのだ。しかしその艦隊にはどうしようもない問題が一つあった。その艦隊所属の六人は、艦娘になる為の訓練の最中に終戦を迎えたのである。それはつまり、戦後組と呼ばれる艦娘だということで、龍田と比べると圧倒的なまでに経験が少ないということでもあった。精々が駆逐イ級などの、深海棲艦の中でも弱い部類に位置する敵と、しかも数的優位を確保した状態でしか交戦したことがない艦隊が、どうしてそれより遥かに強い敵と、不利な状況下で戦って生き抜いてきた龍田に勝てるだろう? 数の優位を活かせば勝機はあるだろうが、それを活かす為の経験すら持っていないのでは話にならない。

 

 提督は意を決してその判断に疑問を呈そうとしたが、それよりも先に総司令は「大丈夫だ」と言った。

 

「ベテランの艦娘を相手に、新米同様の艦隊がどうにかできるとは思っていない。これは威力偵察だよ。どれくらい彼女が本気なのか、物資は豊富なのか僅少なのか、士気旺盛かそうでないか、正気なのか狂っているのか。一度交戦させれば、少なくとも多少は見えてくる筈だ。一当てしたら、ただちに撤退するように命じておくとも」

 

 ほっとして、提督は肩の力を抜く。安心したことで、頭が回り始めた。他に助力を求めることのできる相手はいないものかと、考えを巡らせる。すると彼の記憶に一つの手段が見つかった。まだ総司令も口にしていない案だ。これはお手柄かもしれないと勇んで彼は口にした。

 

「総司令、軍警察に協力を頼んでみてはいかがでしょう?」

 

 言いながら、提督はどうしてそれを思いつかなかったのか、と我ながら不思議に思った。軍警察は、深海棲艦との和平が成った後の社会において、艦娘や深海棲艦の関わる犯罪を取り締まる為に設立された警察組織である。艦娘ないし深海棲艦を相手取るその性質上、構成員として艦娘を保持することが認められており、除隊を決めた艦娘が人間に戻らずに働ける職場ということで、戦闘経験の豊富な戦中組の艦娘を多数抱えていた。

 

 軍警の主な活動範囲は陸上だが、所属艦娘たちのほぼ全員が、以前は海で戦っていた本物のベテランである。これなら龍田にも真っ向から対抗できると、提督は期待を寄せた。何より彼が期待したのは、つい最近までの艦隊員同士での交戦を避けられるかもしれない、という点だった。提督として失格だと思いもしたが、彼はこの場に連れてきた彼の艦娘四人、第一艦隊旗艦にして秘書艦の戦艦「陸奥」、彼女の旧友の一人にして第二艦隊旗艦でもある正規空母「天城」、駆逐艦ながら第三艦隊旗艦の座を占める「浦風」、龍田が旗艦だった第四艦隊でその補佐たる二番艦を務め、今この場でも泰然自若の様相を崩さないただ一人の駆逐艦娘「ヴェールヌイ(Верный)」や他の艦隊員たちが、龍田と砲を向け合うところを想像することさえ我慢できなかったのだ。

 

 が、提督の予想と異なり、泊地総司令は厳しい顔でその提案を退けた。経験を積んだ軍人らしくその道を全否定することはなかったが、現時点で軍警への応援要請を出すのは時期尚早であるとして、総司令は譲らなかった。提督は失望すると同時に、老練な総司令がこうも頑なになるのは何故なのだろうと不審に思った。とはいえ情報が少なすぎて疑問以上のものには発展しなかったが、軍警察司令官は海軍出身にして、戦争を終わらせた英雄としても知られる元提督の女傑であり、彼女の助力を受けることで海軍内の派閥争いに巻き込まれることを恐れているのかも、と提督は推察した。

 

 付け加えるような新しいアイデアが出なかったので、彼は天城を伝令に走らせた。警戒艦隊を指揮している別の提督に、今回の任務を伝えるのが彼女の役目だった。廊下を早足で行きながら、天城は貧乏くじを引いた自分を情けなく思った。警戒艦隊を指揮しているのは少佐で、彼女の提督は中佐だ。階級差は一つだが、政治的影響力はこちらの提督の方が上だから、この任務を伝達したからと言って嫌がらせを受けるようなことはないだろうが、素人同然の艦娘たちを危険な任務に送り込む手助けをするのはいい気分ではなかった。案の定、少佐は不愉快そうに顔を歪めた。彼が自制心を発揮して、不快感を表す以外の何かをしなかったことだけが、天城にとっての幸運だった。

 

 または、命令を受けた警戒艦隊の六人が、彼女たちの提督と違って悲壮感や怒りではなく、子供らしい好奇心で喜んで任務を受諾したことも、幸運だったのかもしれない。だが彼女たちのその様子を見て、天城はますます心を痛めた。彼女の知っている限り、その艦隊で最年長で旗艦を務めている軽巡「五十鈴」はもうすぐ次の誕生日を迎える十七歳だったのだ。他の艦隊員たちも似たり寄ったりだった。天城には彼女たちが小さな子供と何ら変わらないように思えた。そんな相手を、実力の確かな本物の艦娘に立ち向かわせようとしている。

 

 罪悪感から逃れようと、天城は工廠で出撃前の艤装点検を手伝ったが、五十鈴たちはまたそれを大いに喜んだ。違う提督の麾下ではあるが、先輩にして艦隊の花形である空母艦娘に手ずから見て貰えることが、彼女たちを奮い立たせたのである。「全力で任務を成功に導きます!」と五十鈴はきらきらとした瞳で天城に言った。天城は黙って頷くことしかできなかった。

 

*   *   *

 

 艤装を下ろし、薙刀だけを持った龍田は、“補給地点”を目指して走っていた。海軍による対応がこれから始まるであろう今、一分でも時間を無駄にしたくなかったのと、興奮が彼女をじっとさせておかなかったせいだ。木の肌を削ってつけられた目印とその記憶を辿って、龍田は息せき切って走った。彼女がその目印をつけたのは、もう数ヶ月も前のことだった。念の為に自作の地図にも場所は記してあったが、そんなものがなくとも龍田にはその場所を覚えておくことができた。

 

 最後の目印を目にして、龍田はようやく足を止めた。頬を赤くして、肩を大きく上下させながら、彼女は次の動きに取り掛かった。薙刀を地面に突き刺し、土をほじくり返す。たちまち、埋められていたものが顔を現した。陸軍用の携行糧食や水のペットボトル、カフェイン入りのステイアラート・ガムといった食品類もあれば、懐中電灯やフレアガン、ワイヤー、ナイフ、竹串、信号弾といったサバイバル用品もあった。龍田はその中から暗視機能付きの倍率可変式双眼鏡を取った。カバーを外し、充電池が生きていることを確かめるついでに、それを使って辺りを見回す。緑色に染まってはいるものの、かなりはっきりと視界が取れた。この手の装備が手に入らなかった戦時中のことを思い、便利になったものね、と龍田は一人ごちた。

 

 ナイフとワイヤー、それに竹串を取り、ステイアラート・ガムのパックを三つ懐に突っ込むと、龍田は再び動き始めた。十分ほど走った先にある、次の補給地点に行かなければならなかった。そこには折り畳み自転車が埋めてあった。静かで、走るより早く、燃料を必要としない。それは隠れながら素早く移動しなければいけない今の龍田にとって、ぴったりの乗り物だった。一つだけ言えば艤装を着用しての使用に不安が残ったが、それも緊急の場合には短時間の使用程度なら許容範囲だろうと彼女は考えていた。

 

 龍田がこの手の物資を島に埋め始めたのは、季節一つ分ほど前からのことになる。彼女はまず必要になるであろうものをリストアップし、それらを手早く集めていった。中には高価で手に入りにくいものもあったが、普段給金を何かにつぎ込むことのない生活を送っていたのと、妹艦(龍田)を置いて先に戦死した姉妹艦にして親友の「天龍」が彼女に遺してくれた現金が、まだ彼女の口座に丸々残っていたので問題にはならなかった。龍田はことあるごとに一人で任務を遂行する機会を作り、荷物を運んだ。一回一回が片道七時間ほどの大仕事だったが、苦にはならなかった。

 

 楽しかった、と地面を掘り返しながら、龍田は最近までの日常をそう評した。たった一人で大荷物を持ち、海に出ること。何をやっているのか、何をしようとしているのか悟られずに、物資を島に秘匿すること。まるでスパイか何かのようにこそこそとして、人目を避けて。子供のようにわくわくしながら、無邪気な気持ちで秘密の仕事に取り組んでいた。「物事を楽しむのは、その中で生きる一番賢い方法なんだぜ」と以前に知った風な顔で姉が言っていたのを思い出し、龍田は笑いを漏らした。()()()()()()()()()()()

 

 掘り出した自転車にまたがり、更に次の補給地点に移動を始める。今夜一晩で、できる限りの物資を回収するつもりだった。少なくとも、必要になった時にすぐ取り出せる状態にしておきたかったのだ。龍田の経験上、機に応じてすぐに使えないものは、永遠に使えないものと何ら違いがなかった。三つ目の拠点へは、走るよりもずっと早く着いた。龍田は汗だくになりながら、またしても地面を掘り始めた。埋めた時以来使っていなかったような筋肉が酷使され、彼女の華奢な体のあちこちが痛んだ。しかし、龍田にはその痛みも何だか楽しいものに感じられていた。早くそこに埋めてあるものを手に取りたかった。危ない橋を渡ってまで手に入れた、人間の悪意の結晶、それがたっぷり詰まった木の箱を。

 

 その木箱のふたが見え始める頃には、龍田の手はスコップ代わりの薙刀を握りしめた形のまま、凝り固まっていた。彼女は自分がスコップを泊地に忘れたことを深く悔い、自嘲した。物資を埋めた時、何を使ってその作業を行ったのか、考えもしなかったの? 誰にだって失敗はある、と己を慰めたかったが、そんなことをしても余計に惨めな気持ちになるだけだった。龍田は気を取り直し、ふたを開けて中で一番上に置かれていた手袋をはめ、それからメインとなるものを取り出した。簡便な鉄条網と、小型の対人地雷である。龍田はこれが艦娘に対してきっと有効だと信じていた。何故なら、艦娘の多くは海での戦いしか教わらないし、経験しないからだ。未知の脅威は、未知であるというだけで既知のそれより危険になり得る。

 

 ところが、龍田にとっては違った。正確には、龍田の訓練を担当した教官にとっては違っていた、とするべきだろう。彼女は前線に立てなくなったと見なされた艦娘だったが、龍田自身を含めたどんな訓練生が、どれだけ束になっても敵わないほど立派で強い艦娘だった。彼女は海での戦いを教えるだけでなく、地面の上でどう戦うかまでを龍田たち訓練生・候補生に教え込んだ。ナイフの扱い方、罠の作り方と張り方、隠れ方、食料や水の確保、その場にあるものでの武器製作のやり方、バリケードの作り方、その対処法。そのお陰で龍田は、片手で握りこめる程度の石を使って敵を殺す方法や、人目を盗む方法を何通りも知っていた。そして今、年月を掛けて磨いたその技を人々に披露するのを、彼女は今か今かと待ち望んでいた。

 

 鉄条網と地雷を持って、島の西側、上陸する時に使った浜辺に向かう。そして浜をぐるりと取り囲むように鉄条網を伸ばし、点々と地雷を仕掛けた。もちろん、わざと出口を作ることも忘れなかった。そこを目指してくれれば、固まったところを一網打尽にできる。もし敵が艦娘で(龍田にはその可能性が極大であるように思われた)、ここに上陸してきて鉄条網を見たとしても、いきなり砲撃で吹き飛ばしてから進むことを決断できる者は、そういないだろう。存在を明かさずに済ませる為に、迂回を試みて、そして罠に掛かる。島の支配者は、軽い口笛でも吹き鳴らしたい気分になった。

 

 鉄条網の設置と地雷の埋設という重労働を終えると、龍田は一度、レーダーサイトを兼ねるトーチカに戻った。その道すがら、あちこちの繁みや草むらに竹串を仕掛けた。何も知らずにそこへ踏み込んだり伏せたりすると、返しつきの串が突き刺さる仕組みだった。加えて足を引っかける為のワイヤーも仕掛けながら龍田は、この島に送り込まれてくる艦娘たちのことを哀れんだ。きっと針のむしろになるだろう。

 

 戻ってくると、龍田は艤装を背負った。乗っ取ったレーダーとリンクさせた電探をチェックし、こちらに接近してくるような敵がいるかどうかを確認する。

 

 レーダーに反応があった。龍田は背中がぞくぞくとするのを感じて、身を震わせた。それから、聞こえる訳もなかったが、二年ぶりの「敵」に向けて宣言した。

 

「欲しがりやさん、しっかり味わうといいわ」


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