We, the Divided   作:Гарри

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12.「まれびとこぞりてみな底に坐し」

 朝早く、部屋の壁にもたれて床に座り込んだ那智は、つい一時間前に二十四時間営業の店で買い足してきた安酒のボトルを掴むと、既に残り少ないその中身を全て胃に流し込んだ。四十度の蒸留酒は彼女の喉を焼いたが、もう那智にはそれを感じられるだけの理性も、感覚も残っていなかった。空になった瓶を脇に放り捨て、次の一本に左手を伸ばす。ポケットボトルの粗悪なスクリューキャップを回そうとすると、指がじっとりとにじんだ汗で滑った。悪態を二つ三つこぼして、滑り止めに袖で包もうとする。と、その瓶を横から伸びてきた手に奪われた。那智は酒精の影響を受けていてなお青ざめた顔を持ち上げ、虚空を見つめるような目つきで、自分の前に立ったその手の持ち主を見た。それから、へらりと笑って訊いた。

 

「秘書艦のお戻りか。どうした、勤務中なのに飲みたくなったのか?」

「いえ、これ以上あなたに飲ませたくないのです」

 

 にべもなくそう答えて、吹雪はキャップを開けた。座ったまま瓶を取り返そうとする那智の腕をさっと避け、彼女に見せつけるように身を反らして、一気に琥珀色の液を飲み下していく。二百ミリの液体を嚥下(えんげ)すると、小さく吹雪は息を吐き、ボトルを掴んだままの拳で唇を拭った。「いいぞ!」と那智は血の気のないままに、顔に捨て鉢な喜びの気配をまとわせて一声上げた。「お前のそんな姿を見られるとは、全くここに来た甲斐があったな……大変な手土産というものじゃないか、え?」二度ばかり笑いを漏らすが、響きだけは陽気なそれも、最後には溜息に変わる。三本目を探して彼女は左腕を動かした。吹雪は床を足先で払い、空のものも中身のあるものも一緒くたに、那智の取れないところに転がした。それでやっと、彼女は吹雪をきちんと見た。

 

「随分なご挨拶だな。この部屋に私がいると迷惑なら、口でそう言えばいいだろう。どういうつもりだ」

 

 親近感を欠いた感情的な口ぶりで、那智は秘書艦に問いただす。酔ってはいたが、言葉に込めたその気迫は鈍っていない。凡百の艦娘やその他の軍人なら、気圧されて言い返すこともできなかっただろう。しかし、吹雪は普通の質問に普通の答えを返すのと同じように、滞りや戸惑いなく返事をした。「電が下手を打ちました」「下手?」「深海棲艦を急かしたんです。ロシアが出てくる前に片をつけろ、と。それで逸ったんでしょうね。奇襲を掛けて、失敗。ヲ級が撃破されたようです」那智は目元を左手で乱暴にこすると、苛立ちの呻き声を上げた。肘で壁を殴り、足で床を叩く。一度ずつそれをやってから、彼女は真面目な口調に戻って言った。

 

「どうやって知った」

「電から聞き出しました。嘘ではないでしょう。ああ、先に言っておきますが、『彼女がどうやって知ったか』までは聞かないで下さい。立ち上がるのに手を貸した方がよろしいですか?」

「いらん。この床の座り心地が最高なのでな。それより話の続きをしたらどうだ、それともさっきのが本題だったのか?」

 

 吹雪は首を横に振り、部屋の隅に転がっていた椅子を引っ張ってきて、それを那智の前に置いた。背もたれには彼女のものと分かる靴跡が薄くついていたので、吹雪は浅く腰を下ろし、背を汚さないようにしなければならなかった。一息挟んで、吹雪が話し始めようとしたところで、那智が投げ出した足で椅子を蹴ろうとする。それを秘書艦はやはり足で止めた。お互いにそのことには触れず、話を始める。

 

「さて、深海棲艦たちの方はそんな具合ですが、海軍は北方領土付近で発見された敵性深海棲艦と()()()()()の捜索・掃討を名目に、泊地総司令直下の艦娘で構成された連合艦隊と支援艦隊、計二十四隻を派遣する気のようです」

「それなら、どちらが生きていても口封じできるな。色々と隠し通せなくなるだろうし、物資の用意をどうするつもりかも知らないが」

「物資は大湊警備府から大量に到着していますから、足りないということはないでしょう。真実がある程度露見することも、このままこの事件をずるずると未解決な状態にしておくよりは望ましいことです……海軍にとっては、という一言が付きますけどね」

 

 言外に、吹雪は那智がそれを望んでいないだろう、ということを匂わせた。元教官は鼻を鳴らすと、片膝を立てる形に座り直した。那智には相手の持って回った話し方で、吹雪が何か企んでいることは分かっていたが、たとえ彼女に乗せられる形でその何かの片棒を担がされたとしても、部屋で飲んだくれているよりはマシだろうと思えた。

 

 那智は彼女が酒を買い足した時に、残っていた最後の良心でレジに通した、ミネラルウォーターのペットボトルを床から探し出し、手に取った。それを飲みながら、軍警秘書に話の続きをするよう促す。相変わらずの機械的な態度で、この無愛想な駆逐艦は口を開いた。

 

「軍預かりになっていたあなたの艤装を用意しています。もしそれを望むなら、あなたはそれを身に着けてここを出て行き、あなたの気の済むようにすることができる。龍田を生け捕りにするにせよ、殺すにせよ」

「私の体は艦娘だが、立場は軍警に協力している民間人だぞ。私がマズいことをやれば、軍警の責任になる。軍警秘書として、そのことが分かっていない訳でもないだろう。何が望みなんだ」

「事態の解決です。そして、あなたが起こした面倒の責任は、あなたが海軍にできなかったことを成し遂げたという事実で相殺します。心配する必要はありません。この件に片がつけば、追求する者もいないでしょう。そんなことをしたら単冠湾泊地どころか、日本海軍全体の面子が潰れます」

 

 もちろん、那智は軍警秘書の最初の言葉を信じなかった。けれども、それは彼女の意思決定に影響しなかった。那智は立ち上がると、右手で頭を押さえた。頭痛がしていた。アルコールの影響を受けた頭で、龍田のいるラスシュア島までの所要時間を計算する。約七時間か八時間といったところだろう、という答えを出した飲んだくれの元教官は、それなら酔いも抜けるな、と安堵した。吹雪を見下ろし、尋ねる。「連合艦隊と支援艦隊はいつ出るんだ」「準備が終わればすぐにでも。行きますか?」那智は頷き、飲んだ酒の量にしてはしっかりとした足運びで、部屋を一歩出た。そこで思わず足を止める。

 

 部屋の前には、龍田の艦隊で二番艦を務めていたヴェールヌイ(Верный)が立っていた。その立ち姿は明らかに、出てくる人物を待ち構えるものだった。海軍の監視が付いていたのか、と那智は判断し、咄嗟にその駆逐艦娘を制圧しようとして、吹雪の制止の声でそれを中断する。彼女は協力者で、歩哨の目をかいくぐって那智の艤装を用意した倉庫に行き、海に出るまでを手助けしてくれるのだ、と説明されて、那智は頭を下げた。「すまなかった、ヴェールヌイ」謝られた彼女は微笑んで「構わないよ」と言ってから、付け加えた。

 

「けど、響と呼んで欲しいな。私の本当の名だ……さ、行こうか」

 

 走るのは目立ちすぎるので、足早に廊下を歩く。時間が早朝であることもあって、人の姿はない。それでも用心しつつ、元教官は小声で協力者に質問をした。「どうして協力を?」「このまま行けば、私の友達が死ぬからさ。戦争は終わったんだ、死人は少ない方がいい」那智は、それには賛同した。しかしヴェールヌイの言葉には、聞き捨てられないところもあった。龍田を生きたまま連れて帰ってこられる自信は、彼女を教えた元教官にもなかったのだ。実戦を通して鍛えられた龍田の技は、退役して二年経つ那智のそれよりも鋭いままになっているだろうことは、簡単に想像できた。どちらかが死んで終わることになる可能性を那智が指摘すると、ヴェールヌイは「それならそれまでだよ」と言っただけだった。

 

 建物を出て、工廠近くの倉庫に向かう。歩哨の数は多かったが、ヴェールヌイは散歩をする人間のような足取りで道を進んだ。彼女の移動が巧みなことに、那智は大きな感銘を受けた。海の上でどんな経験をしたら、こんな風に歩けるようになるのだろう? 彼女はそれも訊ねたかったが、親しくもない相手にそんなプライベートな質問をすることは、酔いがあってもはばかられた。遠回しな聞き方をすれば無礼にならないかとも思ったけれど、工廠に近づいて機械音や人の声で騒がしくなったので、結局は諦めた。倉庫に着くと、三人は周囲を警戒しながら中に入った。明かりはつけられておらず、光源は窓から差し込む陽の光だけで薄暗かったが、那智はすぐに種々のコンテナの脇に置かれた、自分の艤装やナイフなどの個人携行品を見つけることができた。水上機だけは用意されていなかったが、古参の重巡艦娘は贅沢を言わないという美徳を知っていた。

 

 駆け寄って、点検を始める。海軍を離れて二年が経っていても、その為の手順は体が覚えていた。装着前の準備を終わらせ、那智は艤装を背負うと、続いて動作点検を始めた。そうしながらも、懐かしい重みに唇がだらしなく緩む。と、彼女の目は吹雪に注がれた。彼女も艤装を負い、動作点検をしていた。付いて来るとは聞いていなかった那智は、その様子をいぶかしんで言った。「どういうことだ?」吹雪は服のポケットから折り畳まれた紙切れを取り出し、那智に差し出しながら平然とした顔で答えた。

 

「基地のレーダーには手を回しておきました。一時的には誤魔化せるでしょう。でも連合艦隊と支援艦隊は、足止めしなくてはいけません。ああ、これについてもご心配なく。私は昨日深夜に軍警司令の呼び出しを受けて、今日はこの泊地にいないことになっていますから。準備は?」

 

 ぎこちない動きで那智が紙を受け取り、開いて見てみると、それはラスシュア島の地図だった。納得して彼女はそれを懐に入れ、吹雪の確認に答えた。

 

「いつでも行ける。それと、魚雷は全部、砲は一門残して後は艤装から外すぞ。半ノットでも速度を出したいからな」

「お好きに。ですが、よろしいのですか? その高級義手が壊れない保証はありませんよ」

 

 言われて、那智は己の右腕を見た。教え子たちからプレゼントされたそれは、日常生活を送るにはぴったりの義手だったが、龍田と荒っぽい交流をする上ではいささか柔な印象を受けるものだった。とはいえ代わりの義手があるでもないし、細心の注意を払うしかあるまい、などと彼女が考えていると、吹雪から布包みを投げ渡される。それを開いて見てみれば、中には海軍にいた頃那智が使っていた戦闘用の義手が入っていた。感心して、彼女は呟いた。「準備がいいな」そうして服を脱ぎ、義手の付け替えを始める。ヴェールヌイがきちんと保管しておくと請け負ってくれたので、那智は安心して高級義手を外すことができた。

 

 今度こそ準備が終わり、もう一度ヴェールヌイ先導の下に移動を始める。彼女は那智と吹雪をコンテナに詰め込むと、次の出撃で艦隊が使う資材の運搬を手伝っている風を装って工廠内に運び入れた。工廠では泊地付の明石を含めた二十五人の艦娘たちと整備士が慌しく動き回っていたので、三人は簡単に出撃用水路まで忍び込むことができた。間もなく連合艦隊たちが出撃する為だろう、水路の先、出入り口の門は開け放されている。那智は水路に立とうとしたが、その前に後ろにいたヴェールヌイを振り返って礼を言った。「ありがとう」「いいさ」短いやり取りだったが、それは元教官にとって重要な意味を持っていた。

 

 機関を始動させて水路に入り、「行こう」と吹雪に声を掛ける。仏頂面の駆逐艦娘は頷いてから、協力者に最低限の礼儀を尽くした。「それでは、響」すると言われた彼女は、にやりと笑って言った。「私の名前はヴェールヌイだ」那智は吹き出し、秘書艦は能面のごとき表情をより一層固くした。水路を出て、泊地を後にする。その途中で、那智は近海を警備する艦隊がいないことに気づいた。『テロ攻撃を受けた泊地』にしては奇妙な対応だが、総司令たちは犯人の所在や彼女に再襲撃の意思がないことを知っているので、資材の消費を少しでも避ける為にそうしているのだろう、と推測した。

 

 二人はラスシュア島へと針路を取り、燃料消費を度外視した速度で進んだ。海霧は泊地を離れても消えなかったが、彼女たちはどちらもベテランだったので、同行者を見失うようなミスはしなかった。出港から一時間が経ち、どれだけ騒いでも聞き咎められることがないと確信できるようになってから、那智は驚きを込めた大きな声で、意気揚々として叫んだ。「よもや海に戻る日が来るとはな!」それからボリュームをやや落とし、過去を懐かしむ声色で呟く。

 

「これで艦隊員が揃っていれば、言うことなしだった。だが、こんなことに私の旗艦を巻き込むのも気が引けるか。あいつはもう残りの一生、ゆっくり過ごす権利があるだろう。戦争を生き延びたんだからな」

 

 最後の一言を強調するようなイントネーションで言うと、那智は隣を航行する吹雪にすっきりとした表情で笑いかけた。今の言葉よりもずっと迂遠で悪意のこもった表現を、日夜駆使している軍警秘書は、この優しい嫌味を聞き流して返事をした。

 

「今の言葉を聞いたら、きっとあなたの親友の長門が妬きますよ。彼女はあなたの言う“旗艦”をまだ嫌っているみたいですし。まあ、あの人を好いている人の方が少なかったと思いますがね」

「おい、私の教え子だぞ。余り悪く言うのはやめて貰おう。それに少なくとも私や他の艦隊員はみんな、奴のことを好いていたさ。ところで、加賀が書いた本は読んだか? あの短編集」

 

 急に話が変わったので、吹雪は答えるのに一拍の間を置いた。その間に彼女は、これまでに出会った正規空母「加賀」たちの記憶を参照し、その中で文章を書く者を探した。吹雪の記憶は膨大だったが、文筆趣味を持つ艦娘はそう多くない。しかも那智が話題にする加賀となれば、以前に彼女や吹雪と同じ提督の下にいた一人しかいなかった。軍警秘書は、彼女が当たり前に覚えているだろうと那智が考えていた人物を、半分忘れていたことを悟られないよう、慎重に答えた。

 

「ええ、軍警にも献本が来たので。司令官もお読みになって、今は彼女に戦争中の司令官の功績を宣伝する本を書かせようとしていらっしゃいます。『船乗りは帰ってきた』なんてタイトルだそうですよ」

「確か、提督は元を辿ればフリゲート艦の乗員だったか。だから『船乗り』というのは分からんでもないが、加賀のセンスはやや十九世紀風だな」

「題をつけたのは司令官です。でも説得にひどく難航しているそうなので、出版されるまでには暫く掛かるでしょうから、その頃には一周回って新ロマン主義的な題名だって、受け入れられるようになっているかもしれませんよ」

「そうだな、そして中身は提督の望んでいたものとは全く別物になっているかもしれないぞ」

「否定はできませんね」

 

 那智の言葉をさらりとかわしてから、吹雪は速度を落とした。二人の距離が開いていくが、先を急ぐ重巡は振り返ることも、相手に合わせて足を止めようとすることもなかった。元教官は通信回線を戦友に繋ぐと「ここでお別れか、寂しくなるよ」と冗談混じりに言う。「一対二十四ではな」口調は明るかったけれども、その内容は深刻だった。正規空母や戦艦、重巡で固められているだろう精鋭たちを敵に回して、一人きりの駆逐艦娘が足止めを仕掛けようというのだ。那智は彼女がどれほどの練度を誇る艦娘なのか知っていたものの、流石に今度ばかりは、と思わずにはいられなかった。龍田と違って、吹雪は海の上で戦わねばならない。霧の加護が姿を隠してくれるとしても、頼りになる遮蔽物は皆無である。波はやや荒く、高いが、その程度だ。

 

 言葉の表面的な意味とは裏腹に自身を心配する那智にも、吹雪は素気(すげ)無さを崩さなかった。彼女はそれが那智の目に映っていないということを理解しつつも、軽く頷くような会釈をして、針路を反転させた。連合艦隊と支援艦隊が追いついてくる前に、待ち伏せるのに都合のいい場所に移動しなければならなかった。那智は吹雪から自分の姿が見えなくなったことに確信が持てるまでまっすぐに進み続けると、横を向いて胃の中のものを海面に戻した。アルコールと胃液が食道を焼いたが、波の揺れが出航以来彼女にずっともたらしていたひどい悪心は、少しマシになった。腰をかがめて海水を手にすくい、口をすすぐ。それを足元に吐き出してから、那智は人生で何度目かになる禁酒への挑戦を考え始めた。

 

*   *   *

 

 現況を評して、龍田は「最低ね」と独り言を口にした。奇襲を受けたり、敵の増援が到着したという訳ではなかったが、その表現以上に自分が直面しているものを的確に表せる単語を、彼女は知らなかった。ラスシュア島に立てこもる準備をした時、もっと沢山の弾薬を持ってきたと思っていたが、実際にはそうではなかったのだ。ヲ級を始末した後、レーダーサイトから持ち出せた物資を置いた場所まで戻ってきた彼女は、しゃがみこんで頭を抱えた。島は森林化されているが、部分部分では開けた場所もある。そういう地点に敵を追い込んだり、逆に追い込まれた際に何が頼りになるかと言えば、それは飛び道具だった。

 

 弾薬は僅少であって、皆無なのではない。そう自らを慰めるが、躊躇なく撃つということが重要な局面で、弾薬不足が頭を過ぎって撃てず、千載一遇のチャンスを逃す可能性があることを思うと、心は沈みそうになった。だが、落胆に身を任せている時間はなかった。龍田は残った僅かな弾薬を全て艤装に補給すると、次のポイントに向かって走った。以前は木箱が埋まっていたそこには、陸奥の連合艦隊から奪った、艤装や武装を含むあれこれのものが隠してあった。置いた当人もその品目までは一々覚えていなかったが、もしかしたらそれらの中から、彼女の砲に適合する弾薬を見つけられるかもしれない。仮に当てが外れても、飛び道具の足しを得られることは分かっていた。

 

 絶対確実な方から取り掛かろうと、龍田は負い紐付きの細長い布袋を取った。その口に手を突っ込んで中身を引き出すと、赤い梓弓が姿を現した。弦は張られていなかったが、袋の中に一緒に入れられていた。その見事な作りに、龍田は口笛を吹きたくなった。でもそうする代わりに、「さて、弦の張り方はどうだったかしらね」と囁いて、記憶の海から目当ての知識をサルベージする作業に取り掛かった。一つ一つの手順を思い出し、それに従って弦を張る。これでいいと思えるようになったので、龍田はそれを脇に置いて矢を探した。

 

 艦載機発進用のものが五、六本あるだけだったが、弾薬と違って矢はある程度再利用できる。回収する余裕があれば、という但し書きが付くのは避けられないけれども、音を立てず、残弾数を考えることなく使える飛び道具があるのは心強かった。しかし艦載機発進用の矢には敵を貫く為の矢じりがないので、弓を本格的に運用するにはそれをどうにかしなければならない。時間が掛かる作業になることが予想された為、龍田は矢じりの製作を後回しにした。矢を弓が入っていた布袋に収め、負い紐で背負う。更に弓を肩に掛けて邪魔にならないようにしてから、龍田は弾薬の捜索を始めた。

 

 結果はまずまずと言ったところだった。一、二回の砲戦の余裕ができたことに彼女はほっとして、捜索作業で額に浮いた汗を拭った。我知らず龍田は「お風呂」と呟いたが、その後に続くべき「に入りたい」は言葉にもならなかった。霧の湿り気と汗で、体全体にじっとりとした不快感がまといついていた。慣れたものではあるが、慣れはその耐えがたさを取り払いまではしていない。いい加減、龍田は体にこびりついた汚れの数々を落としたくなっていた。暖かいお湯に肩まで浸かり、浮力に身を支えられてぼんやりする自分を脳裏に描き、彼女は微笑もうとしたが、できなかった。

 

 頭蓋骨の内側にだけ存在する幻を振り捨て、歩き始める。荷物は増えていたものの、その歩みの速さや確からしさ、音の小ささは変わっていない。歩きながら、龍田は考えた。ヲ級が奇襲を仕掛けてきたのは、どうしてだろう? 待っていれば霧はその内に晴れていたのに、彼女はわざわざ攻め込んできた。しかも単独で。陽動に他の二隻を使いはしていたものの、実働部隊は彼女一人だった。()()()()

 

 考えても考えても否定しきれない説が二つ残り、龍田はそのどちらが正解なのだろうかと悩んだ。ロシア軍の介入を防ぐ為に、彼女たちは速攻を望み、賭けに出たのか。またはもっと単純に──ヲ級を含め、艦隊員たちが互いを信用していなかったのか。敵と戦うことになった時、横にいるのは信用できる戦友であって欲しいと思うのは、艦娘だけではない筈だ、と龍田には思えた。ヲ級と他の二隻が相互にそういった信頼で結ばれてない寄せ集めだったのなら、それぞれが別々に行動を取るのもおかしくはない。それに、寄せ集め説は彼女たちが三隻しかいないということの説明にもなる。「本当にそうだといいけど」心から願って、彼女は言った。「それなら、後は一対一を二回で済ませられるもの」

 

 ふと思い出したことがあって、足を止めないまま、龍田はずっと懐に収めていた自作の地図を開いた。何一つ見逃さない集中力で、彼女は隅から隅まで舐めるように確かめた。その地図には彼女が持ち込んだものを隠した場所や、それを回収したかどうかが記されていた。一つぐらいは取り残しがあるかもしれない。そんな淡い期待にすがって、龍田は地図を睨む。紙の上を指でなぞり、何度も繰り返し調べて、やっと一つ見つけた。島の中央からやや西側に寄ったポイントだ。そこには回収済みを意味するチェックがついていなかった。

 

 体に熱が戻ってきたような感触に襲われて、知らず歯を噛みしめていた力が緩んだ。地図を折りたたんで元の場所に戻し、残された最後の物資を回収しに向かう。龍田の気分は、急激に上向き始めていた。物資を掘り出し、補給を済ませて、深海棲艦を島から追い出してやることを考えると、彼女の胸は弾んだ。

 

 だが急に、龍田の心臓が大きな一拍を打った。()()()? ()()()()()()()()()? 彼女は落ち着いて物資の内容を頭の中から呼び出そうとしたが、できなかった。持ち込んでから日が経っていた上、島への立てこもりという高ストレスな状況や、その間に彼女が取った休息がごく僅かだったという事実が、龍田の記憶力を信頼できないものにしてしまっていた。彼女はそこに弾薬を隠した時の光景を思い出すことができたと同時に、その同じ場所に弾薬ではない物資を隠す己を思い出すこともできた。苛立ちが強まってきたので、龍田は考えることをやめた。行って、見てみれば分かることだ。

 

 頭を冷やすように、龍田は自分に言い聞かせた。「言うまでもないと思うけど、情緒不安定になってるわよ? 睡眠不足なのに、中途半端に寝たせいね、きっと」などと実際の言葉にして、そんな真似をしていることこそが今の発言を肯定している、という皮肉に、投げやりな笑いを浮かべる。今度は声を出さず、口の端を上げるだけだ。そうやって龍田が笑ってもくすりという吐息さえ出さず、ついでになるべく足音を消し、静かにしていたから──砲撃が始まった時、彼女は死なずに済んだ。

 

 近距離に着弾し、その爆風に突き飛ばされて龍田は前のめりに倒れた。突然のことだったが、彼女の意識は冴え渡っていた。泥がべったりと体に付着することを厭わず、倒れたまま手足を動かし、低木の茂みに這いずって逃げ込む。その間にも彼女の遠近に砲弾は落ち続けていたが、射手は発砲後の移動を欠かさず行っており、流石の龍田にもそうなると音だけで居場所を探ることは難しかった。小さなプライドを理由として、彼女は反撃を行うことを一度だけ考えた。そしてそれをすぐさま却下すると、離脱に移った。出し得る限りの速度で這って、現地点から離れようとする。自分から遠くない場所に砲撃が行われる度、龍田は身を縮め、仕返しをしてやりたい気持ちを押さえつけなければならなかった。

 

 逃げながら音に意識を向けて、射手の特定を試みる。砲声の特徴について訓練所で那智から嫌というほど叩き込まれた龍田には、これは難しくなかった。戦艦だ、と彼女は頭の中で呟き、二つ三つ罵った。砲音だけではル級の可能性も捨てられなかったが、彼女が地上を歩く時に立てがちな大盾と地面の接触音がしていなかったことから、龍田はタ級だと判断して唇を噛んだ。戦艦タ級。巡洋艦に迫る素早さと戦艦の打撃力を併せ持つ、厄介な相手。

 

 純粋な戦闘部隊として前線で戦う艦娘の中には、巡洋艦にしては鈍く、戦艦にしては軟弱である、とタ級を形容する者もいたが、駆逐隊を率いて護衛任務などに就くことの多かった龍田に言わせれば、彼女ほど面倒な敵もいなかった。巡洋艦はそれなりに機を見れば相手取って戦うこともできるし、ル級からは速度を活かして逃げ切ることができる。空母は夜であればほぼ無力で、潜水艦の対処は駆逐軽巡の独壇場だ。そしてレ級や鬼・姫級等に遭遇したら、運がひどく悪かったのだと諦めることができる。が、タ級を相手にする時には、これと言った対処がなかった。諦めるほどの敵ではなく、けれど逃げようにも逃げ切れず、戦うには艦種の違いから来る能力差が大きすぎた。

 

 でも、ここは海の上ではない。タ級の強みの一つである航速は潰されている。戦艦としての砲戦力も、視界の開けた海と違って遮蔽物の多い森の中で、加えて霧に包まれた状態でどれだけ発揮できるか、疑問符が付く。事実タ級は、先手を打ったのに龍田を仕留められていないのだ。砲撃されている区域を離れて仕切り直せば、軽巡にも逆襲の余地があった。問題は、それをいつ行うかだった。弾薬は欠乏気味ではあるものの、一発二発しか撃てないというほどではない。タ級一隻に使うなら、潤沢ではないにしても不足とは言えなかった。今ここでタ級を仕留め、それから補給に行く……それは龍田にとって魅力的であるのと同程度、危険な選択肢でもあった。

 

 今はタ級一隻だから何とかなるが、まだ姿を見せていない重巡までこちらに来たら、対処できるだろうか? 龍田は考えた。彼女の持つ艦娘としての誇り、子供っぽい反抗心にも似たそれは「できるに決まってるでしょう?」と頬を膨らませたが、彼女の冷徹な脳はそれと逆の答えを返した。この疲れた軽巡艦娘は感情よりも理性の判断を重視していたので、綱渡りになるかもしれない挑戦をやめ、当初の予定通りの行動を取ると決めた。悪罵を胸に押し込めて、落ちてくる砲弾から離れ続ける。三十分ほど地面と手足を擦り合わせて、ようやく龍田は移動を止めた。砲弾の落着音は遠くまばらになっていた。消耗した気力と体力を回復するついでに彼女は、タ級がヲ級の死体を調べに行くのではなく、龍田を探しに来たことの意味や理由を探ろうとした。

 

 また聞きつけられて撃たれるのを防ごうと、唇だけを動かす。「私の弾切れを読んで、補給する前に仕留めようとした? それとも、情報収集をしている時間的余裕がなかった? それは何故?」「それよりも、いいのか?」横から尋ねられて声を上げそうになり、龍田は歯を食いしばってそれを止めた。目を動かし、声で誰なのか分かってはいたが、問い掛けを発した者の顔を見る。木々のざわめく音に紛れる程度の声で、龍田は不満を込めて単語を一つ放った。

 

「教官」

「お前が今何処にいるのか、少し考えてみることだ」

 

 那智はそれだけ言って、さっさと何処かへ姿を消した。が、この言葉は教え子の耳に届くや否や、彼女の臆病な精神を半ば発狂させた。それは彼女が今いる場所が、龍田の選んで行った道の上ではなく、タ級たちが龍田に選ばせた道の上にあるからだった。彼女は身をよじって後ろを向き、それから右左を見た。何も怪しいものは見えなかったので、音を立てないように身を起こし、しゃがみ込んだ。来た道を戻ることはできなかった。タ級はそのルートを監視しているだろうから、たちまち見つかって撃たれてしまうに決まっていた。前と後ろ以外に活路を探そうとして、龍田は少しだけ右手側に進もうとした。立ち上がる時に、左腕に何かが触れた。反応する間もなく、低木のよくしなる枝が龍田の肩を打ち、その先にくくられた杭を彼女のしなやかな筋肉に突き立てた。

 

 今度も龍田は声を上げなかった。刺さったままの杭を肉から抜く時も、傷口に希釈修復材を振り掛ける時も、彼女は黙っていた。この手の罠は龍田自身の手で大量にラスシュア島の森へと仕掛けられていたが、今龍田のいる正確な地点には設置していない筈だった。なのに、罠の種類もその仕掛け自体も、彼女の手で作ったものとそっくり同じだった。ということは、誰かが罠を解除して、その仕掛けを盗み、ここに設置し直したということになる。それ自体は前に天龍がやったのと同じようなことだが、今回はもっと洗練されたやり方だった。先に砲撃することで注意力を削り、キルゾーンに追い込み、罠に掛けたのだ。

 

 龍田は顔にやせ我慢の作り笑いを貼りつけて、残り二隻の深海棲艦に対する意見を「協力関係なし」から「一定の関係あり」に変えた。深海棲艦は、罠を解除し、設置し直し、更に砲撃で龍田をそこに誘導した。それが単独での仕事とは思えなかった。リ級がキルゾーンを作り、タ級が追い立てたのだろう。そしてタ級には、龍田が戻ってくるのを監視する役目がある。ではリ級には? 熟練の軽巡は迷わず答えを出した。彼女は、罠を抜けて進んできた獲物を始末する役だ。「今回はしてやられたわ」と龍田(獲物)は心の中で言った。「でも、二度目はないから」

 

 赤いしずくをしたたらせる杭を手で押しやってから立つと、彼女は前進した。仕掛け直された罠を意識する必要はあったが、存在を承知していれば回避も解除も簡単だった。十数分ほど歩くと、龍田は止まって足元を見た。草や枝が踏み折られ、歩きやすくされていた。それは注意しなければ分からないほどさりげなく、森の歩き方を知る人間を、作られた“道”へと引きつけていた。腰を上げ、その道の先を視線で辿る。一見して罠はなさそうだったが、その判断が正しいかどうかを知る為にこのまま進むほど、龍田は破滅的な艦娘ではなかった。彼女は大きく脇に逸れ、弧を描くようにして目的地まで迂回していくことを選んだ。

 

 補給地点近くまで行くには、かなりの時間を要した。龍田が数分歩く度に足を止め、血走った両目で一帯を精査したせいだ。そうしている内に霧が晴れ始めていることに彼女は気づいたが、一つの気象現象が永遠に続くことなどあり得ないと承知していたので、焦りも驚きもしなかった。それに霧が重要だったのは、それが敵の航空戦力に対して好都合に働いていたからである。ヲ級が片付き、深海棲艦が艦載機を寄越してくる心配もなくなった今では、霧は必要ではなかった。むしろ敵を探すのには、晴れている方がずっとやりやすい。次に敵の空母が来たらどうするかなどということは、考えもしなかった。

 

 ある草むらの中で、龍田はまた停止した。膝を曲げて腰を落とした彼女の視線は、少し先にある、爆撃でできたクレーターに向けられていた。穴には水が溜まり、水面には木々の破片が浮かんでいる。クレーター付近の草木はなぎ倒されて、小さな空白地帯のような形になっていた。龍田は目を凝らして、それらを見た。彼女には水面下に潜む敵を見ることができた。倒木に身を隠した敵を見ることもできた。それは幻だったが、近づいても幻のままである保証はなかった。龍田は石を投げようかと思ったけれど、そうすると石の軌道から自分の位置を悟られて撃たれることになるかもしれなかった。短い時間で考えられるだけのことを考えて、彼女は決めた。

 

 膝を地面につけ、腹ばいになる。それから、クレーター付近を視界に捉えながらの迂回を始めた。そうしていれば、幻視が本当になった時にも即座に対応できる。それに龍田には、待ち伏せていた誰かが身じろぎの一つでもすれば、たちまち看破してやれる、という自信があった。水中で動けば波紋が生まれ、茂みの中で動けば葉音を立てる。深海棲艦もそんなことは分かっているから、回り込まれつつあることを察知したとしても、身動きは取れない。一か八かで姿を現せば、純粋な早撃ち勝負。回り込み終わったら、石でも投げて確認して、そこにいれば背中を撃ち抜いて片付ける。プランと呼ぶには杜撰だったが、疲労の蓄積した頭が捻り出したにしてはそれなりに筋の通った案に、龍田は悪くない気分になった。

 

 回り込む間ずっと、彼女は目を閉じずにいた。まばたきも慎重に、片方ずつ済ませた。一度だけ薙刀が石を擦り、小さく耳障りな音を立てた時には心臓が止まりそうになったが、砲撃はなかった。クレーターの迂回を終えると、彼女は薙刀から手を離して地面を撫で、大きめの石を何個か拾った。それを手に取りやすい位置に並べ、怪しいと龍田が感じた場所に次々と投げつけていく。水の跳ねる音や、湿った木を打つ音が聞こえたが、それだけだった。少し待ってみてもそれ以上の変化も動きもないので、龍田は彼女が見たような気になったものが、やはり非現実だったのだと判断した。息を吐き、起き上がって、本来の活動に戻る。

 

 リ級の罠が設置された域を抜けたのか、龍田の覚えがない場所に仕掛けられたトラップを見ることはなくなった。自然、彼女の移動速度は上がった。そのことを自覚していた龍田は慎重さを重視して速度を緩めるべきか考えたが、タ級が待ち伏せを諦めて追跡に移っているかもしれず、だとすればクレーターで時間を使ってしまった分、急がなければ追いつかれる可能性があった。音を立てて隠れているだろうリ級の先手を許すか、追ってきた戦艦と事前準備抜きで戦うかなら、龍田は前者を選びたかった。それにリ級がタ級と協同して、敵を挟み撃ちにしようとすることも考えられる。そうされない為には、逃げて仕切り直すか、挟撃が始まるより先に片方を始末しなければならない。急ぐ以外の選択肢は適切でないと、龍田は改めて認めた。

 

 継続的な運動で荒くなった息を飲み込んで進む。二百メートルほど向こうに一際太い幹の木が見えてきて、龍田は自分が目的地に到着したことを知った。樹皮には目印の傷がつけられており、土色の厚い皮の下に隠れた白色の木部を覗かせていた。物資を求めて、龍田は走り出した。でもただの数歩で、彼女は急に止まった。罠もなく、どの木陰にも待ち伏せる深海棲艦の姿はなかったが、ともあれ止まらなければならないと龍田の艦娘としての勘が叫び立てていた。何かが気に掛かった。何かが、おかしかった。それで龍田の足は、ぴくりとも前進しなくなったのである。彼女は一歩退くと、細い木の後ろに隠れて、寄り掛かりながら目印の木をよくよく見た。やはり、何も見つからなかった。なのに、足は動かないままだった。

 

 時間がなかった。幾ら気長だったとしても、もういい加減タ級も待ち伏せを諦めて、自分の後を追っている筈だと龍田は考えていた。理由もなく現在地で時間を無駄にすればするだけ、タ級との距離は縮まってしまう。決断しなければならなかった。いつでも龍田が、あらゆる艦娘たちが戦いの中でそうしてきたように。その決断が死という結末に己を連れてゆくものであるかもしれなくても、とにかくそれなしには最早どうしようもなかった。龍田は木の後ろから躍り出ると、薙刀を振ってぴたりと目印の木を指し、その枝葉に向けて一発撃ち込んだ。砲弾に押しのけられて緑の天井に一瞬だけ小さな穴が開くが、すぐに別の枝と葉で隠されてしまう。衝撃と爆風を伴う轟音が、龍田の全身に浴びせられる。彼女を取り囲む森は、その騒音を責めるようにざわざわと葉音を立てた。

 

 五秒が経った。何も起こらなかった。十秒、二十秒、三十秒が経ったが、森のざわめきが薄れて消えたことを除けば、何の変化もなかった。それでも龍田は待った。不動のまま、射抜くような視線を目印の木に向け、極限まで集中力を高めて、彼女は待った。やがて、小さな水音がした。規則正しいそれが何を意味するのか、頭で理解するよりも先に、龍田の体は動き始めていた。腰を落とし、大地を蹴って目印の木へと突進する。その樹上から発砲された砲弾が、龍田の頭の上を()ぎって地面に着弾し、泥を巻き上げる。木の上で待ち伏せていたリ級が、ちぎれかかった右腕を庇うように身をよじりながら、重力に引かれて落下を始める。彼女は体勢を整え切れず、仰向けに地面へ叩きつけられた。そこに止めを刺そうと、龍田が駆け寄っていく。

 

 もちろん、リ級は寝転がったままではいなかった。片腕にしては迅速に立ち上がり、左腕の砲を龍田に向けた。しかしその時既に、興奮に目を見開いた軽巡艦娘は標的に十分接近していた。下から斬り上げられた薙刀の刃がリ級の左腕艤装を弾き、それまで相手を捉えていた射線をズレさせる。足を止めないまま、龍田は柄ごと体当たりをするようにしてリ級を近くの木の幹に押しつけた。そして右手を薙刀の柄から離し、左腰の刀を鞘から抜く。リ級は暴れ、吠えようとする獣のように大口を開け、鋭い犬歯を剥き出しにした。その目は凶暴な戦意に輝き、追い詰められて尚も敵に立ち向かおうとしていた。だが龍田が一息に下腹部から頭頂部を刀で串刺しにすると、その輝きも消え、表情も曖昧になる。

 

 深海棲艦との戦闘を制した艦娘は、刀の柄から手を離した。リ級の亡骸が、ずるずると背中で木の表皮を擦りながら倒れていく。それを龍田は漫然と眺めていた。天龍の刀を回収する為にも、休憩の為にも、そして目的──補給の為にも腰を下ろすべきだったが、そうする気になれなかった。血を流して横たわる敵の姿を視界から外すことができなかった。交戦が一段落して戦闘の興奮が引いたせいだ、とベテランの艦娘は分析したが、原因が分かったところで何も変わらなかった。「早く補給しないと」そう呟こうとして、上下の唇が乾いた唾液で貼りつき、離れなくなっていることに気づく。指で唇を揉み解すと、刀を伝って龍田の手を汚していたリ級の血が彼女の口周りに付着し、舌に鉄の味を、鼻腔には嗅ぎ慣れた悪臭を届けた。

 

 舌打ちして、強引な精神力でリ級の死体から視線を引き剥がす。十歩ばかり歩いて、物資を埋めた場所の真上に立つ。左手で掴んでいる薙刀を逆さにして穴を掘ろうとしたが、手が柄から離れなかった。凍りついたように筋肉が凝固していて、右手で指を掴んでも、噛みついてあごの力を使ってみても、無駄だった。貴重な時間が無意味に流れていくことに苛立って、彼女は自分の頑固な左手を脅すように囁いた。

 

「ああもう、ナイフでこじ開けるか、指を切り落として修復材で再生させようかしら。分かってるの? あんまり手間を掛けさせると……」

 

 しかし脅迫の内容を実際に行う前に、彼女の耳に足音が響いてきた。盛大な溜息を吐き出して落胆を示してから、音の発生源を確かめる為に振り返る。そこには思った通り、タ級が立っていた。血で口元を赤くした艦娘の近くに転がる、同胞の無残な死体を見たせいなのか、彼女はやや腰が引けていた。龍田はその様子がおかしくなって笑うと、左手を開くことを諦め、薙刀を構え直して言った。

 

「ほらぁ、こういうことになっちゃうじゃない……」


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