We, the Divided   作:Гарри

13 / 15
13.「お帰りなさい」

 昼を過ぎた頃にラスシュア島に到着した那智は、迷った末に西部の浜から上陸することにした。彼女は吹雪が「そんな分かりやすい場所を選んで、標的があなたを殺す気で待ち構えていたらどうするつもりですか」と自分に対して苦言を呈する姿を想像し、それに「うるさい」と言い返して笑った。上がってみると、真っ先に彼女の目に飛び込んできたのは浜辺に転がされた三体の深海棲艦の死体だった。ヲ級フラッグシップ、リ級エリート、タ級──那智は吹雪と以前に話した時に指摘されたような、不適切な誇らしさを感じた。艦種的に砲戦力に欠け、地上という環境に切り札である雷撃をも封じられた軽巡艦娘が、フラッグシップやエリートを含む敵の艦隊を撃破し、更に彼女にそのやり方を教えたのは、誰でもない那智自身だったのだ。状況さえ違えば、誇らしく思って当然のことだった。

 

 那智は深海棲艦たちから離れたまま、それらを調べた。決して近寄ろうとはしなかった。仕掛け爆弾に体をばらばらにされる危険性を冒してまで見るべきものが、そこに残っているとは思えなかったからだ。那智は死体をさっと一瞥すると、龍田が対処した順番をヲ級、リ級、タ級だろうと推測した。吹雪が電から聞き出した情報ではヲ級が最初にやられたということになっていたし、リ級には砲による負傷と刃による傷の両方があったが、横向きに転がったタ級の死体には刃の傷だけが、それも体の正面に集中してあったからだ。彼女はそのまま考えを深め、龍田がリ級を殺害した時点で弾薬を切らしてしまい、補給する前にタ級と遭遇、近接武器のみでどうにか仕留めたのだと判じた。

 

 ますます彼女の感じる誇らしさは強まったが、同時に厄介さも覚えるようになった。龍田と同じことが今の自分にもできるかと考えてみると、疑わしかった為である。彼女の腰にはナイフがあり、希釈された高速修復材の水筒がぶら下がっていたが、それだけで戦艦型の深海棲艦を一隻、正面から挑んで倒せるかとなれば、非常に難しいだろうと認めざるを得なかった。だが、龍田はそれをやったのだ。深海棲艦たちの体に残された傷の形やサイズから、龍田が主に振るった得物がナイフではなかったことは一目瞭然だったが、那智に言わせればそれは些末な違いに過ぎなかった。

 

 元教官は用心しつつ、道を辿って針葉樹林に入っていった。その道には砲戦の痕跡や血の染み込んだ土、艦娘たちの服の端切れなどが見つけられて、前にそこを通った陸奥ら連合艦隊がどんな目に遭わされたのか、言葉以上に雄弁に語っていた。陸奥たちが避けて進んだ為に作動していない罠もあったが、彼女らよりも遥かに深く龍田の戦い方に精通している那智が、それを見つけられない筈もなかった。懐かしいような気分になって、彼女の元教官は仕掛けられた時のままにされているその罠をよく観察した。ワイヤーと指向性地雷を使った単純な仕掛けだが、迂闊に解除すると連動した二つ目の罠が作動するようになっていた。不注意な犠牲者を痛めつける為の、基本に忠実で、悪辣な仕組みだ。

 

 陸奥たちがそうしたように、那智もそれには触れずに通り過ぎた。激烈な戦闘の跡が残されている場所まで来ると、彼女は止まって足元を調べた。誰かが足を踏み入れるまでは、入念に擬装されていたのだろう縦穴を見つけ、腰を下ろして中を覗き込む。折れた竹串が何本かあったので、彼女は血がついていないものを選んで拾い、その先端の臭いを嗅いだ。その途端、ひどい悪臭に唇を曲げる。「毒か」と那智は言うと、その串の先を一舐めして味を見てみたいという奇態な欲求を抑えて、元の穴の中に串を捨てて立ち上がった。

 

 懐に収めていた地図を開き、レーダーサイトの位置を調べる。方角を確認してから紙切れを元の場所に戻して、那智はそちらに歩き始めた。深海棲艦との戦いで負傷していなくとも、疲労したであろう龍田は拠点に戻ると踏んでのことだった。サイトは既にヲ級による爆撃を受けて破壊されていたのだが、那智はまだそれを知らなかったのである。ただ予想はしていたので、サイト前に着いた時もすんなりと受け入れられた。瓦礫の小山になったトーチカ様の建物の周囲を回り、罠などないか注意しながら、残骸の中を探ってみる。ごく浅い部分しか調べることはできなかったが、那智の知りたいことを知るにはそれでよかった。彼女は腕組みをして、記憶の中にメモをするように呟いた。

 

「爆撃前に根こそぎ物資を持ち出したな。だが急いでいただろうし、そう遠くまでは持っていかない筈だ。最低限爆撃に巻き込まれないだけの距離で、分散させてもいまい。一箇所(かしょ)か、精々二箇所。次の拠点があるなら、もうそちらに移動させているかもしれないが……」

 

 口ごもって、深海棲艦たちの死体を思い出す。那智の記憶の中では、タ級の傷から流れた血は、まだ固まってもいない真新しいものだった。なら龍田が彼女を片付けて浜辺に運んだのは、現在から見てそう遠い昔ではないということだ。物資の移動に龍田がどれだけ時間を使うか、那智には情報が少なすぎて推算もできなかったが、運搬を先にしていればタ級の血は古くなっていただろうということは分かった。

 

 レーダーサイト跡を中心にして、周囲を捜索する。那智の足跡が半円を描いた頃に、彼女が求めていたものが見つかった。踏み潰された草だ。爆撃から逃げようとする龍田の動転ぶりを示すかのように、それは隠されたり引き抜かれることもなく、その場に残されていた。潰れた草の辺りを更に入念に調べ、ヲ級によって落とされた爆弾の影響を受けていないことも確かにする。草の倒れた向きから龍田の移動した方角を割り出しながら、元教官は少し教え子に失望するのと、彼女への擁護を同時に行った。

 

「相次ぐ襲撃、不十分な休息。注意力の低下も仕方なし、か」

 

 肩をすくめて、追跡対象の過去の動きをなぞって歩いていく。と、那智の目は数メートル離れた地面に投げ捨てられた袋に向いた。龍田の罠の可能性を考えてから周りの爆撃痕を見て、まさに爆弾が自分のいる場所を目掛けて落とされている最中に、罠を仕掛けようとする者もいないだろう、と考えを変える。けれど爆撃の後で龍田が戻ってきて、己の後を追おうとしている者の為に土産を残していった、ということも否定できなかったので、那智は足元を探して手の平ほどの石を拾うと、袋に向かって投げつけた。

 

 石は的に当たり、袋は微動してくぐもった音を立てた。それで罠がないということと、中身が分かった。水を入れたペットボトルだ。袋の膨らみ方から見て、結構な本数のボトルが入っているようだった。歴戦の重巡艦娘は左手で己の頬を撫でた。罠としては餌が露骨すぎる。物資の運搬中に爆撃が始まり、逃げる為に投棄していったものだろう。そう考えて、那智はここにいない教え子をたしなめるように言った。

 

「命を失うよりはいいにしても、水を捨てるのは余り褒められたことではないぞ」

 

 ナイフを抜いて用心しつつ袋に近づくと、彼女は何度か袋越しに刃を中身へと突き立てた。とくとくと音を立てて水が流れ出していく。それを尻目に、那智は追跡を続けた。龍田の足跡は雨のせいで消されてしまっていたが、かき分けられた茂みの微妙な歪みや、龍田の足が巻き上げて飛び散らせた泥が、洗い流されることなく付着していた木の幹を見れば、彼女の通った道を特定できた。二十分ほど歩いてから、龍田が何度も進路を変えていることに気づいて、那智は頭の中で吹雪から貰った地図を開いた。そこに線を引いて、この蛇行の理由と本当に目指していたのであろう地点を探ろうとする。

 

 深海棲艦に追っ手を掛けられていて、それをどうにか撒こうとしていた、という仮説がまず出てきた。が、那智は自分でも余りそれを信じなかった。陸上、それも森林で逃亡者の追跡ができるほど陸戦に慣れた深海棲艦がいる、とは考えづらかった。この解釈を否定的に評価してから、那智は少し笑った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? おかしさを感じなくなるまで待って、彼女は龍田がこの蛇行の時どんな状況に置かれていたのかを、淡々と脳内で挙げていった。夕方から夜間に掛けて、爆撃、頭上には航空機の一群。リ級とタ級が砲撃を行い続けていたことまでは見抜けなかったが、それでも龍田の進路がしばしば変更されていた理由には見当が付いた。

 

「万に一つも見つかりたくなかったか、龍田? それで、空から少しでも見えづらくなるように動いた、と。慎重な奴だ、戦争を生き延びたのも頷ける」

 

 感心して、那智は片目をつぶった。特別探すものがあったのではなかったが、ゆっくりと辺りを見回しながら言う。

 

「このままお前の進路を追ってもいいが……時間がもったいない」

 

 そして、それまで彼女が歩いてきたルートを分析して割り出した、物資集積地点があると思われる方向へとまっすぐ歩き始めた。数分もしない内に、彼女は立ち止まらなければならなくなった。通ろうとした茂みの脇に、さっき見つけたのと同じような、ワイヤーに繋がれた指向性地雷が隠されていたからだ。那智はそれを三百六十度から見て二つ目の罠がないことを確認すると、地雷の向きを反対に変え、ワイヤーをまたいだ。もちろん彼女は足を完全に下ろす前に、またいだ先の地面をブーツのつま先で払うことを忘れなかった。泥で白い長靴(ちょうか)が汚れても、結局二段目の罠が見つからなくとも、那智は全く気にしなかった。

 

 意識を索敵と罠の検知に振り向けながら、龍田のことを思う。今彼女が何をしているのか、何を考えているのか、空腹か満腹かその中間か、喉は渇いているか潤っているか、戦意はあるのかないのか、負傷しているのかどうか。気になることは幾らでも浮かんだが、那智が一番知りたかったのは、彼女が何を求めているのかだった。謎めいた教え子の望みについて思う内、那智は「話がしたい」と繰り返し龍田が訴えていたことを思い出したが、まさか彼女がただの“話”をする為に命懸けで島一つを我が物にし、遂行する必要のない戦争を戦っているとは信じられなかった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。根拠のない断言を、心で呟く。その意見に確証がないことを認めながら、それを信じようとする。でなければ、那智が今の自分のものであり、己がそこに身を置いていると信じている理性的な世界が、龍田の内面に潜んでいる明白な狂気に侵食されていくような気がして、耐え難かったのだ。特に龍田の孕んだ狂気が、決して彼女にだけ特別に宿り得る類のものではなく、戦争を海の上で経験した艦娘全員に起こる可能性のあるものだと思うと、那智は身の毛のよだつような思いがした。「戦争が終わってから、こんなに恐ろしいと思うなんてな」と皮肉りでもしなければ、我慢できなかったほどだった。

 

 しかしその感情も龍田の資材が無造作に積まれたところまで来ると、艦娘らしい任務への集中によって塗り潰された。那智は手早く資材を物色し、役立ちそうなものを二、三拝借すると、自分の艤装から燃料を抜いて掛けた。掛け終わると一歩引いて「ふうん」と声を上げる。それから「これでも足りるだろうが、もう少し念を入れておこうか」と言うと、おもむろに主砲用の装薬を砲塔から抜き取り、龍田の資材の山に放り込み始めた。燃料を吸って色の変わった木箱の隙間に装薬を押し込んでいると、那智は突然、自分が戦争時代、それもまだ新兵だった頃に戻ったような気持ちになった。

 

 小さく咳払いをして、彼女はナイフを抜いた。柄の下部をつまんで捻り、外す。中には金属の棒が入っていて、那智がナイフの背でそれを擦ると火花が散った。すぐさま燃料と装薬に引火し、着火した当人が思わず仰け反る大きさの火が上がる。服に燃え移ったりなどしないように下がってから、彼女は仕事の出来を評価するように頷いた。金属棒をナイフに戻して蓋をし、燃料と物の燃える香りを胸一杯に吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。それは彼女が長い間、忘れていた匂いだった。過去の記憶を呼び覚ましそうになるのを押し留め、次の動きを決めに掛かる。

 

「お前は賢い。異変を知ってすぐここに来るが、待ち伏せの危険を忘れはしない。遠くから身を隠して、眺めるだけにする。どうせ炎を消し止める方法もないからだ。でもお前は目敏いから、私に繋がるかもしれない手掛かりを見落とすことはない。必ずそれを取りに出てくる。私がそれを狙っていると知っていても」

 

 小声でそう言いながら、那智は燃える資材の中から空の木箱を取った。全体的に煤で黒く汚れ、火にあぶられていた箇所は炭化が進んでいる。蹴り壊すのは容易だった。釘が飛び出た大きめの破片を、熱を感じることのない義手で掴み、ナイフの先端で煤汚れを落とすようにして字を書く。それを近くに立っている木に、今度はナイフの柄で打ち付けて、那智は「これでいい」とまた頷いた。

 

*   *   *

 

 風が強く吹いた。先の雨で濡れていた草木から、露が散る。その優しい目覚ましを頬に受けて、木陰で横になって身を休めていた龍田は目を覚ました。緩慢な動きで、横に置いていた薙刀に手を伸ばす。だが柄は握らなかった。タ級との交戦の後、多大な苦労を掛けて指の筋肉をほぐして柄から引き剥がしたことが、彼女を用心させていた。半身を起こして顔に付いた水滴を拭おうとして、血が手にこびりついたままになっているのを見つける。休む前に死体を運んだ深海棲艦たちのものだろう、タ級のものか、リ級のものか……そんなことを思ったが、どちらにせよ血は血であり、清潔とは言えないものだった。

 

 こんな手で顔を触ったら、微細な傷や目の粘膜などから、どんなおぞましい雑菌が入って来るだろう? そう考えて龍田は顔の前から手を下ろしたものの、すぐに気を変えた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と彼女は胸の中で呟いた。袖で顔を拭き、思考を切り替える。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そっと薙刀の柄を握り、杖代わりに突いて起き上がる。その拍子によろめいて、木の幹に手を突いて体を支える。表情が歪み、厳しいものになるのが龍田自身にも分かった。休養の後だというのに、どうしようもない疲労感に苛まれていた。左手を上げ、脇腹を見る。上着の一部分が、その下の肌着諸共に裂けていた。初めの弱腰が嘘のように激しく抵抗し、龍田に少なくない出血を強いたタ級のことを思い返して、不機嫌さを示すように鼻を鳴らす。

 

 それでも奇妙なほど、深海棲艦である彼女たちに対しての個人的な復讐心は龍田の胸に見当たらなかった。死体をそのままにせずに浜辺まで持っていったのも、晒し者や罠の餌にしてやろうという魂胆ではなく、彼女らを送り込んだ者たちに後を任せる為だった。放っておいて腐るに任せるならそれでもよかったし、回収しに来るなら来るで、それを邪魔する気はなかった。「変よね」龍田は自嘲気味にそう言ったが、その言葉は彼女が意図しなかった鋭さを持って彼女自身の心に刺さり、くすぐった。龍田は何となく心が愉快になって、気力が回復するのを感じた。

 

 出発の前に、装備を点検する。龍田と共に戦争を生き抜いた頑丈な艤装は、砲が弾切れを起こし、機関も万全ではないが、不調らしい不調はない。それだけに、補給ができなかったのが残念に思われた。リ級が樹上で待ち伏せていたのは、その近くに隠された物資があると知ってのことだったのである。だから彼女は木に登る前に当然の行為として、それを龍田が利用できない状態に変えてしまっていた。従って、周りと比べてはっきりと柔らかさを増していた泥の下から龍田が回収できたのは、木片や弾薬を含む資材の残骸ばかりだった。彼女は心の片隅でこっそりと、これまで島にやってきた連中の()()度合いを比較し、序列化した。最初に来た天龍と深海棲艦たちのどちらを一位にするかで迷いつつ、個人携行品のチェックに移る。

 

 希釈された高速修復材や水の残量、次いでナイフから薙刀までの刀剣類の刃こぼれを調べ、気になるところは小さなシャープナーでその場凌ぎの補修を施していく。調達できる飲用水はともかく、希釈修復材の残りが少ないことが龍田の不安を煽った。新たな拠点に相応しい場所を探す前に、修復材の水筒を再び満杯にしておきたかった。ひとまずの目的地を決めて、早足で歩き出す。

 

 暫くは何の問題もなく、これからのことを思って憂鬱に浸っていられた。けれど龍田の鼻が何処からか流れてきた燃料の臭いを捉えると、彼女の憂鬱さはよく慣れ親しんだ恐怖に変わった。()()()()()()()。数も所属も分からなかったが、いるというだけで十分だった。()()()()()()()()()()()()()? 燃料漏れや艤装が破損したのでもなければ、通常それは工廠の外で嗅ぐことのない臭いである。いぶかしみながら、臭いが強くなる方向を探す。それは、龍田がまさに今目指して歩いていた方角と一致した。それで龍田は全部了解して、諦めを感じながら駆け出した。

 

 予感していた通り、物資は燃え盛っていた。離れたところにある茂みからそれを隠れ見て、龍田は歯軋りをしそうになった。彼女がどうにか自分を律して止めなかったなら、ぎりぎりという不快な音が数メートルに響いていただろう。持ち歩いている荷物から、双眼鏡を取り出す。激戦を経る中で付属の暗視装置は死んでいたが、本来の機能はまだ失われていなかった。初めは低倍率で周囲を索敵し、少しずつ倍率を上げながら、何か僅かでも敵の情報が見つからないか探す。間もなく、彼女の目は炎に照らされた一本の木の幹に打ち付けられた板に向けられた。じっくりと見て、そこに文字が書いてあることは分かったが、完全に読み取ることはできなかった。

 

 双眼鏡を下ろし、考える。あからさまな罠だった。何処かに隠れて、自分(標的)が姿を現すのを待っているに違いない、と龍田は確信した。もう一度、更に一度と索敵を繰り返す。だが、見つけられなかった。本当にいないのではないか、と考えそうになって、それを打ち消す。周囲一帯を焼き払って不在を確認したのでもない限り、そんな説は彼女にとって信じるに値しなかった。発見できなかったことへの敗北感を隠す為に、龍田は囁いた。「私に見つけられないほど上手に隠れたからって、勝っただなんて思わないことね」そうして、今やキャンプファイアのようになり始めた物資に目を戻した。罠用の資材や食料、希釈前の高速修復材を詰めた金属製の密閉容器など、彼女が持ち込んだもののほとんどがそこで燃え、灰になろうとしていた。

 

 でも、密閉容器はまだ生きているかもしれない。その可能性に思いを馳せて、龍田は己の肉体への慈悲や情けを省いた計算を行った。炎に腕を突っ込み、修復材の容器を取る。複数あるが、欲張らずに一つだけ。敵の砲撃があって、発砲炎を見たり射撃音を聞いた後でまだ生きていたら、反撃を加えて離脱する。それができるかどうかという問いに、確かな答えはなかった。しかしここでむざむざ失うには、高速修復材という装備の重要性は余りにも高かった。左手に薙刀の柄を握り締め、浅い呼吸を繰り返しながら、右手を開き、閉じ、また開く。地面を蹴り、飛び出す──直前に、龍田は重大なことに気づいた。燃やす前に物色されて、容器ごと奪取されるか、中身を捨てられていることもあり得るのだ。

 

 考えるにつけて、敵がそうしていないだろうという推測は不自然で危険なほど希望的に思えるようになった。そんな前提に基づいて出て行けば、無意味にリスクを負うことになる。己の選択が間違いではないことを祈りながら、龍田はプランを変更して板を取ることにした。そこにどんな内容の文章が書かれているのか、どうして残していくものが資材の一部などではなく、メッセージの書かれた板でなければならなかったのか、彼女は知りたかった。体勢を整え、再び浅い呼吸で勢いをつける。目を大きく開き、視界に映るどんな動きも見落とすまいとしながら、視線を目指す一点に向ける。微かでごく短い気合の掛け声と共に、龍田は隠れた茂みから駆け出した。

 

 耳元で風がごうごうと唸るのを彼女は感じた。運動の興奮と死の恐怖で、彼女の鼓動を刻む音はこれまでにないほどその間隔を狭めていた。冷たく湿った空気が眼球を撫で、まばたきをこらえる龍田の目を潤ませた。木がどんどん近づいてくる。板に手を伸ばし、強引にむしり取る。釘の刺さったところで板が折れて、べき、と音を立てた。砲撃は来ない。そのまま一直線に駆ける。この場に留まる理由はもうなかった。逃げて、逃げて、仕切り直す。龍田の頭はそのことで一杯になっていた。

 

 数十メートルは駆けた頃に砲声がして、空気を切り裂く瞬間的な飛翔音に続き、龍田の左手側、ごく近い場所で砲弾が炸裂する。飛び散った泥の塊がそこかしこに叩きつけられてばしりと鳴り、木がその太いと細いとを問わずに倒され、悲鳴のような破砕音も響いた。()()()()()! 速度を緩めぬまま瞬時に背後を振り返り、敵の姿を探す。見つからない。諦めて前を向き、もぎ取った板を握り締めて走り続ける。二発目が、今度は右手側に落ちた。一塊の泥が肩に当たり、バランスを崩しそうになる。大きく足を踏み出して何とか姿勢を保つが、スピードが落ちるのは避けられなかった。龍田は三発目が来ることを直感し、着地点に罠がないことを祈って横っ飛びに跳んだ。身を低くして泥の上を転がり、頭を抱えて砲弾の破片から守る。

 

 が、三発目は撃たれなかった。勘が外れただけなのか、行動を読まれていたのか考えそうになったものの、龍田は疑問を振り払って起き、足を動かすことを選んだ。スタミナ配分や走法を無視した、洗練されていない走行は彼女の体を急激に消耗させ始めていたが、襲撃者は今も自分に狙いを定めているのではないか、という強迫的な思考が、龍田を立ち止まらせようとしなかった。彼女がとうとう止まったのは、木の根に足をつまづかせてのことだった。うつ伏せに倒れ込み、それでも即座に身を返して薙刀を突き出し、敵の姿が見えればすぐさま砲撃を加えられるように構えた。数分の間、その構えを崩さないまま彼女は荒い息を整え、鼓動を落ち着かせようと努力した。

 

 数倍の長さにも感じられた数分の後、やっと脈拍が平常に近づいてから、そろそろと立ち上がり、適当な木の後ろに身を移す。砲撃からの遮蔽物としては全く頼りにならない程度のものだが、姿を隠せるだけでもありがたかった。龍田は砲声を思い出し、身を震わせた。彼女の記憶は、あの攻撃が二〇.三センチ連装砲──それも素の砲ではなく、改良された、いわゆる「二号砲」と呼ばれるタイプのもの──によって加えられたと告げていた。それは、熟練した重巡艦娘が装備していることの多い砲であるだけでなく、龍田に彼女の教官を想起させる兵装でもあった。「まさか」と彼女は口走り、自分をからかうように早口で言った。「せっかちさんにもほどがあるんじゃないかなあ?」

 

 無理やりに微笑を浮かべ、握ったままだった板を見る。汗ばんだ手の中にあったせいで煤が多少落ちていたが、書いてあったことは読み取れた。それは文章ではなく、数字の羅列だった。すぐに龍田はそれが無線の周波数を示すものだと悟った。そしてまた、ぞくりとした。()()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()? 小刻みに震える手で艤装の通信機を操作し、周波数を書かれていたものに合わせる。罠かもしれなかった。無線での通信は、機材さえあればその発信源を特定できる。上陸してきた誰かがそういったバックアップを受けていて、標的の位置をあぶり出そうとしているとしても、何らおかしな点はない。だとしても、龍田は信じてみたかった。

 

 どう声を掛けるべきか分からず、ビープ音を一度だけ鳴らす。吐き気に似たものがこみ上げてくるのを、擦り切れた意志の力で封じ込める。反応を待つことで無為に時を費やしていないで、木陰から出て何処かもっと落ち着ける場所を探すべきだと分かっていたが、動き出せなかった。そうすることは通信機の向こうにいるかもしれない女性への不敬に感じられたし、何かやっていたせいで返事を聞き落とすようなことがあれば、それこそ後悔では済まないと思った。龍田は固唾を呑んで待ち続けた。回線の繋がった先にいるのが望んだ通りの相手なら、この呼びかけが原因で殺されることになったとしても、不満はなかった。

 

 通信機が、龍田の送ったビープ音と同じものを発した。けれど今回は彼女の手によるものではなかった。龍田は、はっとして通信機のスピーカーを見た。今こそ声を掛けようと口を開きかけて、閉じる。先に聞こえたその音が現実なのか、龍田の心に泥のように堆積した狂気が、彼女の疲労や切望と結びついて生み出した妄想なのか、確かめずにはいられなかった。もう一度、信号を発して待つ。数秒と掛からず、信号が二度戻ってきた。それでようやく、彼女は現実を現実として認識することができた。

 

「教官」

 

 否定しがたい疑いと直感のせめぎ合った、揺れて歪んだ声色で龍田は言った。彼女の心のある一方では確たる証拠もなく那智の来訪を信じていたが、別の一方ではやはり論拠もなく、ただ願望と実際の乖離に傷つくことを避ける為だけに、ここに来たのは那智ではないと主張し続けていた。呼び掛けてから一秒一秒が過ぎていく度に、龍田の中で後者の勢力は勢いを増して行った。「ほうら」と落胆して彼女は肩を落とした。「期待なんかするから、裏切られちゃう」でもそこで唐突に、自分が通信機の送信ボタンを押していなかったことに気づいた。たちまち龍田は赤面し、数秒前の恥に満ちた発言を取り消した。ボタンを押し、送信状態にしてから同じ言葉を口にする。答えは那智の声で、あっさりと返ってきた。

 

「ああ」

 

 龍田が彼女を呼ぶ為に奮い立てなければならなかった勇気の大きさから比べると、短く無味乾燥とした味わいの、たった一言だけの返事だった。だというのに、その声を聞いた龍田は体の力が抜けるのを感じ、抗う気力も抜けて薙刀を手放した。泣きたかった。手で顔を覆ったが、押し殺したような泣き声が喉から出るだけで、涙は出なかった。当然ね、と龍田は思った。教官が島に来たのは、悲しいことではないのだから。そこで彼女は笑ってみることにした。声を上げて笑うと、気分がとてもよくなった。通信機に向けて、言葉を掛ける。

 

「最近の“民間人”は、挨拶代わりに砲撃するんですね、教官?」

「そうらしい。そして最近の艦娘は、自国領を占領するそうだ。戦争は終わったが、変な世の中になったな」

「もう、またそんなことを言って。あなたにとってあれが終わったことなら、どうしてあなたはこの島にまで来たんですか? ……艤装を着けて、私を撃ちまでしたじゃない。きっと、砲声が耳に心地よかったでしょう。発砲の反動が、何だかしっくり来たんじゃないかしら。ねえ、認めましょうよ、そういうことを、教官。民間人の振りをして、私に嘘を言うのをやめて。あなたの本当の気持ちを教えて欲しいんです。戦争が恋しくありませんか?」

 

 出し抜けに、龍田はその質問の答えをこんな形で聞くのが恐ろしくなった。でも聞かないでいれば、その恐ろしさを遥かに上回る苦痛を自分にもたらすだろうということが、彼女には分かっていた。それで、那智が何か言い始める前に「待って!」と言って彼女を遮った。回線の向こう側で那智が言葉を飲み込むのを感じた龍田は、己の礼儀を欠いた態度を恥じるような、自信のない声で頼んだ。

 

「直接会って話しませんか、教官。今度はお互いに艤装抜きで、小さな同窓会か何かみたいに」

 

 思考の為の短い静寂の後、那智はその申し出を受けた。

 

*   *   *

 

 簡単な会話から二時間後に、二人はレーダーサイト跡で落ち合った。合流地点を選んだのは那智である。深海棲艦による徹底的な爆撃の影響もあり、身を隠すことのできる木々が近くに少なくなったその場所は、不意打ちを受けたり罠に掛けられることを避けたい那智にとって、格好のポイントだった。今は瓦礫の山となったサイトの前で、緊迫した空気の中、彼女たちは五メートルほど離れて向かい合った。

 

 二人とも艤装こそ下ろしていたが、武装していない訳ではなかった。那智はナイフを腰のベルトで背後に吊り下げていたし、龍田は隠す素振りも見せずに薙刀を持ち、天龍の刀を提げていた。那智はそれを見て、特定の艦娘に支給される白兵戦用兵装を()()に含むか否かについて、日本海軍がどのような見解を有していたか思い出そうとした。だが、それが助けになるとも思えなかった。いつ薙刀で斬りつけられても身をかわすことができるように、右足を軽く前に出す。さりげない動きではあったけれども、龍田はそれに反応した。敵意はない、と意思表示をするかのように、薙刀を地面に横たえたのである。しかし那智はこれを形だけの行為であると判断した。心から敵意のないことを示すつもりなら、そもそも艤装と共に置いてくる筈だからだ。

 

 左手を腰に当て、自信に満ちた態度を装いつつ、龍田を見る。まずは彼女の顔に視線を向け、それから薙刀、次いで刀に目を落とした。両肩を軽く上げて、気負ったところのない声で訊ねる。「家に帰ってもいいか? 鎧を着てくるから」しかし龍田は答えなかった。絵画のように動かぬ微笑を浮かべたまま、彼女は那智の双眸(そうぼう)に見入っていた。その熱心な凝視に向けた皮肉を言おうとして、那智はそれが彼女の人生で見慣れたものだということに気づいた。

 

 それは崇拝や傾倒の気配をまとった視線だった。慕情にほど近い親愛が込められた視線だった。教官としての厳しさから憎まれさえした彼女の訓練を受けて艦娘となり、“鬼教官”がどれだけ自分たちのことを慮っていたか悟ったかつての訓練生たちが、こぞって投げかけてきた視線でもあった。それは教え子から恩師に向けられるものだった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。那智は歯を噛み締め、自分の罪悪感と戦わなければならなかった。胸を貫くようなその感情を振り払う為に、龍田に向かって言う。

 

「訓練所以来となると、会うのは六、七年ぶりか。折角だから店に入って、何か飲みながらゆっくり話したいな。今からここを出て向かえば、夕食に間に合うぞ。あるいは朝食になるかもしれないが」

 

 無言を守る相手に、彼女は話し続ける。龍田の篭城をやめさせるのに一番単純な方法は、彼女の命を奪うことだ。那智はそうなるかもしれないということを自覚して、この島に来ていた。が、その選択肢を第一に選ぶつもりは皆無だった。対話で解決できるなら、殺さずに無力化できるなら、そうしたかった。そして対話とはまさに、龍田がこれまで繰り返し元教官に向けて求めてきたものだったのだ。会おうと持ちかけてきた当の彼女が、何故か那智の発言に答えないのは不可解だったものの、那智は今更そんなことを気に掛けなかった。

 

 どうせそもそも今回の龍田について、那智や海軍はほぼ全くと言っていいほど何も分かっていないのである。彼女の動機に関しても推測ばかりで、確定した事実はない。何がしたいのか探りだそうにも、要求らしい要求は那智を呼ぶように言った際の一度だけ。島に入ってきた者たちには攻撃するが、それだって殺しまでしたのは今のところ深海棲艦だけで、後は全員生かしたまま帰している。威力偵察にぶつけられた五十鈴たちも、もう一歩で龍田を殺すところだった天龍も、大勢で乗り込んできた連合艦隊の艦娘たちも、一人として死んでいない。今更彼女に謎の一つが増えたぐらいで、元教官の心は揺らがなかった。

 

「和食とロシア料理、どちらが好みだ? 言っておくがこれは重要な質問だぞ、その答えで真西に行くか南西に行くか変わるからな」

 

 返事はない。那智は大きく溜息を吐いた。声のトーンを落とし、より真摯で、真面目な口調に切り替えて告げる。

 

「ここでお前が何を、どうしてやっているのか、聞き出そうとするのはやめておく。何にせよ、お前はお前にとって最善の動機に基づいて行動しているんだろう。聞きたいのは、それが上手く行っているかどうかということだ。どうなんだ?」

 

 その言葉に、初めて龍田は反応した。「さあ……」囁きとも呟きともつかぬ声で、彼女は言った。意識して発したのではなく、那智の真剣な問いに応じた彼女の無意識が、発言者本人に感じさせることなく漏出させた言葉だった。それが口に出てしまったことに龍田自身驚いたようで、頬がびくりと震え、表情が強張る。しかしそれも数秒で収まり、観念した風に軽く空を仰ぐと、彼女はようやく答えた。

 

「本当に上手く行っていたら、こうして向かい合ってなんかいなかったでしょう、教官」

「そうだな」

 

 視線を交差させ、彼女たちは目の前の女がいかに疲れた顔をしているかを相互に発見した。それでどちらからともなく、座ろうということになった。数分前までの警戒を緩め、肩を並べて崩れた建物からその残骸を引っ張り出し、瓦礫を即席の椅子として設置する。ぼろぼろにはなっていたがスリーピングマットを取り出せたので、那智はそれを叩いて埃と粉塵を払い、裂け目の一つに力を入れて真っ二つに裂いた。片割れを龍田に渡し、もう片方を自分の椅子に掛けて腰を下ろす。教え子もそれに倣った。

 

 日差しを避ける為、なるべく太陽との間にサイト跡を挟んで座ったので、彼女たちの距離は自然と縮まった。肩と肩が触れ合うほどだった。那智は自分が逆手にナイフを抜いて振るうのと、左に座った龍田が提げている刀を抜きざまに斬りつけるのと、どちらが速いか想像してみようとした。が、握った刃が教え子の肉に沈んでいく様子を思い浮かべるのが余りに苦痛で、やめてしまった。ふう、と運動の後に息を整える為の一呼吸をして、彼女は「喉が渇いたな」と言った。希釈された高速修復材が入っているのとは別の水筒を取ろうとして、腰に手を伸ばす。すると脇から、龍田の手がおずおずと差し出された。そこには水筒が収められていた。

 

 ちらりと教え子の顔を見てから、那智はその水筒を受け取って蓋を開ける。金属の味がそこはかとなく移った水を一口飲んでから龍田に返すと、彼女はそれを一気にあおった。彼女の喉の動きを、那智はぼんやり横目に見ていた。一見すれば襲うのにいいタイミングだったが、龍田の右手だけが水筒を掴んでいて、左手は刀の柄の上に置かれているのを見てそれはやめた。彼女が飲み終わり、水筒を定位置に戻すのを待って、那智は切り出した。

 

「さあ、私はここにいる。お前のすぐ隣だから、遠すぎるということはないだろう。話をしよう。話題は何だ?」

「戦争の話を、教官。あなたの戦争の話を聞かせて欲しいんです」

 

 龍田は那智の質問にすかさず答えた。飢えた動物が餌に飛びつく時のような速度だった。「戦争だって?」と那智は冷笑的なからかいを含んだ表情で言った。「私もお前もそこにいたじゃないか。見てきたものは違うが、どうせどんな戦争も変わりはない」言いながら彼女は、自分が既に感情的になっていることに戸惑った。続きかけた言葉を強引に口の中に押し込めて、龍田の返答に耳を傾ける。教え子だった軽巡艦娘は、熱中した様子で元教官に詰め寄った。

 

「そうです。だからこそなんですよ、教官。私とあなたは同じ戦争を生き延びた。だから私もあなたも同じように傷つき、同じようにまだ、戦争を終わらせられていない」

「いいや終わったさ、私はとっくの昔に民間人になったんだ。艦娘の体なのは職務上、そっちの方が都合がいいからでしかない。前にも言わなかったか?」

「あなたと私の違いは一つだけ。あなたは終わったふりをしてる。だから戦争について話してくれないのよね? それでも私たちには、幾らでも()()の記憶がある。これまで黙っていた、告白することのできる記憶が……私はあなたに懺悔したいの、あなたに受け入れて、赦して欲しい、そうしてあなたの告白を聞きたいし、それを赦したい。私たち二人で救われたい、この傷の痛みを止めたいの、あなたみたいに目を逸らして生きていきたくないの!」

 

 突然、自暴自棄な敵意のこもった睥睨(へいげい)を受けて、那智は腰を軽く浮かせた。龍田は最早自制心を失ったようだった。彼女の右手は己の頭を掻きむしり、左手は那智の胸倉を掴んでいた。

 

「初めて海に出てからずっとその色は変わってなくても、私には分かる、海は本当は真っ赤だって。私たちみんなの血と錆で汚れてる。あなただって分かってたでしょう? 陸に戻れば、海から離れればそれを忘れられるとでも思ってたのかもしれないけど、それもここまでよ!」

 

 龍田の興奮に()てられて、那智の声も荒くなる。理解できない相手への恐怖に胸を締めつけられ、わななきながら、龍田の左腕を振り払うことも忘れて那智は叫んだ。

 

「分からない、何が望みなんだ? 私に何をしろと言うんだ、はっきりしてくれ!」

「過去に向き合って! そこであなたが受けた痛みを直視して、さらけ出して──死ぬほど苦しんで欲しいのよ、あなたが目を逸らしていた間、私がずっと、ずっと一人でそうしてきたみたいに!」

 

 ひゅっ、と音を立てて那智は息を吸い込んだ。ようやく彼女の論理で解することのできる要素が出現したことで、落ち着きが戻りかけていた。龍田の手を胸元から外させ、不足した休息と極度の緊張に開いた彼女の瞳孔を睨み返す。「復讐か、それがお前の“最善の動機”なんだな?」だが那智の予想と異なり、それを聞いた龍田は呆然とした様態で自らの顔を手で覆うと、疲弊しきった声を絞り出し、緩慢な口調で否定した。

 

「復讐ですって? そんなものは何の役にも立たないわ。よしんば復讐を果たしたとしても、それで私が傷ついたことや、私が苦しんだことが帳消しになる訳じゃないでしょう? 第一、誰に、何の名目で復讐をすればいいの? 今の私が望んでいるのは、それと全く逆のことよ。傷つけるのではなくて、癒したいの」

 

 俯いて手を顔から離し、体の横にだらんと垂らして、ぼそぼそと言い訳をするように龍田は続ける。

 

「今のは……あなたと何度も話す内に、私自身気付いたことだったけれど。でも、私は本当にそう願っているのよ。だってこの傷を、この痛みを受け入れていく為には、そうするしかないのだもの」

 

 那智は立ち上がった。彼女は内心で、この対話が完全に失敗しつつあるのを悟っていた。教え子の両の手に目を配り、それらが刀から離れていることを確かめると、質問を一つ発する。「しかしお前がやったことは、まさに誰かを傷つけること、暴力そのものだったじゃないか?」それがどんな結果を招くかは分かっていたが、ここで話し合うことで龍田を平静にし、単冠湾への帰還に同意させることはできない、という事実もまた、元教官の理解の範疇にあった。案の定龍田は顔を薄い紅色に染め、烈火のごとく言い返しに掛かった。

 

「分かってる! けどそれしか方法を知らないの! ほんの子供の十五歳で艦娘になって、それ以外よく分からないし、上手くもやれないのよ!」

 

 今度は予期していたこともあって、那智まで相手の感情の奔流に乗せられることはなかった。彼女は胸の内だけでほくそ笑み、()()()()()()()()()()()()()()()と囁きかける。この抜け目ない軽巡艦娘が、己の怒りを扱いきれない段階に成長させた時点で、不意を打って制圧するつもりだった。「そして今やそれすら危うくなっているぞ、龍田」と彼女は言った。

 

 そこでふと那智は自分の手法が、吹雪秘書艦や、己の軍歴の中で何度となく見たことがある、政治家としての側面を持つ軍人たちの手管に似通い始めていると感じた。それは那智が艦娘のものであるとは思っていないやり口であり、いかに自分が変化してしまったかを客観的に明白化する証拠でもあった。

 

 那智は体の内側で突発的に膨張を始めた自責の念と、恥の感情を押さえ込もうとした。「そうとは思えないわね、教官。あなたは結局ここに来たじゃない」それに掛かりっきりになったせいで、龍田の声が不自然に静かになったことに気づくのが遅れた。加えて、彼女の単純な質問にも答え損ねた。「私が望んだ通りになった、違う?」龍田はもう俯いてなどいなかった。彼女は己を育て上げた艦娘を見ていた。この期に及んで未だ、その目に崇拝の気配をまとわせたままで。

 

「さあ、話して、教官。痛みを直視して、私とそれを分かち合って。本当に忘れてしまったと言うのなら、思い出させてあげますから!」

 

 すんでのところで、那智は反応できた。素早く地を蹴って龍田との距離を縮め、彼女が鞘を払い切る前にナイフの間合いに入る。当然、龍田は那智がナイフで急所を狙いに来ると踏んで対応しようとした。首、心臓、肺──その三つを守る為に、龍田は精一杯の筋力を用いて身を捻り、背を反らす。そうすれば防御できるだけでなく、刀と那智の体との距離が僅かに、しかし抜刀に必要なだけ広がり、上半身への斬撃というカウンターも可能になるからだ。

 

 ところが、那智はナイフになど手を伸ばさなかった。視界がぐるりと一回転すると、龍田は地面に倒れていた。彼女が握っていた筈の刀は那智の左手にあり、教え子の腰には鞘だけが残っていた。立ち上がろうとした龍田の眼前に、切っ先が突きつけられる。彼女は頭を必死に働かせ、何度も反応を変えてシミュレーションを行った。けれど、どう動いても、斬られるか刺されるかのどちらかだった。仕方なく、龍田は覚悟を決めた。そうして息を吸い込むと、切っ先目掛けて突進した。刃が龍田の肉を切り裂いて体に埋まっていく。が、臓器には当たっていないのが刺した側にも刺された側にも感覚で分かった。龍田は右手を振るい、渾身の打撃を那智の横顔目掛けて放った。

 

 空手の義手と、刀を握った生身の手。那智の体で咄嗟に動いたのは、右の義手だった。彼女から見て左側から来る大振りの一撃を掴み、締めつけ、顔面間近で止めさせる。だが拳は止められても、指は無理だった。龍田の握り拳が開かれ、最も長い中指が勢いよく弾かれると、那智の左目を打った。おぞましい痛みに思わず目を閉じてしまい、視界が消失する。それは龍田を前にして、余りにも致命的な一瞬だった。那智はあごに固いものが触れるのを感じた。経験から拳だと分かった。後ろに倒れ、見えない中でどうにか尻餅をつく。次に那智が目を開くと、目前に鞘が迫っていた。

 

 龍田は鼻の骨が折れる音を聞き、その感触に細く長い官能的な呻き声を上げ、天を仰いだ。それから下を見て、弛緩した表情を浮かべる。心からの暖かな感情を込めて、龍田は足元に倒れている恩師に言った。

 

「現役復帰おめでとうございます、那智教官」

 

 答えは生まれては破裂して消える血の泡の、ぶくぶくという音だった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。