We, the Divided   作:Гарри

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14.「And the Divided」

 夕方になって意識を取り戻してからも、那智は横になったまますぐに起き上がらず、薄く目を開いて慎重に周囲の気配を探り、現状の把握に努めた。目隠しの布はされていなかったが、装備は奪われ、両腕が後ろ手に縛られていた。その(いまし)めを無理やり引きちぎれるか試そうとしてみて、腕への食い込み方から鋼線であることを認め、諦める。強引に脱出できたとしても、ずたずたにされた左腕と義手で龍田と戦う破目になるのでは、勝ち目は薄い。

 

 何かが燃える匂いがして、那智は折られた筈の鼻が治療されていることに気づいた。舌には鉄の味が残っていたし、鼻の中は生乾きの血がこびりついたままで不愉快極まりなかったものの、これはありがたい話だった。戦う上で、嗅覚は決して無益なものではない。とはいえ今の状況から脱出できなければ、そもそも戦いにすらならないという点を考慮すれば、鼻の再生を無邪気に喜んでいる場合ではなかった。少なくとも見える範囲に龍田がいないことを確認して、那智は目をきちんと開いた。すると枝を編んで作られた簡易なドーム状シェルター(よう)の天井が視界に映り、元教官は暫くの間、これを龍田に教えたのは自分だったかどうかについて考えを巡らせた。

 

 気を取り直し、仰向けになってから首を左右に回して、組み合わされた枝と枝の隙間から外の様子を(うかが)おうとする。ほとんどが枝や被せられた葉に遮られていたが、限界まで左に向いて見れば、小さな隙間から何かが動いているのが分かった。それが龍田以外の誰かであるとは、那智には思えなかった。かつての教え子は火をいじっているらしく、彼女がいるのと同じ方向から、火の中で何かが弾けるぱちぱちという軽快な音が聞こえた。那智は自分の荷物を燃やされているのかもしれないと考えて、改めて周りを調べた。この島に持ってきた装備品は一つとして、彼女の手と目の届く範囲にはなかった。焦燥が一時的に那智の心を席巻するが、すぐにそれは()()()()()()()、という意見に駆逐された。

 

 何故なら、飲用水にせよ希釈修復材にせよ、龍田にとって無駄になるものではないからである。むしろ彼女が初めに持ち込んだ物資の大半を燃やされた今、少しでも多く欲しいに決まっている。ナイフだって、予備があって悪いということはない。だから、破壊や破棄をすることはない。那智の考えはそのようなものだった。火は単に暖を取る為のものだろうと結論し、息を吐く。その音が、彼女の思ったより大きく響いた。「あら、お目覚めですか?」龍田の声がして間もなく、シェルターの入り口に掛けられたぼろ布が持ち上げられた。那智はそれまでに姿勢を元に戻して寝たふりを決め込んでいたが、いきなり、彼女の足に覚えのある痛みが走った。焼ける痛みだ。

 

 それは瞬間的なものだったが、空寝(そらね)をやめさせるには十分だった。那智は目を開け、龍田が何をしたのか見た。彼女は断熱材代わりの枝に焼けた釘を挟んで、それを押し付けたようだった。「お目覚めですね」と龍田は言い、枝と釘を地面に捨てた。那智の後ろ襟を掴み、彼女の背中を支えつつ引っ張り起こす。彼女が半身を起こした形になると、教え子はそっと手を離した。龍田は立ったまま、膝に手を当てて腰を曲げ、那智の顔を覗き込んだ。そうされるのが無性に気に入らずに、那智は顔を背けようとする。だが龍田に乱暴な動きで髪を掴まれては、渋々ながら睨み返すしかなかった。すると、龍田はにっこりと笑った。

 

「その方がずっとマシですよ、教官。あなたに目を逸らされるのが、私には一番つらいんですから」

 

 掴んだ時の強引さとは逆の繊細な手つきで、彼女は那智の髪を手放した。どさりと音を立てて尻を地面に下ろし、元教官の横に立てた両膝を抱えて座り込む。背を曲げ、あごを膝と膝の間に乗せて、十年ぶりに親の顔を見た子供のように目をきらきらと輝かせて、那智を見る。いっそ不気味なまでのその態度に、義手をもぞもぞと動かしながら重巡艦娘は訊ねた。「どうしてそう楽しげなんだ?」「どうしてって、これからきっと私たち二人とも、とても楽になれるからですよ」きょとんとした表情で、那智が何故今更そんな質問をするのか分からない、という風に龍田が答える。彼女は言い終わってから、心配そうに眉根を寄せて訊ね返した。

 

「もしかして、さっき話したことを忘れてしまったんですか? 私が頭を殴ったせいかしら」

「傷がどうとか、痛みがどうとかいうあの話なら、まだ覚えている」

「よかった。それじゃあ、話して下さい。どんな内容でも、きちんと聞きますから」

 

 那智は口をつぐみ、何も言わなかった。彼女の無言を逡巡と誤解して、龍田は励ますような優しい声で言った。

 

「恥ずかしいことなんてありませんよ、教官。秘密を漏らそうにも、漏らす相手がいないんですからね。ええ、他の誰にこんな話ができます? みんな戦争を乗り越えて行ってしまった。私たちの話なんか、そんな連中にとっては泣き言に聞こえるでしょう」

 

 それでも元教官の沈黙は続いた。困り顔になった軽巡艦娘は、けれども「仕方ありませんね」と呟くと、溜息を吐いて那智の肩を軽く叩いた。「では、まず一つ、私の話をしましょう」龍田はそう言って、ある交戦中に彼女と彼女の戦友の身に起こったことについて、とつとつと話し始めた。彼女が当時命じられていた任務の性質上、回避するべき交戦が避けられなかった原因を、龍田はまず自分の中に主張した。それは那智に言わせてみれば、よくある“生存者の罪悪感”というものだったが、話の続きはそう単純に一言で片付けられなかった。

 

 交戦の最中、龍田は戦友の一人が至近弾を受けるのを見た。弾の破片が脚部艤装を破壊し、航行能力を失った彼女はたちまち沈み始めた。もちろん龍田は、水の中でもがく戦友を救いに走った。そして腕を掴み──引き上げるには力が足りないと理解した。彼女が重巡や戦艦であれば、彼女の肉体が長い任務で疲労していなければ、あるいは助けることもできたかもしれない。でも、そうではなかったのだ。龍田は必死に力を振り絞り、他の戦友たちに手助けを頼んだが、誰も手伝える状態にはなかった。その上、彼女は敵から狙われ始めていた。それに感づいた龍田の体は恐怖に犯され、力を失った。彼女の手から戦友の腕は抜け落ちていき、その肉体もまた海の底へ沈んだ。

 

「お前は全力を尽くした」

 

 那智は話がまだ終わっていないことを悟りつつも、かつての教え子にそう言った。話す内に龍田はその穏やかな声に混じって、意気消沈した様子を見せるようになっていたが、それを聞くと皮肉っぽく笑って言った。「()()生き延びる為にね」そして話の続き、沈む戦友の手が最後に掴んだものについて語った。

 

「彼女は私の足を強く強く握ったんです。あんまりきつく握られたから、入渠するまで痕が消えなかったくらい。……足を掴まれては動けません。そのままにしておいたら、私も沈むと思ったわ。だから蹴りつけたの。何度も、何度も。そうしたら彼女、手を離したんです、自分から」

 

 自慢げに「すごいですよね?」と言って、龍田は笑った。けれど、心から友人を誇りに思っていることが明らかな、力の込められた言葉はそこまでだった。彼女の声は打って変わってぼそぼそと、憂鬱な響きを含むようになった。「自らの命を犠牲にすることを決めた時、彼女はどんな気持ちだったんでしょう? 何を考えながら、彼女は手を離したんでしょうか?」その二つの問いを最後に、彼女は立てた膝の上に頭を寝かせて、口を閉じた。彼女の語りを失った空間に不穏な静けさが戻り、外で燃える焚き火の音や、時折吹きつける風が立てる甲高い音が、その場を満たす。不意に先ほどまでの語り手が、首をもたげて要求した。

 

「次は教官が話して下さい」

 

 だが、声を掛けられた那智は龍田を見ていなかった。その視線はぼんやりと地面に向けられており、彼女の教え子の呼びかけが無意味だったことは明白だった。溜息を短く吐き出して、龍田は元教官が従ってくれるように説き伏せようとした。「私は、あなたに話させたいのではなくて、話して欲しいんです」それが功を奏することはないとほとんど確信しつつも、説得を続ける。けれどやはり、彼女がどれだけ頭を深々と垂れ、伏して請い願っても、何ら那智の心には響かないようだった。のろのろと龍田は立ち上がり、シェルターを出た。出入り口の仕切り代わりの布を持ち上げる直前、彼女は僅かに願いを込めて振り返り、那智を見た。そして失望させられ、体を引きずるようにして外へ戻っていった。

 

 やがて戻ってきた龍田は、煤で汚れきった手袋を着けて、ふたの開いた水筒を手にしていた。水筒の細い口から立ち上る湯気を見て、その中に入れられているのが何か那智は感づいた。彼女の視線が手袋に向けられているのだと思って、龍田は「最近の耐火手袋って本当に高性能ですよね。あなたに燃やされた物資の中では、これがほぼ唯一の生き残りです」と感心した風に言った。彼女の言葉を無視して、那智は尋ねた。

 

「中身は熱湯か? 湯責めとは聞いたことがないが、水責めよりも非人道的だな」

 

 一言「失礼」と謝ってから、龍田が那智を蹴り倒す。と言っても、肩口に足を置いて蹴って押した、という方が正しい。そうしておいて彼女は上向けに倒れた元教官の頭を両膝で挟み込み、足と足の間、那智の胸元の上に尻を下ろした。水筒の飲み口辺りの匂いを嗅いで、先の質問に返答する。「いえ、もっとろくでもないものですよ」水筒を傾けて那智の額の上に数滴を垂らすと、彼女は痛みに顔を歪めた。だがすぐにその表情が変わる。瞬き一度分の時間は恐怖に、そしてそれ以降は恐れを覆い隠す為の怒りと敵意に。那智は犬歯を剥き出しにした獰猛な顔で龍田を睨み、噛み締めた歯の隙間から搾り出すような声で言った。

 

「高速修復材か……!」

「それも希釈前の、ね。あなたが盗んだものは返して貰いましたよ、教官」

 

 火傷をさせられ、変色した箇所が巻き戻されるように通常の皮膚へと再生されていくのを見て、龍田は笑いを漏らした。彼女を跳ね除けようと那智が両足を使って暴れ始めるが、気にせずに水筒を弄び、押し倒した恩師の顔を焼いては治していく。動かせる範囲で首を左右に振り、熱傷の激痛に耐えながら、那智は精一杯の強がりを言った。

 

「お前の足も火傷してるぞ」

「それでも構いません。私だって、心からあなたと同じ痛みに苦しみたいんですから。分かち合いたいんです、何もかも。だから、話して下さい、教官。あなたがあの戦争で何をやってしまったのか、私に教えて下さい。まだ覚えているでしょう? 忘れてなんかいない、ですよね?」

 

 何度となく龍田を阻んできた沈黙が、再び彼女の前に立ち塞がる。激昂して彼女は左手に水筒を掴むと、右手で那智のあごを締めつけ、口を強引に開かせた。やめろと言われる前に、飲み口を那智の口腔に突き入れる。これまでにない激しさで苦しみ悶え、水音交じりの叫び声を上げながら陸に揚げられた魚のように体を跳ねさせる那智に、龍田は怒鳴りつけた。

 

「あなたが私を艦娘にして、艦娘とはどうあるべきかを示した! 強くあれ、苦しみに立ち向かえって! あなたのせいで私はこのざまよ! だからその責任ぐらい、取ってくれたっていいじゃない! 話しなさい、打ち明けて、逃げないで!」

 

 水筒を脇に放り捨て、那智の髪を両手で掴んで地面に何度も叩きつける。息が切れ、腕の疲れが高ぶった感情を上回った頃になって、龍田はようやく手を離した。立ち上がり、足元に横たわる恩師を見下ろす。想像を絶する苦痛を与えられて尚、その目は彼女の要求を拒んでいた。絶望が龍田を襲った。そのまま倒れてしまいそうになる体を、どうやってか彼女本人も分からないままに動かし、シェルターを出た場所にある荷物のところまで歩く。そこに置かれていた摩耶の拳銃を拾うと、夢遊病患者の足取りで龍田は那智の傍に戻った。

 

 献身的な介護者の手つきで那智を引き起こし、後ろから力を込めて抱きしめる。数秒ほどそのままでいたが、やにわに左腕を那智の首に絡ませて拘束すると、甘えるように己のあごを彼女の右肩に乗せた。「それなら、こうするしかありません」囁きかけて拳銃を右手で抜き、那智に一度見せてから、自分のこめかみに突きつける。死の恐怖に、龍田の胸は締めつけられた。喉からぜいぜいと息が漏れた。それでも彼女の曖昧な望みが叶わないままにこのまま生きていくよりは、ここで那智と一緒に死にたかった。撃鉄を起こし、引き金に指を掛ける。目を閉じて息を吐き、吸い、また吐き出し、ぷちりという音を聞いて、引き金を引いた。

 

 爆発音がして、龍田は後ろに突き飛ばされたことと、自分の頭皮を何かが剥ぎ取っていったのを感じた。今や熱い血潮を流し始めた傷口に手を伸ばす。べっとりと血が付着し、目に流れ込んできた体液を拭えなくなってしまった。暫く呆然としていたが、はっとして那智の姿と拳銃を探す。後者は頭の横に落ちていたが、前者は影も形もなかった。シェルターの隅に転がっていた水筒を掴み、中に残っていた高速修復材を頭に浴びせる。首を振って髪の水気を切ると、龍田は警戒を途切れさせぬまま、シェルターを出ていった。

 

*   *   *

 

 逃げ出すことに成功した那智は、シェルターを出て自分が森の中にいるのを知ると、まず奪われたナイフや水筒などの装備を探した。龍田は発砲の衝撃で脳震盪(のうしんとう)を起こしたのか、すぐには追ってこなかったが、悠長にしている時間があるとは思えなかった。焚き火の近くに艤装と一緒にまとめて置かれているのを見つけて、手早く身につける。艤装はどうするか迷ったが、結局それも装着した。用意を進めながら手足を動かし、体の具合を確かめる。義手の関節に歪みでも出ていたか、それは軋んで不快な音を立て、那智の顔をしかめさせた。だが、仕方なかった。ワイヤーを切断するには、義手の関節部に巻き込んで押し切るしかなかったのだ。

 

 用意を終え、那智は動き出した。足に思ったより力が入らなかったせいで早歩き程度の速度しか出なかったが、一度龍田から距離を取って森の奥へと入ってしまえば、そこからは有利にことを運べる自信があった。転ばないように気をつけながら、これからの計画を組み立てようとする。頭を地面に叩きつけられたせいで眩暈(めまい)はあったが、意識そのものは明確だった。作戦立案の(かたわ)ら、龍田の言葉についても考えそうになってしまい、意図的に思考を遮断する。

 

 彼女が何を欲しているのか、那智は分かり始めていた。だが彼女はそれを認めたくなかったし、ましてや脅されて龍田に従うなどということは到底受け入れがたかった。「逃げないで」という教え子の言葉を思い出して、まさに今逃避行の最中である那智は鼻を鳴らした。()()()()()()()? けれどその疑問に誰も応じなかったので、彼女は自分の意見を続けて述べた。()()()()()()

 

 その時、何かが那智の横を掠めて飛んでいった。思わず足を止め、振り返る。少し遠く、木々の合間に、梓弓を構えた龍田が見えた。初めの一矢の狙いはそれなりによかったものの、彼女の体の方は依然脳震盪の影響を脱していないようで、揺らぎが激しい。また矢筒の矢玉の数は僅かで、薙刀や艤装を背負っているようには見えなかった。龍田が肉弾戦を避け、先んじて標的を負傷させることで戦闘能力を削ってから始末しようとしていると見た那智は、踵を返し、つまずきそうになりつつも一層速度を高めて逃げ始める。

 

 二射目が那智の前方、地面に刺さった。もう一度、今度は足を止めずに龍田の方を見やる。彼女はさっきいた場所からほぼ動いていなかったが、体を木にもたれ掛からせることによって狙いの安定性を増していた。那智の顔が前を向くのと同時に、弦が空気を切り裂く音がして、首を縮めた彼女の頭上を矢が飛んでいく。那智は必死に記憶を手繰り、龍田の矢筒に何本の矢が残っているのか特定しようとした。分析が正しければ、残りは一本の筈だった。遠くから微かに、ぎりぎり、という弦を引き絞る音が聞こえて、那智は身を隠せる木を探した。

 

 発射音を聞くや否や、射掛けられた那智は直ちに太めの木の後ろに身を投げ込んだ。それを予期していたのか、龍田の矢は木の幹の周縁部を抉って地面に落ちた。()()、と那智は小さく毒づいた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかしそれは今更というものであり、彼女自身それは自覚していた。ともかく最後の矢を切り抜けたと思って、木の陰から飛び出る。直後、彼女はもう一度発射音を聞いた。悪寒がして、上半身を捻り、義手である右腕で首と頭を庇う。と、体の下の方に衝撃が走った。よろめいて転びそうになるが、足を大きく前に出してそれに耐える。

 

 鋭い痛みが、臀部(でんぶ)から神経を駆け上がってきていた。那智はにやりと笑いそうになってから、刺激に顔を歪めて、苛立ちをぶつけるように大声で言った。

 

「またか!」

 

 上半身を捻っていたせいで、かなり遠くで龍田が首を傾げるのが分かった。それもまたおかしく思えて、ほんの少し前まで彼女に拷問されていたことも忘れ、那智は口角を上げた。逃走を再開するが、痛みで活が入ったのか、走れるようになっていた。地面を蹴る度にびりびりと伝わる苦痛を耐えながら走っていると、脳裏に現役の艦娘だった頃の思い出がよみがえる。若者らしい悪戯の結果、戦友だった正規空母艦娘の加賀に、仕返しとして尻を射られた記憶。それは今思い出すには余りにも場違いで、そのせいで余計におかしく感じられた。那智は耐え切れずに、とうとう声を上げて笑い出した。孤独で暗い笑い声だったが、それは夕暮れの森の中で大きく鳴り響いた。

 

 彼女の長く続いた笑いと足が止まった頃には、夜になり掛けていた。息を整えながら尻に刺さった矢を抜き、ナイフと一緒に回収した希釈修復材で治療を済ませる。それから那智は艤装をチェックした。一門だけ残しておいた砲が使えればと思ったが、龍田が無力化を忘れる訳もなく、弾薬が抜かれていた。落胆はせず、ひとまず重石にしかならない砲を艤装から外し、地面に置いてその上に腰掛ける。間近に迫った死から免れた後では、戦闘経験豊かな艦娘である那智と言えども、気を落ち着ける必要があった。

 

 座って考える。まず早急に対処しなければならない問題は、武器だった。ナイフ一本で弓や砲を持った龍田と戦うのは難しい。幸い、那智にはシンプルな解決法があった。ナイフと、義手に巻きついたままになっていた鋼線、また周囲に幾らでもある針葉樹を利用して、弓を自作するというものである。慣れた手つきでとは言えないが、彼女はそれなりに手際よくこの仕事をやり遂げた。矢は適当な枝をまっすぐに整形し、先端を削いで尖らせただけの低質なものを数本作った他、龍田が那智に命中させた矢も回収した。それらを腰のベルトに挟み、弓を肩に掛けると、ナイフ一本の時とは比べられない安心感が湧き上がってくる。

 

「お前は私を警戒しているだろうな、龍田」

 

 弓に張られたワイヤーを、痛みを感じない義手で引きながら、那智は呟いた。「だから夜の内には仕掛けてこない。大体、暗くては追跡も困難だ。場所を知られたから、前のシェルターは放棄するだろう。お前は今晩を新しい陣地の構築に費やす」スカートを払って、弓矢を作った際に出た木屑を落とす。「仕事が早いお前は夜明けまでに新しい寝屋を作るが、その頃には空腹になって、喉も乾いている。だが困ったな、水が切れそうだぞ。私が全部土に飲ませるか、焼き払うかしてしまったからな」那智は小さく咳払いをして、龍田を何処で待ち伏せるか決めた。淡水湖だ。

 

 ラスシュア島には複数の水源が島の南部にある程度まとまって存在するが、淡水湖は一つしかない。煮沸以外の何らかの処置なしに飲める水が欲しければ、必ずそこに行くことになる。でなければ気化した水を集めたり、朝露で布を湿らせたり、雨を期待するしかない。量や確実性に欠ける以上、龍田は絶対に湖に来る。那智は空を見上げた。雲はなく、月と星が輝いていた。北極星を探し、日の沈んだ方向と組み合わせて方位を知る。後は、自分の位置を大まかに推定しなければならなかった。腕組みをし、つま先で地面を叩いてリズムを取りつつ、一人ごちる。

 

「艤装をつけた私は軽くない。運ぶのにも一苦労だから、遠くへは行かなかっただろう。龍田は島中央のレーダーサイト跡からそう遠くない場所に、最初のシェルターを作ったに違いない。そこから更に移動した方向を考慮すれば……素直に南に歩くとしよう」

 

 先を見通そうとするように暗闇を睨みながら、那智は急ぎ足で歩いた。歩けばその内に、川を見つけられる筈だった。それを遡って行けば、目的の淡水湖の隣に連なっている、飲用に適さない水質の湖沼にたどり着く。後は簡単な調査と仕掛けをして、それが終わったら朝まで伏せて、龍田が水を汲みに来るのを待ち、そこを()()()()

 

 単冠湾泊地にいる間に那智が見たラスシュア島の衛星写真によれば、淡水湖の周囲は傾斜が急になっており、木々の本数も比較的少なかった。急勾配は接近・離脱ルートを限定し、まばらな木は龍田に姿を隠しづらくさせる。太陽が昇っているという条件さえ満たしていれば、近づいてくる艦娘を見つけることも可能だろう。那智はそう結論して、ますますこのプランへの信頼を高めた。

 

 時々見つかる龍田の罠を解除したり迂回しながら、南下を続ける。加害目的の罠は基本的に避けたが、照明弾を使った警報は欠かさず収集した。そうして那智が三つ目の警報装置を解除していると、艤装の通信機から、回線が繋がった際に発せられる短いノイズが聞こえた。装置をいじくる手を止めて、彼女は通信機のボリュームを操作し、那智が今使っている周波数を知る唯一の人物の言葉に備えた。それは数秒の間も置かずに流れ出した。

 

「教官、懐かしくなりませんか? あなたが右腕を失ったのも、こういう島で、敵に追われている時だったんですよね」

「全くならん。それに順番が逆だ。敵に追われて、島に逃げ込んだんだ。お前の情報源は同期の青葉だな? もっとちゃんと取材しろと言っておけ」

 

 龍田は喉を軽やかに鳴らすだけの、しとやかな笑いで答えた。そして落ち着いた声で、また一つ訊ねた。「あなたは私のことを愛してますか、教官?」これは内容的に脈絡も突拍子もない質問だったから、那智は答えに詰まった。彼女を軽く混乱させたことが嬉しかったのか、楽しげな声で龍田は断定的に言った。

 

「口に出して言えなくったって、分かってますよ。愛してるんです。私や、天龍ちゃんたち……つまり、あなたの子供たち(教え子)のことを。だから憎まれるのも覚悟の上で、必死に育て上げた。私たちが教官のように強く生きていけるように、()()()()生きていけるように。他でもない愛し子たちにならそれができると、信じていたんでしょう」

 

 暫し、二人は揃って口を閉じていた。互いの間に安らかに横たわった沈黙の他、彼女たちは何の音も欲さなかった。ところがそれを破って龍田がまた話し始めたので、那智は面食らって苛立たしく思い、舌打ちをした。だが彼女が通信機の送信ボタンを押していなかったから、それは龍田に届かなかった。

 

「まさか、まだそれを信じてやいないでしょうね? 私を見て、私が何をやったか思い出して下さい。それだけで十分でしょう。そうです、()()()()()()()()()。腕を失い、前線から退かされ、それでも自分の場所で、自分の戦いを遂行していた強いあなたと、そんなあなたに付いていける、幾十幾百の強い愛し子たちには完遂できたことが、私にはできなかった。それは教官、あなたが私に求めたものが、私には到底抱え切れないほど重すぎたからよ」

 

 唐突に、龍田の声に怒りの色が混じり始める。

 

「だけど、それが私のせいなの? 私はただの、十五歳の女の子だったのよ。そんな小さな子供に向かって、あなたは自分自身と同じような、鍛え上げられた艦娘であることを要求した。それでそのまま生きていける子たちは、好きにすればいいわ。でも、それでは生きていかれないほど弱い子供たちは、私はどうすればよかったのかしら? それともあなたにとって愛しかったのは、あなたに付き従えるような立派な子たちだけだったって言うの? だとしたらそれでも我慢するけれど、なら一層、あなたが受けた傷から目を逸らし続けて、過去や責任から逃げていることが、どうしても許せない」

 

 話す内に、龍田の怒声は泣き声に変わっていた。最初はそれを隠し、取り繕おうとする様子もあったが、そんな素振りはあっという間に彼女の中から消え去ったようだった。言葉の合間にしゃくり上げていたし、通信機からは荒い呼吸音も伝わっていた。ごくりと息を飲み込んで整え、龍田は変わらぬ悲痛な涙声で喚いた。「私と同じように苦しんでもくれなかったじゃない!」那智がそれに答えてくれるとは、龍田も思っていなかった。それを期待するには、彼女に裏切られすぎていた。だが那智は叫び返した。これまで言葉を避けてきた彼女の声は、二人のどちらが想像したよりも遥かに大きく轟き、響き渡った。

 

「ああそうだ、私のせいだよ! 私がお前たちを鍛え、お前たちを艦娘にして、戦争に送り込んで、私が死なせたんだ、そのことで礼まで言われたとも!」

 

 理性のない言葉だったが、それだけにその叫びには龍田を黙らせるだけの重みがあり、相手の不実にいきり立った彼女の心を安らがせるだけの、真実性と言うべきものが秘められていた。龍田が反応を返す前に、那智が言葉を重ねる。

 

「逃げる者は立ち向かう者より苦しまないとでも思っているのか? 私が何も感じずに、この二年間生きてきたと、本気でそう考えているのか?」

 

 気道にはめられた重いふたを持ち上げようとしているかのような震える声は、言葉そのものよりも雄弁に那智の心情を表現していた。気づくと那智は足を止めて、龍田の返事を待っていた。果たして彼女は興奮を明け透けにして、教官が遂に本心の片鱗を垣間見せてくれたことへの礼を言った。その終わりに付け加えて「頑張って下さい、もう少しです」と言った時の彼女の声は、まるで生まれたばかりの子供のように無邪気で、無思慮な喜びに満ち満ちていた。それが理解できず、那智はぽつりと一言で問い返す。

 

「何だと?」

「あなたが私を愛してくれているように、私もあなたを愛しているんですよ、教官。だから分かるんです。あなたは教官としての苦しみを告白してくれた。でも、ただの“那智”としての苦しみに、どうして触れようともしてくれなかったんですか? どうか話して下さい、私が私としての苦しみを告白したように、あなたにもそうして欲しい。そうすることで私はあなたを、あなたは私を赦し、癒して、あの戦争を受け入れていくことができる。そうではありませんか?」

 

 再び、那智は感情を抑えられなくなった。彼女はさっきの叫びに劣らぬ声量で、通信機に向かってがなりたてた。

 

「赦すだと? 笑わせるな! たとえお前にだって、私を無罪にはできないんだ! もしどうしてもそうしたいならお前の、お前だけが流した血と苦しみの分こそ、好きにするがいい──だが他の連中、他の私の教え子たち(子供たち)が受けた苦しみの分は、お前にだって手出しできないんだぞ! 仮に、仮にだ、死んだ者たちが海の底からよみがえって現れたとしたって、そして私の全てを赦すと言ったとしたって、やっぱり私は有罪なんだ! あの子らが既に流してしまった分の血や、彼女たちの父や母が受けた苦痛が、それであがなわれる訳ではないのだからな!」

 

 龍田は何も言わなかった。叩きつけられた言葉にショックを受けているのかもしれなかったし、返答を考えているだけかもしれなかったが、とにかく那智にはもうどうでもよかった。彼女は通信機の送信ボタンを押すと、擦り切れた平静さの宿った声で言った。

 

「私にはそれでいい。戦争を、あの時代や記憶を、受け入れたくなどない。それに苦しんで生きたいんだ」

「……一生の間、苦しみと共生できる人間なんていないわ。受け入れて生きていくか、抱え込んだまま死んでいくか、二つに一つよ。あなたは自虐的になってる。そうやって罪悪感に浸っていたいだけなんでしょう? 今だってこんなにお願いしているのに突っぱねて、私を見殺しにしようとして。今度は『教え子を救えなかった』って悔やんでるふりをするの?」

「いいや、見殺しになんかしないよ、龍田」

 

 やけに平坦で明瞭な声で、那智はそう請け負った。

 

「私がお前を殺してやる」

 

*   *   *

 

 艤装の通信機から聞こえてきた短い発言に、組み上がったシェルターの脇に立っていた龍田は、錆びたナイフで刺されたような激しい痛みを覚えた。手で胸を押さえて、まだ拍動が続いていることを確認する。激しい運動の後のような速度で脈打つ心臓は、彼女が心から愛した数少ない他者の一人である那智の言葉が、どれほどの衝撃を龍田に与えたかを示していた。

 

 彼女は即座に死を確信した。()()()()()()。龍田には、那智が仕損じるところを想像することができなかった。質量的な重みすら感じさせるほどの恐怖が、肉体と精神の両方を打ちのめす。悲鳴を上げて持ち物を全て放り出し、逃げ出さなかったのは、吐き気と眩暈が彼女の動きを封じていたからだった。

 

 心を落ち着かせる為に、那智の宣言に対する反応を考えようとする。だが龍田には、どんな言葉も応答として十分ではないように思われてならなかった。下手に何かを言うことで、那智に自分の恐れを知られたくなかった。それは恩師に対する教え子の些細な自尊心だったが、龍田はどうにかそれを自らの認識の中で捻じ曲げて、そうではないと己に信じ込ませた。そろそろと腰を下ろし、土の上に座り込むと、深呼吸を繰り返す。

 

 最低限の冷静さが戻るには数分掛かった。その間、一方的に会話を終わらせた形になったにも関わらず、通信機から那智の新しいメッセージが流れることはなかった。けれどそれが、かえってありがたかった。龍田は彼女が元教官の声に感じ取った、無感情な殺意を受け止める為の時間を必要としていたからである。結局何を言う気にもなれずに、龍田は返信を諦めた。

 

 座っていたくなくなって、腰を上げようとする。しかし立ちくらみがして、彼女は力なく笑った。那智のシンプルな脅迫にここまで心底脅かされるとは、思ってもみないことだった。完成させたシェルターに軽く手を突いて身を支え、車酔いのような悪心が去るのを待つ。が、動揺が収まっても、気分は悪いままだった。口の中に不快な鉄の味を感じて、龍田は腰の水筒を取った。残り僅かな飲用水だったが、それを全部一気に飲み干す。一息ついてからその愚かさに下唇を噛むが、後悔しても水は戻らない。補給が必要だった。

 

 地図を開き、月の光で淡水湖の位置を確認する。龍田の頭の片隅で、那智がこの動きを読んでいるのは間違いないと警鐘が鳴ったが、彼女はそれを無視した。位置を知られる危険を冒してでも、生存の為には飲用水を確保しなければならなかった。それに、と龍田は正当化を進めた。紙上のデータではあったが、湖はおおよそ南北に五百メートル、東西に四百メートルの広さがあり、全周は約千五百メートルに及ぶ。幾ら那智が熟練の艦娘であっても、そのような広範囲を警戒できるのは日中ぐらいだ。そして陰に身を潜めてじっとしているなら、一日ばかり水を抜いたところで健康上の問題は起こらない。夜になりさえすれば、湖に近づける。

 

 あるいは今から急げば、夜明け前に湖まで行けるかもしれなかった。そうなれば、喉の渇きに耐え、那智に見つからないように祈りながら隠れていないでもよくなる。魅力的な案だった。龍田は希望的観測を意識的に排除して思考し、その可能性や利点を探ったが、那智に狙われているという恐怖をはっきりと認めることだけはできなかった。彼女は急行を諦めて、並の速度での移動を採用した。

 

 装備をチェックし、持っていくものを選ぶ。まず、艤装は隠れるのに邪魔だったので下ろすことにした。那智が新たに呼びかけてくるとも思えなかった。ナイフや刀、二種類の水筒を定位置に吊るし、弓と矢筒を背負い、拳銃を左脇の下、破れた服の裂け目に突っ込むと、飲用水を入れる為の容器を一つ、音が出ないように工夫して足に縛りつけた。これには龍田の首元を飾っていたリボンが役に立った。そこまではすんなりと決まったが、薙刀をどうするかは最後まで迷った。森の中では、薙刀を思いのままに振るうことはできない。最悪、無用の長物となり得る。けれども薙刀は、最も使い慣れた武器でもあった。迷った末に、龍田はそれを持っていくことにした。

 

 無心に、ひたすら無心に歩き続ける。それでも時々、那智に関する思考は彼女の教え子の心をざわめかせた。龍田は那智個人の来歴などについて、多くを知っていた訳ではない。以前の彼女との会話で見抜かれた通り、訓練生時代に同期の青葉から聞いた噂話程度の情報を除けば、ほんの少ししか知らなかった。しかしそういった知識がなくとも、自分を作り上げた人物であるというだけで、教え子にとってこれほど恐ろしい敵もいなかった。海戦でなくてよかった、と龍田は慰めのように思い浮かべた。身を隠し、罠を張ることの容易な地上戦でなければ、精々が逃走しかできなかっただろう、と。

 

 歩く内に、彼女は疲れを感じ始めた。持っていたステイアラート・ガムを噛もうとすると、最後の一枚だった。乱暴に包装を破り、ガムを取り出すと、口に放り込む。ここ暫くの乱用のせいでカフェインの効果はほぼなかったが、あごの運動が眠気凌ぎにはなった。警戒を途切れさせることのないまま、水の補給が済んだ後のことを思案する。でも、どんなに努力しても、生き延びる道を見つけることはできなかった。那智を殺せば、彼女の告白を聞くことができなくなってしまう。それは龍田にとって、自分が死ぬのと変わりなかった。かと言って、捕えるのも難しいだろう。一度は捕まえられたものの、二度もそう都合よくことを運べる相手ではない。

 

 一当てすれば頭に昇った血が冷めて、那智と再び話し合えるようになるかもしれない、と想像してから、そんな妄想は何の役にも立たないと切り捨てる。龍田は彼女の教官の声を思い出すことができた。その響きは冷ややかで、それまでの荒々しい叫びとは全く違っていた。思い出してみると聞き覚えのある冷たさだったように感じて、龍田の歩く速度が緩む。それに気づいて、ん、と声を漏らし、歩調を調整し直した。

 

 そうして何処で触れた冷たさだったのか、今や随分と遠いものと思われるようになってしまった過去の記憶から、探り出そうと試みる。だが島に来る前の記憶を漁るときりがないので、まずは現在から遡ることにした。この選択は正解だった。そうしたお陰で、あっさりと見つけることができたのだ。連合艦隊を率いて島にやってきた、あの戦艦「陸奥」。逃げる龍田に追いすがった彼女と、意図せず僅かに交わしたやり取りの中で、同種の冷ややかさが確かに現れていた。それは言葉に込められた意志の温度であり、その強固さを表すものだった。

 

 龍田は肩に重いものがのしかかったような気分に捕らわれた。そこまでの頑なな殺意に狙われては逃げる術などなさそうだと思うと、歩くのもやめたくなった。けれど、彼女は止まらなかった。止まってしまえば、その先には死が待ち受けていると経験的に知っていたからだ。彼女はかつて緩やかに死んでいった、何人かの戦友を思い起こしていた。

 

 希釈修復材を切らし、近くに海軍の前進基地もないという状況下で負傷し、死を目前にした時、彼女たちは初めそれを確たる根拠もなく否定した。すぐにそれは「何故私が死ななければならないのか」という憤怒に変わり、やがて彼女たちは「何でもするから助けて欲しい」という交渉や、「できることは何もない」という抑うつ状態を経由して、最終的に死を受容した。龍田は正確に自己の状態を把握しており、抑うつ状態に足を踏み入れかけていると認めていた。つまりそれを受け入れれば、後は受容の段階が残るのみだった。そしてもちろん、龍田は生きていたかった。那智が言ったように苦しんで生きるのは耐えられなかったが、死ぬのも気に入らなかった。

 

 夜の寒さと共に忍び寄ってくる死の影を、頭の中から追い払いながら歩き続ける。空の端が白みを帯び始めた頃になってやっと一本の川を見つけ、地図の表記とその川の形を吟味して、湖から半キロほど離れたところまで来たと分かった。そのまま付近の茂みに隠れて眠ってしまいたかったが、どうせ五百メートルの距離なら、もう少し湖に近づいておこうと思い直す。足を引きずるようにして三百メートルほど歩いてから、適当な茂みを見つけた。その大きさは薙刀がすっかり入ってしまうほどではなかったので、これまでにも何度かやった通り、刃や柄に土を塗りつけて光の反射を防いだ後で、地面に寝かせる。

 

 茂みの中に入って体を丸め、目を閉じると、三つ数えるほどの間もなく龍田は眠り込んでしまった。夢を見ることもなく彼女は眠り続け、次に目を開いた時には既に空が赤く染まり始めていた。寝起きの頭は働きが悪く、怠惰にもう一眠りしようと考えたが、ひんやりとした風が吹き付けて茂みを揺らすと、その考えも変わった。龍田は完全に日が落ちる前に、湖を見ておきたくなったのだ。

 

 今夜も昨夜と同じく月が出ればいいが、もし空が曇れば全くの暗中模索で水場に近寄らなければならなくなる。何かの弾みにうっかり湖に落ちたりしようものなら、那智はたちまち見つけ出してしまうだろう。予め見ておけば、その危険を取り払うことはできずとも、減らすことができる。無論、湖に近づけば近づくほど那智に発見される確率も上がるだろうが、そのリスクを考慮しても、湖の偵察をせずに夜を待つという選択は取れなかった。龍田は薙刀と刀を置き、這い始めた。湖まではまだサッカーのフィールド二つ分の距離があったが、龍田は那智がその空間的隔絶をものともしないのではないか、と恐れていた。

 

 蓄積されていた肉体の疲労が解消されていた為に、龍田の移動速度はそれなりに敏速だった。夕陽がその輝きを最も強めたのと時を同じくして、彼女は森と湖を隔てる最後の関門、湖の手前十メートル地点に到着した。低速だが体力を消耗する匍匐(ほふく)前進を終えた龍田は、低木の後ろに隠れ、空とは違う理由で朱に染まった顔で長く静かに息をしながら、坂を見やった。下ることはできても登るのは困難そうだ、と分析して、なるべく登坂(とうはん)しやすいルートを探す。そうやって幾筋か候補を立てると、龍田は経路の分析をしながら夜が来るのを待った。

 

 空模様は龍田に味方をした。分厚くはなかったが、月光を遮り続けるに足りるだけの広がりを持つ雲が、大気に流されて島の上空を覆っていた。覚悟を決めて口の中に溜まった生唾を飲み込み、伏せたまま両手を前に出し、地面を掴んで引き寄せようとするかのような動きで前進する。それを何回か繰り返すと、彼女の体は低木の目隠しから抜け出て、坂に入った。体の向きを変えて、湖に足を向ける。自分の身を那智の目から隠してくれるものが何もないということに、龍田は言いようのない怖気を覚えた。それを意志の力で払いのけながら、音と転落に気をつけて坂を下っていく。

 

 十メートルが十キロにも感じられる時間が過ぎて、龍田の足が水に触れた。時計の長針と変わらない速度で再び湖に向き直り、まず水筒を取ってふたを開け、湖面に浸す。空気を吐き出すぷくぷくという音が途絶えるまで待ってから、封をする。次いで、足にくくりつけた容器を取った。以前には高速修復材が入れられていたその金属容器に、水が流れ込んでいく。重みが増していくのを龍田は感じて、中身が満たされたそれを足に縛りつけることができるかどうか、懸念した。その憂慮の通り、水で一杯になった容器はずしりと重く、抱えていくしかなさそうだった。

 

 ともかく、これで水の心配はなくなった。そう考えて、龍田は気持ちを切り替える。後は離脱を済ませるだけだった。目を大きく開いて、夜の暗闇にぼうっと浮き上がる、坂に生えた一本の木のシルエットを捉える。彼女はまずそこを目指すつもりだった。左手に金属容器を抱え込み、右手で地面にしっかりとしがみついて、足を用いて体を坂の上へと押し上げる。その一セットの動きでの移動量は多くなかったが、今夜の龍田は速度よりも隠密性を重視していた。上首尾に木まで着くと、彼女は幹を掴んで一休みしてから、次の中継地点である別の木に近づいていった。

 

 それを繰り返し、坂の七割を上ったところで、地面に伸ばした手が何かを握った。それが細すぎ、また龍田の手のひらが土に散々擦れて感覚を失っていた為に、気づくのが一拍遅れた。ぐい、と引っ張ってしまい、それでようやく龍田は己が致命的な失敗を犯したことを知覚した。ぱん、と音がして、照明弾が昇っていく。龍田は仕掛けのワイヤーから手を離し、身をよじって空を仰ぐと、まばゆい光が自分の姿をさらけ出させているのを呆然と見守った。

 

 まばたきで我に返り、隠密性などかなぐり捨てて、坂を強引に駆け上がる。森に入り、二十メートルと行かない内に風切り音がして、右からの矢が走る龍田の背を掠めた。思わず水入りの金属容器を落としてしまう。が、あれだけ苦労して水を入れたにも関わらず、彼女はそれを拾おうとは思わなかった。悲鳴を上げるとすれば今こそまさにその時だった。龍田は何も分からないままに、本能的に足を動かした。口と喉も彼女の意識的な制御を離れ、恐怖に声を上げさせた。

 

 彼女にとって運がよかったのは、吸い込んだ空気の大半が運動の為に割り当てられ、発声の為にはごく少量しか費やされなかったという点に尽きる。もしもっと多量に用いられていれば、那智は龍田の悲鳴を聞くだけで容易く彼女の位置を知ることができただろう。とはいえそれは、那智が龍田の位置を掴んでいないということではなかった。矢こそ飛んでこなかったが、時折握り拳ほどの大きさの石が重巡艦娘の膂力(りょりょく)で勢いづいて飛来し、土を抉り泥を跳ね上げ、木に当たれば枝をへし折るか幹にへこみ傷をつけるかした。

 

 龍田は逃げ続けた。反撃など思いもよらなかった。弓を引くにもナイフを抜いて挑みかかるにも、那智の姿を見つけなければならない。だがその為に立ち止まれば、即座に急所を射抜かれるのが分かっていた。彼女は刀と薙刀を置いた場所を目指して走った。武器を回収し、森の中を逃げて那智との間に距離を開け、対応と索敵の為の時間を稼がねば、逆襲などできよう筈もなかった。

 

 記憶にある茂みを見つけ、そこから刀と薙刀を拾い上げる準備をする。龍田は姿勢をやや前傾させ、握っていた両拳を開いた。速度が少し下がったが、こればかりは仕方がなかった。まばたきをこらえ、接近と回収のタイミングを合わせようと努力する。十メートルが五メートルになり、五メートルが三メートルになって、彼我の距離がゼロになる直前、彼女は腰を落として手で地面をすくい上げた。右手が薙刀を、左手が刀の鞘を掴む。地面を蹴り、再度全速力で駆け出そうとしたところで、那智の二射目が龍田の右肩を貫いた。

 

 出鼻をくじかれ、龍田は姿勢を崩して転びそうになる。立ち直るまでに那智が近づいてくるという未来が、彼女の心を恐怖と共に席巻した。足を前に出して、転ぶまでの数秒を稼ぎ、矢の来た方向に首を捻って那智を探す。見つけるのに苦労はなかった。彼女は隠れることをやめて、倒れゆく龍田に向かって駆けていた。歯を食いしばり、その彼女目掛け、薙刀を投擲する。暗さのせいで龍田には那智の顔が見えなかったが、その行為が彼女を煩わせたのは短い罵声と、途切れた駆け足の音で分かった。土の上を転がるが、龍田は受身を忘れなかった。

 

 地に手を突いて立ち上がる。逃げ出そうとして、横からの、ぶん、という音に反応して龍田は刀を抜き、振り下ろされた薙刀を受け止めた。矢が刺さったままの肩に痛みが走るが、頭を割られるよりは痛くない筈だった。峰に鞘を掴んだままの左手を添え、掛けられた力の流れを右に逸らす。那智は引くことを知らずに刃先を地面にめり込ませる、といった失敗はせず、受け流される前に自ら一歩下がって構え直した。龍田には()()()()()()()()()と彼女の目が言っている気がした。

 

 その目が恐ろしくて、龍田は土を蹴り上げて那智の視界を塞ぐと、踵を返して脱兎のごとく逃げ出した。那智は教え子の行動に目を剥き、そのせいで制止の一撃が間に合わなかった。薙刀の刃は空を切り、那智がそれを引き戻す間に相手は数メートルの余裕を得ていた。走りながら、龍田は驚きの気持ちで胸を満たした。整然とした戦術的撤退ではなく、衝動的な逃走だったのに、那智がそれを止められなかったことが信じられなかった。

 

 二人の距離は少しずつ開いていった。龍田と違って、那智は罠を警戒しなければならないのが足枷になっていた。彼女はこれまで島に来た誰よりも素早く罠を看破することができたが、見抜けたからと言って回避の手間がなくなる訳ではなかった。逃げる龍田に追い掛ける那智。二人は息を吸い、吐き、腕を振り、足を動かし、走り続ける。彼女たちの闘争は段々と純粋な体力勝負の様相を呈しつつあり、現役艦娘である龍田がそれに勝利し始めていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()、と、龍田は他人事のような沈着さで思った。


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