We, the Divided   作:Гарри

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03.「二人の艦娘」

 五十鈴が目を覚ますと、周囲は完全な闇に閉ざされていた。何も見えず、手は縛られたままで、何処かに転がされているようだった。ただ下が何やら柔らかい布地だったことから、少なくとも地面に投げ出されている訳ではないと分かった。だとしたら、今自分はどうなっているのだろう? 不安にざわめく心を落ち着かせる為に「ここが天国だとしたら落ち着かないし、地獄にしては(ぬる)すぎるわね」と呟くと、少し離れたところから聞き覚えのある笑い声がした。龍田だ。途端に五十鈴の体は硬直し、恐怖が全身を駆け巡った。悲鳴を上げなかったのはただ五十鈴の勝気な性格が、敵を前に怯える姿を見せることをよしとしなかったからだ。だがそれも足音が近づいてくるにつれ、揺らぎ始めた。泣けば許されたなら、五十鈴は恥も外聞もなく泣き出していたことだろう。

 

 足音が止まり、それから顔に巻きつけられた目隠しが引っ張られて外れた。光が五十鈴の目を眩ませる。彼女は数秒ほど目を細めていたが、やがてしっかりと見開くと、辺りを見回した。コンクリートの壁に、すえた臭い。部屋の一角には五十鈴にはよく分からない電子制御盤が設置してある。ここは破壊する予定だったレーダーサイトだ、と拉致された軽巡は悟った。と同時に、今の自分がやけに身軽だということに気づいた。艤装が何もかも剥ぎ取られていたのである。奪われた艤装は部屋の別の角にまとめて置かれていたが、離れたところから見ても明らかに破壊されていた。これで自力脱出は不可能に近くなった、と五十鈴は肩を落とした。

 

 龍田の姿を探す。彼女は床に布を敷いて座り、壁に背を預けて手元で何か作業をしていた。何をしているのかと思ったが、訊いても答えてはくれないだろうと考えて、五十鈴は黙っていた。それから十分ほど、二人はそれぞれの時間を無言で過ごした。音と言えば龍田の手の中から響くカチャカチャという何かが擦れ合う音と、五十鈴が手を縛られたまま、少しでも楽な姿勢を取ろうとして体を動かす際の衣擦れだけだった。囚われの軽巡は抜け目なく辺りを見て、脱出に使えるものはないか探した。何か武器になるものや、泊地と連絡が取れる通信機があれば、好機に乗じて龍田の監視下を逃れられるかもしれない。そこからのことは考えていなかったが、とにかく目の前の気が狂った軽巡に捕まっているより、罠の仕掛けられた島で一人さまよう方が五十鈴にはマシに思えた。

 

 その為にも、手のワイヤーを解かせなければいけない。まずやるべきことを決めたお陰で、五十鈴の気分はぐっと向上した。次に何をするべきか分からないという状況こそ、彼女が何よりも恐れるものだった。そんなシチュエーションでは、その場その場の瞬間的な判断でしか行動できなくなるからだ。そしてそういう判断で積み重ねた失敗は、得てしてボディブローのように後から効き目を発揮してくる。敵を追い払う為に弾薬を使いすぎたとか、逃げ切る為に燃料を使いすぎたとか、五十鈴に思いつく例えは少なかったが、それが意味するところが正しいという点については疑いがなかった。目標を定め、それに基づいて立てられた計画の実現に邁進(まいしん)するべきなのだ。意を決して、五十鈴は龍田に話しかけることにした。

 

「ねえ、ちょっと」

 

 龍田は手元から顔を上げて五十鈴の顔を見たが、またすぐに元の場所へ視線を戻した。龍田が友好的に振舞ってくれることを期待してはいなかったので、続けて呼びかける。「トイレに行きたいんだけど。手のワイヤー、外してくれない?」答えは返ってこないと踏んでいたが、龍田は嘲るように鼻を鳴らして言った。「定番の要求ね」立ち上がり、五十鈴に近づく。何をされるかと身を硬くしたが、龍田はそれが実に当然であるかのように、五十鈴の手を縛る鋼線を外した。驚きながら、今や虜囚の軽巡はずっと締め付けられていた手首を撫でさすった。あっさりと外して貰えたことで呆然としていると、龍田の視線を強く感じ、取り繕う。

 

「それで、トイレは何処なの?」

「あそこよ」

 

 指差された先にあったのは、大きめのバケツだった。その横にはポケットティッシュが転がっている。五十鈴の頬がさっと赤らみ、怒りの宿った目が龍田に向けられた。だが彼女が新米艦娘の視線など気にしていないのは、どう見てもはっきりしていた。五十鈴は今だけは耐えようと決めた。その時がきたら、このバケツに龍田の頭を突っ込んでやる。でも今は我慢の時だ。大したことじゃない。下着を下ろして、しゃがんで、用を足して、拭いて、おしまい。恥ずかしいことじゃないし、自ら望んで露出したって訳でもない。全部龍田に責任があるんだ。頭の中で何度もそういう言い訳を並べながら、五十鈴はバケツのところまでのろのろと歩いた。そして下着に手をかけたところで、背後の龍田が笑いをこらえようとしているのに気づいた。

 

 担がれたのだ、と分かって、先よりも強い羞恥の念と苛立ちが五十鈴を襲った。龍田がいつの間にか片手に薙刀を持っていなければ、バケツを掴んで投げつけていただろう。「まさか真に受けるとは思わなかったの、ごめんなさいね」と口では言いつつも、龍田には一切悪びれたところがなかった。今度こそ本当のトイレの場所を教えて貰い、そちらに向かう。この無人基地の片隅に個室の形で一応備えられていたそれは、大昔の汲み取り式便所だった。それを知って、かえって五十鈴は気分をよくした──こっちなら、龍田の頭だけじゃなく、体まで放り込めるわね。

 

 至急というほど催していなかったので、五十鈴はこの僅かな時間を使って考えをまとめることにした。しかし彼女が受けた教育は、何処までも艦娘を作り上げる為の教育でしかなかったから、捕虜に取られた場合の振舞い方など何一つ知らなかった。深海棲艦は誰一人捕虜など取らないというのが長年の戦訓であった以上、これは仕方のないこととも言えたが、現に捕虜になっているこの軽巡艦娘にとっては、そんな一言で済ませられない問題だった。何よりもよくないのは、と五十鈴は考えた。正しい情報を知られることだ。泊地の様子、次に龍田を始末しに来るのが誰か、世間の注目度、そういったことを知れば、龍田はそれを念頭において動くだろう。これは逆に、あえて情報を与えることで龍田の動きをある程度は制御可能である、という意味でもあった。

 

 けれど、これには避けがたい難点があった。五十鈴には、どんな情報を与えれば龍田が五十鈴にとって得になるように動いてくれるかなど、皆目分からなかったのである。そもそも、龍田が何を望んで今回の事態を引き起こしたのかさえ知らなかったのだ。それに思い当たったお陰で、龍田の動機を知ることが次の目標に決まった。動機なしの行為などあり得るだろうか? 五十鈴は哲学を一度たりとも学んだことがなかったが、それは不可能であるように思えた。こんな大事をやったからには、求めているものが必ずある筈なのだ。

 

 扉がノックされた。言葉は掛けられなかったが、五十鈴のトイレが長すぎると龍田が考えているのは分かっていたので、素直に音響的な偽装を済ませ、扉を開けた。龍田が待ち構えていたということもなく、五十鈴は何処に腰を落ち着けようかと迷って周囲を見回した。それを見た龍田はまた笑うと、土のついた空っぽの木箱を五十鈴の方に押しやった。椅子代わりに使っていい、と言われ、五十鈴は箱を引っくり返して土を払ってから、その上に腰掛けた。また誰も何も言わない時間が流れ始める。どう話を始めたものかと思案しながら龍田を見ていると、五十鈴の視線に気づいた彼女は「何?」とそっけなく尋ねた。答えるのも(しゃく)だったが、都合のいい質問ではある。五十鈴は聞きたかったことを口にした。

 

「一体ここで何をしてるの?」

「座って、通信を傍受しているの。あなたの通信機から抜き取った暗号装置を通してるから、今はまだ聞こえるわ。そうだ、いいこと教えてあげましょうか。あなた、殺されちゃったと思われてるみたいよ? ひどいわよねぇ」

 

 頭を殴られたような衝撃が五十鈴を襲った。『殺されたと考えられている』? それはつまり、救助は来ないというだけのことではなく、今後の鎮圧作戦において、五十鈴の存在は考慮されないという事実を意味していた。最悪の場合、龍田と間違えられて殺されるか、または龍田ごと殺される可能性もあるのだ。五十鈴は、これについてばかりは龍田に同意した。()()()()()()。死体も確認されていないのに、戦死するところを目撃されたのでもないのに、死亡扱いとするとは。意識をそちらに持っていかれそうになって、五十鈴は軽く頭を振った。違う、そんなことは後でいい。今は龍田という人物を解き明かそうとするべきなのだ。

 

「そういう意味じゃないわ。一体何があってこんなことをしたの? こんな、ちっぽけな島なんかを占拠して、あんたに何の得があるのかって訊きたいのよ」

「得? そうねぇ、島が手に入ったこと、とか? そうそういないと思うの、自分の島を持ってる艦娘なんて。来年は南の島でこれをやろうかと思うんだけど、あなたも一緒にどうかしら?」

「お断りだわ。そっちにとってはどうでもいいことかもしれないけど、あんたは私の艦隊員を撃ったのよ。南の島? 結構なことね。でも来年行くとしたら、骨壷に入って以外の道はないものと覚悟しておきなさい」

 

 五十鈴の敵愾心の強さに、龍田は思わず吹き出した。海の上では感心させられもしたし、起きてからは何度も笑わせられたので、龍田は段々五十鈴のことが好きになり始めていた。誰かと一緒に居てこんなに楽しい気分になったのは、一体全体いつぶりだろうかと考えながら、彼女は自分が新しい友人候補として見なすようになった少女に、落ち着かせようとして言った。

 

「足一本じゃない、大袈裟ねぇ」

「大袈裟ですって? 失血死してもおかしくないのよ?」

「でも、希釈修復材ぐらい持ってるでしょう?」

 

 互いに言葉が止まった。五十鈴は「希釈修復材?」という顔で、龍田は「まさか」という顔で。戦中組として悲惨な争いを戦い抜いた艦娘は、恐る恐る、無知な後輩に尋ねた。「『新時代のセロックス(止血剤)』よ。高速修復材を薄めた……誰にも教わらなかったの?」五十鈴はこくりと頷き、それを見て彼女の先任艦娘は全身の力が抜けるのを感じた。だとしたら、殺してしまったかもしれない。希釈修復材は非公式な装備ではあるが、その効果は身体欠損級の負傷者を戦闘に復帰させるほどで、戦中組の艦娘にとって常識だった。艦娘訓練所では教えないものの、新規着任した艦娘には先任が必ず教えるようにしていた。資材状況によっては使えないこともあったが、そもそもその存在を知らない艦娘なんて、精々が広報部隊の艦娘程度だというのが通説だったのだ。

 

 龍田はおもむろに立ち上がると、五十鈴の首に引っ掛かっていた目隠しを外し、抵抗する彼女の口にそれを噛ませた。もちろん五十鈴はそれでも暴れようとしたが、刀を喉元に押し付けられてまだもがけるほど、五十鈴は強靭ではなかった。彼女の動きが静まるのを待って、龍田は通信機を手にし、立ったまま数分ほど何もせずにいたが、やがて単冠湾泊地への呼びかけを始めた。応答した通信士は、偶然にも最初の交信時に龍田と話をしたあの通信士だった。彼は、龍田が何か言う前に彼女の提督へと回線を切り替えた。訊くべきことを頭の中で整理しながら、龍田はこの対応の速さから、提督が自分からのコンタクトを待っていたことを見抜いた。無論彼女の心の中に、彼が望むようなものをそう簡単に与えてやるつもりはなかった。

 

「提督、初めてのお使いは失敗でしたねぇ。私も心が痛んだわぁ」

「それを言う為に、わざわざ通信をしてきたのか。私はてっきり、何か要求があるのかと思っていたんだが」

「あはっ、まさかぁ。ただ、五人の可愛い子供たちは、無事におうちに帰れたかなぁ、って」

「……撃たれた二人は重傷だったが、命に別状はない。止血が早かったのが幸いした」

 

 龍田は息を漏らした。小さく「よかった」と呟き、その場に座り込む。戦闘の疲れが、何倍にもなって肩に圧し掛かってきたようだった。龍田は懐に手を伸ばしてステイアラート・ガムを取ると、片手でもどかしげに包み紙を開けて、一粒口に放り込んだ。余計なことは何も考えず、自分が“子供たち”を殺さずに済んだことを、大嫌いな運命や信じていない神に向かって感謝した。感謝しながら、龍田は複雑な気持ちになった。どうしてだろう? 確かに、子供を殺すのは最低だ。じゃあ大人は? 大人だったら、殺してもいいのだろうか? よしんばそうだとして、子供と大人の境目とは何なのか? 龍田には分からなかった。分からないなりに考えて、ふと、最高の可能性を思いついた。

 

 もしかしたら自分は、艦娘を殺せないのではないだろうか。艦娘の多くは、かつては肩を並べて戦った戦友たちだ。戦後組と共に海を駆けたことはないが、それでも同じ艦娘だという精神的な繋がりがある。自分の中に残っていた非常に純粋な部分が、そういう繋がりを前にして、「殺すな!」と心の中で喚き立てているとしたら──その考えはそこにこもった馬鹿馬鹿しさと全く同じ程度には、龍田にとって素晴らしいものに思われた。もし艦娘を殺すことに躊躇いを感じ、それを避けようとしているのなら、それはとても真っ当なことだ。そして真っ当さというのは、彼女が戦争の中で捨ててきたとばかり思っていたものの一つだったのである。

 

 龍田はすっかり嬉しくなった。誰かにこの考えを聞いて欲しくもなった。しかもそれは、同じ戦中組の艦娘で、龍田が心底誰よりも信じることのできる艦娘でなければいけなかった。そこで、彼女は提督に頼むことにした。

 

「提督、一つ要求を思いつきました。そこに、私の教官を連れてきてくれませんか? ……ええ、どうぞよろしくお願いします」

 

 通信を終えた後、龍田は食事を取ることにした。胃がきりきり痛むほどに空腹だったし、五十鈴の腹まで鳴ったからだ。でも何となく、龍田はその痛みをずっと感じていたいような気もしていた。それは幸せな痛みだった。

 

*   *   *

 

 戦争中、艦娘になった女性の大半が十五歳、中学卒業時点で志願して海軍に入隊した。それは艦娘になれる下限年齢であり、最低限の義務教育を終えただけの年若い少女たちは、自分たちの選択の先に何が待ち受けているかなどろくろく知りもせずに、各々の理由で志願した。思春期らしく家から逃げ出したいという理由の者もあれば、地元が『下限年齢に達した女性は志願すべし』という気風の土地だったからという者もあり、そもそも艦娘になるのが夢だったという人間もいた。彼女たちは十五歳でなければ、十八歳、高校卒業時点で志願した。十八を越えてから志願する者は、滅多にいなかった。

 

 だが、当然ながら例外というものは存在する。たとえば、龍田の教官を務めた艦娘は二十二歳、大学卒業時に志願した。彼女は前線に出て戦い、負傷し、右腕を失い、一線を退いて教官職に就いた。彼女が大学で在籍していたのは教育学部だったので、これは軍にしては論理的に正当性のある采配だった。彼女は少しの間、教官として辣腕を振るった後、教え子が旗艦を務める艦隊に二番艦として現役復帰し、終戦まで戦い抜いた。そして終戦から二年が経った今では、退役艦娘の為に特設された高校に、大学で取った教員免許を活かして教師として勤めており──その艦娘は、名前を「那智」と言った。

 

 龍田からの“要求”の後、昼から夕方へと変わる頃に彼女を訪ねて応接室に通された提督は、どうやって那智を単冠湾にまで連れていったものかと考えた。彼女は軍を退役した身ではあるが、勤務地が艦娘の為の特設高校ということもあって、特例として解体──艦娘の肉体を、通常の人間に戻すこと──を免れ、現役時代の艤装も軍預かりとなっている。けれど本人は、そのことを何とも思っていなかった。彼女にとって艦娘であるということは、肉体の問題ではなかったからである。龍田に要求されるより前に、対応策を練る為のアドバイザーとして、理由を伏せた上で那智を招こうと連絡し、解体の保留を撤回するという脅しを掛けてまですげなく断られていた提督には、これが龍田本人からの要求だと告げたところで、那智が単冠湾に来てくれるとは思えなかった。

 

 入室時に持って来られたお茶を飲みながら、男は那智を待つ。彼とて事前に連絡してはいたものの、正規の教師にして本人もまた艦娘だという稀有な存在である那智は、何かと頼られて多忙な身だった。特に生徒と教員間の摩擦の解消には、手を掛けられっぱなしだった。少なくない数の退役艦娘が、民間出身の教員たちを侮っていたのである。しかしそんな退役艦娘たちも、那智の言うことにだけは決して逆らわなかった。何しろ彼女は同じ艦隊の仲間ではなかったとしても、深海棲艦との戦争を一緒に戦った戦友だったし、現役時代の那智の業績は第一級の英雄とは言えずとも、元艦娘に敬意を惜しみなく払わせるだけのものがあった。

 

 ドアの向こうから声が聞こえてきたので、提督はそちらに意識を傾けた。明らかに興奮した大きな声と、落ち着いた、たしなめるような声。扉と床の間に隙間でもあるのか、その会話は提督の耳へと明瞭に届いた。

 

「僕は反対ですよ、教官。戦争は終わったし、第五艦隊は解散したんです。どうして今更、しかも理由も分からないのに引っ張り出されなくちゃいけないんですか?」

「おかしいな、今は授業時間中の筈なのに、私の横に生徒がいる気がするぞ。何だかそいつを留年させたくなってきた」

「つまり、もう一年教官と一緒にいられると。願ってもありませんが、今は別の話をしてるんです」

「貴様は馬鹿か? いや、馬鹿だったな……いいから戻れ。また後でな」

「ええ、まだ話は終わってませんからね」

 

 怒りに満ちた足音が遠ざかっていく。それが提督の耳にも聞こえなくなってから、ようやく応接室のドアが開いた。提督は礼儀として立ち上がって出迎えたが、入ってきた相手を一目見るなり、ぎょっとして動きが止まった。概ねの姿は確かに重巡「那智」だったが、顔の左側に大きな火傷痕が残っており、よく見れば右腕は義手だった。事前の情報で知ってはいたが、提督はこれまでそういった艦娘を見たことがなかった。実際に目の前にして動揺が出るのは、仕方のないことだとも言えるだろう。艦娘が欠損した四肢を回復できないままになることは、滅多にないからだ。通常は入渠で治癒してしまう。那智は気さくな笑いだと本人が信じているものを浮かべ、「気にしないでいい、そういう反応には慣れてる」と彼を慰めた。

 

 男は口の中でその配慮への礼をもごもご言ってから、この失態を挽回しようと自分から右手を差し出した。那智はごく自然にその手を握り、上下に軽く振ってから離し、応接室のソファーに腰を下ろした。彼女の握手がとても違和感のない行為だったので、提督は手を離して自分も腰掛けてから、彼女の手が温かかったということに気づいたほどだった。那智は自慢するかのように言った。「最新型なんだ。普通の義手の六倍は値が張るが、使い勝手は生身とそう変わらない。誕生日の贈り物に、昔の教え子たちが奮発してくれてね」那智の入室以来ずっとペースを握られている提督は、曖昧に微笑んで「それは素敵なプレゼントと言う以外にありませんね」と言った。実際、義手の良し悪しなどさっぱり分からない彼には、そういう感想しか出せなかった。那智は頷いた。

 

「全くだ。しかしわざわざここまで来たのは、私の義手を見物する為じゃないだろう。昨日の電話の続きだな? 何でも、私の教え子が北の島を楽しんでいるそうだが」

 

 まさにその話、龍田が今何をしているかという説明から説得を始めようとしていた提督は、言うまでもなく那智が知っていたということに驚きを覚えた。だがすぐに、彼女の経歴を頭の中で洗って答えにたどり着いた。彼女はそのキャリアの少なくない期間を、本土の基地で送っている。その間、彼女の直属の上官が誰だったかと言えば、それは現在の軍警司令官を務めているあの女傑であった。那智はきっと電話の後、その伝手(つて)を頼って調べさせたに違いない。提督は自分の過ちを腹立たしく思い、暗澹たる気持ちになった。まだ軍警には介入させない計画だったのに、妙に隠したりなんかしたせいで、目をつけられてしまった。泊地総司令はこの失敗を気に入らないだろう。

 

 感情を隠しつつ、頷いて那智の問いかけを肯定する。切り替えよう、と提督は自分に言い聞かせた。彼女がもう知っているなら、話が早いと思うべきだ。龍田を訓練し、その戦術の基礎を築いたのが那智ならば、有効な対応策が出せる筈なのだ。最悪でも、龍田についてより詳しく知ることができる。それだけでもありがたかった。加えて、今となっては龍田本人が那智を要求している。この要求を満たせば龍田が満足して島から出てくる、などとは提督も考えていなかったが、それに一歩近づくとは思っていた。彼は咳払いをして喉を整えると、なるべく真摯に聞こえるように心がけて、切り出した。

 

「仰る通りです。現在、龍田は私の指揮を独断で外れ、幾つかの島を不法に占拠しています。当初は、つまり昨日あなたに連絡した際には、ということですが、要求はありませんでした。しかし数時間前に本人から通信が入り、あなたと話したい、と」

「こういうのはどうだ? 来年の入学式で会おう、と龍田に伝えてくれ。……笑えなかったか? 冗談だよ。とにかく、今の私は艦娘ではあるが同時に民間人でもある。軍の手伝いをするつもりにはなれないな。()()を手伝うのとは訳が違う」

「それは、この件に軍警察を噛ませろと言っているのですか?」

 

 那智は肩をすくめるだけで、何も言わなかった。だがそれが立派な答えになった。提督には分かった。彼女がかつての上官を頼った時にでも、その借りをこうやって返すように言い含められたのだろう。相手は昔からの知り合いだし、今回のことが片付いてしまえば、何がどうなろうとも那智にとっては知らぬ顔で済ませられる。彼女は政治に関わる立場でもなければ、海軍軍人でもないのだから。なんて無責任な、と提督は怒りを感じた。しかし、協力して貰えなければ龍田の機嫌を損ねることになるかもしれない。それは避けるべきだと、彼は思った。

 

 電話を一本掛けさせてくれ、と頼んで、提督は応接室を出た。万が一にでも那智に会話を聞かれずに済むよう、少し歩いてから立ち止まり、携帯電話を服の内ポケットから取り出す。ひどく気が重かったが、しなければならないことだと自分を叱咤して、どうにか携帯を操作した。数度のコール音の後、泊地総司令の秘書が電話に出る。総司令に繋ぐように頼むと、秘書は少々お待ち下さい、と言って保留に切り替えた。無為に流れる時間に苛立ちながら、総司令が出るのを待ち続ける。やがてぶつりと音がして、求めていた人物が電話口に出た。提督は彼の怒りを必要以上に買わないように、言葉遣いと表現に気をつけながら、軍警の介入を避けられそうにないことを告げた。

 

 彼は叱責を避けられないものと思っていた。ところが総司令は、仕方ない、と溜息一つで済ませて、軍警にオブザーバーとして協力を要請することを承諾した。以前の意見との違いに、提督はいぶかしむ。それを電話越しに読み取った総司令は、疲れた声で言った。今ならこちらから協力を頼んで『意見は出して貰うが、手出しは結構』という形を取ることができる。そうすれば、事態解決の主導権はあくまで海軍側にあるのだ、と主張もできる。設立から間もない軍警も、こういった事件を解決したという実績や経験が手に入れば、それ以上は求めてこないだろう。しかし連中が自分たちで全部片付けるつもりで介入を始めれば、面倒なことになるのは目に見えている。先に譲歩することで、被害を抑えるのだ、と。

 

 軍警に関する失敗が責められないこととなり、提督の肩は軽くなった気がした。彼が応接室を出た時とは打って変わって穏やかな顔で戻ってきたので、那智は思わず笑ってしまうところだった。「問題はなくなりました」と提督は言った。「準備ができたら、すぐに出ましょう。荷物はありますか?」那智は首を横に振った。「ないよ、今からでも大丈夫だ」提督は彼女の態度を初めて好ましく思った。頷いて、彼は応接室のドアを開けようとした。その手を、那智の義手が掴んで止める。

 

「そっちはダメだ。見張られてる」

 

 提督は困惑に眉を寄せた。

 

「見張られている、とは?」

「“昔の教え子”の一人だよ。私の元旗艦でもある。ほら、部屋に入ってくる前に話してた奴だ。聞こえてたろう? あいつ、私が話を受けると分かってるのさ。説得できるとは思うが、時間が惜しい。窓から出よう」

 

 その言葉を、男は最初理解できなかった。理解してから、聞き間違えたのかと思った。それで聞き直した。答えは変わらなかった。彼は訊ねた。

 

「ここは二階だったと思うんですが?」

「ああ、三階じゃなくて本当によかったよ。私もそう思う。だが頭から落ちたら死ぬぞ、気をつけることだ」

 

 二十分後、二人は那智が運転する車の中にいた。このまま軍用空港に向かい、単冠湾に直行するという計画を聞かされて、那智は途中でほんの数分の寄り道をしてもいいかと訊ねた。助手席に座った男は渋ったが、機嫌を損ねられて「やっぱり協力しない」などということになったらと思うと、了承するしかなかった。答えを聞くと、那智はただちに車を路肩に寄せ、停車した。「これが寄り道ですか?」と提督が疑問を呈すると、那智は笑った。「人待ちだと言ったら、余計なことを聞かれると思ったんでね」その『余計なこと』とは何かと詰問しようとしたところで、後部座席のドアが突然開く。驚いて振り向く男と対照的に、運転手は気楽な表情のまま、新しい乗客に声を掛けた。

 

「久しぶりだな、吹雪秘書艦。軍警司令秘書の仕事はどうだ?」

「給料はいいです。さあ、出して下さい」

 

*   *   *

 

 夕方になって那智と吹雪が単冠湾に到着すると、二人には休む間もなく対策会議への出席が求められた。何を考えていようと顔には出ない吹雪はともかく、那智は彼女が作れる最高の渋面を浮かべてみせたが、那智を呼びに来た単冠湾所属の事務員は、そんなことを一顧だにしない鋼の精神の持ち主だった。仕方なく、先に出た吹雪の後を追って那智は廊下を進む。事務員は他に仕事があるとかで案内もせずに行ってしまったので、彼女たちは自分で会議室まで向かわなければならなかった。案内をつける余裕もないほどに、混迷した状態にあるのだろう、と那智は思った。単冠湾の事件についてはもう世間の知るところとなっている。情報統制を始めとして、やることは幾らでもあるだろう。

 

 彼女の知る限り、今のところ龍田が何をしているかを知っているのは、海軍でもごく一部の人間しかいない。ましてやマスコミなどには、決して伝えていないようだった。その方がいい、と引退した艦娘は海軍がまともな対応をしたことに満足を覚える。偉大な「知る権利」を制限したい訳ではないが、仕事の最中に横からああだこうだと素人に口出しされるのは、那智にとって最も腹に据えかねることだった。分別ある良識を持った大人の、敬意ある疑問や質問は構わないが、そうでないものに時間を取られたくなかった。

 

 歩きながら、那智は二歩前を行く吹雪秘書艦の頭を見下ろす。彼女はこの謎めいた艦娘と自分がまた顔を合わせることになったのを、面白く感じた。二人が初めて出会ったのは、戦争中、那智が当初所属していたパラオ泊地から、本土へと引き抜かれた際である。事務的な確認の為に短い会話を交わしただけだったが、それだけで那智は秘書艦がその地位に相応しい経験と技量を有していると理解した。そして彼女が配属された艦隊は第二艦隊だったので、戦場で直接行動を共にすることはそうなかったが、一度海に出れば吹雪は艦種をものともせずに猛威を発揮した。那智はたちまち彼女が好きになり、第一艦隊の艦隊員たちを羨ましく思った。吹雪の後ろにいれば、何処よりも安全だろうと思えたからである。

 

「何か?」

 

 振り返らないまま、何処か剣呑さのある声で吹雪が尋ねた。那智は不躾な視線を咎められた気がしたが、意に介さなかった。吹雪が実力行使に出るのはそれが必要な時と、彼女が従う提督に命じられた時ぐらいだと、経験から知っていたからだった。とはいえ無言を貫くのも彼女に対して非礼が過ぎるように思われて、那智は適当な答えを口にした。「いや、な。お前が出れば、軽巡一人ぐらい何とでもなるんじゃないかと思ってね」吹雪はそれについてコメントしなかったが、那智も答えが欲しかった訳ではなかったから、一向に気にしなかった。ただ、やはり立場のしがらみがあるのだろうな、と考えて、「この人が」と定めた提督が野心家だったせいで、可哀想にとは思った。

 

 会議室前まで着くと丁度、龍田の提督が中から出てくるところだった。彼は露骨にほっとした顔を見せた。「もう少しで捜索隊を組ませるところでしたよ」と彼は言った。促されて入室し、吹雪は急遽彼女の為に用意された席へと腰掛け、那智はその隣に座った。自分は軍警に協力するのであって、海軍にではない、というポーズだった。だが形式的に行われたことだというのは全員が理解していたので、そのことで場の空気が悪くなることはなかった。「それでは始めようか。中佐、ドアを閉めてくれ」上座で彫像のように微動だにせず座っていた泊地総司令が、億劫そうに宣言し、ついでに龍田の提督へ一つ指示を出す。彼は従い、それから会議が始まった。

 

 長い間、那智には誰も何も訊ねなかった。龍田にどのように対処するのかを決めて、それからその細かい運用における注意や助言などを求める筈が、まず龍田をどうするかという点で議論が紛糾した為に、運用云々のところまで到着しなかったのである。吹雪秘書艦の方がまだ、軍警の対応や立場について、表明を求められることがあった。那智は手持無沙汰を紛らわす為に、注意深く会議の参加者たちを観察した。泊地総司令を筆頭として、単冠湾泊地所属の有力な提督の多くが、会議室に集められていた。

 

 その内の三分の一ほどがこれ以上の流血を防ぐ為、説得によって解決するべきだと主張していた。説得の成功率を上げるファクターとして那智の名前も一度二度ほど出ることがあって、その度に彼女は「期待をするのは勝手だがな」などと頭の中で文句を言った。残りの三分の二は積極的な鎮圧を支持していたが、かといって説得を一考に値しないと切り捨てている訳でもなかった。いっそそうしていれば、那智に助言を求める段階まで足早に進めていただろう。血を流さない選択肢を残しておく判断に那智は好感を持ったが、それでいつまでも椅子に座らされていることを考えるとその好感も目減りするというものだった。

 

 とうとう、提督の一人が那智にも意見を求めたらどうだ、と言い出した。出席しているからには、出席者は意見を自由に論ずる自由があり、またそれは義務でもある、とその提督は言った。立派なお題目に那智は感心し、とうとうこの時が来たかと内心で笑った。彼女は堂々巡りの会議を見ていただけだったが、会議室に入ってくる前から「龍田をどうすればいいか」についての意見は持っていたのだ。自信を持って、那智は発言者としての儀礼に従い、立ち上がった。それを見た提督たちは、思わずそれまでの思考や行為を止め、彼女に注目した。那智は言った。

 

「放っておいたらどうだ?」

 

 吹雪秘書艦以外の全員が、その言葉を飲み込むまでに少々の時間を要した。その沈黙の時間を促しだと解釈して、那智は持論を展開した。

 

「あの島に龍田が引きこもっているからと言って、それが一体何の問題になる。漁業に大打撃を与えるような場所でもあるまい。放っておいて飢え死にでもするのを待つか、自分から降伏するのを待つかすればいいだろう。どうして藪をつつこうとするんだ?」

 

 最も素早く立ち直ったのは、少佐の階級章を付けた提督だった。彼は五十鈴率いる警戒艦隊を指揮下に入れていた提督であり、説得抜きでの積極的な鎮圧を強硬に唱えていた。

 

「我々にも面子がある。それに、龍田はこちらの艦娘を一人沈めたものと考えられる。野放しにはできない」

「ほう、時代も変わったな。私が海軍にいた頃には、誰かが一人沈んだぐらいでは面子だなんて言い出さなかったものだが」

「それは戦争中だったからだ。第一、君の意見は龍田が島に引きこもって動かないという予測に基づいているが、その正当性は何を根拠にしているんだ?」

「あちこち動くなら、島を占拠したりしない筈だ。拠点を構えたということは、活動はその近辺に限定されると見てもいいだろう。それに燃料補給の当てもないのに、無闇に動きはしない」

 

 本当に渋々ではあったが、提督たちは那智の意見にも幾許(いくばく)かの正しさがある、ということを認めざるを得なかった。それに彼女の意見に従うなら、北方領土という政治的な爆弾を抱えた地域で、軍事行動を取るという火遊びをしなくてもよくなる。精々が警戒網を張り、龍田が姿をくらますことのないようにがっちりと周囲を固めるぐらいで、その程度ならロシアを刺激したりすることなく実行できる。しかし泊地総司令は、今回の騒ぎを何としても短期間に収束させたかった。彼の平和を乱すどんなことをも、放置しておきたくはなかった。説得によってだろうが流血によってだろうが、とにかく短期間に問題を解決する。彼の基本方針はその方向で完全に定まっており、それは軍警の協力者によって持ち込まれた意見で今更変えられるようなものではなかったのである。

 

 結局、会議は積極的鎮圧論が勝利を収めた。那智は訓練教官だった頃を思い出しながら、その場にいる提督たち全員に、龍田を相手にする上での簡単な注意点を伝えた。実働する艦隊にはもっと詳細かつ実際的に教えるつもりだったが、提督にも多少の理解があって悪いことはない、と那智が判断したからだった。彼らは一様に真剣な表情で彼女の講義を聞いた。そこには軍隊的な、硬直したものの捉え方という悪癖は存在しなかった。那智の話が終わって、総司令が龍田鎮圧に向かわせる艦隊を選抜する作業に移る為、散会となる。が、むしろ那智にとっての仕事の始まりはそこからだった。

 

 龍田と那智の付き合いは短い。十五歳で志願して訓練所にやってきた、龍田になる前の少女を、那智は散々にしごき上げた。訓練の半分が終わって彼女が龍田になると、それに輪を掛けてしごいた。でもそれは那智の仕事だったし、他の誰に対しても同じようにしていた。時間にして数か月の速成教育だったこともあり、那智には優しくする余裕など一切なかった。だから厳しく教育した教え子たちの多くが『那智教官』を慕っていると知った時、彼女はかえって強く困惑したほどだった。憎まれたり嫌われたりこそすれども、愛されることなどないと信じ込んでいたからである。

 

 自分を呼んだのなら、龍田もそういう教え子の内の一人なのだろうか、と那智はぼんやり考えた。会議が終わった後、個室に案内された彼女の手の中には通信機があり、それは龍田が使った周波数に合わせてあった。また録音装置も装着されていて、龍田の発言を後で検討したり、必要になればその声を分析して精神状態を調査することができるようにもしてあった。だがそんな機器を手でもてあそびながら、何と声を掛ければいいものか、那智には分からなかった。仕方ないとはいえ、横に龍田の提督と吹雪秘書艦がいたのも、彼女の口を重くしていた。けれど、仕事は仕事だ。那智は結局、通信機のスイッチを入れて、口を開いた。

 

「北方でのバカンスはどうだ? 今朝は冷え込んだだろう。外を歩いて頭を冷やすにはぴったりだった筈だ。試したか?」

 

 返事は暫くなかった。横で提督が「どうして相手を刺激するようなことを言うんです!」という顔をしているのを見て、那智は久々に誰かをからかって遊ぶことの楽しさを思い出した。教官職に就く前、まだ単なる一人の艦娘で、若かった頃の思い出が胸に蘇る。ひと時だけでも胸を暖かくしたそれは、吹雪秘書艦の顔を見ることで霧のように消えてしまったが、お陰で那智は幾らかリラックスして龍田の応答を待つことができた。数分が経ち、そろそろ那智もじれったくなってきた頃に、返答があった。

 

「また会えて嬉しいわ、那智教官。覚えてるかしら? まだ艦娘にもなっていなかった私たちが運動場を走っていると、あなたが後ろから機銃で掃射してきて、みんな悲鳴を上げてうずくまって……」

「走っていたのは運動場じゃなくて丘で、機銃じゃなくて砲だった筈だが、まあ概ね私の記憶とも一致するな」

 

 再び返答が、今度は数秒だけ途絶えた。それから通信機の向こうから、女性的で上品な笑い声が聞こえてきた。

 

「それじゃ、教官、あなたなの? まさか本当に来るなんて!」

「ああ、私だとも。何だ、帰った方がいいか?」

「帰らないで、教官。暫く私と一緒に居て下さい。話をしたくてお呼びしたんですから。そこへは飛行機で? 周りに誰か人はいますか?」

「うん、飛行機だ。それに、ここにいるのは私とお前だけさ。でも逆探知はしていると思う。怒らないよな? 教官と教え子の間では、ちょっとした逆探知ぐらい挨拶みたいなものだろう」

 

 通信機から漏れ出てくる龍田の声が無邪気な喜びに満ちているのに、提督は気づいた。憧れの人を前にした少女を思わせる、浮ついた声。それが今の龍田の発する声だった。アドリブで同席者たちの存在を伏せた那智は、提督に目をやった。彼は頷き、引き続き黙っているようにと指を一本口の前に立て、『動機』と書いたメモを那智に見せた。彼女は視線を戻し、冗談めかした明るい声で言った。「それよりも教えてくれないか。お前は一体、どうしてしまったんだ? 何故そこにいる?」龍田は答えなかった。急に会話が途切れるのはおかしいと思って、那智は何度か彼女の名を呼んだ。それでも龍田は何も言わなかった。やがて吹雪秘書艦が「一回目の対話は成功したようですね」と評価し、提督はそれを皮肉だと感じた。


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