We, the Divided   作:Гарри

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06.「より大きな暴力で」

 龍田は天龍の体を西の砂浜に下ろした。うつ伏せになっていたので、仰向けにしてやり、顔から砂粒を払った。閉じられていた右のまぶたが上がり、隻眼が島の主を捉える。だが彼女にできることと言えばそれだけであり、また彼女自身それ以上のことを何かしようとは思っていなかった。龍田を殺そうと試み、それに失敗して、殺されずにいる。天龍は、敗者にしてはかなり恵まれた展開じゃないか、と考えたが、それをもたらしたのが五十鈴であることを思うと憂鬱になった。二人は特別親しい仲ではなかったが、顔を合わせれば挨拶をして雑談を交わす程度には互いを知る間柄だった。知人がほんの数日でああも変わってしまったことに、天龍は困惑を禁じ得なかった。

 

 しかし、龍田に詳しく尋ねることはできない。五十鈴の言葉に対応して起こった感情の爆発は、天龍も知っているものだった。戦闘ストレス反応、それも遅発性のものだ。それが龍田の起こしたこの事件の根底にあるんだ、と天龍は確信した。そして笑いそうになった。体の節々の痛みさえなければ、声を出していただろう。軍の情報が間違っていなかったなんて滅多にないことだ、と。鈍くうずく、龍田にナイフで刺された傷のあった場所を撫でる。島の主は五十鈴に天龍を撃たせるふりをした後、考えを変えて天龍の負傷を治療したのだった。血を流し過ぎて動けないだろうから、脅威ではないと判断されたのかもしれなかったが、生きているなら理由がなんだろうと天龍は甘んじて受け入れられた。

 

 彼女をそこに置き去りにして来た道を戻ろうとする龍田の背中に、発声で生まれる痛みを我慢できる最大限の大きさの声で、天龍は言った。

 

「そう急ぐなよ。少し話でもして行かねえか?」

 

 誘った当の本人も驚いたことに、龍田はその言葉を無視しなかった。足を止めて、「どうして?」と訊ね返したのだ。その四文字の言葉は、天龍には「どうして話をする必要があるのかしら?」と聞こえた。が、彼女は話せるとはいえ死に掛けた身であり、そのふてぶてしさは龍田を遥かに圧倒していた。

 

「いいから座れよ。お互い今更、どっちかを殺そうって話にはならねえだろ」

 

 数秒の沈黙の後に、龍田は迷いを払おうとするような大股で天龍の右に来ると、砂の上に腰を下ろした。薙刀を地面に突き立て、柄に腕を回して彼女は体を支えた。その顔を下から見た天龍は嬉しくなって、唇の端を吊り上げた。龍田の表情は、何故自分を殺しに来た相手の言うことを聞いてこうしているのか分からない、とはっきり語っていたからだ。殺し合いは面白くない結末に終わったが、普段いつも余裕綽綽の姉妹艦のこんな顔が見られるなら、そのことは我慢してもいいな、と天龍は思った。彼女にとってこの龍田は『自分の』という言葉を頭につけて呼べる相手ではなかったけれど、そのことは考えなかった。

 

 十秒か、二十秒か、話をしようと誘いを掛けた方も、それに乗った方も、空を眺めていた。何か面白いものが見える訳でもなければ、流れ星の一つもなかった。気の利かない空だ、と天龍は心の中で罵り、自分で話題を探し、見つけた。島に来てからというものの、彼女は是非龍田を殺す前か、自分が殺される前に、このことを聞いておこうと思っていたのだった。天龍は龍田の尻を指でつつくと、剣呑な視線を向けてきた彼女に平気な顔で尋ねた。

 

「なあ、一体何処から地雷だの何だの手に入れたんだ?」

「普段どんな任務をやってるの?」

「下手なごまかしだな。いや、違うのか? いつもは水上警戒任務だけどよ、それがどうした」

「私たちは輸送船団の護衛任務と、この島のレーダーサイトの保守点検だったの。民間の輸送船も、軍の輸送船も護衛したわ。日本の船も、外国船も」

 

 ああ、それでピンと来たぜ、と天龍は言った。彼女も噂に聞いたことがあったのだ。民間の輸送船、特に国外の民間船の中には、『公的には存在しない貨物』を運んでいるものがある、と。龍田が護衛した内の幾つかは、そういった貨物を載せていたに違いなかった。それを押収したのかと聞くと龍田は首を横に振り、黙っている代わりに金を要求し、その金で貨物の一部を買い取ったと告白した。天龍は思わず吹き出し、その行為は即座に痛みという結果になって彼女に跳ね返ってきた。けれどその痛みも、彼女の愉快な気持ちを萎えさせたり、表情を渋いものにはさせなかった。

 

「マジかよ、度胸あんなあ。地雷って一個何円ぐらいするんだ」

「種類によるけど、一万円から五千円ほどだって。私が買ったのは五千円だったけど、仕入れ値はその一割もしないそうなのよねぇ」

 

 驚きの表現として、天龍は目をぐっと見開いた。だが龍田に見て取れたとは思えなかったので、改めて言葉に感情を込めて答えた。

 

「ぼろ儲けだな。五千円か……この前買った空気清浄機がそれぐらいだったぜ」

 

 くすくすと抑え目の笑い声が、龍田の口から漏れる。彼女は左手で天龍の髪の毛をくい、と引っ張って、皮肉っぽい声で言った。

 

「ありがとう、あなたのお陰でこれから島の何処かで爆発音が聞こえる度に、炸裂する空気清浄機が私の脳裏に浮かぶわよ、きっと」

 

 それから話はここまで、という風に、彼女は立ち上がった。その動きが決然としていたので、天龍にもこれはもう止められそうにはないな、と分かった。でもそのまま行かせるには、二人は既に多くを話し合いすぎていた。天龍は目一杯背を反らし、首を曲げて後ろを見て、天地が逆転した視界に龍田の去り行く背中を捉えた。先ほど殺そうとした相手に抱くのが不思議なほど優しい気持ちになって、天龍は思わず声を発した。発さずにはいられなかった。

 

「どうせ次が来るんだ。その次も。そのまた次だって。ここから自分で出てくるか、無理やり引きずり出されるか。よく考えて、好きな方を選べよ、龍田」

 

 声を掛けられた彼女は一度だけ振り返ったが、言葉を返しはしなかった。龍田は夜の暗がりの中に姿を消し、天龍は体の痛みに向かって悪態を一つ吐いて、夜空を見上げた。星が綺麗で、一日の疲れですさんでしまった彼女の心を、その美しさが愛撫して安らがせてくれるのを感じた。負けて死にかけ、冷たい風の吹く砂浜に置き去りにされているというのに、何だか気分がよかった。「暖かい飲み物と鎮痛剤さえあれば、今日はよく眠れそうだ」と呟いて、天龍は救助が来るまで空を眺めて時間を潰すことにした。

 

*   *   *

 

「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒーで。砂糖は結構」

 

 吹雪の注文を聞いて、那智はその通りに自動販売機のボタンを操作した。紙コップが落ちてきて、注文に従ったレシピのコーヒーを注ぎ始める。それは海上保安庁が急遽寄越した巡視船の援護の下、天龍を乗せたヘリが島に向かってからというもの、泊地司令部の休憩室で何度も繰り返された光景だった。注文した直後にヘリが撃墜されたと知らされた時には、動揺からコップを取り出す前に二杯目の注文をしてしまい、自販機の中をコーヒーまみれにしてしまったが、今は不安よりも焦燥が那智の心にくすぶっていた。墜落したヘリの乗員は巡視船が全員救助して無事を確認しているが、彼らの言によれば天龍はヘリから飛び降りたという。通信がないのは、通信機を失ってしまったからか、着地に失敗でもして死んだか──何も分からずに待つしかない状況は、那智に大きなストレスを与えていた。

 

 コップを取り出し、吹雪に渡す。そして自分の為に、砂糖をたっぷり入れたコーヒーを注文した。既に日が落ちて長いが、天龍がどうなったか分かるまで、那智は休む気になれなかった。その為に砂糖とカフェインで眠気を叩いておこうという訳である。気を抜くと眠ってしまいそうになるので、油断はできなかった。那智は吹雪の様子を見て、一体どのような人生を過ごしてくれば、ここまで鉄面皮になれるものなのだろうと考えた。概して「吹雪」という駆逐艦娘は、元気で明るくはきはきとした、付き合いやすい性格をしている。ところがこの吹雪は口数少なく表情の動きも小さいし、お世辞にも付き合いやすい人物ではなかった。

 

 敏感に視線へと反応し、無感情に那智の目をまっすぐ見つめ返してくるところも、駆逐艦らしからぬ態度である。面白くなって話しかけるのでもなく眺め続けていると、特に意味はないものと理解したのか、吹雪は目をそらした。「部屋に戻るか」と那智が言い、「そうしましょう」と吹雪は賛成した。龍田と通信する為の携帯端末は肌身離さず持っていたが、彼女は自販機前でコーヒーを飲みながら話せるような相手ではない。那智には何が龍田を爆発させるのか分からなかった。島を占拠して、泊地を攻撃するだけの理由があったのだろうが、前回の短い会話の間に龍田は一言だってそれについて自分から言おうとはしなかった。それどころか、聞こうとしたことが彼女に会話をやめさせたのだ。

 

 廊下を歩きながら、龍田の目的は何なのだろうかということについて、吹雪と話し合う。情報が少なすぎて、どんな意見も想像の範疇を出ないものにしかならなかった。ここ数時間での追加情報は「龍田の私室を調べた結果、彼女は暫く前から外部の心療内科を受診していたと見られることが分かった」というあやふやなものしかなく、それは彼女が起こしたこの騒ぎの根本的な原因を吹雪や那智に悟らせても、より具体的な動機までたどり着かせるものではなかった。無論二人はその話を聞くだけで何もしなかったのではない。龍田を診療したという医者に会おうとしたのだが、占拠事件を表沙汰にすることを避ける為に泊地総司令は許可を出さず、また龍田の行った病院の名を伏せたのである。

 

 那智は軍警に協力する民間人であるが故に、海軍内の力関係と無縁でいられるという点を利用し、「それでは今回の事件を解決したとしても、また似たようなことが起こるのは止められない」と指摘したが、「事件が終息していない状態で世間に知られれば、戦中組の現役艦娘や元艦娘への偏見を招く」と反論されると、黙るしかなかった。確かにその蓋然性(がいぜんせい)は否定できなかったからだ。そして那智は軍でも特設高校でも、数多くの教え子を抱える身だった。彼女たちが世間から色眼鏡で見られるなどという事態は、到底許しがたいことだった。会話が少し止まってから、彼女は吹雪に言った。

 

「昔と違って単純には行かないな、吹雪秘書艦」

「仕方ありません。戦後ですから」

 

 その言葉を聞いて、元教官は足を止める。秘書艦は二歩前で止まり、振り返った。那智は訊ねた。「龍田もこんな気持ちだったんだろうか?」吹雪は黙して、視線をかつての同僚に向けている。再度歩き始めながら、那智は考えに耽った。龍田は問題を抱えていた。()()()()()()()()()()()。それも以前からずっと、だ。民間の心療内科に掛かったのは、軍の専門家に診られたくなかったからかもしれない。民間でなら、どんな診断が下ろうとも自分の意志で結果を秘匿できる。軍のはそうは行かない。“傷病除隊”させられるのが嫌だったのだろうか? 艦隊員たちから離れるのが嫌だった?

 

 未だに全貌は見えなかったが、気づきもあった。龍田は艦娘であり続けたかったのだ。けれどもその精神は、彼女が艦娘である間に起こったことでずたずたになっていた。姉と慕った同期の天龍が戦死したことや、指揮下の艦隊員たちが沈んだこと、龍田自身が死に掛けたこともあっただろう。そういった出来事が、彼女をして艦娘であり続けることを難しくさせた。艦娘でありたいと欲する龍田の気持ちと、艦娘だったことで傷ついた龍田の気持ち。両者はぶつかり合い、龍田を疲弊させ、正気を失わせ、助けを求めて手を伸ばさせ──そうしてその手が届かなかった時、龍田は彼女がまともでいられた時まで時計の針を戻そうと思った。この考えは、那智をはっとさせた。つまり龍田は今、戦中にいるということなのだ。なら、彼女の戦争を終わらせてやれば、この事件も終わる。

 

 でも、どうやって? それはまたしても、那智には答えの出せない問いだった。部屋に戻るまで考え続けたが、進展はなかった。通信機器の前の椅子に腰を下ろし、コーヒーの入った紙コップを機器の上に置いて背伸びをする。ぽきぽきと軽快な音が鳴った。重力に逆らって立つのをやめると、途端に眠気が押し寄せてきた。ダメだとは思いつつも、まぶたが下りていく。視界が暗闇に覆われたところで力を入れて目を開き、コーヒーを喉に流し込んだ。まだ熱い液体が体を痛めつけながら通っていき、瞬間的に眠気を散らす。砂糖とカフェインの効果が切れればすぐに戻ってくるのは分かっていたが、今は起きていられる。那智は横目で部屋の隅の椅子に座って眠っている龍田の提督を見て、肝っ玉の太い男だ、と考える。

 

 その時、通信機器がノイズを発した。那智は慌てて通信機を操作し、誰かからの呼びかけに備えた。電波状況が悪いのか、声が聞き取れるようになるまでに数秒掛かった。「教官? 聞こえてますか?」それは龍田の声だった。那智は溜息を吐きそうになって、歯を噛み締めた。()()()()()()()()()。「ああ、よく聞こえているよ、龍田。どうした?」答えながら、教え子の死を思って左手で心臓の辺りをぎゅっと掴む。久しく感じていなかったその痛みは、那智の記憶の中にある同じものより何倍も身に堪えた。龍田は言い出すのを躊躇う風な息を漏らした後で、観念したように告げた。

 

「島の西部にある砂浜で、迎えを待ってる子がいるんです。彼女は生きてます。連れて帰ってあげて」

「分かった、そうしよう」

 

 応じながら、那智は痛みが和らいでいくのを感じた。龍田は天龍を殺さなかったのだ。いや、とそこで思考を止める。思えば、彼女はまだ一人も殺していないのではないか? 最初の泊地に対する攻撃でも、警戒艦隊への先制打撃でも、彼女は誰も殺さずに済ませている。五十鈴は拉致こそされたが、殺害は確認されていない。艦娘殺しができないのか、避けているだけなのか。どちらにせよ、那智は『何故』という疑問を持たずにはいられなかった。その謎を解き明かすには、龍田の頑なで、複雑に入り組んだ迷路のような心を和らげねばならない。その為にもまずは、彼女と対話する必要があった。

 

「船を送らせるから、撃たないでくれよ。他に何か必要なものはあるか? 風邪を引いても、そこでは医者にも掛かれないだろう」

「話を、話をしたいです」

 

 即答だった。それも、好都合な答えだ。那智は物事が一つ上手く転がり始めたことに気を良くした。「私もだ、龍田。お前と話をしたい。何について話そうか?」通信機の向こうにいる龍田は、今度は即答できなかった。荒い息遣いだけが聞こえてきていたが、那智は彼女に声を掛けなかった。何とかして相手に伝わるようにと言葉を選び、まとめようとしているのが分かったからだ。そういう時に余計な口を挟むと、相手を混乱させ、その頭の中をぐちゃぐちゃにしてしまうだけに終わるということを、教師としての経験から那智は学んでいた。やがて、龍田は言った。

 

「終戦の時から今まで、何処にいらしたんですか?」

「終戦時か? 私は解体待ちで、家にいたよ。退役艦娘向けの特設高校に教師として就職しようと思っていたから、その勉強をしていた。テレビの臨時ニュースで終戦を知ったのを覚えてる。その後に就職試験を受けて合格し、どういう訳か艦娘のまま教師をやってもいいということになった。それからは学校勤めだ。曇り一つない幸せって具合だな。お前はどうだった?」

「私は輸送隊の護衛艦隊として、海の上にいました。いきなり通信が飛んできて、『戦争が終わった』と。みんなお祭り騒ぎでも始めそうな調子でしたけど、私は、ここはまだ海だと艦隊に通達して大人しくさせました」

 

 自分が龍田だったとしても、同じことをやっただろう、と那智は思った。終戦とは言っても、世界全ての海のあらゆる場所から脅威が失せたという訳ではなかったからだ。融和派深海棲艦と人類は和平を結び、共に主戦派を滅ぼしたが、その残党はまだまだ残っていた。本土の民間人たちにとって戦争が終わったからと言って、海の上で気を抜いていられる時代は未だ遠かったのである。龍田は後悔の色を濃くにじませた息を吐くと、話を続けた。

 

「終戦前の最後の大規模作戦には参加しましたか? 敵性深海棲艦本拠地攻略戦、でしたか」

「ああ、したぞ。私のいたところの艦隊は、全員参加した筈だ。退役の少し前だった」

「私はその時も、護衛艦隊を指揮していました。作戦前に、執務室まで押しかけて参加したいと訴えたんですが、その場で却下されて」

 

 龍田がやけに悔しそうな声を出したので、那智は応じる言葉を失って口を閉じた。明らかに、龍田の口ぶりは彼女がその作戦に参加したがっていたことを示唆していた。しかし、大規模作戦には危険がつきものだ。スペックに特筆するところのない天龍型軽巡艦娘や、輸送艦隊護衛専門の駆逐隊には荷が重い。龍田の提督も、そういったことを考えて彼女の艦隊を作戦から外したのだろう。それは何らおかしなところのない采配であり、むしろ参加したかったと嘆く龍田の方が奇妙な存在だった。那智には、彼女が好んで戦闘に身を投じるタイプであるようには思えなかった。それはどちらかと言えば、天龍の言いそうなことだ。

 

 吹雪に肩を叩かれて、那智は視線だけ彼女にやった。ハンドサインを交えて、海保に天龍の回収を頼んでおいた、と伝えられる。頷いて謝意を表すと、吹雪は軽く頭を横に振って通信に戻るように示した。言われた通り、龍田の言葉に耳を傾ける。そこには彼女の感情が渦巻いていて、今にも荒れ狂いそうだというのが那智にも感じ取れた。「あれは、戦争を終わらせる為の作戦でした」と龍田は言い、那智はそれに賛成しながら、当時のことを思った。あの作戦は、融和派深海棲艦が人類と同盟した後も頑強に抵抗を続ける主戦派を、なるべく一つ所に集めて全力で叩くという、単純だが勝てれば効果絶大な作戦だった。そして人類と融和派が勝ち、主戦派が壊滅し、戦争は終わった。

 

「だから私も参加したかった。でも、それが終わらせたのは……誰の戦争だったんです?」

 

 その質問を発したところで龍田は、こらえられない、という風に笑い始めた。笑いながら、彼女は自分の質問に対する答えを一つ一つ潰していった。

 

「あなたのですか、那智教官? いいえ、違うでしょうね。あなたの右腕はもう元に戻らない。顔の火傷も戻らない。毎日鏡を見る度に、あなたはそこに戦争が続いているのを見つけられる。あるいはあなたの旗艦を務め、生き延びる為に天龍ちゃんを死なせたあの子の戦争は? これも違いそうです。だって、天龍ちゃんを見捨てた記憶が薄れるなんて、きっとあり得ない。亡くした戦友、傷ついた戦友、誰も元には戻らない。……じゃあ、私の戦争は? ええ、絶対に違うわ。天龍ちゃんを失った。沢山の僚艦を失った。なのに私はいつも生き延びた。陳腐な話でも、忘れられる訳がない。そうですよね、那智教官? あなたにも何か、魂に刻み込まれたように忘れられない記憶があるでしょう」

「さあね。教師として子供たちの面倒を見るのに精一杯で、最近は昔のことなんか思い出す暇もないんだ。全く、教師がこんなに忙しいと知っていたら、大学でもっと別のことを学んでいただろうに。私生活なんて存在しないようなものだぞ」

 

 そう答えながら、那智は龍田がまだ笑っていることに小さな怒りを覚えた。通信機の向こうの彼女は、かつての教官の言葉を自分が信じていないということを、あからさまにその態度で示していた。普段なら那智は、こういった押しつけがましい振る舞いに対しては断固とした反応を見せることにしていたが、今日だけは例外的な対応を余儀なくされた。まだ龍田は上機嫌だが、次の一言で最悪の精神状態に陥るかもしれないのだ。その結果としていらぬ血が流されるくらいなら、多少の我慢ぐらい安いものだった。忍耐の二文字を強く意識しながら、龍田との会話を続ける。

 

 島の主はおどけるような口調で訊ねた。「先生だなんてぴったりじゃないですか。教えて下さい、学校でどんなお仕事をしているか、聞いてみたいんです」那智が答え始めるまでには二秒掛かった。彼女の頭の中で職務上の秘密に当たらない喋ってもよいことと、規定上話すことの許されない情報が選り分けられるのに、それだけ要したからだ。返事の最初の言葉を口にしながら、那智は自分が軍人時代から相当様変わりしてしまったのを認めずにはいられなかった。彼女が軍の艦娘だった頃には、滅多なことでは機密情報を知らされることがなかったから、「何についてなら話してよいか」ということを考える必要性がそもそもなかったのである。

 

「色々だ。授業計画を立て、授業をし、テストを作り、採点し、問題のある生徒の話を聞き、特に重大な者はカウンセラーのところへ送り、規則違反者を叱り、進路相談に応じ、部活の顧問を務め、職員会議に出席し、時々喧嘩の仲裁をしたり、校門で朝の挨拶を担当することもある。家に帰っても学校で済ませられなかった書類仕事の続きや、進路相談の為の調査をする。休日も似たようなものだ。出会いもないし、この分だと生涯独身を貫くことになるかもしれんな。まあ、私はそれでも構わんが」

「でも、一人は寂しいですよ、教官。私も天龍ちゃんがいなくなってしまってから、それに慣れるのに随分掛かりました。私たち、艦娘用宿舎の同じ部屋で暮らしてたから……今でも朝、目が覚めた時、たまに天龍ちゃんを探してしまうんですよ。おはよう、って言おうとして。それで、本当に、本当に滅多にないんですが、天龍ちゃんが『おはよう』って言ってくれたのが聞こえたような気になることも、あるんです。そうすると決まって胸が痛んで、気が塞ぎます」

 

 医者には行ったのか、と答えが既に分かっていることを聞きそうになって、那智は口をつぐんだ。龍田はまた笑った。自嘲的な、乾いた笑いだった。

 

「何となく、教官が私に訊ねたい質問が分かる気がしますから、お答えしておきますが、ええ、病院には行きましたよ、もう何回も。この痛みを止める為に、自分にできる限りのことはしたつもりです。教官は病院には行きましたか? 痛みの調子はどうです?」

「入隊した時に比べてずっと年を取ったが、体に痛みが出るほどじゃない。病院は怪我もないし、定期健診を除いて行ってないな。毎回肝臓について小言を聞かされるから、それだってやめたいぐらいだ」

 

 返事が途切れ、那智は歯を強く噛み合わせた。まただんまりに戻るつもりなのか、と言いかけたが、それが龍田の舌を滑らかにするとは思えなかった。背後にいる吹雪の顔を見たくなくて、無駄だと思いながら通信機を睨み続ける。そうすることで龍田が返事をしてくれると思っていた訳ではなかったが、吹雪の無感動で棘のある一言を貰うよりは、無意味な時間を過ごす方が那智の好みに合っていた。だが予想を外して、通信機は龍田側の音声を伝え始めた。彼女の言葉はなかったが、環境音が聞こえていた。それは、龍田が何かを言おうとしているが、言い切れずにいるということだ。那智は彼女の言葉を聞き逃さぬよう、通信機を操作してボリュームを上げたが、すぐにそのことを後悔した。

 

「どうして、ちゃんと話してくれないんですか? あなたが私を訓練した。あなたが私を艦娘にした。あなたのお陰で私は戦争を生き延び、生き延びたから痛みを抱えることになった。でも、私はそれから逃げなかったのよ? ちゃんと立ち向かった。傷も痛みも受け入れて、まともになりたかった。だから直視しようとして、し続けているのに、あなたは目をそらしてる! 私は戦って、毎日死にそうなほどつらいのに、私をそうさせたあなたが逃げて、私を置き去りにして!」

 

 那智を一瞬恐怖させるほどの情感に満ちた絶叫の後に、龍田が急に落ち着きを取り戻し、囁き声になる。すがりつくようなその声を聞いて、那智は彼女の深奥を再び見た気がした。

 

「ごめんなさい、教官、すみません、私はただ、あなたときちんと話をして、私たちの痛みを分かち合いたいのよ。そうして、受け入れたいの。戦争が終わったということ、その戦争で私がしたこと、されたこと、してしまったこと、どれも、全部。それは私の一部になって、もう引き剥がせないんだもの。でも、それは一人じゃ無理なのよ……」

 

 言葉の尻が嗚咽に変わり、それも小さくなっていく。那智は何度か呼びかけたが、無駄だった。彼女は通信を切り、疲れた顔で吹雪の方を向いた。最後の会話で一歩前進した、という確信があったので、彼女から何を言われても気にならないと思えたのだ。だからこそなのか、吹雪はあごに手を当てて考えるような仕草をしながら、何も言わずにいるだけだった。意地の悪い気分になって、那智は尋ねた。「どうした、秘書艦? 何か言わないのか? 『今度は大成功ですね』とか何とか、あるだろう」吹雪は彼女を一瞥し、ぴしゃりと言った。

 

「疲れているようですね。幸運にも、この部屋にはベッドがあります。寝ておきなさい。私は思いついたことがあるので、あなたが休んでいる間に手配を済ませておきます」

「おい、言っておくがな、私はもう軍人じゃない。ついでに言えば軍警職員でもない。命令されるいわれはないぞ」

「だとしても、従った方が賢明だということは変わりません。自分でベッドに入るのと、私に寝かしつけられるの、どちらが好みです?」

 

 那智は考えた。泊地に連れてこられて以来、ストレスの連続だった。最後に判断してここに来ることを決めたのは那智自身だったから、文句は言えなかったが、それにしても汚泥めいた鬱屈が胸に溜まっていたのは確かだった。寝る前に吹雪と共に体を動かせたなら、少しはマシな夢も見られるかもしれない。彼女はかつて海の上で敵に向かって見せつけていた笑みを再び浮かべ、吹雪秘書艦に言った。

 

「子守唄も歌ってくれるんだろうな?」

 

*   *   *

 

 吹雪にとって、心労と睡眠不足で動きに精彩を欠いていた那智を絞め落とすことは、そう難しいことではなかった。その気になれば、相手の攻撃など一度も当てさせずに片付けられただろう。けれど、那智が床の上で安らかな寝息を立て始めた時、吹雪の唇はしたたかに打撃されて切れ、傷口から血をにじませていた。それを吹雪は人差し指で拭い、血が赤いことを確かめるように眺めると、親指とこすり合わせる。申し分のない交戦だった、と彼女は思った。那智に自分を殴らせることで、彼女により心地よい眠りを与えられたし、ついでに「軍警司令秘書を殴った」という、ささやかな弱味を握ることもできた。

 

 那智を部屋備え付けのベッドに寝かせると、吹雪は携帯電話を取り出して時間を見ながら、海軍の次の動きを推測しようとした。彼らは天龍を回収して、その報告を聞き、まとめ、会議して、三番手に誰が行くのかを決めなければならない。だが二度の失敗を経た後では、慎重にもなるだろう。加えて青森の大湊警備府からの燃料弾薬が到着することも考慮すると、次は龍田を物量で押し潰すような、大規模な攻勢になる筈だった。吹雪はさっきまで那智が座っていた椅子に腰掛け、誰が行くことになるかを考えた。

 

 通常兵器で武装した海軍歩兵を送るという手は、艦娘案に比べてのメリットがなかったので、最初から考えるに値しない。更にこれまでの原則通り、龍田の脱走を誰かに知らせるのをなるべく避けたいなら、既に知っている艦娘たちから選ばなければならない。なら、龍田の提督が有する四個艦隊から、第一・第二艦隊で構成された連合艦隊を送るのが最有力案だろう。これより多数の艦娘を送るとなると対外的に刺激的すぎ、また隠しきれないし、罠のある島という限られたフィールドで活動する人数が一定数を越えると、むしろ龍田にとっていいカモになってしまう。一人一人罠や待ち伏せで削られ、撤退に追い込まれることになるのが目に見えていた。

 

 考え続ける。龍田は今回の攻勢を跳ねのけられるだろうか? もし龍田の対応力がここで限界を迎えるのなら、吹雪は無理をせず「事態の解決に協力した」程度の功績を持って軍警に帰るつもりだった。小さな功だが、事態を悪化させたとか、何の役にも立たなかった、と言われて帰るよりはいい。しかし、もしそうならなかったら? 海軍が自分で作った縛りの中で捻出し得る最も大きな打撃を加え、龍田がそれを跳ね返し、その上で吹雪の案が龍田を叩き伏せたなら──組織として新参である軍警察の実力を海軍や関係組織に示し、その発言力を大きく増すことができる。

 

 そして吹雪には那智に言った通り、龍田を仕留める為のアイデアがあった。椅子から立ち上がり、部屋を出てトイレに向かう。途中で夜警の艦娘に出会ったが、吹雪のことは「泊地へのテロを捜査しに来た」ものとして話が通っていた為、形だけの敬礼と返礼ですれ違っただけだった。女性用トイレに入り、盗聴その他の危険を回避する為に室内の全てのコンセントをチェックしてから、吹雪は携帯電話を取り出した。頭の中に入っている番号を打ち込み、通話ボタンを押す。

 

 最初の一度は数回のコールの後、留守番電話に切り替わった。二度目も、三度目も結果は変わらなかった。四度目になると、電話線を引き抜きでもしたのか、「お客様の御都合により」というお決まりの文句が流れ始めた。吹雪は改めて別の番号を打ち込み、またしても発信した。今度は最初の一回で相手が出た。

 

「とっても奇妙なのです。携帯電話の番号を教えていない相手から、間違いじゃない電話が掛かってくるなんて。ところで、時計を見なかったのですか?」

「すみませんね、電。日本と時差があることを忘れていました」

「単冠湾泊地はギリギリ日本だと思いますが。ああ、ごまかさなくてもいいのです、もう知っていますから。それで、どういう用件なのです?」

 

 口を開きかけて、吹雪はやめた。直接会って話をしたい、と電話先の電に依頼する。彼女は驚いたように声のトーンを上げて「直接、ですか?」と訊ねてきた。そして吹雪の肯定の言葉を聞くと、ぐずる子供のような唸り声を上げた。迷っているのは明白だった。吹雪は電の返事を待ちながら、断られても仕方ないし、きっとそうなるだろうと考えていた。それ故に、電が「では、すぐにそちらに行きますから、適当に話せる場所を見繕っておいて下さいね」と言った時、「分かりました」と答えるのにごくごく短い遅れが生じた。それだけで電は自分が吹雪の予測を外したということを知って、溜飲が下がったという風に声を出して笑った。吹雪は面白くなかったが、彼女とのこういったやり取りはそれなりに回数を積み重ねていたので、不機嫌にはならなかった。

 

 二、三の細かい打ち合わせを済ませてから、電話を切る。電と会うのは気が進まなかったが、吹雪には彼女と会わずに目的を達することは不可能であるように思われた。溜息一つで気持ちを切り替え、違う相手へと次の電話を掛ける。結局、吹雪がトイレを出たのは入ってから二十分も経ってからだった。廊下を歩いて那智らのいる部屋に戻りながら、天龍が戻ってくるのはいつ頃になるだろうかと考える。最初の連絡を受けて迅速に巡視船を回してくれた海保のことだから、回収もそつなくやってくれるだろうという期待があったが、吹雪は戦中の経験からそういう期待を当てにしないことにしていた。

 

 海保が送ってくれた巡視船のスペックと装備を記憶から呼び出そうとする。吹雪にも疲れが溜まっていたのか細かい数字などは出てこなかったものの、最大速度が時速約四十キロ少々といった程度だったことと、ヘリ二機搭載型だったことは思い出せた。海保のヘリを落とされたらかなわないということで、現在巡視船に積まれているのは海軍所有の汎用ヘリとそのパイロットだが、それも僥倖だった。海保より海軍の機体の方が足が速いからだ。時速三百キロで島から基地へ飛ばしてくれれば、二時間と掛からない。吹雪は海保の巡視船側に天龍の情報を伝え、救出を提案しただけの自分を迂闊に思い、己を戒めた。救助方法やその後の動きを指定し、到着時刻も聞いておくべきだった。

 

 無論、オブザーバーでしかない吹雪が細かく天龍救出を取り仕切ろうとすれば、海軍に軍警の介入を跳ねつける格好の理由を与えてしまうことになるから、余り詳しく計画できなかったという仕方のない一面もある。そのことをきちんと認識していた吹雪は、いつまでも自責ばかりしていずに、想像力を働かせた。巡視船側はあの後、きっと海軍と改めて連絡を取り、泊地側に迎え入れの準備を始めさせたことだろう。天龍が負けたということは、止血などの治療がされているかいないかに関わらず、負傷したということも間違いあるまい。となれば、入渠は避けられない。話を聞くにしても何にしても、傷を治して天龍が話せるほどに回復するのを待つ筈である。

 

 しかし彼女が回復した後でも、吹雪は自分たちが天龍と直接話す機会を与えられるとは思えなかった。軍が聞き取り調査をして、その結果を渡されるだけだろう。そこには無意識なバイアスが掛けられていたりするかもしれないし、故意に情報が抜かれていることもあり得る。海軍の流れを汲む組織であるとはいえ、彼らと軍警は決して蜜月の時を過ごしている訳ではない。別々の組織として、手柄の奪い合いや多少の妨害があるのは当たり前だと吹雪は信じていた。だからこそ彼女は海軍よりも先に天龍と話したかった。そして今度も、吹雪はいい解決方法を思いつくことができた。

 

 部屋に戻り、那智と龍田の提督が寝ていることを確認してから、通信機の載せられた机の前にある椅子を少し引いてくるりと回し、座った者が机に対して右を向くようにした。そこに座って目を閉じる。寝つきのよい彼女は、たちまち浅い眠りの中に落ちていった。まどろみと大差ないそれは、ノックの後で部屋に入ってきた誰かが提督を起こし、小声で彼に天龍がもうすぐ帰還することを知らせるまで続いた。吹雪は寝ているふりをした。提督が自分を起こさずにそのまま行こうとすれば呼び止めて何があったのか聞けばいいし、情報を共有しようとしてくれるならそれはそれでよかった。提督は躊躇するように二歩三歩と足を進めたり戻ったりした後で、吹雪の右肩を揺すって起きるように促した。

 

 彼が十分に強く力を入れて揺さぶったのと同じタイミングで、目を閉じたまま背もたれから身を滑らせ、左手側の机に向かって倒れこむ。提督が短く大きな声を発した直後、吹雪は目を開いて、わざと自分の左目を机の角に強く叩きつけた。苦痛の声が漏れそうになるのを噛み殺しながらそのまま床に落ち、左手で潰れた目を押さえて右手で床を何度か殴る。後半は演技だが、気分はよくなかった。息を荒げて無事な右目で提督を見上げると、彼は硬直していた。己も寝起きだったことが、彼の判断力を鈍らせていたのかもしれない。そんな彼を相手に、痛みはあっても冷静な吹雪が、入渠施設利用許可を取り付けることに苦労する訳がなかった。

 

 いつの間にか起きていた那智の冷たい疑念の視線を背中に受けながら、吹雪は提督と共に部屋を出て、入渠施設へと向かった。施設に入ってドックへと向かう廊下を歩いている最中、後ろから天龍を載せた車輪付担架がやってきた。彼女の側にいた提督や医療班の会話に耳を澄ませ、天龍の肉体的疲労を考慮して高速修復材を使用しない、という判断を聞き取り、それは好都合、と吹雪は評した。担架の後に続いて入渠用ドックに入ろうとすると、医療班の一人に止められる。後で別のドックを準備するからそちらを、と言うその男の前で、吹雪は左目を覆っていた手をゆっくりと外した。

 

 彼は道を譲ってくれた。

 

*   *   *

 

 電が単冠湾泊地にほど近い場所にあるホテルに到着したのは、その日の正午を数時間ほど過ぎた頃だった。常日頃から身軽さを保つようにしている彼女の荷物は軽かったが、足取りは打って変わって重かった。それは疲れのせいもあったが、これから彼女が会うことになっている艦娘、吹雪のせいだという意見が本人の中では大勢を占めた。電にとってこの吹雪はどうしても好きになれない、数少ない人物の一人だったのである。それは二人の立場の違いや、辿ってきた道に起因する嫌悪だった。

 

 戦争中、内陸国でも島国でも、人間社会が致命的な患部として弾圧していた集団が存在した。俗に深海棲艦融和派と呼ばれたこのグループは、深海棲艦との長い戦争の間、政府が公的に表明していた見解、即ち、人類と深海棲艦は相容れない存在であり、どちらかがどちらかの最後の一人を地球上から排除するまでこの戦いは終わらない、とする意見に、強弱問わず反対する人々の集まりだった。彼らは戦争を止める為にビラを巻き、地下出版を行って言説に訴え、時には暴力を用いることもあった。彼らは戦争が続くに連れて緩やかに影響力を増して行き、終戦前には構成員に海軍から脱走した艦娘を含む軍人が混じっていることも、全く珍しくなかったほどである。

 

 電も脱走者であり、今も彼女が属しているグループに身を寄せてからは、一派の指導者である正規空母艦娘「赤城」の片腕を務めて生きてきた。融和派の“駆除”を専門とする海軍の刺客に殺されかけることも、彼女は片手で数えきれないほど経験している。それは電にとって、悪夢のような時代だった。戦争に終わりは見えず、厳しい弾圧が続き、グループが匿っていた僅か数人の、人類と和平を結びたいと訴える深海棲艦たちだけが、「人と深海棲艦は分かり合える」という信念の支えであり──端的に言えば、詰んでいた。

 

 それを救ったのが吹雪であり、彼女の提督である。彼女たちは終戦という共通の目的の為に電たちと手を組み、肩を並べて戦った。が、それは共通の理念に基づいたものではなかった。吹雪の提督は、あくまで終戦をもたらすことによって得られる個人的な栄誉や、物質的な利益のことしか考えていなかったのだ。電はそういう俗世的な価値観が、いかに容易く暴力と悲劇に結びつくかを知っていた。だから吹雪の提督のことも、それに付き従う吹雪のことも、好きにはなれなかった。だが終戦前はまだよかった。いつか破滅するに決まっている、と決めつけて、笑っていればよかったからだ。

 

 ところが破滅など訪れず、それどころか電たちと吹雪たちの協力体制は、数々の難局を切り抜けて本当に戦争を終わらせてしまった。吹雪と彼女の提督は海軍から艦娘と深海棲艦の犯罪を取り締まる警察組織に所属を変え、電と彼女の指導者は人類と講和した多くの深海棲艦たちの代弁者になった。今や彼女たちは、互いの利益が対立する間柄だった。しかも共闘関係を結んでいた関係上、電たちの手口も熟知している。腹芸や政治的思考の苦手な電には、やりにくい相手だった。電は己を励ます為に、自分がこれまでに数回ほど吹雪と暴力抜きで対立し、勝った時のことを思い出そうとしたが、よみがえるのは吹雪にやり込められた記憶ばかりだった。

 

 ホテルに着いた電は部屋に荷物を下ろすと、朝昼の食事を逃したせいでじくじくと痛む胃を慰めることにした。せめて何かおいしいものを食べて英気を養おうと心に決めた彼女は、部屋を出てホテル内のカフェへと歩き始めた。彼女のいつもの職場ではよく見かける深海棲艦が一人もいないという光景に、奇妙な違和感と快い非日常感を覚えながら歩を進める。カフェテリアに入り、店員の案内を受けて席に着き、メニューを上から下までじっくりと見つめた。空腹の電には、どの料理も天上の料理に思えた。その中でもこれはと思うものを見つけ、店員を呼ぶのに右手を上げようとする。

 

 が、電はその手を下ろしてテーブルの上に置いた。カフェの入り口前に、吹雪が立っているのを見つけたからだった。その後ろからは、彼女が直接会ったことのない那智もついて来ていた。吹雪は電のところまで来ると、手を差し出した。「来てくれてありがとうございます」電がその手を握ると、引っ張られて立ち上がらされる。そうなることを読めていた彼女は、今更吹雪に文句を言ったりしなかった。三人でホテルを出て、駐車場の車に乗り込む。那智が運転席に座り、走らせ始めた。彼女のことを吹雪の連れてきた運転手だと考えて気にしないようにしつつ、電は本題に入った。

 

「それで、どういう用件ですか?」

 

 吹雪が「実は」と言いかけたところで、ぐぐぐ、という音に邪魔されて口をつぐむ。吹雪は電を見た。電は吹雪を見た。那智が言った。「私じゃないぞ」気まずい空気の中で、鳴らした本人が短く釈明した。「ここに来る為に色々と仕事を片付けていたせいで、今日の電は朝昼抜きなのです」じゃあ軽食でも取りながら話しましょうか、ということになって、三人は手近なところにあった飲食店に向かった。電はそれが通常のレストランかカフェであることを祈ったが、その想いは吹雪の「人に聞かれたくないので」という真っ当な理由によって裏切られた。

 

 コンビニの駐車場に止めた車の中、ファストフードのドライブスルーで購入したハンバーガーの包みを開けながら、電は何処で歯車が狂ったのか考えようとした。そもそもここに来るべきではなかったのかもしれない、と感じたが、来てしまった以上は既に手遅れだった。今になって手を引こうとしても、吹雪から逃げられると彼女には思えなかった。どんな話だとしてもとっとと済ませて帰ろうと決心した電は、食事が終わるのを待たずに話を始めるよう、吹雪を促す。彼女はポテトをつまんでいたところだったが、指先についた塩の結晶をちろりと舐め取ると、切り出した。

 

「深海棲艦の艦隊を貸して下さい」

「あの、それは……問題、ないですか?」

 

 時間稼ぎの為に、問題がないからこそ吹雪がこう頼んできているのだという確信を無視して、電はそう訊ねる。彼女の頭の中では既に、その頼みに応じることが決まっていた。吹雪が「深海棲艦の艦隊」という表現を用いたからだ。それはとりもなおさず、彼女たちの血と暴力を必要としているという意味だと電は見抜いていた。これはただごとではない、と判断し、彼女は早速今度の取引で何をどれだけ軍警から搾り取れるか計算を始めた。政治的譲歩、資金、何らかのコネクション。思いつくどれを取っても、電たちが吹雪たちから手に入れたくて仕方ないものばかりだ。降って湧いたようなこの大口の取引に、電は先ほどまでの後悔を忘れ、口元がにやけそうになった。

 

 無論、危険はある。今回、電は独断で吹雪の呼び出しに応じていた。彼女が正式なルートを用いずに接触してきたことを、「今度のやり取りはお互い上に言わずに済ませよう」という意思表示だと考えた為である。つまり、この場にいるのは個人としての電であって、融和派としてではないのだ。その彼女が不用意に所属組織を動かすようなことをすれば、内部での立場の悪化に繋がる可能性もあった。深海棲艦の艦隊を彼女たちが必要な場所へ投入することはできる──しかしそれで一人でも沈んだら? 人間や艦娘には分かりづらいものの、あらゆる深海棲艦は同級・同型においても、それぞれが別々の個体であり、人類と同程度の知性を持つ人型深海棲艦であれば、個々に固有の思想・信条・性格を有する。姿だけ同じ誰かを補充して隠す、などということはできないのだ。

 

 そのようなリスクを承知の上でも、電の判断は揺るがなかった。彼女の信念はひたむきに、人と深海棲艦の調和を望んでいたからである。その為には社会に率先して関わり、それを主導していくことが不可欠であり、また主導する以上に血を流してでもそれを防衛しようとする態度が欠かせなかった。吹雪の誘いは、長年自分たちを世界の敵として弾圧してきた当人たちに向かって、()()()()()深海棲艦には人類とその世界を守るだけの能力と覚悟があり、決意があるということを示す絶好の機会だったのだ。電とてかつての宿敵に手を貸すことへの屈辱感を覚えないではなかったが、そのようなものに囚われずに正しい選択ができるということに、大きな誇りを感じもしていた。

 

 それに、と電は心の中だけで笑った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。吹雪の「問題ありません」という無感情な返事を受けてからたっぷり十数秒のもったいぶった間を開けた後、電は声を落として囁いた。「都合のいい艦隊がいるのです。実力があって、危険で、消耗品の、少数」話し相手の眉がぴくりと動いて、彼女の感じた興味を示した。会話のイニシアチブを握った駆逐艦娘が、貼り付けた笑みを崩さないままに告げる。

 

「つい先日なのですが、各地から敵対的な深海棲艦の残党が投降してきています。投降したからには沈める訳にも行きませんし、かといって終戦から年単位で潜伏していたような相手を、そう簡単には信用できません。処分担当の電としては、どうしたものか困っているのです」

「今回の事件を解決すれば、信用してやる、という取引を持ちかけるのですね?」

 

 吹雪の質問を、電は鼻で笑った。秘書艦の口元が不快げに動いたが、彼女は自分の発言が下らないものだったということを認めて、電への仕返しはしないことにした。横で二人の会話を聞いていた那智は、なるべく電の口にした「簡単には信用できません」の「簡単」がどういう意味なのかを考えないように務めたが、海軍生活で鍛え上げた彼女の集中力を以ってしても、死ぬまで信用しないつもりだろうな、と考えてしまうのを止めることはできなかった。電は視線を上方にさ迷わせながら、気兼ねなく動かせる捨て駒の艦隊の構成を告げた。

 

「戦艦タ級、重巡リ級エリート、空母ヲ級フラッグシップ。過剰戦力ですけど、龍田さんには是非頑張ってあがいて欲しいのです」

「そうするだろうさ」

 

 那智が皮肉を含んだ声色で呟いたので、電はこの無礼な艦娘を睨みつけた。しかし彼女はすぐに相手への興味を失って、吹雪との折衝に戻っていった。


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