We, the Divided   作:Гарри

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09.「一人だけの艦隊」

 雨は時間が経つにつれて激しくなっていった。その雨音で、ごく浅い眠りの中にいた龍田は目を覚ました。もぞもぞと起き上がり、伸びをしながら腕時計で時刻を確かめようとしたが、壊れて止まっていた。それを外して捨てると、彼女はレーダーサイトの時計を見た。早朝と言っていい時間帯だった。寝起きの倦怠感を引きずりながら、彼女は立ち上がり、持ち込んだ道具類の中から、フードの付いた暗い緑色の合羽を引っ張り出して着込んだ。外に出るつもりだった。艤装はどうしようかと迷ったが、ちょっと朝の散歩を楽しむだけだということで、薙刀と天龍の刀、私物のナイフと、希釈修復材の水筒だけを持って出ることにした。外に続くドアを開ける前に、振り返って五十鈴の様子を見る。彼女は壁にもたれ掛かり、すっかり寝入っていた。何となく微笑ましい気持ちになって、龍田はくすりと笑いを漏らした。

 

 普段ならもう明るい時間だったが、暗雲立ち込めた空は日の光をほとんど完全に遮っていた。龍田は暫くの間、湿った土と草の匂いを楽しみながら、目を閉じて雨に打たれ続けた。瞳孔が暗さに適応するのを待って、まぶたを開ける。明るくなった視界を確認してから、龍田は歩き出した。何処へという訳でもないが、寝転がっていたせいで固まった筋肉をほぐしておきたかった。撃退した天龍の言葉が確かなら、次が来る筈だったからだ。そして龍田は彼女の言葉が正しいものだということを直感していた。次に来るのが誰なのか確定はしていなかったが、誰であったとしても追い返してやる魂胆だった。

 

 自分が寝る前に比べていささか大胆な態度になっていることに、龍田は驚いた。そのせいか水溜りに足を突っ込んでしまい、音を立てて泥水が合羽の裾に跳ねかかった。立ち止まって形のよいあごを撫でつつ、睡眠がもたらしたものが体力の回復だけでなく、精神の復調にも及んだということを認識する。それは彼女が裾に泥の跳ねたことを、苛立たしく思うよりも何か愉快な出来事のように感じていることから導いた結論だった。カフェイン入りのガムで眠気をごまかすのは作戦行動中の癖だったが、もう少し控えるべきだろうか、などと考える。それから、いつまでも立っているだけでは何ら面白くないので、龍田は再び歩き出した。

 

 薄暗い森の中に龍田の足音と、雨粒が木々やその葉を叩く音だけが響く。合羽に守られていない指先や濡れそぼった地面に近い足先から、冷えが体の芯へと遡ってくるのを感じて、彼女は意識的に二度ほど体を震わせた。歩いている内に、その冷気も火照りに取って代わられる。そうすると今度は、合羽とその下の服の間に挟まった空気が、体温で暖められてじっとりとした不愉快なものになりつつあるのを感じた。ばさり、と合羽の裾をはためかせ、冷えた新鮮な空気と入れ替える。さっきくっついた泥の幾らかが、翻った勢いで何処かに飛んでいった。

 

 龍田は再度、立ち止まった。だがこの時には、水溜りに足を差し入れないようにする注意があった。彼女は歩いてきた道の真ん中に立ち、雨がフードの守りを抜けて目に当たらない程度に上を向いた。木と木に挟まれ、まばらに草が生えた細い道の中央にいると、彼女にはまるでそこがパレードの通り道のように見えた。龍田の頭上高くを巡る木々の枝は、凱旋門を形作る儀仗隊のライフルだ。時折葉っぱが落ちてくるのは、誰かが投げた花束からこぼれた花びら。耳には微かに旋律が聞こえた。龍田も知っている曲だった。艦娘たちの犠牲と勝利を称える内容の歌だ。背筋を伸ばし、行進気分で進む。その途中でどうしても気持ちが抑えられなくなって、龍田は耳の中のメロディに合わせて歌いだした。

 

 知っている歌とは言っても、よく口ずさんでいたという訳でもなかったから、龍田の歌はひどいものだった。順番に歌われるべき二つの旋律が、どう頑張っても繋がらず、繰り返し同じメロディに立ち戻ってくるということもあった。第一、龍田がその曲できちんと歌えるのは、サビの部分だけだったのだ。雨音がうるさいのもあって、自然と彼女の気と声は大きくなった。何度目か忘れるほどの繰り返しの後、龍田は腹の奥底から最後の一息までを押し出し、手に握った薙刀の切っ先を天に突き上げて、絶叫した。彼女には、雨の中での昂ぶりを表現するこれ以上の方法を思いつけなかった。残響が聞こえることもなく、叫びは何処かに吸い込まれて消えていった。

 

 叫び終わると、龍田は疲労を感じた。少し休めば済む程度のものだったので、彼女は道を離れたところで腰を下ろすことにした。自分が仕掛けた罠がないか確かめながら、低い位置の枝を押しのけて行くと、雨宿りに打ってつけのサイズの()()が開いた木があった。通常、うろというものは広葉樹で見られるものなので、これは僥倖だった。中に水が溜まっていたりしないことを見てから、龍田はそこに座り込み、ひっ、と小さな悲鳴を上げた。視界の端、別の木の陰に、彼女へと向けられた砲身が見えていた。硬直して、発砲を待つ。けれど、いつまで経ってもそれは来なかった。怪訝に思って龍田がその砲身をよく見てみると、それは実際には地面に突き立った金属製のパイプだった。焼けて黒ずんでいたせいで、砲身に見えたのだ。

 

 思わぬところで肝を冷やした彼女は、天龍と会う少し前にヘリを落としたことを思い出した。そのヘリの残骸の一部ということだろう、と合点して、自分の怯えぶりが恥ずかしくなる。それをかき消す為に、龍田はそのパイプを蹴飛ばしに行った。首尾よく怨敵を地面へと蹴り転がし、雪辱を果たす。そして何の気なしに足元を見ると、そこには突撃銃が落ちていた。銃身が折れ、機関部にも亀裂が走っている。熟達した銃手ではない龍田にも、壊れていると分かった。彼女はもちろん、それが天龍に渡され、ヘリの墜落時に失われたものだとは知らなかったが、直前のパイプと結びつけることは難しくなかった。拾い上げ、比較的損傷の少ない弾倉を取り外そうと試みる。留め金が動かなかったので、力を込めて引きちぎるような形になったが、どうにかできた。

 

 弾倉の表面にもひびが入っていたので、割れない内に合羽のポケットへと放り込んだ。ついでに蹴飛ばしたパイプも、天龍の刀を使って曲折した部分を切断し、回収した。これらにワイヤーや、資材を入れていた木箱に使われている釘などを組み合わせれば、簡便で効果的な罠を作ることができる。思わぬ収穫に、彼女の頬は緩んだ。

 

 うろのところまで戻って、腰を下ろす。高揚していた精神は急速に沈静し、穏やかな心地になっていた。体に宿った熱が引いて、丁度いい頃合になるまで待ち続ける。龍田はまばたきをしないまま、雨音に耳を澄ませた。初めの内はどれも同じ音に聞こえたが、やがてどれが木に降り注いだ雨粒の音で、どれが葉をかすった音なのか、何となく聞き分けられるようになった気がした。その中に混じって、また狐だろうか、小動物が泥の上を動き回る音も耳に届いてくる。鳥がよりよい雨宿りの場を求めて、木から木へと羽ばたく音も。寒さは厳しかったが、それを除けば平穏な時間だった。

 

 体が休まったところで、龍田はそこを立ち去ることに決めた。ずっと止まっていては体温は失われるばかりだし、気分転換にもならない。薙刀を杖代わりにして、森の中の道のない部分を行く。道に戻ってもよかったが、休憩所にしたうろのある木のような、見つけていなかった何かがあるかもしれないことに、龍田は心惹かれていた。自分にそんな子供っぽい冒険心があったことに、彼女は滑稽さと気恥ずかしさを感じた。「しょうがないじゃない? 十五歳で艦娘になって以来、戦争の勉強しかしてこなかったんだもの」と、誰が聞くという訳でもない弁解を声に出して、己の感情を正当化しようとする。だが馬鹿らしくなって、龍田はそれをやめ、その代わりとして素直に自分の新たな一面を認めることにした。

 

 手当たり次第に仕掛けて、忘れてしまった罠がないとは断言できなかったので、それにだけは気をつけながら、散策を続ける。途中で解除された罠があるのを見つけた時には警戒したが、調べた結果、これも天龍の手によるものだと判定できた。解除の鮮やかさだけでも、龍田を追い詰めたあの天龍だと推測することができたが、罠の近くに雨の当たりづらい茂みがあり、そこに足跡が残されていたことが決め手だった。奇しくも天龍が龍田に抱いていた類の、同種の技術を持つ者に対する尊敬の念が、龍田の中にも生起する。それに伴って、もったいないことをした、という気持ちも湧いた。負わせたのが重傷でさえなければ、話をしてもよかったかもしれない。しかし天龍は強く、手加減して勝てる相手ではなかったということを、対面した龍田は嫌というほど知っていた。

 

 足を休めて、空を見上げる。気づけば、防空目的で植林された地域の端まで来てしまっていた。空は暗いままだが、レーダーサイトを出た時よりは明るくなっていた。そろそろサイトに戻って朝食でも取ろう、と龍田は決めた。何を食べるか、残っていた糧食のメニューを頭の中で列挙しながら、踵を返して森の奥へと戻って行こうとする。その歩みが、ぴたりと止まった。フードの下の耳が、異音を聞きつけていた。雨にさらされることも構わず、龍田は合羽のフードを脱いだ。あっという間に、大粒の水滴が彼女の首から上をしとどに濡らしていく。たちどころに冷え切って、色を失い始めた龍田の唇から、呆れた、という響きの息が漏れ出た。

 

 艤装を装備して、レーダーからの情報を絶やすべきではなかった、と龍田は後悔した。唇を強く噛むと、血の味が口の中に広がった。無数のエンジン音とプロペラ音が、龍田のいる森の上空を通り過ぎていく。枝葉の天井の切れ目からは、ちらちらと航空機の姿が見えた。見えたと言っても、翼や胴体の一部らしきものがほんの一瞬、映るだけだ。立ちすくんだまま、龍田は頭を働かせた。

 

 彼女には上にいるのが戦闘機か、偵察機か、爆撃機か、区別が付かなかった。雨の音がエンジン音での区別を妨害していたし、機影を肉眼で捉えようとすれば森を出ねばならず、そうすると航空機側からも視認される危険があり、そのリスクの大きさから不可能だった。結局龍田は、不確実な類推から上空の敵機群を爆撃機である可能性が高いと見積もった。空母艦娘たちにとって、その島にいる敵性戦力は、軽巡たる龍田のみ。制空権を気にする必要がないから、対地攻撃が可能な爆撃機をありったけ積んで来るだろうと踏んだのだ。連合艦隊旗艦陸奥が政治的な介入を受けていなかった場合、これは正しい推察になっていただろう。敵機が爆撃機の大編隊だと誤解した龍田は、五十鈴をサイトから逃がさなければ巻き添えになるかもしれない、と焦り、その場から駆け出した。

 

 確信がなかった。五十鈴が生きていることは、天龍が伝えているだろう。でも、上層部がそのことを気にするかどうかは、分からなかった。一度は見捨てたのだ。生きていたということが明確になったとしても、報告を握り潰した上で証拠ごと爆撃してしまおうとするかもしれない。最悪の場合、五十鈴が龍田の影響を受けて仲間に加わった、なんてことにされていることもあり得る。龍田は自分が自身の行いの結果どうなろうと気にしなかったが、五十鈴がその巻き添えを食うというのはどうも気に入らなかった。

 

 と、破裂音が聞こえた。それは五千円が炸裂する音でもあり、空気清浄機が爆発する音でもあった。走っていた龍田は数秒の停止の間に考えをまとめ、五十鈴の下へ戻ることはやめた。上陸してきた何者かに攻撃を加えれば、五十鈴や彼女のいるサイトに向かう攻撃を手っ取り早く止めることができると結論したからだった。艤装を装備していないせいで砲撃できないという不利な点はあったが、機会を選べばどんな相手にも手傷の一つ程度、与えられるという自信が龍田にはあった。彼女は脱いだままだったフードを被ると、地面の泥を手に取り、顔や薙刀に塗りつけた。後者は雨でじきに流されてしまうことが分かっていたが、僅かにでも光の反射を減らし、自然の中に溶け込ませることができるようにしておきたかったのだ。

 

 音が聞こえてきたのはラスシュア島西側の、上陸に適した浜辺がある方からだった。そちらに急ぎながら龍田は、負傷した天龍をあそこに連れていったのは失敗だったかもしれないと思った。爆発音が一回しか聞こえてこなかったからである。浜に地雷が埋まっていることを知らずに来て踏んだというなら、今頃は砲撃で耕していて然るべきだというのに、砲声は全くしない。つまり、地雷を踏んだのは浜でではなく、そこを抜けた後だということだ。浜辺の地雷原を突破することができる、あるいは誰かがそこを突破する為の情報を用意できる相手を想像しようとすると、龍田には二人しか候補が浮かばなかった。那智と、天龍だ。そして那智がここに来ているなら、先ほどの地雷の爆発音が聞こえてくる筈がない、と彼女の元教え子は信じていた。

 

 夜間、重傷を負った状態で連れて行かれただけの浜辺の罠を、どうして天龍がそうも正確に見抜くことができたのか、龍田はさっぱり分からなかった。分からなかったから、ますます彼女は天龍を尊敬した。「やるじゃない」という素朴で飾らない表現で、彼女を称えた。合わせて、その天龍の観察眼をかいくぐった罠があったことを自慢に思い、彼女の顔を思い浮かべながら「私も結構、上手でしょ?」と語りかけた。

 

 暫く走り、説明のできない直感で、上陸してきた敵が近いことを悟る。龍田は走るのをやめて、低木と茂みに姿を隠しながら、敵へと近づいていった。雨で太陽は遮られ、薄く差し込む光も緑の天井で大半を防がれて、森は暗がりと陰に満ちている。何人いようとも、目にもの見せてやることができる。龍田にはその為の技術があり、経験があった。聞いたことのある声が耳に届き、龍田は一層用心して気配を消した。隠れた低木から道の様子を窺う。明るさが足りずに見えづらかったが、縦列を組んでこちらに進んでくるようだった。先頭は第一艦隊の秋雲が務めている。駆逐艦ということもあって視点が低く、足元の罠に気づきやすいことと、彼女の絵描き趣味から来る目のよさがその理由だろうと考えて、龍田はその不運さに同情した。

 

*   *   *

 

 出撃前に練った作戦案を変更し、最初から上陸するべきではないか、と最初に持ち出したのは、天城である。ラスシュア島への到着直前になっての提案だったが、陸奥らにはこれを本気で考える理由があった。雨の勢いが、想定されていたよりもずっと強かったのだ。天城を初めとした連合艦隊の空母艦娘たちは、実戦によって鍛え上げられた優秀な艦載機妖精を有していたが、森に潜むたった一人の敵を降りしきる雨の中で探し出せるほど妖精たちの感覚が優れているかと聞かれると、首を横に振らざるを得なかった。結局、陸奥は自分の責任の下で上陸を敢行した。摩耶だけは最後まで反対していたが、陸奥との友情に思い上がって、下された決定に逆らうような真似はしなかった。

 

 上陸は手際よく行われた。タイミングは前倒しになったものの、元より島に入ることは考慮されていた為、艦隊員たちが突然の変更に戸惑うことがなかった、というのがその一因である。また、天龍が持ち帰った情報のお陰で、浜に仕掛けられた罠をほぼ全て回避することができたのも大きかった。運悪く加古が地雷を踏んだものの、彼女は誰もが感心する冷静さを見せて足を動かさなかった。その落ち着きぶりたるや、摩耶が大きめの石を拾って戻ってくるまで、心配する僚艦たちを逆に励まし続けていたほどである。石の置き方が悪かったのか、それを身代わりに置いた摩耶と加古がその場を離れて数秒すると地雷は爆発したが、誰も怪我を負うことはなかった。

 

 見事な対処だ、と陸奥は思った。そしてこのことがかえって艦隊員たちの間に、龍田の罠を軽んずるような向きを生み出さないか不安に思ったが、その懸念は無用だった。彼女たちは皆、より気を引き締めたのである。一列縦隊を作った連行艦隊の艦娘たちは、秋雲を先頭にして左右を警戒しつつレーダーサイトに続くという道を進んだ。それが道であり、歩きやすい場所であるからには、罠が仕掛けられていることは明白だったが、土地勘のない者が、人間の手入れをほぼ受けなかった森林の中で道ではない場所を進むという行為は、たとえ上空からの情報支援があっても賢明には思えなかった。

 

 足を止めることなく、隊列中央の陸奥は上を一瞥した。森の中から見上げる空の狭さが、彼女を不安にする。だがそれも、前後を挟む艦隊員たちを思うとなだめられた。この子たちは精鋭だ、と陸奥は龍田に言ってやりたかった。あなたもそれは知っているでしょう、と。「私たちを見て、降参してくれればいいのに」溜息と共に、そんな望みが口から漏れた。しかし、そうはならないことを彼女は理解していた。そんなやわな艦娘なら、もうとっくに死んでいるか、こんな事件を起こしたりはしないかのどちらかだ。タフで賢く、覚悟のある敵──陸奥はそう龍田を評してから、ふと思った。()()()()()()()()

 

 すると、彼女の中に奇妙な感情が激しく湧き上がった。それは戦争の終わりを契機として長らく熱を失っていた、闘争心だった。自分がそんなものを以前の戦友に向けようとしていることを自覚して、陸奥は困惑する。そのままにしておくべきか、それとも強引にでもかき消してしまうべきか。単純に受容することは気が咎め、押し潰してしまうには、それは心地よすぎた。歴戦の大戦艦は、過去が蘇っていくのを感じた。砂浜で履き替えたブーツの下に土の感触を覚えていながら、彼女は己が今「海にいる」と錯覚した。土が足元でうねるように思われ、潮風がそれまでよりもずっと鮮烈に匂い、緊張感が肌をあわ立たせる。陸奥はそれら全てを微笑んで受け入れ、その渦中にいた時には忌まわしかったものが、今では恋しく思う対象であることも認めた。

 

 秋雲が足元に罠を見つけ、右の平手を挙げて後続に停止を指示する。先頭から三番目にいた天城が彼女の傍らへとやって来て、手際よく仕掛けの調査を始めた。一方で立ち止まった陸奥は地面をぼんやり眺め、胸の内でにわかに熱を持ち始めた感情をもてあそんでいたが、突然自分たちがどれだけいい的になっているかということに思い当たって、慌てて周囲を見回した。遮蔽物のない海における長年の戦闘経験が、彼女に停止することへの強迫的な忌避感を植えつけていた。木の後ろ、茂みの陰、樹上さえ疑わしく思えて、龍田がいないことを確認してしまう。

 

 中央から少し後方寄りの位置で警戒に当たっていた筈の摩耶が陸奥に声を掛けてきたのは、ようやくこの周囲に龍田がいないことが確からしく信じられてきた頃だった。彼女がまだブーツを入れていたバッグを持っていたので、脱いだ脚部艤装と一緒に砂浜に隠して置いてくるよう、きちんと命じておけばよかった、と陸奥は悔やんだ。荷物が増えれば、それだけ動きは鈍重になる。いざ龍田に襲われた時、これのせいで動きが阻害され、反撃できなかったせいで摩耶が傷ついたりするのではないかと考えると、ぞっとしなかった。だが旗艦の視線が荷物に注がれているのを見て、摩耶は言った。

 

「大丈夫だよ、中身はそんなに詰まってねえんだ。一番重くてかさばってたブーツは出したし、後はお前の言ってたものと……あたしの個人的な収穫ってとこだしな」

「個人的な収穫? もしかして、あそこまで憲兵隊が大勢で追いかけてきたのって、それのせいじゃないでしょうね」

「おい、あれをあたしだけのせいにすんなよな。で、見るか?」

「そうしようかしら。見ない方が怖いもの」

 

 そう来なくっちゃ、と摩耶は言って、バッグの口を開くと左手をその中に突っ込んだ。彼女が手探りで目当てを探すので、金属が擦れる音が響いて、罠の解除に踏み切った秋雲と天城が迷惑そうな顔で陸奥の方を見やる。溜息を吐いて、旗艦はこの子供っぽい重巡の手を掴んで言い聞かせた。「あなたねえ、もうちょっと静かにやりなさいな」「悪かったって。でも、これを見たらびっくりするぜ?」そう言って、摩耶は手を引き抜いた。そこに握られていたものを見て、普段そうそう動じることのない陸奥が、思わず天を仰いだ。真新しく、小火器について素人同然の陸奥にも未使用と分かる、黒光りした拳銃。それが摩耶の盗み出してきたものだったのだ。

 

 憲兵隊は陸軍に所属する組織であり、当然その装備には小銃や拳銃を含む。艦娘に対しては通常弾薬を用いた小火器による攻撃は効果が薄いものの、彼らの相手はそのような人間の枠を一歩出た存在のみならず、撃たれれば死ぬ者が大勢を占める、軍人全般に渡るからである。だから、拳銃が泊地付憲兵隊の物資倉庫に保管されていたことは、全くおかしくない。しかし摩耶がそれを持ち出してきたことは、陸奥にとって理解しがたかった。当たっても傷を負わせられない拳銃などより遥かに高威力で、使い慣れた砲が、艤装には取り付けられているのだ。摩耶の動機が少年めいた「それが面白そうだったから」というものでないことを願いつつ、陸奥はからかいの言葉を投げかけた。

 

「あらあら。そのおもちゃで誰を撃つの、摩耶?」

「そりゃ龍田だろ。クソ度肝抜かれるぜ、あのクソ軽巡」

 

 短い文章の中に二回も同一の品のない単語が出てきたことに、陸奥は感銘を受けた。彼女は笑って言った。

 

「軍隊暮らしが長くなると脳にダメージが蓄積していく、っていうのは本当みたいね。悪いことは言わないから、拳銃なんか捨てときなさい。通常弾薬じゃ艦娘を殺せないのは知ってるでしょう」

「誰が言ったんだよ、あたしが取ってきたのが通常弾だなんてさ」

 

 二人の視線が交わされ、陸奥は親友が自分の肝を冷やさせる為に嘘を言っているのではないことを知った。「なんてこと」思わぬ事態に表情が歪みそうになり、手の平で口元を覆う。摩耶がやったのは、それだけ重大な行為だった。主要諸国家の尽力の下、戦争末期に開発・実用化された対深海棲艦用弾薬は、終戦後の世界では極めて繊細な扱いを受けている。何故ならその特殊な弾薬は、深海棲艦に発揮するのと同じ効力を、艦娘にももたらすからだ。次の戦争が人類間のものであるかもしれないことを考慮すれば、艦娘を所有する国が持たざる国々に対して保持する優位性を崩壊させる技術など、広められる訳がなかった。故に対深海棲艦用兵器の技術の詳細は機密とされ、開発した諸国家のみが運用することを許されたのである。それは丁度、二十世紀における核兵器の扱いに似ていた。

 

 この巨大な爆弾をどうしたものか、陸奥は考えたくなかった。現実逃避気味に、彼女はまず龍田の問題を片付けることに決めた。けれど嬉しそうに拳銃をスカートと体の間に差し込む摩耶には、二言三言ばかり言ってやらなければ気が済まなかった。

 

「それを撃つ時は、できれば私よりも前に立って欲しいものね。拳銃なんか一回も撃ったことないでしょう。弾が前に飛んでくれればいいけど」

「ん、そうでもないぜ? 前に仲良くなったパラオ泊地のグラーフがドイツからこっそり持ち込んでた私物を、何発か撃たせて貰ったことがあるんだ。もうかなり前のことだから、細かい扱いは全然覚えてないけどな」

「それを聞いて安心したわ。今なら、絶対に私の後ろで撃たないでちょうだいって言えるから」

 

 摩耶は言い返そうとしたが、秋雲が罠の解除に成功した旨を隊に告げたので、前進の再開も間もなくと思って素直に後ろへ戻っていった。天城も元の位置に戻り、陸奥は顔をこちらに向けて指示を待つ秋雲に頷きかけた。同じ頷きが返ってきて、秋雲は前に向き直り、一歩を踏み出そうと右足を上げた。陸奥はそれをじっと見つめていた。その一歩が何事もなく踏まれれば、その後も無事でいられるような気がしていた。でも、そうならなかったら? 解除した筈の罠が作動して秋雲が傷を負う姿を幻視し、陸奥は心乱された。解除したのが相手を油断させる為の“見せ罠”だったら? 安心して進んだところに、地雷が埋められていたら? 秋雲が前に出した足は、既に地面に押し付けられようとしている。彼女の足が吹き飛ぶ様など、陸奥は見たくなかった。

 

 永遠にも思えた一瞬がようやく過ぎて、秋雲は無事に二歩目、三歩目を歩んでいた。ほっとして息を吐き出し、連合艦隊旗艦は自分が息を止めていたことを知った。歩みを止めないまま小さく指を鳴らし、僚艦たちの注目を集めてから人差し指と中指を立て、軽く振る。艦隊員が指示に従って、秋雲の後ろに前後が三メートル間隔の二列縦隊を作った。隊列が整うのを待たずに旗艦は続けて指を振り、それぞれの列に左右を警戒させる。陸奥の見立てでは、龍田は必ず道の脇から仕掛けてくる筈だった。そうでなければ道理に合わないからだ。真正面や背後からでは、先頭や最後尾の一人二人は撃ち倒せたとしても、残りには遮蔽物である木々の茂った両脇、射手に対して左右へと散開されてしまう。横から襲えば、そうはならない。それに、待ち伏せるにも道の上よりその脇の方が隠れやすいものだ。

 

 誰も口を開かず、緊張と用心でぎらついた目を森に向けながら、奥へ奥へと道を辿って分け入っていく。そうして、罠を解除して前進を始めてから五分ほど経った時、二列縦隊の最前列、秋雲の三メートル右後方を歩いていた第一艦隊の鬼怒が、バランスを崩して地面に倒れ込んだ。彼女の右足は膝下十センチのところまで、偽装された穴に埋まっていた。まともに受身もできずに身をしたたかに打ち付けた彼女の口が息を逃がす為に開かれる。それから歯を食いしばると、次の瞬間、彼女は痛みに絶叫しかけた。叫びが漏れたのは、ほんの一秒にも満たなかっただろう。鬼怒は咄嗟に自分の拳を口の中に突き入れ、己の声を殺したのだ。

 

 彼女の左を歩いていた第二艦隊の艦娘の一人がすぐさま鬼怒の側に寄り、光量を抑えた探照灯で足元を照らし出し、呻き声を上げた。穴の中には返しの付いた竹串が剣山のように密集して埋められており、幾本かは頑丈な軍用ブーツの底を貫通していた。鬼怒を助けようとした彼女は、それが鬼怒をどれだけ痛めつけることになるか分かっていたが、即座に引き抜くことを決めた。彼女が鬼怒の足を掴むと、やっと我に返った陸奥が声を発した。「円陣防御! 加古、救助を手伝って!」先ほどまでの慎重さをかなぐり捨てて、艦娘たちは二列縦隊から円陣を組もうと動き出す。加古は口の端からだらだらと涎と血の混じった粘性の液体を流しながら暴れる鬼怒を押さえつけ、串刺しにされた彼女の足を第二艦隊の艦娘が引き抜けるようにした。その甲斐あって、足は串から抜けた。

 

 そのまま穴から鬼怒の足を出して治療をしようとしたところで、加古に誰かが軽く体当たりをしてきた。予想していなかったその衝撃に倒れそうになるが、何とか踏ん張って耐え、当たってきた誰かに文句を言おうとして、口をつぐむ。鬼怒を助けようとしていた艦娘が意識を失い、ぐったりとして加古に寄りかかっていた。その上半身には薙刀が突き立っていたが、周囲に龍田の姿は見えなかった。急いで負傷した僚艦を地面に寝かせ、その凶器を抜き取り、希釈修復材を掛けて出血を止める。が、失われた意識までは戻せなかった。陸奥に指示を仰ごうとして顔を上げる。その視界の端で、何かが動いた気がした。加古は迷わなかった。右腕の砲を概ねの方角に向け、発射する。

 

 たちまちその場は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。誰にも発砲を止められなかった。陸奥も、摩耶も、装備した主砲や副砲を目に付いた場所に撃ち込み続けた。上空にいた戦闘機隊の一部は、連合艦隊の周囲を機銃掃射した。天城はその騒乱の中、腰を屈めて鬼怒のところまで走った。彼女の足は、まだ傷ついたままになっていた。ブーツを脱がせようと天城がそれを掴むと、ぬるりと血で滑った。舌打ちして、編み紐を解いていく。その間ずっと、彼女は下を向いていなければならなかった。それは何と比べることもできない恐怖だったが、天城の心は震えていても、彼女の指捌きは滑らかだった。とうとう血塗れの半長靴を脱がせることに成功し、足の甲と脛の傷口が姿を現す。出血量から、脛部(けいぶ)の動脈が破れていることが見て取れた。すかさず希釈修復材を振り掛ける。

 

「撃ち方やめ」

 

 砲声を押しのけて、陸奥の声が響いた。しかし誰も撃つのをやめなかった。もう一度、今度は怒鳴ると、収まった。強張った顔で陸奥は言った。「天城、被害確認。後は周囲を警戒して!」了解、の返事もなしに、天城は命じられた任務に取り掛かった。十秒とせず、ひどい結果が分かった。鬼怒は出血と、恐らく竹串に塗られていた毒で痙攣を起こしていた。彼女を助けようとした時に、龍田から薙刀を投げつけられたと思われる第二艦隊の艦娘は、意識が戻っていなかった。第二艦隊所属艦娘ではもう一人が、円陣防御を築く為の移動中、枝のしなりを利用した罠で脇腹を杭に抉られ、治療を受けていた。そして秋雲は、艤装と砲を残して姿を消していた。

 

「誰も気づかなかったってのか? 誰一人も?」

 

 摩耶は怒気を込めて、先頭近くにいた僚艦たちを睨みつけた。相手が気まずそうに目を逸らすと、彼女は余計にいきり立ち、秋雲が何処に行ったかの手がかりを探して、罠の有無も調べずに周囲を漁って回った。一、二分して陸奥のところに戻ってきた摩耶は、手に茶色の細布を握っていた。彼女は信頼する旗艦に言った。「秋雲のリボンだ。連れ去られる時、わざと落としたに違いねえ」そこで摩耶は言葉を区切ったが、陸奥にはその続きが分かっていた。助けに行くように命令してくれ、と摩耶の目は訴えていた。しかし、秋雲一人の為に道から外れて森の中へ他の艦隊員たちを連れて行くことが、旗艦として正しい行為かどうか、陸奥には判断できなかった。けれど摩耶が親友の肩を掴み、「あたしは卑怯者になりたくない」と懇願すると、その首は縦に振られた。

 

 摩耶が単独で秋雲の手がかりを探している間に、陸奥は継戦不能な負傷者を護衛と共に砂浜に戻らせ、海域を警戒中の巡視船に収容させることを決めていた。怪我をした三人の内、脇に杭を打ち込まれた者は意識もはっきりしており、多少の血は流していたものの歩行に問題はなかったので、護衛役としてカウントし、他の負傷者の運搬役には第二艦隊から二人を抽出して充てた。ほんの数分で、連合艦隊が通常の一個艦隊まで人数を減らしてしまった、と陸奥は心の中で賛嘆と恐怖がない交ぜになった呟きを漏らした。今や、ここにいるのは第一艦隊の陸奥、摩耶、葛城、加古の四人と、天城を含む第二艦隊の二人だけだ。

 

 負傷者たちが砂浜への移動を始めるのと同時に、陸奥らは横列を組んで森へと入った。摩耶が秋雲のリボンを見つけた方角に進んでいく。秋雲の新たな痕跡を見つけやすいよう、艦隊員同士の間隔は四メートルまで開いた。罠に気をつけての進軍であるが為に、その歩みは遅々として進まなかったが、それでも気を抜くと横の戦友を見失いそうになる。陸奥は自分の横に張り出した形の艤装が邪魔で歩きづらいので、左半分をパージした。鉄の塊が、がしゃん、と音を立てて地面に落ちる。一斉に左右の艦隊員が音の発生源を振り向いたが、陸奥が落とした艤装のせいだと知るとまた前を向いた。

 

 これまでに体験したことのない形の交戦に、誰もが早くも疲れ始めていた。前に進むにも、後ろに戻るにも、次に足を置く場所を精査してからでなければ動けない。敵はそんな自分たちを、容易に引き裂いてしまえる。そんな状況は、陸奥にとっても初めてだった。彼女と彼女の戦友たちが海の上で潜り抜けてきたものは、このような形態ではなかったし、そこに渦巻いていた恐怖は、次の一歩が人生最後の一歩になるかもしれない、などという種類の、じめついた恐怖ではなかったのだ。陸奥は、艦娘になって海で戦うようになってからというもの、今日が自分の命日かもしれないと思いながら毎日を生きてきた。だがそれは兵士的な、からりとした恐怖であって、今彼女が感じているそれと違って、いつまでも心にへばりついてはいなかった。

 

 陸奥は、自分の視界に映っていない場所から、龍田が現れる妄想に囚われた。彼女は横列の中央にいたので、自分の見ていないところは艦隊員たちが見ていてくれると分かっていたが、その事実が彼女の心を捕まえた恐怖を拭い取ってくれることはなかった。あくまで彼女は、己の精神的な膂力(りょりょく)に基づいて、それを打ち払ったのである。彼女は自身の心と、きっと何処かで自分たちを監視して、好機を窺っている龍田に言った。()()()()()()()()()。そうすると、陸奥の自尊心が微かに反応した。()()()()()()()()()()()()()。その言葉を何度も口の中で繰り返す。()()()()()()()()()。萎縮していた自信が緩やかに回復していくのを感じて、彼女は拳を握った。

 

 が、それも砲声が後方で轟くまでのものだった。一瞬、陸奥は砂浜に戻った負傷者たちが襲われたのかと思った。けれども上から葉のついた枝や木の破片が落ちてきて、自分たちの頭上を砲弾が通り過ぎているのだと気づいた。六人の艦娘たちは、伏せられる者は伏せ、艤装の形状のせいで伏せられない者も、せめてしゃがんで太めの木の後ろに隠れた。摩耶が叫んだ。「あれは秋雲の砲だ」またミスを犯した、と陸奥は身を屈めたまま自責した。せめて砲だけでも、負傷者たちに託しておくべきだった。手持ち型である秋雲の砲は、拾いさえすれば、同じ艦娘なら扱うことができてもおかしくないではないか。海での戦いでは、手放したものは何もかも海へ沈んでいく為、拾うという発想自体が基本的に出てこないが、ここは地上だ。考えつくべきだった──しかし、もう遅かった。龍田は道側に回り込み、まんまと連合艦隊の退路を断って、攻撃を加えることに成功したのだ。

 

 陸奥の耳に、誰かの悲鳴が聞こえた。第二艦隊の二人がいる方からだったが、それが天城の声なのか、もう一人の艦娘の声なのか、陸奥には分からなかった。悲鳴自体もすぐ収まったので、負傷したが治療したのだろう、と彼女は考えた。ここでじっとしているだけではダメだと思い、顔を少しだけ上げて砲弾が飛来してくる方向を見たものの、龍田の姿はようとして見つからない。それでも大体の場所には当たりをつけて、陸奥は対抗砲撃を開始した。戦艦の巨砲から放たれた砲弾が、弾道上に立っていた木の幹を抉り取りながら飛翔し、やがて地面へと着弾、炸裂する。その爆風は湿った泥土を巻き上げ、草と砲弾の破片を飛散させた。また炸裂時の輝きは、暗い森の中にあって得がたい光源にもなった。狙われても構わないという覚悟で、陸奥は立ち上がった。

 

 その瞬間、彼女の側頭部近くを龍田の応射が掠めた。衝撃波に頭を揺らされ、ふらつきそうになるのを近くの木に手を突いて抑える。砲弾はまたしても後方からだった。再度回り込まれたのだ。遊んでいるかのような龍田のこの行いに、旗艦は我慢できなかった。振り向いて、ろくろく見もせずに怪しげに思えた場所へ発砲する。その中の一発が爆発した時、陸奥は見た。炸裂の光に背を照らされ、輪郭だけが木と木の合間に浮かび上がった龍田を、彼女と彼女の艦隊員たちは見た。「あそこだ!」と摩耶が声を張って彼女の旗艦同様に立ち上がり、駆け出した。龍田がそれを待っている理由もなく、彼女が身を翻して森の更に奥へと引いていくのが陸奥には分かった。ここで逃がしてしまえば、仕切り直される。機を逃す訳には行かなかった。

 

「追いかけるわよ! ほら、立って!」

 

 未だに身を低くしている加古や天城たちに声を掛けて、陸奥も摩耶の後を追った。なるべく摩耶が通ったのと同じ場所を走るようにして、罠を気にせずとも済むようにする。親友であり、信頼する二番艦でもある彼女を炭鉱のカナリア扱いすることに罪悪感を覚えたが、それが最も安全な移動ルートであることが分かっているのに、使わないという手はなかった。ともすれば見失いそうになる摩耶の背を視界に収め続け、その中に龍田を捉えようと走る。だが、急に摩耶が立ち止まった。罠を踏んだかと思い、近くまで寄ると、彼女は苦々しげな声で言った。「見失っちまった、クソが」そして振り返って陸奥の後ろを見て、「他の連中はどうしたんだ?」と皮肉っぽく訊ねた。陸奥は答えなかったし、その質問の意味を問うこともなかった。はぐれてしまったのだ。最悪だった。

 

「一緒に移動しましょう。まず天城たちを見つけて、それから秋雲を探すわ。いいわね?」

「おう、いいぜ。とっとと見つけようじゃねえか、二人だけってのはどうにも都合が悪いだろ」

 

 その時、森の何処かで叫び声が上がった。陸奥は全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。その声が天城のものに聞こえたからだ。摩耶に向けているのと似た深い友愛の情を彼女に対しても抱いている陸奥は、いても立ってもいられなくなった。駆け出すことをしなかったのは、それをして自分まで悲鳴を上げることになっては意味がないと、本能が彼女の感情的な振る舞いを抑制した為である。今日まで未経験だったあらゆる重圧や逆境の中でも、陸奥は冷静さを完全に失ってはいなかった。通信機を操作し、はぐれてしまった艦隊員たちに呼びかける。まず加古が答え、次いで葛城が答えた。天城ともう一人の第二艦隊の艦娘、どちらを先に呼ぶか迷ったが、陸奥は天城を選んだ。一秒が実際の何倍にも感じられる沈黙の後で、返事があった。直前の叫びは“もう一人”の方だったのだ。連合艦隊旗艦は安堵の溜息を吐いたが、すぐにそれはよくないことだと自分を叱咤した。

 

 陸奥が叫びの聞こえてきた方向に進み、合流しようと持ちかけると、艦隊員たちはそれを了解した。天城と葛城に上空の航空機から誘導できないかと打診してみたものの、せめて雨が止まなければ無理だろうという答えしか返ってこなかった。陸奥は森を焼き払いたくなった。もちろん命令ではなるべく破壊を回避するようにということになっていたが、長い間軍隊に身を置き、艦娘として戦ってきた中で、彼女は一つの哲学を手に入れていた。それはシンプルなものであり、仲間や自分の命の方が、命令などよりも大切だという道徳的な信条だった。とはいえ、焼き払うにしても仲間が集まってもいない状況でそんなことをすれば、森ごと戦友を焼き殺してしまうことになるのは目に見えている。陸奥は機会があれば必ず龍田をいぶり出してやると誓いながら、摩耶と共に歩いた。

 

 七、八分ほど歩いたところで、木陰に人の姿を見つけた。すわ接敵かと構えかけたが、見ればそれは天城だった。陸奥たちに気づかない様子で、木に何かしている。不思議に思いつつ、陸奥は近くの木の幹を手で叩いて、天城に接近を知らせた。彼女を驚かせて、副砲で撃たれたくはなかった。天城は先ほどの陸奥らと同程度敏速に砲を向けたが、やはり相手を見て構えを解いた。代わりに緊迫の表情を浮かべ、「こっちへ、早く!」と二人を急かした。近づいていくと、彼女がそう言った理由が分かった。天城が触っていた木には、艦娘がワイヤーで縛り付けられていた。先だっての叫び声を上げた彼女だ。今は気を失っているのか、俯いたままぴくりともしない。生死を確認するべく、陸奥は指を彼女の鼻の下に差し出した。指先に息が掛かり、命が保たれていると明らかになる。

 

 摩耶は天城を手伝ってワイヤーを外し始めた。支えを失って地に倒れそうになるのを、陸奥が受け止めた。暗さで分からなかったが、彼女は腹部から出血していた。ぬめぬめとした赤い血が、陸奥の素肌にべとりと付着した。罵倒語が口から飛び出るが、それは血で汚れたことを罵ったものではなく、彼女の傷が浅くないことを悟った故のものだった。腰に提げた水筒を取り、中の希釈修復材を服の上から振り掛ける。めくり上げる手間も惜しかった。彼女の体を横にして、他に怪我がないか調べる。隅から隅まで見た訳ではなかったが、大きな傷はなさそうだった。

 

 天城とも合流できたので、一息入れようと陸奥はその場にしゃがみ込んだ。そこに砲声が響き渡る。秋雲の砲のものと考えるには、やや音が重かった。嫌気の差した顔で、陸奥は再び腰を上げた。立ち上がった時にはすっかりこの島が嫌いになっており、それに輪を掛けて龍田が憎らしかった。艦隊員であり戦友である艦娘たちを、こうも残虐に傷つけられる存在が、深海棲艦以外にいるとは信じられなかった。

 

「天城、その子を連れて砂浜に……巡視船に戻って。私たちは音を調べてくるわ」

「了解です。御武運を!」

 

 真面目な天城らしい、きっちりとした海軍式の敬礼で陸奥と摩耶を励ますと、彼女は部下を背負って道の方へと戻っていった。陸奥は彼女が無事に砂浜に着くことを祈り、通信機を操作しながら歩き出した。周波数を最初に離脱した負傷者たちのものに合わせて、呼びかける。護衛の艦娘を呼び戻すつもりだった。が、応答はなかった。やられたのだろうか? それとも、森の木々に遮られて電波が届かないとでも言うのだろうか? 分からなかったので、陸奥はこれから砂浜に向かう天城に知らせておいた。陸奥が前に立ち、摩耶が後方を警戒する形で、砲声の出所を探す。その途中で、摩耶が口を開いた。心底気に入らない、という口調で彼女は訊ねた。

 

「気づいてるか?」

「何によ?」

「誰も死んでねえってことにさ」

 

 陸奥は無意識の内に立ち止まり、摩耶の方に顔を向けていた。不機嫌そうな表情が、親友の顔に張り付いていた。それを見ながら、きっと今の自分もそんな顔をしているのだろう、と何処か他人事のように陸奥は考えた。摩耶は彼女の視線を、言葉の続きを促すものだと受け取って、言った。

 

「大怪我した奴はいる。地雷がマジだった時には驚いたよ。落とし穴の串には毒だって塗ってあったみたいだしな。でもそれなら何でまた、誰も死んでないんだ? 本気で殺す気なら、もう誰か死んでてもいいんじゃねえか? あたしや、天城や、陸奥、お前だって……龍田には殺すチャンスがあったんだ。なのにみんな生きてる。間違いなく、ひどい目には遭ってるけどよ、生きてるんだ。一体何のつもりだよ? 舐められてんのか、あたしらは?」

「どうでしょうね。龍田を捕まえれば、答えが分かると思うけど」

「それこそ、どうだかな、さ。とにかく気に入らねえ、馬鹿にされてる気分だ」

 

 ぶつくさと言いながら、捜索に戻る。百メートルほど進むと、物音が聞こえた。今度は砲声ではなく、誰かが動いている音だ。規則的ではないので、風に揺られて枝葉が立てる音ではあるまい、と陸奥は推測した。足音を立てないようにしながら、そろそろと音へ近づいていく。葛城か秋雲か、または加古であるようにと願いはしたが、陸奥はそこにいるのがその三者の内の誰でもないことを、何となく察していた。それは理性や理屈で説明のつかない、第六感そのものだった。近づいてみると、音の出所と二人の中間地点には太い木が一本あったので、それに身を隠して陸奥は音源の様子を窺う。

 

 息が出そうになって、ゆっくりと彼女は木陰に戻った。龍田がいた。これまでの被害者たちみたいに、意識を奪われている加古を木に縛りつけていた。犠牲者の両足は一見して折れていると分かるもので、艤装は取り外されていた。小声で摩耶に、龍田が加古を拘束していることを伝える。彼女は今にも飛び出しそうな顔になったが、陸奥がそうしない理由を分かっていたので、自分を押し留めた。陸奥はもう一度顔を出して、自分たちと、龍田と加古の位置を調べた。都合の悪いことに、三者の位置はほぼ一直線に結ばれるものだった。これでは撃った弾が加古をも傷つけてしまう。摩耶の重巡級の主砲でも、龍田の肉体を貫通するには足りるのだ。まして戦艦級の主砲では、加古ごと龍田を粉々にしてしまう。摩耶は雨具を脱いで、何でもないことのように言った。

 

「肉弾戦だな」

「それしかないわね」

 

 陸奥も合羽を脱ぎ捨て、艤装の残りを解除した。今度は音を立てなかった。手袋の手首を覆う部分を引っ張ってから、手を握っては開き、最後にぎゅっと力を込めて拳を作る。摩耶を見れば、彼女はバッグを下ろしていた。その中から、筒状のものを取り出す。それこそ、陸奥が摩耶に憲兵隊から持ち出してくるよう命じたものだった。「あるもんは使わなきゃな?」と摩耶は口の端を吊り上げ、制圧用の特殊音響閃光弾の安全レバーを、服の丁度胸の谷間部分に引っ掛けた。彼女の無意味に扇情的な行為に、陸奥は微笑んだ。自分も一つ手榴弾を取り、ピンを引き抜く。小さな金属音が鳴ったが、雨音と上空の戦闘機隊のエンジン音やプロペラ音に邪魔されて、龍田の耳には届いていないようだった。摩耶と陸奥は頷き合い、行動に移った。

 

 木陰から最小限身を乗り出して、陸奥が手榴弾を龍田に投げつける。落ちた先に小石でもあったのか、それは龍田の足元でかつんと音を立て、彼女の注意を惹いた。焦燥の呻き声が短く響き、殺傷力の小さい爆発が起こる。閃光と、音そのものが破裂したかのような衝撃が、遮蔽物に隠れていた二人の艦娘にも感じられた。その片割れ、陸奥が飛び出す。途端、彼女の視界は上下逆転した。細い鉄線が足首に食い込み、千切れそうなほど痛んで、そこから血がだらだらと流れ始めるのが分かった。吊るし罠だ、と思って顔が青ざめる。今の自分は的そのものだ。そして見れば龍田は、咄嗟に片目を手で覆って閃光から守っていたらしい。大音響で脳を揺すられて足取りが不確かになりつつも、陸奥の方を向き、熟練した艦娘の矜持か、腰の刀を抜こうとしている。

 

 そこに摩耶が襲い掛かった。


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