──少年は、懸命に手を伸ばした。
そこに打算など無かった。躊躇など無かった。思考さえも無かった。
ただ、
何故? と遅れた思考が追従してくる。
──決まっている。この身この全てはその為にあるからだ。
『人類』という存在を証明し、継続するためだけの機構。いつかのための予備部品。なればこそ、この行動はなにも間違ってはいない。むしろ自然なことなのだ。
彼女は、立香は、今この世にある最後の人類。人類の為に──未来の為に、死なせる訳にはいかないから、だから、助ける。
──本当に
──ズキリ
「──!──立香ぁぁああア!」
脳に差し込まれる痛みを誤魔化すようにして叫ぶ。荒れ狂う大海原に、手を差し出しながら無様に落下していく。
ああ、助けなければ。救わなければ。それが自分の存在意義、それだけが彼らの願いなのだから。
「立香、立香ぁっ!」
着水。ジャバァっと激しく水しぶきを上げながら、海面に顔が叩きつけられるのもお構いなしに、懸命に目を凝らした。
──どこ、どこだ!?
目から涙が零れ落ちてしまいそうだ。いや、とっくに溢れているのだろうか。
悲しい。不安だ。自分の無力が情けない。情けなくて、仕方がない。
心の中がぐちゃぐちゃで、整理が追いつかない。この身体の中でせめぎあう三つの人格が入り乱れ、感情を滅茶苦茶に掻き乱していく。
どの気持ちが誰のモノなのか、ひどく曖昧で。憤っているのは『アダム』だろうか。悲しんでいるのは『イヴ』だろうか。悔しがっているのは『僕』、だろうか。
感情を持つことなど許されない筈だった。世界にとって必要なのは、この身体──ひいてはそれが持つ『概念』だけであったが故に。
都合のいい人形としての役割。『原初の人を冠する誰か』というキグルミのための、
声もいらない、感情もいらない。それは全てキグルミが担当してくれるから。自分に要求されるのは、そのキグルミの持つ設定に合わせて動かすことだけ。だから、思うことも想うことも許されないのだと。
もともと、死から永い時が過ぎた自分では希薄だった感情。もともとあったかすらも定かではないソレは、その制約によってより薄く儚いものになってしまった──なってしまえたのだ。
ただ、間違いないことがある。自分は、立香を救わなければいけないのだと、そうした、使命感のような熱い衝動が、
この身に焼き入れられた使命──あるいは義務のせいだと、断じることは簡単にできる。この気持ちはキグルミの気持ちであって、『僕』のものではないのだと。
人の子を救うということは、『アダム』や『イヴ』にとっては当たり前のことで。そして、世界がそう求めていることでもあって。だからこそ、『僕』という存在の感情など入り込む余地は無くて。
きっと自分は、『僕』という感情がどう思おうと、あるいは気絶してさえいても、こうして彼女の為に海に飛び込んだであろうことは、想像に難くない。それが『役割』だから。
けれど──
「いた、いたっ! 立香、息をしろ、目を開けて!」
この時の行動に、本当に『僕』が関わっていないとは、どうしても思えなくて。
『アダム』と『イヴ』が躊躇していた筈の人の子との接触。それが、どうだ。今こうしてがっしりと立香の手を離さないでいる『僕』は。死にかけている彼女をかき抱く『僕』は。
ああ、いつからこうだったのだろう。
出発前のカルデアでは頭を撫でた。海を渡るときには彼女を背負いさえした。
それは絶対に、『アダム』も『イヴ』も『世界』すらも、許さないことであった筈だ。
なら、だからこそ、『僕』は──
「──
海に飛び込んだ衝撃もあって、全身に刻まれたあらゆる傷が開いていく。応急処置にも程がある最低限の治療だったから、こんな簡単にぶり返すのは当然のこと。
じわりと海面に溶け出していく赤黒い血は、この特異点に来てから、常に引き受け続けてきた役割の代償だった。
「ああ、立香──立香……」
けれど。そんな痛みは、きっとどうでも良かった。
こうして彼女を抱きしめていることが今は全てだった。
「──か、ハッ──」
立香の呼吸が戻る。激しく咳き込み、水を吐き出し、懸命に生きようともがいている。
「あぁ……」
彼は安堵のため息をつく。生きていて、よかった。そんな
ああ、いつからこうだったのだろう。
──僕はね、それこそ、『無根の英霊』とやらがあってもなくても──
いつだったか、森で種火を集めていた時の言葉が脳裏を過ぎる。
思えば、あの時の言葉ほど不思議なものはなかった。言っていて自分で自分がわからなかった。だって、そんなこと生前には一度たりとも■■■■■■。
──
けれど、きっと、それが『僕』だというのなら。
それはきっと、心の奥底に秘め続けていた、自分にさえもわからないもので。
そして、一番の願いだったのだろう。
◆
「くそ、この、ふざけるなよ! 小娘を狙うなんて卑怯にもほどがあるだろう! それはあれだ、暗黙の了解的にやっちゃいけない奴じゃあないのか!?」
「貴方が他人に卑怯という言葉を使うのは、どうかと思うけれどね……」
「ひっ……え、ええい! うるさいぞメディア! とにかく船を回せ! あの小娘を引っ張りあげるんだ。波を立てるなよ、ただの人間だから飲み込まれる! 丁寧に繊細にだ。そういうの得意だったろう!?」
「──ええ、了解よ。船長さん」
本当に、ピンチになれば憎たらしいほど頭が回る。そう内心で微妙に感嘆しながらも、メディアはアルゴノーツを立香が落ちた方向へと慎重に移動させる。
波が立たないようにゆっくりと動かして、立香を見逃さないよう探知の魔術を張った。
焦らず急ぐ。アルトリアの宝具によって一掃された魔神柱ではあるが、そろそろ復活してくる頃だろう。そうすれば手に負えない。
ただでさえ、こんな大荒れの海の中このアルゴノーツの巨大な船体で人命救助など大馬鹿のやることだというのに。邪魔まで入ってくれば達成不可能だ。せめて海が凪いでいたならば、小舟で救出にいけたものを。
「──見つけた」
「ああ、あそこだな、見えたぞ。え〜、なにかあったか……樽でいいか! いいよな!」
暫くいけば、魔術に反応があった。メディアが報告すると、イアソンは目視したのち、甲板に転がった空樽にロープを巻きつけて放り投げる準備をした。
「あら、彼は……」
「なんだ、アイツは。オケアノスでは見なかったが、小娘の仲間か?」
まぁ、それはいい。と聞いた割には興味なさげにして、イアソンは樽を船下へと落とした。
アダムは気絶している立香を樽に固定すると、引き上げるようにサインを出す。イアソンとメディアは──双方、誠に遺憾ながら──協力して、それを引っ張り上げた。
引き上げ終わると、早速メディアは立香の容態を診る。
体温の低下があること。肺に水が少しばかり入り込んでいること。問題なのはそれぐらいで、どれもメディアの魔術で処置できる範囲内であった。
あれだけ大荒れの海に投げ出されておいて、命に関わるような怪我も症状もない。相変わらずの悪運ね、とメディアは感心しながら、治療を行った。
「ありがとう、助かったよ」
「いいのよ。彼女が死んでは元も子もないもの」
「全く、世話の焼ける奴だよ!」
悪態をつくイアソンを横目に見ながら、ふとメディアはアダムの雰囲気が以前より柔らかいことに気が付いた。
少なくともカルデアで見かけていた時は、視界に入るだけでも、威圧感というか凄みのようなものが感じられていたのだが、今はそれが全くもってない。
少年の見た目相応の、優しげでどこか青臭い雰囲気。まるで
メディアの好みではないが──それでも、
「……メディア、立香の容体は?」
「大丈夫よ、すぐに目覚めるわ。ただの気絶だから」
「そうかい」
ほっと息をつくアダム。心底安心したというリアクションを隠そうともしない。やはり彼は、以前となにかが変わったのだろう。
メディアの目の前に映る光景。立香の頭を自身の膝に乗せ、慈しむように頭を撫でる彼の姿は、カルデアでは絶対に見られないものだったのだから。
◆
「んうっ……」
立香がの口から吐息が漏れる。それに合わせてゆっくりと目蓋が開いた。
一度二度と瞬きを続けて、焦点の合わない目が真っ直ぐに目の前を捉え出したところで、立香はやっと意識をはっきりさせたらしい。
「あ──」
「やあ、立香。全く、寝坊助なんだから」
「うん、ゴメン。でも、ちゃんとその分、得たものはあったから」
「……心配したよ」
「うん、ゴメ……いや、ありがとう」
立香は、そう言ってはにかむ。
そう、得たものはあった。あの場所で、エデンのアサシンと交わした言葉は、約束は、きっと必要なものだった。
誰もが笑って終えることのできる、そんなハッピーエンドの為に、不可欠なものだった。
──『名前』を考えてやって欲しいッスよ──
アサシンと交わした約束が脳裏を過る。
アサシンの言っていることがすべて正しいのだとしたら、今、目の前で泣きそうな顔をしている『彼』は、とても悲劇的な運命を辿っている人なのだろう。
完全に理解できた訳ではない。アサシンの言葉は、よく分からないものの方が多かったから。
けれど、『彼』はその死後を弄ばれているのだと、そのことだけは、立香にもわかった。
そして、それを許せないことだと思った。
「ねぇ、
「───」
そう聞いてみれば、アダムは面食らったようにして、言葉を詰まらせた。立香はそんな彼から目を逸らさず、じっと見つめ続けた。
暫しの沈黙。決して少なくないその時間のなかに、彼が感じていたものは一体なんだったのだろうか。
「そうだなぁ。好き、ではないかもしれない」
「なら──」
貴方が嫌だというのなら、苦しいというのなら、喜んで別の呼び名を──立香がそう言いかけたその時。
「けれど、嫌いじゃないよ」
とても、とても綺麗な笑みで、彼は笑った。心の底から嬉しそうに、小さな頬を目一杯に持ち上げて、笑みを浮かべた。
そんな彼に、立香は何故か、言葉を紡ぐことが出来なかった。
「それが僕自身の名前ではなかったとしても、僕は、誰かに自分が呼ばれていると、その事実があるだけで、とても幸せなことだと、そう思う」
「どうして──」
どうして、そんなふうに思えるの?
どうして、辛いと嘆かないの?
様々な思いを込めた「どうして」だった。
結局、それ以降に立香の口が言葉を発することはなかったが。
「……うん、君が何をくれようとしているのか、どう思っているのか。それが僕の想像通りだとしたら、その素敵な贈り物は、もう少しだけ待って欲しい」
くしゃり、と立香の頭を撫でながら、彼はそう言った。冷えた体に、その手のひらの温もりがより一層際立って感じられる。
立香は、再び「どうして」と今度は視線だけで彼に問いかけた。
「……今の僕には、君のそれを受けとる資格はないだろう。今受けとれば、僕は君に対して胸を張れない。どっち付かずの目的も、
「──?」
「ふふっ……わからなくていいよ。そのうちちゃんと説明するから、今は理解しなくていい。僕のこれは、なんていうか、自分を追い詰めるための独り言だから」
君が聞いているという事実があるから、これで、下手に逃げることなんてできないだろう?
彼はそう言うと、また笑った。
「私、貴方の言葉の意味理解できてないのに? それがストッパーになるの?」
立香が不思議そうに聞き返せば、彼は少し困ったようにしてまた立香の頭を撫でる。そして、恥ずかしそうに頬を掻きながら、こう言った。
「もちろん。だって──」
「──子供にカッコ悪い所を見せたい親なんて、どこにも居ないだろう?」
◆
──例えば。例えばの話だ。
子供を愛せない親がここに居るとしよう。
男でも女でも、好きに想像するといい。愛せない理由だって、キミの自由に思い浮かべてくれて構わない。
無理やり犯されたか何かで、望まない子供を身ごもったから?
生まれてきた子供が余りにも醜悪な見た目で、自分の子だと認められなかったから?
──なんでもいいさ。キミが思った
その親には、自分の子供に対する愛情など欠片もない。口をきくどころか目を合わせることだって嫌悪してしまうぐらい。食事も最低限のもの、残飯のような腐りかけ。暴力さえ振るっているかもね。
血は確かに繋がっているんだ。自分が産んだのか、産まれたところに立ち会ったのか。いずれにせよ、自分の血縁だということは疑いようのない事実と理解している。
それでも、先に挙げたように酷い仕打ちを行っている。親としてあるまじきだと、まぁ、感情のわからない僕にだってわかる。キミも当然そう感じることだろう。
当然だろう。これでも人としての心は持っている。
──そうかい。じゃあ次は、別の『例えば』の話を持ちだそうか。
ここに、
これまた、その理由はキミの思うがままに想像してくれて構わない。
そうだ、参考までに。僕が設定を作るとすれば、そうだね──
──その男性だか女性だかは、病気で自分の子供をつくることができない身体だった。
何年も何年も治療を行ったけれど、その努力は実ることはなく。愛する人と自分との愛の結晶が生み出せないことに嘆き悲しみ──そして、孤児を引き取り、里親になることを決意した。
事故で両親を亡くした子。あるいは、先に挙げた『子を愛せない親』から縁を切られ保護された子。事情は色々だろうけど、とにかくその孤児を義理の親として迎え入れ、自分の子どもとして育てることにした。
血の繋がりこそなかったけれど、大切に大切に愛を注いだ。褒めて、叱って、一緒に泣いて、絆は強固なものになって、いつしか本当の親子のようになれた。
子と親、お互いが血縁関係にないと理解していながら、それでも、お互いが相手のことを『親』と『子』として想うことができた。幸せな家庭を築いたんだ。
──なんて、ご都合主義にも程があるかな? 本来ならばもっと多くの苦悩や葛藤がある筈なのだろう。でも仕方ないね、僕はハッピーエンドが好きだから。
幸せな終わりなんて、そう多くはない。今語ったような人生っていうのは、それこそ子供を産めないという悲劇を除けば、とても幸福なものだった訳だけれど。そんなものはとても珍しい。幸せを掴むのは、とても難しいことだからね。
『彼』だってそうだった──掴めなかった人だった。
──さて、なんでこんな話をしたのだと思う?
別に、対して深い意味がある話ではないよ。けれど、大切な話だったと思う。
言うなれば『導入』だ。ここから始まる物語──『彼』の生涯を語るに相応しい場を作るための、土台作りの一貫ってところだね。
特に何を示唆するものでもない。深読みし過ぎないほうがいいだろう。効果といえば、僕が続きを話しやすくなるようにと、ただそんなことの為の話だった。
けれど、まあ、感じるものはあっただろう?
キミはあの神殿で、確かに『彼』の
──『親』という存在は、子供にとっては必要不可欠なものだろう。
生物学的な観点から言えば当然だが、親がいなければ子は生まれてこない。倫理的に考えてみても、結論は同じさ。子を親が育てるのは人として当然のことなんだ。
けれど、今の例え話を見るに──どうも、『親』というものは、『子』を産んだら誰しもがそれになれるのか? と聞かれれば、僕は答えに窮してしまう。キミもそうだろう?
それは……
──ああ、前置きが長くなってしまったね。
僕が言いたかったのは結局のところ一つだけなんだ。
キミは『彼』の最期に立ち会った。『憐憫の獣』の前にマスターやマシュと共に立ち、戦って。そうして、『彼』に救われた。
その光景はキミたちだけのものだ。キミたちだけが知り得た物語の一場面だった。だからこそ僕は問いたかったんだ。
『彼』の最期を見たキミに。『彼』が最も『彼』らしく居たその時に立ち会ったキミだからこそ聞きたいんだ。
──ねぇ、『彼』は果たして、さっきの例え話のどっちの『親』だったんだい?
……それは……
彼は、
◆
原初の人が、必ずしも
人類は知っている筈だろう?
この世の中には『1』よりもずっと前──
ムーミンだけは許さないって誓った。
わかんない人は『ムーミン 地理』とかで検索検索ぅ!