よろしくお願いします。
暖かな春の陽気に当てられて、ようやく彼女は自分がどこかの野原に立っているのだと気づく。
まるで絵本の世界にいるような、穏やかで幻想的な風景。彼女の足元には、小さく多彩な花がいくつか咲いている。
エネルギーを感じさせる赤。控えめな白。優しそうなピンクのそれは、一見すると桜のようにも見えた。
そして、その花々を囲んでいる、ぬいぐるみのような生き物たち。子犬や子猫のような可愛らしい見た目をしており、ゆかりはこのメルヘンチックな体験に嬉しさが込み上げてくる。
つい頬が緩みそうになったとき、目の前にいたぬいぐるみがワッと泣き出した。
爽やかな薫風は、雨が降る前兆のように冷やかなものとなり、一瞬にして辺りを包み込んだ。
これまで我慢していた緊張の糸が切れてしまったのか、他のぬいぐるみたちも次々と泣き出す。見た目の通り幼い様子の彼らは、涙を流すことでしか悲しみを処理できないのかもしれない。
「泣かないで」
ゆかりは、最初に泣き出したぬいぐるみの頭に手を伸ばす。しかし、体が思うように動かなかった。足も、まるで靴の裏と地面がのりでくっついているかのように、びくともしない。
「大丈夫だから……、ね?」
どうしてこんなことが言えるのか、ゆかりには分からなかった。みんなが悲しんでいる理由も、ここがどこかも知らないのに、“大丈夫”なんて無責任ではないのか。一瞬、そんな嫌な考えが頭をよぎる。
だけど、この子に泣いてほしくない。その気持ちだけは、強くあった。
ようやく指先がぬいぐるみの頭にかすりかけたとき、彼女を囲む環から外れたところで、誰かが言った。
「許してくれ……」
喉から搾り出したような、苦しそうで、哀しみを帯びた声色だった。その直後、悲鳴にも聞こえる甲高い音がして、ぼんやりとしていた風景が、またたく間にかすんでいく。
ゆかりは必死に手を伸ばす。先ほどまでえんえんと泣いていたぬいぐるみたちは一斉に泣き止み、何事もなかったように四方に散っていく。あっという間に、環は崩壊してしまった。
それでも、最初に泣き出したあの子だけはまだそこにいる。すぐ近くにいるのに、どうしても手が届かない。
もう少し……。
彼女の手はしっかりと、目覚まし時計を押さえていた。
ここは自分の部屋の、ベッドの中。時刻は午前八時前。さきほどまでとは違い、今の状況はすぐに理解できた。
「寝坊した~~っ!!」
飛び起きてリビングに駆け下りると、家族はのん気にテレビの占いコーナーを見ている。
「お母さん! 今日は早めに起こしてって言ったのに!」
「だって、あなた起こしても起きないんだもの。私は、まだ寝たいっていうゆかりの意思を尊重してあげたの」
「そういうときだけ、甘いんだから!」
言い合っている時間も惜しい。台所には、彼女が二度寝した時点で寝坊すると判断したのだろう、おむすびと味噌汁だけがあった。急いでそれらを掻き込むと、一切の無駄がない動きで朝の支度を済ませる。
鏡で自分の姿を確認して、気づく。さきほど、リビングには父の姿もあった。いつもなら、とっくに家を出ている時間なのに。
「お父さん、今日はお仕事休むんだっけ?」
リビングに戻って声をかけると、ようやく自分の存在に気づいてくれたことが嬉しいのか、父は微かにはにかんだ。
「午前中だけでも出ようと思ったんだけど、ゆかりも今日は午前だけで終わるんだろ? それならいっそのこと休んだ方がいいかなって」
このやり取りを聞いて和室から出てきた祖母が、念を押す。
「お昼前にはお坊さん見えるから、それまでには帰っておいで」
今日の嬉野家が忙しいのは、ゆかりが寝坊したせいではない。一年前から決まっていたことだ。それならば、なお起こしてくれたらよかったのに、と思う。
「うん、わかってる。それじゃ、行ってきます!」
ゆかりは元気よく、玄関の扉を開けた。厳しくも優しい太陽の日差しが、彼女の体を包み込む。布団の中にいるようで、頭の中を空っぽにして走り出したくなるような感覚。ゆかりは、無償に嬉しくなった。
天気は晴れ。朝起きて、家族とふれ合い、桜の綺麗な道を通って学校に行く。人目を気にせずバンザイしてしまいたかった。
そんな気持ちにブレーキをかけ、玄関の扉が閉まるタイミングに合わせて回れ右をする。表札を見上げて、彼女は呟いた。
「行ってきます」
そこにある名前は、
中学校に着くと、昇降口の掲示板にはクラス分けの表が張り出されていた。
数十分前なら生徒が群がっていたかもしれないが、今は人っ子一人いない。もっとも、ゆかりが登校した時間にまだ他の生徒が掲示板前で押し合っているようなら、この学校の生徒指導は教頭あたりに指導されるべきだろう。
ゆかりは今日から、二年生に進級する。彼女の名前は、二年一組の上から二番目にあった。そして、自分の上にある名前を見て、つい笑みがこぼれる。
「ちなみちゃん! また同じクラスだね!」
新しい教室の前側の扉を開けながら、ゆかりはすぐそこにいるであろう親友に声をかけた。
案の定、廊下側の先頭の席に座っていた
「ゆかり、今何時だと思う?」
「えっと、八時二十分?」
おどけた調子で返すが、ちなみの鬼のような形相を見てたじたじになる。
「私、たしか昨日
いつ、誰が、何を、どうしたか、を強調したその言い方には、迫力があった。
「ごめん、不思議な夢を見ちゃって、つい寝坊を……」
「あんたがその“不思議な夢”を見てるとき、私は学校でずっとこれ作ってたんだからね」
机の上いっぱいに積まれている造花の山から一つ取り出すと、ゆかりの目の前に突きだした。
「言いだしっぺはあんたでしょうが」
「うん、本当にごめんね?」
謝りながら、ゆかりはカバンのファスナーを開く。ちなみが中を覗くと、机に積まれている数以上の造花が、そこにあった。
「でも、こんなこともあろうかと、夕べのうちにたくさん作っておいたから。ちなみちゃんが作ってくれたのと、他のみんなのも合わせたら何とかなると思う」
ゆかりはにっこりと笑ってみせた。それを見て、思わずちなみはため息を吐く。
「まったく、あんたは……」
呆れながら笑ってしまう。「こんなこともあろうかと」という発言に対してではない。夜なべをして、早起きもする。そんな器用なことが、嬉野ゆかりに出来るわけがないのだ。
「それだけあれば十分だよ。じゃあ、急いでみんなの分も回収しに行こっ!」
ゆかりの手を取り、ちなみは教室を飛び出した。
時刻は八時二十八分。チャイムが鳴るまで、あと二分。
始業式が終わると、体育館にはゆかりとちなみを中心に、彼女たちが所属するテニス部の仲間や、同じクラスの友達が残った。厳密には、二週間前まで同じクラスだった子もいる。
「それでは、みなさん、まずはご協力ありがとうございました。それでは、リーダー、後はお願い」
仰々しく挨拶の口火を切ったちなみは、すぐに切ったばかりの口火を放り投げた。あまり人前で話すことに慣れていないゆかりは、深く息を吸ってから口を開く。
「えっと、ちなみちゃんに先に言われちゃったけど、本当にみんなありがとう。私の段取りが悪かったせいで、ギリギリまで手伝わせることになってごめんなさい。でも、みんなのおかげで間に合わせることができました」
みんなから拍手が送られる。しかし、喜ぶのはまだ少し早い。在校生が下校した後で行われる入学式で、入場のときに使う花のアーチ。これが完成して、新入生が新たな門をくぐるとき、もっと大きな拍手が沸き起こり、会場は喜びに満ち溢れるはずだ。
「それじゃあ、急いでアーチに花を飾りつけていきましょう」
ゆかりの指示に従い、有志は分担して作業を進める。集まったメンバーの中には、お互い初対面の者もいるはずなのに、みんな楽しげに話しながら手を動かし、そこかしこに笑顔が見える。ゆかりにはそれが嬉しかった。
「それにしても、ゆかりが何かを指揮するなんて、ホントびっくりだったよ」
自分の頭の上に造花をぽとんと落として遊びながら、ちなみは言った。その言い方に嫌味は含まれておらず、爽やかな口調だった。
「最初は子どもっぽい、って誰かさんに反対されたけどね」
ここぞとばかりに反撃すると、「コラ」と頭を小突かれた。ゆかりは大げさに痛がる素振りをしてみせ、頭をさする。
「私にはこれくらいしか思いつかなかったけど、みんな喜んでくれるかな?」
すると、ちなみは先ほどまで手玉にしていた造花を、ゆかりの頭をさすっている方の手に軽く投げて当てた。
「私が新入生だったら、きっと嬉しい」
そう言うと、にかっと笑ってみせた。それを見て、ゆかりも笑顔になった。
花のアーチが完成し、有志は急いで教室へ戻る。みんなのおかげで作業は捗り、休み時間内に終わらせることができた。
この後、各教室で帰りの会があり、少しの間が空いて入学式となる。
「ゆかりー! 早く戻ろうよ、何やってんの」
先に体育館を飛び出したちなみが、外から声をかけた。
「ごめん、すぐ行くから先に戻ってて」
最後に、ちゃんと確認をしておきたかった。万が一、新入生が通っている間にアーチが壊れたりしたら大変だ。それに、造花だって、せっかくみんなが作ってくれたのだから、一つも落ちてほしくない。
「これも、これも、大丈夫……」
チャイムの鳴る時刻が迫り、ほとんどの生徒は既に教室で待機しているのだろう。不意に静かで大きな体育館に一人でいることが怖くなり、気づかないうちに声に出しながら確認をしていた。
「これも大丈夫」
すると、用具入れの暗闇から、微かに音が聞こえた。
ガサ……。
「え!?」
おかしい。このアーチは用具入れから取り出したのだから、中に誰もいるはずがない。窓は閉まっていたはずだし、生徒なら今はみんな教室に戻っている時間だ。
「誰……?」
ガサ……。
音は近づいてきた。音の大きさからして、人間ではなさそうだった。もしかすると、猫か何かの動物が潜んでいたのかもしれない。
「あの~……?」
ガサ……。ガサ……。
音はどんどん近づいてきて、暗闇から飛び出した。ゆかりは悲鳴を上げ、その場から逃げようとしたが、腰が抜けて立てなかった。
すると、ぽすん……。
暗闇から飛び出した物体は、ゆかりの手の中におさまった。
「お母さん!! 探したリア!」
それは猫ではなかった。そうとも、言葉を発したのだから、猫でないことには間違いない。ゆかりには、この生き物が何かも、言っていることの意味もわからず、ただ気が動転していた。
「お、お、お母さん!? 私、あなたのお母さんじゃないよ!?」
手の中の生き物は、顔を上げてゆかりの顔をじっと見た。すると、仰天して彼女の体から離れる。
「あ! よく見ると、お母さんじゃないリア! あなたは誰リア!」
よく喋り、よく動くぬいぐるみだった。実に奇妙だが、子犬や子猫のようで、そのどちらでもない。
「だから、今そう言ったじゃん!!」
そして、気づく。このぬいぐるみは、見覚えがある。
今朝の夢の中に出てきた、あの泣いていたぬいぐるみだ。