所どころ外壁の塗装が剥げてしまっているアパートが見えてきたところで、まだ肌寒さを感じる気候にも関わらず忍は額の汗を拭った。
部活の片付けが終わる頃にはすっかり日も暮れてしまい、すぐにでも着替えを済ませて帰ってしまいたかったのだが、解散した後で悦ちゃんに居残りでならボールを打ってもいいかと懇願されたのだった。
どうやらそれは、彼女個人ではなく一年生全体から出た意見のようで、忍はできるだけ丁寧な口調で入部したばかりではコートに入れてあげられない理由を説明した。
基本的なフォームができないうちにボールを打つと、変な癖がついてしまう。さらに、一人でも怪我をしたり、誤って校舎のガラスを割ってしまったときなどの責任問題が発生するからだ、と。
渋々ながら納得した様子で帰っていく一年生たちを見送った後、部室にはゆかりとちなみ、志穂の三人しか残っていなかった。
せっかく待ってくれていた彼女たちには申し訳ないが、着替える時間も惜しいくらいで、制服をかばんにつめ込むと忍は練習着のまま急いで帰路についたのだった。
ちかちかと明滅する不安定な電球の灯りを頼りに階段を上がると、練習の疲れのためか足の筋肉が強張っているように感じた。練習着は汗で背中に張り付いている。すぐにでも部屋に帰ってシャワーを浴び布団に飛び込んでしまいたい衝動を抑えて、一段ずつ慎重に上がっていった。
玄関の前に差しかかると、扉の向こうから包丁とまな板のぶつかるぎこちないリズムが聞こえてきた。
時刻を確認するため左腕を見たが、腕時計は制服と一緒にかばんの中にあると思い出して、大きなため息を吐く。
また、やってしまった。
「ただいま」
扉を開けると、やはり玄関の右手にある台所では、優輝がこちらに背中を向けて立っていた。一生懸命に何を切っているのかは分からないが、右肩は上がり肘は横に突き出た不格好な後ろ姿から、食材がどんな仕打ちを受けているのか想像することは容易い。
「ごめん、すぐ手伝うから」
慌てて靴を脱ぐ忍を目の端で捉えると、優輝はあまり口を動かさずに「いい」と言った。
「でも、今日は私が……」
「服」
ぼそっと単語だけ言われたところで長年連れ添った熟年夫婦ではないのだから、彼女はその言葉の意図を理解することはできなかった。たしかに着替えたいとは思っていたが、優輝が料理をしているのだから、それどころではない。
かばんを置いて、まずは手を洗おうと袖を捲ると、優輝は先ほどよりはっきりした口調で言葉を足した。
「こっちは、やるから。……もう終わるし」包丁を置いて、忍の練習着を目で示した。「それ」
「え?」
「明日もいるんじゃないの」
ようやく何が言いたいのか汲み取ることができた忍は、弟の気遣いを素直に受けることにした。乾燥機のない恩田家では、部活で汚れた彼女の洗濯物は夕食が終わると台所に並ぶ。あまり遅い時間に干すと、朝になっても湿っていることもあるのだった。
仕事で遅くなる母に代わって夕飯の準備をするはずだった自分に文句の一つも言わず、黙々とじゃがいもを切る優輝を見ていると、彼の料理の才能を哀れに思わずにはいられなかった。
それさえ克服できれば、家事も捗るのだが……。
そんなことを思い、忍は洗面所に入った。もうしばらくの辛抱だ。部活を引退すれば、毎日早く帰ることができて、確実に家族の負担は減る。
母は急いで仕事を片付けることもなく、優輝が不器用なりに家事を頑張る必要もなくなる。練習の疲れによって家事がいい加減になることもないだろう。
あと二か月。たったそれだけの期間だ。気合を入れて乗り切ろう。
シャツを脱ぎ捨て、ゆっくり息を吐く。台所からは味噌の濃い匂いが漂ってきたが、きっと味のない味噌汁よりはマシなはずだとポジティブに考えることに決めた。
次に母の帰りが遅くなるときは、絶対に早く帰ろう。鏡に映る疲れた顔を軽く叩き、忍は決意を固めた。
ようやく恩田家の食卓に三人が揃ったのは、二十時を過ぎてのことだった。
彼らの母は帰ってくるなりスーツ姿のまま椅子に座ると、出された料理に顔をしかめて娘と息子を交互に見た。
「今日は思ったより帰るのが遅くなっちゃって、優輝が作ってくれたんだよ」
味噌汁の中から輪切りにされた太いじゃがいもを見つけると、母はひきつった笑みを浮かべて優輝に「ごめんね」と言った。
いつもそうだった。優輝が家事をすると、母は「ありがとう」ではなく「ごめんね」と言うのだ。そして、忍にも同じ言葉を投げかける。
「ごめんね。やっぱりこの時期は部活も忙しいよね。私もできるだけ早く帰るようにしたいんだけど、明日もちょっと遅くなりそう」
「今日はたまたま遅くなっただけだって。大丈夫だから、家事は私に任せて、お母さんは仕事の方に集中して」
厄介なものから先に片付けようとじゃがいもを口に含むと、妙な触感があった。皮ならまだしも、芽は取ってくれてますようにと祈りながらそれを飲み込む。
決して味覚音痴ではない優輝は、苦い顔をしながら自分のつくった料理を噛み締めることに一生懸命なようで、食事中に一言も話すことはなかった。
まるで額の皮が剥離してむき出しになった脳みそにそよ風が吹き込んでいるような感覚を味わいながら、優輝は教室に入り自分の席についた。
睡眠不足による軽い頭痛。視界の上あたりは白くぼんやりとしている。彼は今日の日課にざっと目を通して、眠れそうな授業に見当をつけた。一時限目は体育だ。寝られないどころか、体力をごっそり奪われてしまう。
今のうちに少しでも寝てしまおうと、かばんから枕代わりに用意したハンドタオルを取り出したとき、前の席の二人がこちらを見ていることに気がついた。
「おはよう、恩田くん」
さりげない微笑を伴って、ゆかりは言った。その向こうでは、ちなみが嫌らしい表情を浮かべている。
「……おう」
気の利いた言葉を思いつかなかったため、それだけ返すと彼はさっさと机に伏せた。頭の中では様々なものがせめぎ合い、交錯し、ぐるぐると回り始めた。
間もなくホームルーム開始のチャイムが鳴る時間だが、そんなことは彼にとって問題ではなかった。あまりにも強い睡眠への欲求は、彼を怠惰な世界へと誘い入れる。今すぐ瞬間移動で自宅に戻り、布団で横になることができたらどんなに幸せだろう。そんな気分だった。
まだ起きているのか、もう眠ってしまったのかさえ分からない暗闇の中で、彼はゆるやかな波に身を任せて漂っていた。現実には数秒のことが、彼には何時間にも感じられる。どうやら、上手い具合に眠りにつけそうだ。
ところが、愛花ちなみの嫌らしい声が、彼の意識を瞬く間に教室へと呼び戻した。
「どんだけ寝るのよ。部活もやってないのに、そんなに疲れるかねぇ」
無視しようと彼は努めた。彼女の存在など、彼にとって取るに足らないものだ。貴重な睡眠時間を、愛花なんかのために消費するのはもったいない。
反応を見せない優輝に、ちなみは寝たふりをしていると決めつけたようで、わざとらしく嫌味をぶつける。
「これじゃあ、忍先輩も苦労するわけだわ。まだウチの弟の方がマシだったよ。元気に外走り回って、いかにも男子って感じ」
「ちょっと、ちなみちゃん……」
口を開けてしまえばきっと後悔するような汚い言葉が飛び出してしまうと考えて、彼は何も言わず、ちなみをただ睨むことにした。
「……何?」
苛立ちを隠すつもりもなさそうな、鋭い口調でちなみは言う。
それに対して、優輝も目で彼女を非難する。何が俺の癪に障ったか、分かっているはずだ、と。
あまりにも突然に起こった彼らの険悪な睨み合いに挟まれたゆかりは、居心地が悪いどころではなく、どちらをなだめた方が利口か考えた。初めはただからかっていただけにしても、ちなみはこうなってしまうと頑固で譲らない性格だ。それに、優輝の方が精神面では大人に思える。
都合のいいことに、彼を説得するネタは昨日手に入れたばかりだ。
「その、何かそんなに疲れるくらい大変なことがあるんだったら、忍先輩に相談とかしてみたらどうかな?」
彼の鋭い視線の先がゆかりに切り替わると、その瞳に微かな失望の色が表れた。静かに席を立ち、彼女たちを見下してからゆっくりと後ろのドアに歩み寄っていく。
「恩田くん? もうすぐ先生来るよ?」
ゆかりの心配する声も無視して、彼は教室を出て行った。数人のクラスメイトがそれを気にするような素振りをみせたが、すぐに何も見なかったようにいつものお喋りに戻っていった。
ホームルームが終わる時間を見計らって、優輝は教室に戻ることにした。
漫画やドラマに憧れて保健室でサボろうかとも思ったのだが、現実の保健医というのは病人以外には冷酷なもので、彼が健康体であると知るやいなや、すぐに保健室から追い出したのだった。
このまま戻ってしまうのも、面白くない。一限目に間に合えば、愛花は何とも思わないだろう。しかし、自分が授業に遅れてしまえば少しは罪悪感も芽生えるのではないかと彼は考えて、トイレなどで時間を稼ぐことにした。
一限目開始のチャイムが鳴り五分ほど経過したところで、彼は教室に戻った。扉を開けようとするが、鍵がかかっている。
「そっか、体育……」
今からグラウンドに行って学級委員に鍵を借りてくるのも面倒くさい。それに、サボろうとして教室から閉め出されたなんて格好悪いと考えた彼は、施錠を忘れている窓がないか一つずつ調べてみて、クラスメイトの防犯意識の高さに感心させられることになった。
途方に暮れて、また保健室に戻ろうかという考えが頭をよぎったとき、すりガラスの向こうで何かが動くのを見つけた。
それは子ども向けアニメのようにデフォルメされた犬や猫のぬいぐるみといった感じのシルエットで、ゆかりの椅子から机によじ登っているところだった。二本足で立ち、背伸びまでしている。
「何だこれ」
自分が現実に目にしているものを頭の中で合理的に処理できず、つい独り言がこぼれると、向こうも彼の存在に気付いたのか窓の方にやって来てガラスをノックした。
しばらくして、それは窓を開けたがっているのだと分かり、彼は鍵を指で示す。利口なその生き物は彼の指の先を追って鍵にたどり着くと、なんと前足のような手を精一杯伸ばして施錠を解いてしまった。
「みんな、どこ行っちゃったリア?」
窓を開くと、明らかに子ども受けを意識して誕生したのではないかと疑いたくなるような二頭身のぬいぐるみもどきが、あろうことか人間の言葉を喋った。
これは彼にとって驚くべきことであり、自身の目と耳と頭の異常を疑わずにはいられなかった。
「何だこれ……」
先ほどと同じ台詞を口にした後、人目についてはまずいと判断して窓から教室の中に入った彼は、すぐに開けてもらったばかりの窓の鍵を閉めた。自分の頭がおかしくなったのでなければ、ぬいぐるみとお喋りをしている男子中学生という構図はまずい。
嬉野ゆかりの席に座り、机の上で不思議そうな顔をしているぬいぐるみを観察する。どう見てもこれは人工的な産物ではなく、自然体の生き物であった。
「ゆかりもちなみも、どこに行ったか知らないリア?」
怯える様子もなく、それは優輝に話しかけてきた。未確認ぬいぐるみ体の口にした名前を聞いて、彼は納得する。
嬉野がかばんに隠していたのは、これだったのか。
「ここで待ってれば、そのうち帰ってくるだろ」意外にも自分に奇妙な出来事への順応性があったのかと驚きながら、優輝は言った。「それより、何なんだよ、お前?」
ぬいぐるみは愛嬌のある笑顔をみせて、嬉しそうに答えた。
「ボクは、心の国の妖精タリアリア。いなくなったお母さんを捜して、ゆかりたちと友達になったリア」
「いなくなった? 何で?」
「分からないリア」
他人事のように軽い口調に、彼は困惑した。妖精というのは、頭が弱い生き物なのかもしれない。そうだとしたら、一つずつ質問していくよりも、既に答えを知っているゆかりたちから聞き出した方が早いはずだと彼は考えた。
「それで……、タリアリア?」
「タリアリア! ゆかりと同じ間違いをしないでほしいリア」
むくれたように言うタリアを見て、妖精全体の精神年齢が低いのか、単にタリアが幼いだけなのかなんて知らないが、人間の子どもと何ら違いはないと思えた。そして、そんなタリアを一人でこんな所に寄こしている両親を、優輝は許せなかった。
「悪かったよ。それで、じゃあ父親は?」
「お父さんのことは何も覚えてないリア!」
またしても、何でもないことのように明るく言う。
「父親もいなくなったのか?」
「いなくなったのはお母さんリア。お父さんは初めからいなかったリア!」
「死んだのか?」
「知らないリア」
しばらく気まずい間があり、その沈黙を破ったのはタリアだった。
「教えてほしいリア! お父さんってどんな感じリア?」
このとき、優輝は自分が小学校の先生に向いていないことをひしひしと感じた。特に希望している職業でもないのだが、子どもに教育上よろしくない答えを持つ質問をされたら、上手くごまかすことはできそうにない。
妖精の世界に離婚があったとしても、あまり詳しいことを言う必要はない。あれこれと思考を巡らせたが、結局できのいい返事は浮かばなかった。
「俺も、知らない」
さきほどまで、自分がどんなに辛い質問をタリアにぶつけていたか、ようやく気付く。両親がいなくて心細い思いをしている子に、とんでもなく残酷なことをしていた。しかし、タリア本人にそれを悲観する様子はまったく見られない。
「キミもお父さんを知らないリア?」
仲間を見つけたように目を輝かせるタリアだったが、優輝は何となくその呼び方が気に入らなかった。
「……何だよ“キミ”って」
「だってまだ名前を聞いてないリア!」
名乗る必要性を考えて、彼は犬や猫に自己紹介をする人間がいたらどう見えるか想像した。しかし、今は誰にも見られてはいないのだから、難しく考えるのがばかみたいに思える。
「恩田」
「オンダ?」
「呼び捨てにするなよ」
「でも、ゆかりもちなみもゆいも、ボクはそのままで呼んでるリア」
子どもに無理やり敬称をつけて呼べという中学生も客観的にどうかと思い、彼は妖精のネーミングセンスに任せてみることにした。
「下の名前は優輝。オンダ以外なら何て呼んでもいい」
「じゃあ、ユーキ!」どうやら語感を気に入ったらしく、タリアは何度か復唱した。「ユーキ、ユーキもお父さんがいないリア? お母さんは?」
「……いないのは父親だけ」
「じゃあ、よかったリア!」
タリアは万歳をして、さも嬉しそうに言った。
「よかった? どこが?」
「だって、ユーキにはお母さんがいるリア」
「それがよかったになるのか?」
「ボクはお母さんがいてくれたら嬉しいリア。お父さんもいたら、もっと嬉しいリア」
優輝は漠然と、父親のいる我が家というものを想像してみた。
父親が働いて、母は一日中ずっと家にいて家事をしていたらどうなっていただろう。彼が学校から帰ってきたときには洗濯物は全て取り込んであり、夕飯の準備も終わって、お風呂のお湯も沸いてあったとしたら……。
「嬉しくねぇよ」
無邪気な妖精の子どもは、彼の低い声を聞いて小首を傾げた。タリアがどんな家庭で育ってきたかなんて優輝には想像もつかなかったが、少なくとも悩みなどとは無縁の環境だったということだけは分かる。
それとも、よほどいい母親で、幼い我が子に辛い一面を見せないようにしていただけかもしれない。
「ユーキはお父さんにいてほしくないリア?」
「ああ」
彼は壁の時計を見て、妖精とのとてもメルヘンとは言い難い内容の会話をそろそろ切り上げる時間だと判断した。授業時間の半分さえ出ていれば欠席扱いにはならない。彼は愛花ちなみや初対面の妖精の為に皆勤賞を逃すつもりはなかった。
「ゆかりはお父さんやお母さんといるとき嬉しそうリア。ユーキは違うリア?」
かばんから体操着を取り出して、優輝は確認するようにゆっくりと言った。
「お前は母親だけじゃ嫌か?」
タリアは頭を何度も横に振って、一生懸命に優輝の質問を否定した。二頭身のくせに首は大丈夫なのかと彼は思う。
「そんなことないリア。お母さんだけでも嬉しいリア」
カッターシャツのボタンを外しながら、ふと気がついた。当然ながら今、彼が着ている制服は母と一緒に買いに行ったものだ。それなりに高い買い物だったと記憶している。きっと、学校と服屋の共同事業にまんまとはめられているのだと思ったものだった。
そして、体操着や通学かばんが目に入る。彼の所有物のほとんどは、彼の母が買ってくれたものだった。どんなもんだ、という気持ちで彼はタリアを見た。
「……俺もだ」
父親がいなくても、何も問題はない。彼は確信を得た。
これまで耐えきれない空腹を味わったこともなければ、寒さに凍えそうになったこともない。人並みの暮らしをして、当たり前のように生活している。
そして、彼にとっては、母と姉との三人での生活こそが当たり前だった。
――そういえば今日も遅くなるって言ってたっけな……。
体操着の上を着ると、恩田と書かれたみずぼらしいゼッケンからほつれた糸が垂れていた。これは彼が自分で縫ったものだが、小学校のときに母がやってくれたように上手にはできなかった。
不思議そうな顔でこちらを見ているタリアに気付き、彼は得意げに付け加えた。
「それに、もう一人いるし」
母が働いて、優輝と忍が家事をする。それが自分にとっての家族だと、彼は思った。
「え、タリアがいなくなったんですか!?」
放課後のテニス部の部室では、練習前の僅かな時間を利用してゆかりたち三人による集会が開かれていた。
珍しく大声を出したゆいを落ち着かせて、ゆかりは扉を少しだけ開けて近くに誰もいないか確認する。準備を終えた部員たちは昨日と同じように適当な建物の陰に散らばって談笑をしており、こちらを気にかける者はいなかった。
「休み時間の度に探したんだけどね、どこにもいなかったから。もしかするとあんたのとこに行ってるんじゃないかと思ったんだけどさ」
「一時間目の体育から戻ってきたら、いなくなっていたの。まだ学校内にいたらいいんだけど」
タリアを匿うからにはトラブルをも享受できなければ務まらないと理解はしていたが、彼女たちは実際に何かが起こったときの対策などは一切話し合ったことはなかった。
母親を捜しにわざわざ人間界にやってきたくらいだから、勝手にどこかにいなくなることくらいタリアの行動力を考えたなら容易く想像できたにも関わらず、ゆかりはそれを思いとどまらせるくらいの信頼関係はとっくにできているものだと思い込んでいた。
「私、ちょっと捜してきます」
ゆいが立ち上がろうとするのを、ちなみが制した。
「一年生は走り込みでしょ」
「でも、この前の人に何かされてたら……」
「そうだとしても、あんたが行くのはだめ」
明らかに不満そうな表情になったゆいは、意見を求めてゆかりの方を見た。ちなみの考えていることに何となくの見当をつけて、ゆかりは説明する。
「前にもタリアがいなくなったことはあって、そのときは私が捜しにいったんだけど、結局タリアは一人で戻ってきてて、私がイカリングとばったり出くわしちゃったの」
「イカリングと出くわすって……何ですか?」
そこで初めて、まだイカリングとゆいのボーイ・ミーツ・ガールが行われていなかったのだと、ゆかりは気づいた。ちなみは呆れたように額に手を当てて前髪をかき上げている。
「簡単に言うと男版ラクイーンみたいな感じ。同じようにタリアを狙ってるわけ」
「じゃあ、やっぱりタリアを見つけないと!」
扉を開けようとするゆいの後頭部を軽くチョップして、ちなみは言葉を続けた。
「ゆかりの話聞いてた? 捜しにいってそいつらと出くわしたら、あんた一人でどうにかできるの?」
「でも……」
着替えるときに外した腕時計をかばんから取り出したちなみは、そろそろ練習が始まる時間だと確認して、ゆいの肩に手を置く。
「最初の休憩までにタリアが帰ってなかったら、私とゆかりで捜しにいく」
しかし、ゆいはまだ不服そうだった。彼女にとって、この学校で心置きなく話ができる数少ない相手がタリアなのだから、その心配はもっともだとゆかりは思った。
「私も行きます!」
「だから、走り込み」ちなみは強く諭すような口調で言った。「一年生がこの時期に練習を抜けたらどう思われるか、分かる?」
その言葉に渋々ながら納得したらしく、ゆいは肩を落として俯いた。それから改めて時間を確認した彼女たちが部室を出ようとしたとき、忍が勢いよく扉を開けて入ってきた。
「こら! もう練習始まるよ」
今からやろうと思っていたことをやれと言われると腹が立つものだが、それどころではない三人は空返事で済ませた。
「ん、どうかしたの?」
「ちょっと気になることがあって……」
「気になること?」
これ以上の追及を逃れるためか、告げ口をしたかったのか、ちなみは優輝の話を持ち出して誤魔化すことにした。
「たぶん恩田のことですよ。今日の一時間目の体育サボってましたから」
「え、優輝が授業サボった?」
「そうなんですよ。忍先輩から、こう、がつんと言ってやってください」
すると、忍は困ったように笑った。
「がつん……ってのは無理かな。私たち、そんな感じの関係じゃないんだよね」
ゆかりはその口調が、片親しかいないと告白されたときより深刻な問題を語るように聞こえた。
「そんな感じって……?」
尋ねた後で、自分の相変わらずの無神経さにゆかりは嫌悪した。やはり、それは忍にとって答えにくい質問だったようで、彼女は難しい顔をして後頭部をぽりぽりと掻いた。
「中学生になってから口数も少なくなったっていうか、心配ではあるんだけどね」そして、弱音を吐くように小さく呟いた。「やっぱり男の子には父親が必要だったのかなって思っちゃったりも……」
再び部室の扉が開き、忍は振り返って口を閉ざした。志穂が呼びにきたのかと、ゆかりが扉の外に目をやると、そこには大事そうにカバンを抱えた優輝が立っていた。
やがて隣に志穂もいることに気付いた。気まずそうに、「まずかった?」と顔でゆかりたちに問いかけている。
「……ふざけんなよ」
低い声だがはっきりとした口調で言うと、優輝は校門の方へ走っていった。
部室の中で忍ひとりだけが当惑することなく、諦めと何かを耐えるような表情で彼の後ろ姿を見送っていた。