プリキュアコネクト   作:おじ

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4-3.後ろの席のイヤなやつ!?

 優輝が去った後、部室には戸惑いと気まずさによる沈黙が訪れた。

 ゆかりにとっては彼が女子ソフトテニス部の部室に現れたことの方がよっぽど驚くべきことであり、なぜ去ってしまったのか考える余裕はなかった。

 つい数日前まで優輝と忍が姉弟の関係にあるとゆかりが知らなかったのは、どちらもその話を口にしなかったからであり、校内で彼らが一緒にいるところさえ見たことがなかったからだ。

 もちろん、優輝が部活中の忍を訪ねてきたことは一度もない。だから、彼が来たのには何か大きな理由があるはずだとゆかりは考えた。

「あー……、忍? 大丈夫?」

 やがて志穂が躊躇いがちに口を開き、優輝の姿を隠した校舎の角を見つめたままの忍ははっとして何でもないように装った。

「大丈夫って?」

 それはあまりにもわざとらしく、この場の誰一人としてごまかされることはなかったが、彼女たちはそのフリをした。

「恩田はどうしてここに?」

「何かゆかりに用があったみたいだけど」

 ちなみが尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「え、私に?」

 彼の目的はおそらく忍との面会だと思っていただけに、ゆかりは訳が分からず必死に優輝が自分に会いに来る理由を考えた。そんな彼女をよそに、志穂は頷く。

「うん。告白でもするのかって茶化してたんだけど……、私が怒らせたからどこか行っちゃったってことはないよね?」

「恩田がゆかりに告白なんて、あり得ませんって」

 ゆかりが気の利いたリアクションをしてみせればこの場の雰囲気も和らいだのかもしれないが、とてもそんな気にはなれず黙ったままでいると、再び部室内は静まり返った。

 扉のところから顔だけのぞかせていた志穂は、小さくため息を吐くと部室の中に入ってきて扉を閉める。そして、忍の前に立ち真面目な表情を見せた。

「いいの?」

 左肘を右手で掴み肩身を窄めた彼女が、志穂からはっきりと目を逸らすのをゆかりは見逃さなかった。まるで追求を逃れるようで、その仕草からこれ以上は関わってほしくないと思っていることが分かる。

「……何が?」

 知り合って一年しか経たないゆかりにも見抜けたのだから、彼女と二年間もペアを組んでいる志穂がその言葉から何も読み取れないわけがなく、小さく頷いて微笑んだ。

「そう。じゃあ、私は先にコートに行ってる。もう時間だからね」

 部室を出るとき、志穂はゆかりたちに向けて一瞬だけ口元を緩めた。それを受けて、ゆかりもラケットを背負い立ち上がる。

「私たちも行こう」

 ちなみとゆいは不思議そうな顔をして忍の様子を窺う素振りをみせたが、ゆかりにならって練習に向かう準備をした。

「ゆかりさん?」

 先ほど優輝と初対面を果たしたばかりで彼が忍の弟であることを知るはずもないゆいは、訳が分からずに不安そうな声を出した。説明しようにも、ゆかりにはどうして優輝が怒ったのか知る由もなく、また知る必要もないように感じた。

 これは忍と優輝の問題であって、彼女たちの介入する余地はない。だから、ゆかりは何も言わずゆいの手を引っ張って部室の外へ出た。

「先輩、コートで待ってますね」

 振り返ると、部室の中にいる忍はひどく儚げに見えた。そこには、これまでゆかりたちの前を進み続けた頼もしく凛々しいキャプテンの姿はなかった。

 ゆかりよりたった一つ年上の、どこにでもいるごく普通の中学生。それが恩田忍だった。

「……うん」

 忍の顔から憂慮が消え、穏やかな表情になった。

 ゆかりたちがコートに向かおうとして歩き始めたとき、最後に部室を出て扉を閉めようとしたちなみが言った。

「これ、恩田のかばんじゃない?」

 扉の横には見覚えのある通学かばんが置かれていた。ピンク、赤、白、青の花が一輪ずつくっついて小さな花束のようになっているデザインのキーホルダーは、男子にしては珍しい趣味だと印象に残っている。

「間違いない、優輝のだ」

 忍が屈んでキーホルダーに触れたとき、かばんの中で何かが大きく動いた。それは、ゆかりが授業中に何度も悩まされたあの現象とそっくりであり、他の可能性は考えられなかった。

「ゆかり! ちなみ! ゆい!」

 ファスナーをこじ開け優輝のかばんから顔を出したタリアは、ここが部室の外で忍の目の前であることも知らずに、嬉しそうに言った。

「タリア……」

 安堵して微笑むゆいを見て、案外と図太い神経を持っているんだなとゆかりは感心する。この場合、正しいリアクションはちなみのように頭を抱えて項垂れるか、忍のように硬直するかの二つに一つである。

 弟のかばんから現れた喋るぬいぐるみを凝視したまま、頭の中を様々な思考がぐるぐると回っている忍に、タリアは首を傾げてみせた。

「あれ、ユーキはどこリア?」

「え?」

 とりあえず再び部室に入って扉を閉めると、ゆかりはどうして優輝のかばんに入っていたのかタリアに質問したい気持ちを抑えて、まずは忍の混乱を処理することにした。

 練習が始まるまで時間もないため、説明はタリアの紹介だけに済ませた。途中でゆいが口をはさみプリキュアのことをばらそうとしたが、それはちなみによって止められた。

「信じられない、妖精なんて……」実際に目にしている存在を言葉で誤魔化そうとしているようだったが、ゆかりたちが揃って頷いたため忍は肩を落とした。「優輝も知ってたってこと?」

「そんなはずはないんですけど……」

 タリアは相変わらずにこにこして、忍を新たな友人として迎え入れていた。ゆかりは目線の高さをタリアに合わせて、丁寧な口調で尋ねる。

「ねぇ、タリア? どうして恩田くんのかばんに入っていたの?」

「間違えちゃったリア!」

 優輝の席はゆかりの席の後ろだから、タリアなら間違えても不思議はない。いずれにせよ、入るかばんを間違えたということは、一度かばんから出ていたということだ。誰にも見つかっていなければいいが……。

「でも、恩田が来たのってタリアを返しにきたんじゃない? だとしたら、やっぱり恩田にもばれたってことになるけど……」

 タリアがいなくなったことに気付いたのは、一時間目の体育が終わって教室に帰ったときだった。そして、優輝だけが体育に遅れて来た。タリアが彼に見つかり、ゆかりたちのことを話したのは疑いようがない。問題は、どこまで話したのか。

「恩田くんとはどんな話をしたの?」

 妖精の存在を認めたとしても、彼女たちがプリキュアに変身して巨人や獣の怪物と戦ったなんて話を優輝が信じるとは思えないが、一応は確認をしておくに越したことはない。

「お母さんと、お父さんの話リア!」

「え……」

 それまで黙ってただ困惑していた忍が微かに声を漏らした。

「ユーキはお父さんがいないって言ってたリア。ボクと一緒リア」妖精を動物に分類してもよいのか曖昧ではあるが、タリアはそのような直感からか忍の方を見た。「でも、お母さんがいるから大丈夫リア。ボクも、ユーキも!」

「……優輝が、そう言ってたの?」

 恐る恐るといった様子で、忍は尋ねた。

「ユーキはあまり喋らないリア」

 慎重に交流を試みる忍とは対照的に、タリアは相も変わらず能天気に応える。そんなタリアを見て、忍も相好を崩した。

「うん」

 緩んだ口元を手で隠す。

 ちなみから優輝の名前を聞いたときは、自分の知らない弟のクラスでの一面を垣間見ることができるかと思ったが、やはりと言うべきかちなみが一方的に食ってかかっていただけで、忍にとっての彼の印象はこれまでと変わらなかった。

 そんな彼のかばんから妖精なる生物が出てきたとき、弟の秘密を知ることができたと忍は驚きながらも嬉しかったのだ。しかし、その妖精に対しても優輝はいつも通りに接していたという。

 クラスメイトや先生や、母や、姉と同じように。

 少しくらいは驚いて面白いリアクションでもしたのかな、と考えてみたが、普段の彼からは想像できない姿であり上手くイメージできなかった。

 妖精にすら口数が少ないなんて、実に彼らしい。忍はくすくすと笑いながら、そんなことを思った。

「でも、ボクには分かったリア」

「分かったって?」

 かばんから這い出てきたタリアは、小さな花束のキーホルダーを手で示した。

「ユーキの気持ちリア。ユーキはすごく優しい心を持ってるリア」

 すると、怪訝という言葉を調べるときのお手本になれるくらいの声で、ちなみが口をはさんだ。

「はぁ、恩田が優しい~?」

「ちなみはすぐ怒るリア。ユーキとは大違いリア」

 悪びれた様子もなくそんなことを言うものだから、ちなみも怒るに怒れず、タリアを掴み上げてくすぐった。

「なに? じゃあ、私は優しくないって言いたいわけ?」

 無邪気に笑いながら、タリアはもう一度キーホルダーを指さした。

「あの花みたいに、ユーキからは色んな気持ちが感じられたリア。でも、それをぜんぶ優しさで抑えてたリア」

「気持ちを、抑えてた?」

 忍が姿勢を低くしてキーホルダーを見たので、ちなみはくすぐり攻撃をやめてタリアをかばんの横に戻した。

「最初、ユーキの心はこの青い花みたいだったリア。でも、お母さんの話をしたときはピンクの花みたいに感じたリア。さっきは赤い感じだったリア」

「赤って……」

 ゆかりの視線は自然とちなみの方に向けられた。タリアの言う花の色が、感情の曖昧な表現だとしたら、キュアルビーやオコリンボーの例によると赤は怒りを表す。ちなみもそれに気付いて、ポケットから真紅のブレスレットを覗かせた。

「怒ってるってことでしょうか? 赤って活発とか攻撃的なイメージが私にはあるんですけど……」

 間違っていたらどうしようといった感じでおずおずと口を開いたゆいは、忍の表情に緊張と後悔が表れたのを見て、申し訳ないように肩を竦めた。

「でも、ユーキの赤はすぐ青に変わったリア」

 ほとんどの場合、赤と青は対照的なものとして考えられる。ゆかりがぱっと思いついたのは、火と水、朝と夜といったイメージだった。彼女にとって青は落ち着いた印象の色であり、どことなく憂いを感じさせる。

「青っていうと、冷静だったり泣いてる感じ?」

「分からないリア」

「いや、タリアが赤とか青とか言い出したんでしょ」

 文句を言うちなみを見ていると、やはり彼女は赤い“怒りのプリキュア”にぴったりだなとゆかりは思った。“怒り”はともかく赤は彼女の好きな色のはずで、とてもよく似合っている。

 しかし、優輝はどうだろう。ゆかりはどうしても彼の色というものをイメージできなかった。それは彼女が彼と知り合って間もないためだとばかり思っていたが、忍の話によるとそうでもないらしい。

「だって、心はそんなに簡単じゃないリア。ボクにはユーキの気持ちが分からないリア」

「さっき、恩田の気持ちは分かった、優しいとか言ってたじゃない」

「ユーキは優しいリア。だから、ボクに自分の気持ちを教えてくれないリア」

 支離滅裂なタリアの言い分だったが、その意味をゆかりは何となく理解することができた。

 照れてしまって喜びを表現できない人や、相手に気を遣って怒れない人なんて珍しくはない。優輝の場合、感情に蓋をするものがどういったわけか優しさなだけなのだろう。

「でも、お母さんの話をしてるときのユーキは嬉しそうだったリア」

「えっ、あいつマザコンなんですか?」

 タリアとの言い合いで先ほどまでの気まずさなどすっかり失われたちなみは、冗談っぽく忍に尋ねた。

「ううん、さっきも言ったけど、中学生になってからの優輝は私ともお母さんともほとんど話さなくて……」

 すると、忍に近寄ったタリアは彼女の顔を見上げてまじまじと観察した。

「もしかして、ユーキのお姉ちゃんリア?」

 自己紹介がまだだったことに気がついた忍は、人間以外の生き物に挨拶するのが恥ずかしいのかやや躊躇って肯定した。

「うん、優輝の姉の恩田忍です」

「じゃあ忍もお父さんがいないリア?」

「……そうだね」

 困ったように微笑んで優しく応える忍に、タリアは何か思うところがあるようだった。少なくとも、ゆかりにはそう見えた。

 心の国の妖精と自称するだけはあって、または無垢な幼さからか、タリアは人の心には敏感に反応する。特に、正の感情に関してはそれが顕著だ。ちなみとゆいがプリキュアに変身したときの様子から、ゆかりはそれを知っていた。

「ユーキはお父さんがいたら嬉しくないって言ってたリア。忍もそうリア?」

 家族の話題を後輩の前でするのを気にして、忍はちらっとゆかりたちを見たが、やがて開き直ったように口を開いた。

「どうだろうね。私は今のままでもいいけど、やっぱり父親がいたらもっとよかったのかもって思うことはあるよ」

「ユーキはそう思ってないリア」

 それを聞いて忍の表情には一瞬だけ憂いが戻ったが、ゆかりたちに心配されるのが嫌だったのかにかっと笑い、わざとらしいくらい元気な口調になった。

「まぁね。父親がいなくても、私がお母さんを手伝えばどうにかなるし」

 彼女が無理に吹き飛ばした憂慮に感染したのか、珍しくタリアが物案じするように呟いた。

「……ユーキと同じリア」

 なぜタリアからいつもの無邪気さがなくなったのか、ゆかりには分からなかった。姉弟が同じ思考をしているというのは、喜ぶべきことのはずなのに。

 彼女と同じ謎を抱えた忍は、それを解く鍵を持っていたらしく、立ち上がると時計を気にする素振りをみせた。

「ねぇ、頼みがあるんだけど……」

「はい、何ですか?」

 不思議そうな顔をする三人の後輩と、自分以上に優輝のことをよく理解している妖精を見て、志穂がしたのと同じように忍は口元を緩めた。

「志穂に言っといて。今日は私、帰ったって」

 机の上に畳んで置いてある自分の制服をかばんに突っ込むと、忍は体操着姿のままで部室を出た。

 昨日と同じ。しかし、昨日とは違う結果にしようと忍は思った。

 

 数日前ポストに分譲予定というチラシが入っていた建設途中の高層マンションの陰で学校が見えなくなってから、優輝はかばんの行方を気にした。

 幸運にも宿題など明日が提出期限のものはなかったはずだから放っておいてもよかったのだが、どうにも自分の持ち物を置き去りにするのが気に入らなかった彼は、遥か上空から聞こえてくる、金属どうし小気味好くがぶつかる音に合わせて右往左往した。

 女子という生き物は噂が好きだから、きっと自分のことをばかにしているに違いないと彼は思った。先ほどの行動を客観的に捉えると、おかしなやつだと思われても仕方がない。

「妖精をかばんに隠してる方が、よっぽどおかしいだろ」

 どうせ工事の音にかき消されるからと呟いて、彼は今朝の出来事に思いを馳せた。

 妖精の子ども。子どもみたいな妖精。妙に明るいやつ。でも、父親はいない。……母親もいなくなったんだっけ。

 そして、扉を隔てて聞こえた忍の言葉を思い出す。

 ――父親が必要。

「……ふざけんなよ」

 工事の作業がひと段落したのか、その瞬間に上空から聞こえていた騒音が止み、今度の呟きははっきりとしたものになった。

 彼はひと月後にはマンションになるはずの鉄の塊を見上げた。おおよそ二十階くらいだろうか。もっと高いかもしれないし、低いかもしれない。いずれにせよ、彼とは縁がない話だ。

 父親がいたら、こんなところにも住めたのかなと彼は思った。男女平等がどうとか言っても、やはり男の方が収入は多いイメージがある。食費なんかは今より増えるかもしれないが、それでも暮らしは裕福になるだろう。

 そこまで考えたところで、彼は家に向かって歩きだした。

 とりあえず、今は忍と会いたくなかった。すべてが上手く運べば、タリアはゆかりに保護されて、かばんは忍が持って帰ってくれるだろう。

 いや、あいつのことだから、俺のかばんって分からないんじゃないか。

 鼻で笑いながらそんなことを思い、財布もかばんに入っていたことに気がついた。彼は舌打ちをして冷蔵庫の中身を思い出そうとしたが、そこから夕飯のイメージまで辿りつけなかった。母がそれを把握しており、買い物をして帰ってくることを信じるほかない。

 忍が優輝の姿を見つけたのは、マンションの工事の音がちょうど気にならなくなるくらいの交差点だった。優輝は持て余した両手をポケットに突っ込み、すぐに落ち着かない様子でポケットから手を引き抜いてたりして信号待ちをしていた。律儀にも、点字ブロックから二歩下がったところに立っている。

 体操着姿で二つのかばんを抱えている受験生というのはどうも格好が悪そうだと、すぐにでも優輝に声をかけかばんを渡してしまいたかったのだが、忍はそのきっかけを掴めずに彼が気付いてくれるのを待つことにした。

 しばらくすると、彼女の後ろから大げさに足音を鳴らして長身の男がやって来た為、優輝はちらりとこちらの方を見た。姉の姿を見つけた彼は一瞬ぎょっとした表情になり、すぐに視線を向こうの信号に戻してしまった。

 やがて信号が青に変わり、彼が気まずそうに横断歩道を渡りきってから忍は声をかけた。

「優輝、ほら、かばん」

 まるで壊れたロボットのように、ゆっくりと首を回して自分と忍のかばんを見分けると、さっと自分のかばんを手に取った。

「……部活は?」

 まさか彼の方から話しかけてくるとは思っていなかった忍は、自分の言おうとしていたことを抑え込まなければならなくなった。

「休んだ。今日もお母さん遅くなるって言ってたし、昨日は優輝に晩ご飯つくらせちゃったわけだから、今日こそ私がするよ」

 これは彼女にとってかなり前向きな発言だったのにも関わらず、優輝はさらに素っ気ない態度になり、地面の踏みしめ方からはストレスが感じられる。

「いいから、練習戻れよ」

「ねぇ、さっきの怒ってるなら……」

 途端に優輝は早足になり、忍との会話を打ち切りたいという意思をはっきりさせた。これには彼女もむっとしたが、姉としてここは下手に出るべきだと判断した。

「ごめん。その……タリアって妖精? 知ってるんでしょ? あの子に言われて気付いたんだけど、私、普段から優輝に家事押し付けてることあった。部活で忙しいせいもあって、勝手に家事も頑張ってるつもりでいたけど、でも、これからはちゃんとするから」

 すると、優輝は足を止めて彼女を鋭い目つきで睨んだ。

 何か言うのを忍は待ったが、まるで見限るように視線を足元に落として優輝は再び歩き始める。

「ちょっと!」

 先を行こうとする優輝の手を掴み、忍はすぐに声を荒げたことを後悔した。普段はほとんど表情の変化を見せない優輝が、そのときばかりは怒りを顕わにして、彼女の手を振り払う。

 これまで抑えていた怒りが溢れだしたなら、尽きることのない暴言を吐いたとしてもおかしくないと彼女は覚悟したが、優輝はすぐにいつもの冷静さを取り戻したようだった。

 タリアの言っていたように、赤が青に変わったのだ。

 やがて忍は、自分の方を振り返ったはずの優輝の視線が、まるで見当違いの方向に向けられていることに気付いた。彼は明らかに彼女より後ろにあるものを見ている。

 忍が後ろに目をやると、そこには先ほどの交差点で見かけた長身の男が右手をこちらに突きだした格好で立っていた。その掌は、薄黒い赤で染まっている。

「おいおい、こんなに強い怒りを持ってるってのに、喧嘩しないなんて勿体ないぜ」

 気を失い倒れかけた優輝の体を支え、忍はその男の手から赤い光が広がって巨大な人の姿を形成する様子を呆然と見つめた。

 生み出された巨大なオコリンボーは、夕方の穏やかな町にパニックを起こすには十分すぎた。

 町の人々が怪物から逃げるなか、彼女は弟を抱えたままその場にへたり込んだ。

 部活までサボッて、弟とはうまくいかず、その弟の体から現れた赤い光が怪物となって町を襲っている。巨人となった光には不満、鬱憤、暴力といったものが込められてあり、それらがごちゃ混ぜになった爆弾のように感じられた。

 あれが、そうなのだろうか。タリアの言っていた赤、怒りの感情。

 そうだとしたら、優輝のそれはあまりにも大きすぎた。

 

 部活中のゆかりたちが町の異変に気付いたのは、前衛練習を終えたときだった。

 遠くの方から砲弾のような地響きが聞こえてくると思えば、次第に音は近くなり、巨人の姿を肉眼で確認できるまでになった。

 部活で校内に残っている生徒たちはそれを映画の撮影と勘違いしたり、自分の目がおかしくなったと疑うことなく、こちらに近づいてくる現実離れした存在の危険性を時間をかけて判断していた。

「あれって……」

 ゆかりは息を呑んで巨大なオコリンボーを認めた。初めて戦ったときの体育館に収まっていたものとは、まるで違う。体長はその三倍はあり、強い怒りが感じられた。

「なんか……やばそう」

 ようやく危機感を覚えた部員たちは、たちまち部室に置いてある自分の荷物を片付け始めた。地響きが大きくなるにつれて、校内も騒がしくなる。

「みんな落ち着いて!」

 志穂は部員に呼びかけたが、そのほとんどは彼女の注意に耳を傾ける暇があるなら少しでも遠くへ逃げたいといった様子だった。

「先輩! どうしたらいいですか!?」

 こんなときに限ってキャプテン代理を任された不運を嘆きながら、一人だけさっさと走り込みを終わらせた悦ちゃんの質問に答えられない自分を志穂は嫌悪した。地震や火事なら避難場所は明確だが、体育館やグラウンドが巨人の進撃を防ぐとは思えない。

「まだ走り込みに出てる一年生を呼び戻してきて! 人数が確認できたら、固まって安全なところに避難するの。いい!?」

「はい!」

 悦ちゃんはすぐに回れ右をすると、ランニングコースを逆走し始めた。そんな彼女を見送った後、ゆかりは不安になる。

 オコリンボーが現れた原因はただ一つ。こちらの世界にやって来たイカリングがタリアを捜すついでに、誰かの怒りを操ったのだ。そして、タリアを守るためにはプリキュアになってあの巨大な怪物と戦わなければならないのだが、今回のそれは学校の校舎を踏みつぶすくらい造作なくやってのけそうな大きさである。

 戦って、勝てるのか。みんなの見ている前で、町を守ることができるのか。タリアのために、命まで懸けなければならないのか。

 そんな彼女の葛藤をよそに、志穂はみんなが逃げるのとは反対方向へ走り出した。

「どこに行くんですか、先輩!?」

「あれが来た方角に、忍の家があるの!」

 躊躇っている時間はないと、ゆかりは判断した。これまでのところ、イカリングたちによる犠牲者は出ていないが、これからもそうだとは限らない。

 彼女は戦うためにプリキュアになったのではなく、タリアと入学式を守りたくて変身できた。母親を捜している妖精と、それを連れ戻そうとして野蛮な行為に及ぶ者の奇妙な関係に挟まれ、訳も分からず戦ってきた。

 ただし、今回ばかりはイカリングを敵と認めなければならない。そして、ゆかりは立ち向かう能力がある。ゆかりたちだけが、町を守ることができるのだ。

「待ってください、私が行きます!」

 呼び止められた志穂がこちらを振り返ると、慣れない責任と緊張のためか、これまでに彼女たちが見たことのないくらい切羽詰まった表情になっていた。

「何言ってるの! 私はあんたたちの先輩だし、忍は私の友達なんだよ!? あんたたちを行かせるわけにはいかない」

 志穂に追いついたゆかりは、息を切らしながら頭を下げた。そのとき、ちらりと後ろを見ることができ、ちなみも着いてきてくれていることがわかった。

「お願いします。私にとっても忍先輩は大事な先輩ですし、恩田くんはクラスメイトです。だから、志穂先輩はみんなを避難させることに集中してください」

「でも……」

 後ろから駆け寄ってきたちなみも、どんと胸を張って心配いらないということを大げさにアピールした。

「私たちより、先輩の方がみんなをまとめるのは得意でしょ。ここはお互い、できることをやりましょうよ」

 このとき、ゆかりは部室でのやりとりの一部を思いだしていた。忍が母を手伝うと言ったとき、タリアは消沈したように彼女の考えは優輝と同じだと言った。どうして姉弟が同じ気持ちなのにタリアが浮かない顔をしたのか、今なら分かる。

「私たちに行かせてください。お願いします!」

 やがて諦めたように志穂は前髪をかき上げて、彼女たちの手を握った。

「わかったよ。でも、様子を見て危なそうだったらすぐに戻ってくること。いいね?」

「はい!」

 志穂がこちらに背中を向けるのを確認すると、二人はオコリンボー目指して走りながら体操着のポケットをまさぐる。それぞれ指環とブレスレットを取り出すと、それを装着した。

「プリキュア! フィーリング・コネクト!!」

 キュアリンクとキュアルビーは高く跳躍して、民家の屋根に飛び乗った。地面を走っていくよりこちらの方が遥かに早い。

 しかし、オコリンボーの進撃を食い止めるのが早くなったとはかぎらない。彼女たちがやられる時間が、少しばかり早まっただけかもしれないのだが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。

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