夕日によって真っ赤に染まった空に巨人が引き寄せられているようだった。
固いアスファルトにへたりこむと小石が足に食い込み、忍は顔を歪める。膝の上で眠っている優輝の表情にも、苦しみと怒りが表れていた。
どうすればよいのか。何が最善の行動か。
答えの出ない自問が頭の中で堂々巡りして、彼女の脳は疲弊しきっていた。目眩に襲われて、景色がぼやける。
遠くから微かに悲鳴が聞こえた。続いて、瓦礫が崩れるような音。巨人がどこかの建物を破壊したのかもしれない。
「何なのよ……」
呻き声をあげる弟の顔を見つめて、忍は呟いた。
優輝の体から現れた赤い光の巨人。それが町を襲い、人々を混乱させている。あれは優輝の一部なのか、それともまったく別のものなのか。彼女にとって、それが何よりも重要なことだった。
赤い、怒りの怪物。タリアの言うことを信じるなら、優輝がこれまで溜め込んできた抑圧された感情の塊。
「お父さんのことじゃないなら、何がそんなに嫌なの」
弟の口数が減ったことを気にしたのは、彼女が中学生に上がってからだった。それまでは近所の友達と一緒に仲良く遊んだりもして、さすがに高学年になるとお互いに同性の友達とばかり集まるようにはなったが、それでも姉弟の仲は良好な状態を保っていた。
そして、母も気付かないほど少しずつ、彼は家の中で喋らなくなっていった。
反抗期なのよ、と母は言う。難しい年頃だし、男子特有の悩みを相談できる父親がいないせいだと、忍も思った。
母に夕飯の準備を任された日にかぎって、彼女は部活で帰りが遅くなる。その度に、優輝が代わりに家事を済ませてくれていた。彼は何も言わない。だから、忍はとりあえず「ごめん」と言う。
それだけでは、許されなかったのか。
顔を上げて巨人を見ると、学校の方へ向かっていた。部活中の志穂たちがいる。しかし、優輝を置いて行くわけにもいかない。もちろん、巨人を止めることなんてできるはずもない。
自分の無力さに嫌気がさして再び俯くと、花のキーホルダーが目に入った。四色の花によって成る、優輝のキーホルダー。ところどころ錆びて、色も剥げている。
弟の物持ちのよさに感心しながら、彼女はそれを手に取った。
これは優輝が物心つくかつかないかの頃に買ったものだ。あのとき、両親はすでに離婚していたが、当時の忍には見当もつかない夫婦間の取り決めにより、たまに四人で出かけることがあった。
デパートのアクセサリー売り場で、彼女がこれを見つけた。四色の花を自分たち家族に例えて得意そうにしていたら、父親が買ってくれたのだった。
帰りの車の中で彼女がキーホルダーを自慢していると、優輝が物欲しそうな目でじっとそれを見ていたから、仕方なく譲ることにした。
優輝がそのときのことを覚えていて今でもこれを大事にしているのだとしたら、彼にとって四色の花はどんな意味をもつのだろう。
幼い彼女が自分たちと同じと言った花束と、今は数が合わない。花は四輪なのに、家族は三人だ。それなのにこのキーホルダーを持ち続けているということは、やはり彼が父親を必要としていることにはならないだろうか。
「おい」
そんな失礼な呼びかけが自分に向けたものであることに気付くまで時間がかかり、ようやく忍は巨人を生み出した長身の男がまだこの場にいたと認めた。
「あんた、優輝に何をしたの」
恐怖を感じられないほど彼女の心は麻痺していたため、得体の知れない相手に険しい口調で言葉を返すことができた。
「今にわかる」
イカリングが右手をかざすと、忍はまるで心という器官が体のどこかにあり、それを鷲掴みにされているような苦しみに襲われた。
やがて苦痛は心の内から沸々と溢れてきた怒りに変わる。
その怒りを解放することで、苦しみから逃れられるような気がした。彼女は思う。どうして我慢しなければならない?
優輝の怒りが私のせいなら、私の怒りは優輝のせいだ。
不満があるなら話してくれたらいい。家族なのだから、と。そう考えると、彼女の怒りは抑えがきかなくなった。
――ひとりで勝手に怒って、あんな怪物まで生み出して、そんなの私の知ったことじゃない。家事を手伝うのが嫌なら、やらなければいいのに。帰りが遅くなるのは仕方ない。だって、キャプテンなんだから。部活も家事もあんなに頑張ってたのに、何が不満なの。
それらの感情は赤い光となって、イカリングの掌に吸い込まれていく。
「何だ、お前もかよ」イカリングの小馬鹿にしたような言い方が気に入らず、忍は彼を睨んだ。「怒りってのは発散させるもんで、溜め込むもんじゃねぇんだよ。自分の気持ちもはっきり言えないなんて、情けねぇ奴らだ」
彼女の体から現れる赤い光が大きくなる。すでに言葉を発する気力さえ忍には残されていなかったが、怒りはますます増幅していった。それは、イカリングに対する怒りだった。
何も知らないくせに、勝手なことを言ってほしくない。
忍は誰ともなしに心の中で訴えた。
父親がいないのだから、母は仕事で忙しいから、弟に負担をかけたくないから、姉である自分が頑張らなければいけない。部活ではキャプテンとして、みんなをまとめなければならない。試合だって近いのに、夕飯の準備も任されている。
そんな現状に、少しも不満を感じないわけがない。
でも、これを誰にぶつければいい?
仕事を頑張っている母にも、部活のチームメイトにも、もちろん後輩にだって言えない。そして、優輝への不満も抑えるしかなかった。
きっと優輝は父親がいない家庭が嫌で、家事を手伝わなければいけないのが嫌で、夕飯の時間が遅いのが嫌なんだ。
意識が朦朧として視線を落とすと、彼女はいつの間にか自分に言い訳をしていたことに気付き、自身の怒りの本質を理解した。
四色の花のキーホルダーと、タリアの言葉。これだけで優輝の心を知るには十分だった。
結局のところ、父親を必要としていたのは優輝ではなく自分だったのだと、彼女は悟った。部活と家事の両立、姉としての責任。これらから逃れるには、父親がいないというのは体のよい言い訳になった。
優輝の気持ちなど関係なかった。ただ彼女がそうこじつけただけであって、彼は今の家族を大事に思っていた。家事だって手伝ってくれていたのに、姉としての面目を保ちたいが為に、自分に都合のいい人物に仕立て上げた。
「最低……」
ようやく喉から絞り出せた声は、自分に向けられたものだった。忍の怒りは色を変え、はっきりとした赤になった。こんな状況になるまで省みることのできなかった、自分への怒りだった。
「さっきからくだらねぇことごちゃごちゃ考えてるみたいだが、もうじき楽にしてやる」
これから自分はどうなるのか、忍は一瞬だけ想像して、これこそくだらない考えだと思った。おそらくは優輝と同じように、巨大な赤い怪物になるだろう。自分がどうなろうと、それは当然の報いのように思えた。
しかし、優輝は違う。何としても弟だけは助けなければと忍は最後の力を振り絞ろうとしたが、抗う気力は残されていなかった。
轟音と地響きにより、忍の意識は怒りと哀しみの混沌から無理やり現実に呼び戻される。
あの巨人――自分のせいで優輝が溜め込んでしまった怒りの権化――が、またどこかの建物を破壊したのかもしれない。そう思って顔を上げた忍は、先ほどまで獲物を見つけた捕食者のようにこちらを見ていたイカリングの視線が何か別のものに向けられていることに気付き、その視線の先を追った。
夕日の眩しさに目が眩んで初めはよく分からなかったが、驚きのあまり忍の意識は徐々にはっきりとしたものになり、やがてそれを現実と認めることができた。
巨人が、倒れている。
勝手に転んだのか巨体が重力に負けたのか、そのどちらかだと思って彼女が目を凝らすと、二つの点が小さく動いているのが見えた。次第にそれらは大きな影になって近づいてくる。
「やっと来たな……」唸るように言うイカリングを振り返った瞬間、強い風と衝撃が起こった。「プリキュア!!」
反射的に腕を頭の前で構え、いつの間にか瞑っていた目をおそるおそる開いてみると、それまで忍に向けられていた右手でキュアルビーのパンチをイカリングが受け止めているところだった。
「忍先輩から離れろ!」
赤子の手を捻るようにイカリングはそのままルビーの拳を大きな手で鷲掴みにすると、彼女の体を後方へ放り投げた。
すかさずキュアリンクも民家の屋根から飛び降りて、正面から彼に飛びかかる。それを見て空中で体勢を立て直したルビーは、建物の外壁を蹴りイカリングを背後から急襲した。
イカリングは軽い身のこなしでリンクの攻撃を避けると、彼女の足首を掴んだ。彼の腕力に抵抗する術もなく、彼女の体は振り回されて宙を舞いルビーに激突した。
「おい、タリアはどこだ」
支え合って立ち上がった二人は、今にも倒れそうなほど疲弊した様子の忍と、気を失っている優輝を認め、未だに巨体を起き上がらせることのできないでいる巨大なオコリンボーを見た。
「じゃあ、あれは恩田くんの……」
その呟きに反応して悲しそうに目を背けた忍の反応から、リンクはあれが優輝の怒りから生み出されたオコリンボーなのだと確信した。
「無視すんじゃねぇ! タリアはどこにいるのか聞いてんだよ」
彼女たちを誘き出すことに成功したイカリングはあっさりと忍たちへの興味を失ってしまったようで、牽制するように攻撃の構えをとった。
「教えるわけないでしょ! それに、町もめちゃくちゃにしてくれちゃって!」
「どうしてこんなひどいことをするの」
この場から逃げることさえ出来そうにない忍たちを背後に庇いながら、二人はイカリングから距離をとった。先ほどの取っ組み合いで、正面からの単純な攻撃では力負けすることが分かった以上、迂闊に近づくことはできない。
「ひどい!? ふざけたことぬかしてんじゃねぇぞ」
心外だと言わんばかりに声を荒げたイカリングは、憤慨した様子で大げさな身振りを付け加えながらリンクの言葉を否定した。
「俺がやってんのは人助けだ」彼は忍と優輝を軽蔑するような目で見た。「どいつもこいつも情けねぇ。相手に気遣って不満の一つも言えないなんてよ。それを優しさなんて勘違いしてやがる。本当は自分を甘やかしてるだけのくせしやがって」
忍には何かを言い返す気力も残っておらず、ただ逃げるように視線を落とした。優輝は苦しそうに呻くばかりで、起きる気配はない。もしも、自分が父親のせいにしないで弟ときちんと話し合っていればこんなことにはならなかったのではないかと、彼女は自責の念に潰されそうになった。
「だから俺が代わりにお前らの怒りを暴れさせてやってんだ。礼のひとつでも言ってほしいくらいだぜ」
中学生になってから優輝の口数が少なくなった理由は、どんなに考えたところで忍には分からない。愚痴をこぼすこともなく黙々と家事を手伝ってくれる彼を見て、彼女は申し訳ない気持ちになることがあった。
本当は家事なんてやりたくもないのに、我慢してくれているのではないか。そして、その不満を彼が口に出せずにいたとしたら……。
忍は悔しさのあまり歯ぎしりした。この男も、タリアという妖精も、姉である自分より優輝のことを理解している。ちなみやゆかりだって、仲の良し悪しはともかく彼と関わろうとしていた。
しかし、彼女は自分から弟との接触を避けてきた。家族のために家事を頑張ろうと心に決めたはずなのに、たった一人の大事な弟をないがしろにしていた。そのことに今まで気づけなかった自分が情けなくて仕方なかった。
「そんなの間違ってる」
忍は顔を上げてキュアリンクを見た。妖精や巨人よりまともな格好はしているものの、ピンク色のコスチュームに身を包み空から降ってきた彼女は、忍にとって異様な存在であり、また近しいようにも感じた。
「怒りも優しさも、自分の気持ちにどうやって向き合うかはその人が決めること。あなたが勝手で弄んでいいものじゃない!」
「弄ぶだと!? さっきの話を聞いてなかったのか?」すっかり頭に血が上った様子のイカリングは、冷静さなどまるっきり失って声を荒げた。「あのオコリンボーを見ろ!」
夕日よりも赤い巨大な怪物は倒れたまま、その巨体を持ち上げるのに苦労しているようで、それと同調するように優輝も呻き声を上げた。
「あれだけの怒りをずっと抑え込めるわけがない。俺が何もしなくても、いつか爆発してただろうよ」
「だったら何!?」ルビーが言った。「恩田が怒ったら悪いワケ?」
「怒るのはいいさ。ただ、俺はうじうじしてる野郎が気に入らねぇんだよ」
変身する前と違い、リンクの心情は不思議なくらい穏やかだった。巨大なオコリンボーへの恐れより、イカリングへの哀れみや怒りの方が勝っていた。
「さっき、志穂先輩と言い合いになったとき気付いたの」
いきなり何を言い出すのかといった表情でイカリングがリンクを睨んだが、彼女はそれを気にせず言葉を続けた。
「怒りだけじゃない。誰かを思いやる気持ちだって、ぶつかることがあるんだって。だから恩田くんはあまり本心を口にしなかったんだと思う」
忍は部室でのタリアの言葉を思い出していた。能天気な妖精が不意に沈んだ口調になり、彼女と優輝が同じだと言ったときのこと。それを聞いて忍が導き出した答えは間違っていたのだと、キュアリンクに気付かされた。
思いを口にしないだけで、彼も忍と同じくらい、またはそれ以上に、家族のことを考えている。
「何が言いたい?」
大人しくしていられない性分なのか、これ以上の話し合いを続けるつもりのなさそうなイカリングは苛々した様子で彼女を急かした。
「情けなくないし、勘違いでもない。あの怒りを生み出したのも、怒りを溜め込んだのもまぎれもない、恩田くんの優しさなんだ」彼女はイカリングを睨み返した。「だから、その優しさを踏みにじったあなたを、私は絶対に許さない!」
二人がかりでもイカリングに敵うか分からなかったが、リンクは決心した。これまでのタリアやちなみを守るための戦いとは違い、彼女は体の中から沸々と敵意が溢れてくるのを感じた。
町を破壊して人々を怖がらせ、彼女の大事な人たちを傷つけたイカリングを容赦するなんてとてもできそうになかった。
「それはてめぇの勝手だが、あれを放っておいていいのか?」
まるでゲームを楽しんでいるかのような口ぶりで、イカリングは今にも沈みそうな真っ赤な夕日を示した。
彼女たちがそちらを見ると、オコリンボーがのっそりと起き上がり再び学校の方へ歩を進め始めようとしていた。
「リンク! ここは私に任せて、早く!」
慣れない攻撃の構えをとりながら、ルビーが早口で言った。先ほどの格闘からルビーだけではイカリングに勝てないことは火を見るより明らかで、リンクは彼女の指示に素直に従うことはできなかった。
「でも……」
「志穂先輩にも言ったでしょ、お互いできることをやろうって。それに、私だって、あいつに言ってやりたいことは山ほどあるんだから」
リンクは冷静に今の状況を分析した。あの巨大なオコリンボーを一人で止められるだろうか。ここに残って二人でイカリングと戦い、すぐに決着をつけてオコリンボーの下へ向かうのでは間に合わない。それに、イカリングに勝てる保証もない。
まずオコリンボーを二人で倒しに行ったなら、その隙にイカリングは再び忍から怒りを吸い取るだろう。
どのパターンもほとんど絶望的であったが、それはルビーだって分かっているはずだ。その上でイカリングの相手を受け持ったのは、彼女にとってこれが唯一の微かな勝ち筋だと考えたからだろう。
リンクは黙って頷き、民家の屋根に飛び乗った。オコリンボーを目指して走り出したとき、背後では鈍い打撃音が聞こえた。
建設途中の高層マンションから作業員たちは非難を済ませており、キュアリンクは今のところ一番高い位置にある鉄骨の上に飛び乗った。それでもまだ、オコリンボーの顔は見上げなければならない高さにある。
「ここから先には行かせない」
彼女は無理に自身を鼓舞して、オコリンボーに飛びかかった。渾身の力を込めたパンチで確かな手ごたえを感じたにも関わらず、少しのダメージも与えられなかったようで、オコリンボーは彼女に構わず歩を進める。
オコリンボーの肩に着地したリンクは、まるで暴走する列車を止めようとするパニックアクション映画の主人公になったように感じた。しかし、列車とは違いブレーキの役目を果たすものはもちろん、誰かと無線で連絡をとることもできない。そして、映画のようにハッピーエンドが約束されているわけでもない。
やけくそになってオコリンボーの顎の辺りをでたらめに攻撃してみたが、やはり反応はなかった。
「止まって、恩田くん……」
ほとんど無意識に吐いた弱音だったが、心なしかオコリンボーの歩調が緩やかになった気がした。
教頭やちなみのオコリンボーと戦ったときは気にもしなかったが、これはイカリングの命令に従って暴れる怪物であると同時に、優輝の心の一部でもあることをリンクは思い出した。
「聞こえる!? 恩田くん!」
オコリンボーは呻き声を上げて苦しそうに身悶えした。間違いない、とリンクは確信した。優輝の心は、まだ微かに残っている。
「落ち着いて、こんなことじゃ何も解決しない! 恩田くんもそう思ってたんじゃないの!?」
左肩に乗っているリンクを振り落とそうとして大きく体を揺すり、右の拳でリンクを攻撃したオコリンボーは、攻撃を避けられたことで自身がダメージを負うことになった。
「これ以上、忍先輩を苦しめてもいいの!?」
頭に飛び乗ったリンクはまともに聞こえているかも分からない相手に呼びかけ続けた。倒すことができないかぎり、このオコリンボーを止められるのは優輝本人だけであり、リンクもその可能性に賭けるしかなかった。
希望を見出すことができて油断した一瞬の隙に、リンクは自分の体が宙に浮いているような錯覚を感じ、それが錯覚でないと気づいたときにはオコリンボーのパンチが目の前まで迫っていた。
いつの間にかオコリンボーの頭の上から放り出されていたリンクに攻撃を避ける時間は残されておらず、巨大な拳が直撃した途端、あまりの衝撃に気を失い建設中のマンションの鉄骨に激突して無理に意識を呼び戻された。
全身が麻痺したように感じた後、徐々に痛覚が機能し始めて彼女は耐えられずに悲鳴をあげた。
4-1話の前書きでも訂正しましたが、
四話は五分割で投稿します。